今日の東京は30度に迫る気温です。
それでも半袖の方は少なく、
半袖の方と言えば、
一部の日本人(bonbu-koki含む)と外国の方でした
さて、お参りの後は法話を聞きましょう。
今日の御講師は昨日に引き続き、兵庫県姫路市圓福寺の福岡智哉師です。
※青字が福岡師の言葉の要約です。
<続、蜘蛛の糸>
私たちが「生きる」と言えば、生きている者の命を殺して生きています。
もちろん、お食事を頂く時は「いのち殺して」となりますが、
こんなお話からしていきます。
ある日おじいちゃんが庭で、松の木の剪定をしてた時のことです。
ちょうど私の息子と一緒にいる時に、毛虫を見つけたのです。
私の息子は5歳なのですが、おじいちゃんとしては、
松の木に病気があってもいけませんが、孫がさされても困ります。
そこで、仕方なしに孫の目の前でしたが、毛虫を足で踏みつぶしました。
そして、その数日後です。
庭で私の息子が地団太を踏むような恰好をしています。
うちの妻が何をしているのかと見に行ってみると、
なんと息子が毛虫を踏みつぶしているのです。
理由は、
おじいちゃんの大事な松が病気でも困る。
家族が毛虫に刺されても困る。
だから、自分が正義の味方になって、毛虫を退治していたのです。
この殺生。
どうやって息子に教えていこうか。
その晩、妻からその話を聞いて、
私は蜘蛛の糸というお話を息子に読んで聞かせました。
昔、カンダタという極悪人がいましたが、
亡くなった後、その悪業の為に地獄に落ちました。
地獄では、自分と同じような極悪人が沢山いて、暗黒の世界でした。
そこへ、お浄土から一本の糸が降ろされてきました。
カンダタは生前一度だけいいことをしましたが、
それは「蜘蛛のいのちを助けてあげたこと」でした。
そして、降りてきたのはその蜘蛛の糸でした。
さて、これで自分は助かった。
早速、その糸に掴まりながら登り始めますが、
しばらくすると下から他の極悪人もこの糸を登ってきます。
こんなに大勢が登ってきたら、糸が切れてしまいます。
「おい、この糸は俺のものだぞ! お前たち、降りろ降りろ!」
そして、カンダタは登って追いついた者を何人も蹴り落とし、
自分だけ助かろうとしました。
その時、糸はぷつんと切れて、
カンダタは落ちて、地獄に戻ってしまいました。
こんなお話でしたよね。
さあ、これを息子に易しく読んで聞かせ、
「何で糸が切れたか、わかるか?」と聞きました。
息子は「重たくて切れた」といいますので、
「俺が、俺がの気持ちのあるものはいいとこ、行けへんねん」
そう言いました。
息子はその夜寝言で「極楽にいきたいよ~」と言っていましたが、
これは「悪いことしたらいかん」
そういう意味でもあるのですね。
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さて、
私のお寺の花まつり(お釈迦様の御誕生祝)のときのお話です。
イベント準備をしていると、古いスライドが出てきました。
これは珍しいものを見つけた。
これをイベントでしよう。
題して、「光の紙芝居」
さて、残っていたスライドの中から選んだ題材ですが、
宮地廓慧(みやじかくえ)和上のお作りになった「続、蜘蛛の糸」でした。
蜘蛛の糸が切れて、また地獄に戻ったカンダタでしたが、
その一部始終を阿弥陀様がお釈迦様に姿を変えて見ていました。
早速、お釈迦様は糸を再び地獄に垂らすと、
自らがその糸を伝わって地獄に降り立ちました。
そしてカンダタにこういうのです。
「申し訳なかったな」
そういうと、カンダタをギュッと抱きしめた後、
カンダタを背負うと糸を手繰って登っていきました。
しかし、直ぐにそのことに気が付いた他の極悪人も
すぐに糸にしがみついて登り始めたのです。
そして、すぐにお釈迦様とカンダタに追いつくと、
お釈迦様とカンダタを、殴る、蹴るを繰り返しました。
なんとか、我先に登ろうというのです。
それでも、お釈迦さまはこういうのです。
「大丈夫」
「心配するな、必ずお浄土に連れて行くから」
そして、お浄土についに登り詰めていきました。
カンダタは「ありがとう」とお礼を言うと、こう言いました。
「私には、まだやることがあるんです」
そういうと、カンダタは、
あとから登ってくる極悪人ひとりひとりに手を差し伸べて、
すくい上げていきました。
それから途方もない時間をかけて、
ついに最後の一人をすくい上げたのです。
その様子を見届けた、他の極悪人はカンダタを囲むと、
みんなが合掌してこう言いました。
