今日の東京は20℃越えで、暖かいを通り越して、やや暑い気候でした晴れ

お寺では、お釈迦様の誕生日を祝した「花まつり」のイベントが行われていました。

 

お寺のマスコット、かるらん。(個人的に好きです爆  笑

お寺を守る聖鳥、迦楼羅(かるら)がモデルらしいです。

お念珠も忘れませんよ。

 

 

お釈迦様を語るときに、白い像は欠かせません。

お母さんのマーヤ様が、夢で白い象がおなかの中に入るのをみてから

お釈迦様を身ごもったと言い伝えられています。

 

 

さて、今日は、書家の金澤翔子さんの書道のパフォーマンスと

翔子さんのお母様の講演会がありました。

私の今日のお目当てですニコニコ

 

 

写真が粗いのですが、そこはご容赦頂き、会場の雰囲気を味わって下さい爆  笑

 

書家の金澤翔子さん

 

 

翔子さんとお母様

 

 

 

 

 

 

完成です。

慈愛

 

 

 

 

さて、ここからは翔子さんのお母様の講演会です。

今日の御講師は、東京都在住

金澤翔子さんのお母様である金澤泰子氏です。

 

(講演前の翔子さん)

 

金澤泰子氏

 

 

 

青字が金澤氏の言葉の要約です。

 

 

<お月さま、今日も

  ありがとうございました

 

私が翔子を授かったのは、私が42歳の時でした。

ところが、

娘が生まれてみるとダウン症ということがわかり、

医師からは、このように言われました。

  「歩けないかもしれません」

  「長生きできないでしょう」

  「学習も読み書き計算は難しいでしょう」

 

今はダウン症の方も長生きで、その子の能力も伸ばしてくれますが、

何しろ40年前です。今と違って、

  ダウン症は短命、

  知能が低くてそのまま、

そのような考え方が主流でした。

 

当時、私は日記にはこのように書きました。

  「私は世界一、不幸な親です」

そして、

親子で死ぬ事も

考えた時期がありました。

 

当時は今と違って、世間体もあります。

私は翔子を隠すように子育てしました。

 

赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き  赤ちゃん泣き

 

小学校は運よく、普通学級に就学できました。

そのころの祥子と言えば、

  勉強もビリ

  運動もビリ

  動きもビリ

何をしてもビリでした。

 

その頃の担任の先生は若い女性の先生でしたが、

私が

  「すみません。いつもご迷惑やお手数をおかけして」

そのように言ったら、こう言ってくれたんです。

  「いいんです。翔子ちゃんがいるお陰で、

   クラスの子はのんびりと、優しくなっています。

   翔子ちゃんはクラスのムードメーカーです」

 

ああ、そうなんだ。

その時、私は本で読んだ言葉を思い出しました。

 神はこの世に不要なものを作らない

 

そうか・・・、

じゃあ、どうせなら、私たちは

 ビリを生きようか

 

晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ

 

その後、翔子が四年生になった時の事です。

学校の先生から通学について、様々な条件を出されました。

高学年になると、勉強を含めて様々なことが出てきます。

翔子がこの学校で通学を続けるには、色々な条件があり、

それが難しければ、遠くの学校(身障者学級)に移ってほしいと言うのです。

 

私は悩んでしまい、次第に祥子を学校に通わせなくなりました。

通わないと、翔子の友達も来なくなりました。

私も精神的に参ってしまい、親子での引きこもり生活が始まりました。

親子で一日、悶々と過ごす日々が続きました。

 

そんな生活をしながらも、「何かしなくちゃ」と思い、

私は翔子に仏教の「般若心経」の文字を書かせることにしました。

字の意味はよくわからなかったでしょうが、

ひとつひとつの文字を大きく書きながら、丁寧に教えました。

 

ところが、他人のお子さんなら優しく教えるものを、

自分の娘には

  「ちがうじゃない」

  「こうよ」

きつく当たってしまいました。

 

翔子は反発するでもなく、

ただただ、涙をこぼしました。

半紙の文字が、涙でにじんでいました。

 

それでも、翔子は優しい子でした。

私にミルクティを作ってくれたり、

親子で励まし合いながら、この時期を過ごしていました。

 

魂は

親の方が子より強いと思っていたけど

そんなことはありませんでした。

 

そして、今思えば、

この時、「字」の基礎が出来たのだと思います。

 

私は闇の中に光を見ました。

 

🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌  🖌

 

やがて、

言われた通りに遠い学校(身障者学級)に行くようになりました。

   学校が変わって、大丈夫かしら・・・・。

   泣いて、帰ってこないかしら・・・・。

 

私の不安をよそに、翔子は毎日笑顔で帰ってきました。

これには私も驚きました。

 

翔子は

自分がダウン症で悲しむことは

一度もなかった。

私はそのことに気が付きました。

 

思えば、

私こそ、

娘がダウン症で悲しい。

悲しんでいたのは、私一人でした。

私が勝手に

「希望をなくしていた」だけだったことに

気が付きました。

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい

 

実は翔子の父は、

翔子が14歳の時に52歳という若さで、突然の病気で亡くなっています。

翔子の父は貿易商で、よく海外にも行っていましたが、

翔子の書を見て、

  「翔子が20歳になったら個展を開こう」

いつもそのように言っていました。

 