「ここに、カンダタ菩薩がいらっしゃいます」
そして、誰もがカンダタを褒めたたえたのでした。
<お育て頂く>
ここに地方新聞に載った、小学校6年生の女の子の詩があります。
今から20年前の新聞記事ですが、紹介したいと思います。
この少女の故郷は、九州の田舎です。
お寺に生まれて、
「まだ小学生なのに、法務(法事)をする」
と言う背景を浮かべてお聞きください。
<心に届いた風>
私の家はお寺です。
毎年、お盆にはお参りで、いろいろな家を回ります。
夏の事です。
私は朝早く家を出て、ご門徒さんの家を回ってお経を読みます。
長く正座をするので、だんだん足がしびれて足が痛くなってきます。
お昼のサイレンがなってお昼になる頃には、お腹もすいてきました。
もう、家に帰りたくなりました。
でも、もう一軒行かなくてはいけませんでした。
早く済ませて、早く帰ろう。
そう思っていました。
最後の一件は、古くて小さな家でした。
行くと腰のまがったおばあさんが、ニコニコとしながら迎えてくれました。
さっそくお経を読み始めましたが、どうやら一人暮らしのようだったので、
おばあさん一人が気が付かなければ大丈夫だと、
私はおばあさんにわからないように足を少し崩しました。
しばらくすると、背中に風が吹いてきました。
その風は、やさしく、清々しい風でずっと吹いていました。
お経が終って、私は気が付きました。
おばあさんは、私にうちわで風を送ってくれたのでした。
冷房などない部屋でした。
おばあさんも暑かっただろう。
おばあさんも手を休めたかっただろう。
「狭いけん、暑かったでしょう」
「また、来年来てね」
おかあさんは、ニコニコしながらそう言ってくれました。
私は父のようには、うまくお経ができないのに、
あんなにやさしくしてくれた。
それなのに、私は足を崩してごまかそうとしていた。
本当に恥ずかしい私に気が付きました。
おばあさんの優しい風は、私は決して忘れません。
この子はその後、大きくなって中央仏教学院に入学します。
そこで衝撃の事実を知ります。
この子は小さい時から法務をしています。
私はもう、衣の付け方だって知っている。
私はもう、お念珠の持ち方だって知っている。
そう思っていたのに、
実は全く違っていました。
この子は我流の作法しか知りませんでした。
え? 衣はそうやって着るの?
え? お念珠はそうやって持つの?
その時気が付くのです。
衣の身に付け方が違うよ。
念珠の持ち方が違うよ。
たった一度だって、ご門徒さんから言われたことはありませんでした。
いつも行けば、ニコニコと出迎えてくれて、
帰るときも、優しく「また来てね」と言ってくれていたご門徒さんたちでした。
あ、そうだったんだ。
私はこのご門徒さんたちに
温かく育ててもらっていたんだ。
私が立派だったわけじゃない。
向こうが立派だったんだ。
この女の子はその後、ご縁があり、私の妻になりました。
<生かされて>
兵庫県西宮市信行寺の5月の掲示板の言葉です。
世界は誰かの仕事でできている
(缶コーヒージョージアのCM)
この言葉に信行寺の四夷法顕(しいのりあき)住職が
「住職的解説」と称してコメントを伝えてくれてます。
このCMのフレーズは2014年~今年の2月まで10年続いたものです。
その中で、こんなCMがありました。
最初は道路の工事現場で、二人の作業員が出てきます。
そして、スマホをいじりながらこう言うのです。
「このスマホ、凄いね!」
次に場面が変わって、スマホを開発した人が出てきます。
そして、お弁当を食べながらこう言うのです。
「このお弁当を企画した人、凄いね!」
次に場面が変わって、お弁当を企画した人が出てきます。
そして、食材を見ながらこう言うのです。
「食材が凄い! お弁当は食材がいのちです」
次に場面が変わって、農家の人が出てきます。
そして、食材を前にこういうのです。
「この食材を全国どこにでも運んでくれる人って、凄いね!」
次に場面が変わって、ドライバーが出てきます。
そして、道路を前にこういうのです。
「この平らで走りやすい道路を作った人って、凄いね!」
そう言って、
道路工事をしている二人の前を、
軽やかにドライバーが車で通過します。
二人の工事の作業員は
「ご安全に!」と言って、そのドライバーを見送ります。
さて、このつながり合っていることを、仏教では「縁起」と言います。
このCMの面白いところは、自社製品のコーヒーが出てこないところです。
このCMの言いたかったことは、
「自分の持ち場をひとりひとりが守ってくれることで、
知らない誰かまで、みんなが幸せになれる。
そのことに想いを寄せて感謝しようよ」
そんな意味ではないでしょうか。
これを知れば、
おかげ様、
ありがとう、が出てきますよね。
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3月19日は兵庫県は高校入試の発表日だったのです。
兵庫県はいまどき珍しいですが、
合格発表は紙で合否を貼りだしてあるんです。
さて、
私の知り合いの息子さんが県内の進学校を受験しました。
そして3月19日です。
お母さんと息子さんは、発表を見に行きました。
落ちるのは40人です。
ドキドキしながら見ると、息子さんの名前は合格者の中にありませんでした。
息子さんはとてもがっかりしました。
もちろん、お母さんもがっかりしましたが、
やはり気になるのはショックを受けている息子さんのことです。
最初はお母さんとしては掛ける言葉もありませんでしたが、仕方がありません。
勇気を持って、こう切り出したのです。
「ここまでよう頑張ったな。
ここまでこれたのは、塾の先生や学校の先生のお陰だから、
これから行って、報告とお礼を言いに行こうか」
そう、伝えたのだそうです。
さて、
そうした中で、近くからこんな声が聞こえてきたのだそうです。
受かった子のようでした。
「この中に受からなかった馬鹿が40人いる」
そして、そのお母さんと思われる方は、
その子の言葉に手を叩きながら笑っていたそうです。
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ここからは私の想像もありますから、そのように聞いて下さい。
受かった子は、本当に幸せになるのでしょうかね。
落ちた子は、本当に不幸せになるんでしょうかね。
世の中には、勝ち組と負け組がいるのは本当でしょうか。
勉強ができることはいい事。
自分は優れていると思い、周りを馬鹿にする。
俺が、俺がの気持ちで人生を進んで大丈夫でしょうか。
もしかしたら、受かった子のお母さんは、
小さい時から競争に勝つことを教えてきたのではないでしょうか。
でなければ、
落ちた人のいる前で手を叩いて笑ってなどはいられないでしょう。
一方、落ちた子のお母さんは落ちてショックの中で、
塾の先生と学校の先生にお礼を言いに行こうと言っています。
自分一人の世界じゃない。
結果はともあれ、ここまで来られたのは支えてくれた人がいたから。
同じ受験という環境に身を置きながら、
見ている世界が違うんです。
「生かされて生きている」と気が付く人は
自然とおかげ様、ありがとうと言えるんですね。
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福岡に井上見淳(いのうえけんじゅん)和上がいらっしゃいますが、
井上和上が恩師の梯實圓(かけはしじつえん)和上から
教えていただたお話です。
恩を受けたら、お礼を言う。
それは当然の事なんだけれど、
本当にお礼だけでいいのでしょうか?
その問いに、梯和上はこのように仰いました。
例えば、道に迷った人が道を尋ねる。
尋ねられた人は例えば、
「それならこの道をまっすぐ行って、右に曲がって下さい」
そのように言ったとします。
それが、まっすぐ行って、
教え通りに右に曲がらずに左に曲がったらどうですか。
教えた方は、
「あらら、あの人、教えた通りに行かないよ」
そう言って心配します。
そして、目的地には着きません。
それと同じで、
教えに出会ったら、ありがとうだけでなく、
その通りに自分がやってみる。
そうしたら、教えた方は安心します。
それが、
本当に「恩に報いる」ということではないでしょうか。
✍ ✍ ✍ ✍ ✍ ✍ ✍ ✍ ✍ ✍ ✍ ✍
人は
「自分で生きて、
自分で決めて、
自分で人生を動かしている」
そのように思っています。
ですが、
仏教では、
「生きている」ではなく、
「生かされてた」
そう教えてくれるのです。
自分では答えの出ないことを教えてくれるのも仏教です。
そのことを是非知っておいていただきたいと思います。
大抵の人は、
自分で努力して生きていると思っていますよね。
私もそうです。
ですが、
それは違うよ。
そう仏法は教えてくれるのです。
今日もお育て頂きました。
ゴールデンウイークの中で
行く処がないのか、
はたまた、お金がないからお寺に行くのか。
いやいや
仏法に出会うのも
ゴールデンな出来事なんですよ
今日もようこそのお参りでした