そして、翔子が20歳になった時、

銀座の一室を借り切って個展をしました。

何しろ、父親の遺言です。

やるのは、一回だけ。

だから、どうせやるなら、銀座でと思い切りました。

 

個展では、小学校の引きこもり時代に書いた般若心経も出しました。

すると、それを見たお寺の関係者から、

うちのお寺の為に「書いてほしい」とオファーがありました。

また、この個展をメディアが取り上げてくれたことで、

一気に翔子の書が世に出始めることになったのです。

 

一回だけ、

と思ってた個展は、

今までに500回を超えました。

本当に驚くべきことの連続でした。

 

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今から9年前のことです。

翔子が30歳になったころ、

国連の「世界ダウン症デー」の日本代表に翔子は選ばれました。

 

日本代表ですから、翔子は白の着物で登壇しました。

白い着物を来た翔子を見て、

私は

「後光がさしている」

それほど、

自分の娘が誇らしかったです。

 

翔子がスピーチを始めます。

話は

  「たくさん泣いたこと」

  「泣くたびにお母さんが助けてくれたこと」

そのことを一生懸命に話してくれました。

 

私はそのスピーチを一番前の席で聞いていましたが、

こう思ったのです。

  「私は世界一、幸せな親です」

 

泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い  泣き笑い

 

実は翔子は随分前に

「30歳になったら一人ぐらしをします」

と宣言しています。

 

そして、30歳を超えたとき、

幸いにも実家の近くに部屋を借りることができ、

一人暮らしをすることになりました。

 

  出来るのか?

  大丈夫なのか?

 

親は不安一方ですが、ドキドキしながらそれを見守ることにしました。

そして当日です。

私が玄関で「行ってらっしゃい」と言うと、

翔子は

「さよならでしょ」

そう言って、元気よく出ていきました。

 

それが今から8年前のことです。

今では、近所の皆さんに声を掛けられて、

立派に一人暮らしで、全然、家には帰ってはこないんです。

 

障害者と健常者が共存するなんて、

生まれた頃は想像も出来ませんでした。

だから、今は

つくづく、幸せだなぁと思います。

 

ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ

 

翔子の書を見た人から、手紙をもらったことがあります。

 

  「私は死のうと思っていたけれど、

  翔子さんの書を見て、涙が出ました。

  もう一度、やり直そうと思いました」

 

実は、翔子の書を見て、

 「涙が出ました」

 「泣きました」

と言って下さる方がとても多いのです。

 

私自身も書家ですが、

他人の作品を見て、感動や感激はしますが、

涙が出たことは一度もありません。

 

ところが、

翔子の作品は何人もの人が涙すると言うのです。

これは何でだろう。

字だけなら、私の方が上手に書けますが、

翔子の字は人の魂を揺さぶるものがあるようです。

 

思えば、

   幼い時から一人っ子ですから、争ったことがない。

  ダウン症ですから、お友達と比べられたことがない。

  競争する必要もなかったので、競争心もない。

  いつもニコニコしているんです。

  人を妬むことがない。

  人と競うこともない。

 

  小さい時から、世俗を知らないので、

  お金持ちになりたいという欲もなく、

  有名になりたいと言う欲もなく、

  ただただ、人に喜んでもらいたい。

  そう思ってるんです。

 

遠い将来のことはよくわからないので、

興味があるのは、明日の昼ご飯のこと。

まさに、今、ここを生きてるんです。

 

翔子は、夜遅くになると月を見てこういうのです。

「お月さま、今日も

ありがとうございました」

 

私たちは

  「月は私の為にいるんじゃない」と知っています。

でも、翔子は違うみたいです。

お月さまに感謝してるんです。

 

また、星にも話しかけるんです。

  「星は私の為にいるんじゃない」と知っています。

でも、翔子は違うみたいです。

南十字星を見ては、あれは誰々・・・と話しかけています。

 

翔子は1から30までは言えますが、

それは覚えているだけで本当は良くはわかってない。

でも、知的にはそうでも、感受性だけは、とことん磨かれている。

このことが、多くの人に涙を流させる書を書くのでしょうか。

 

最後にこれを伝えて、今日のお話を閉じさせて頂きます。

生きていれば、絶望はない

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い   お願い  お願い  お願い

 

 

翔子さんのお母様の言葉。

いや、翔子さんの生き方に

私たちは心を揺さぶられてしまいます。

 

さて、講演会の後は、金澤翔子さんの本の販売とサイン会でした。

前から一冊は手元に、と思ってたので、購入させて頂きました。

 

 

その場で翔子さんに直筆サインを頂きましたニコニコ

 

 

日付けがない理由。

書けないから?

いやいや、

書く必要がないんです。

 

ページを開けるたびに

過去になってしまいますからね。

だから、これでいいんです照れ

 

今日も「仏様の教え」、幾つもありましたね。

もしかしたら、翔子さんは観音菩薩なのかな~お願い

ご本人を実際に見て、何だかそんなことを思いましたニコニコ

 

 

今日のご縁に感謝ですニコニコ

今日もようこそのお参りでしたお願い