今日の東京は晴れ晴れです。

平日のお寺は、日本人より外国の方の方が多いような気がします爆  笑

 

お参り後は義援金を忘れずに。

 

 

お参り後は、法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は神奈川県川崎多摩布教所 慶念寺の小林賢五師です。

 

 

 

 

青字は小林師の言葉の要約です。

 

 

<手が合わさるのは>

 

自然法爾(じねんほうに)と言うのですが、

仏様のおハタラキとは、このようなものだとお聞かせ頂くんです。

 

「自然」というのは、

「おのずから」ということです。

「法」というのは、

「法則によって」ですが、「決まっていること」と言った方がいいでしょうか。

「爾」というのは、「そうなるようにしむける」ということです。

 

例えば、私が合掌します。

端からみれば、私が自分の意思で合掌してると思うじゃないですか。

私も実は、自分の力で、

いや、自力で合掌していると思っていましたが、

どうも、これは間違いでした。

 

自然法爾

 

おのずから、(仏様の)法則によって、

合掌するように仕向けられていたんですね。

 

よく、自力の人、他力の人と言いますが、

自力の人とは、

自分で努力し、自分を当てにして生きている人。

他力の人とは、

自分でも努力はするけれど、仏様に全面的に任せきっている人。

 

他力本願と言うと、

世の中では「他人任せ」という意味と思われていますが、

一番目の意味は、阿弥陀如来のハタラキのことなんです。

 

普通は、私が仏様を思って、手を合わせていると思っています。

 

私 → 

 

ですが、逆です。

仏様が私を思ってくれているんです。

手が合わさるのは、仏様のハタラキですから、

自力ではなく仏様の御力で私の手が合わさっているんですよ。

この力の事を「本願力」と言います。

 

 → 私

 

 

 

佛  佛  佛  佛  佛  佛  佛  佛  佛  佛  佛  佛  佛

 

今からちょうど4年くらい前、コロナが流行る前くらいのお話です。

私の同級生が坊守(住職の奥様)をしているお寺に、

家族ぐるみでお参りに行ったときのことです。

 

御講師の先生が来て法座をしているときに、

気になるのは、私や友人の小さな子供たちです。

そこで、本堂の後ろの方にキッズスペースを作って、

私たちは講師の先生のお話を聞いて、

私の子供や、同級生の子供たちは

そのキッズスペースで遊んで過ごすことにしました。

 

無事に法座が終り、私たち家族が家に帰ろうとしたときです。

私が「帰るよ」と言っても、小さな娘は動こうとはしません。

「どうしたの、帰らないの?」

そう、声かけをした時です。

娘はすっと動いて、仏様の前にちょこんと座って、

合掌してなにやら、 ”むにゃむにゃ” 言っているのです。

 

それを見ていた、御講師の先生がひと言、私に言いました。

「お育てやな~」

 

いや、その一言。

私は言葉には出しませんでしたが、

  よく出来た娘だと、

  仏様に手を合わせることができるなんて・・・・。

私は、自分の鼻が高く、高くなっているのがわかりました。

とっても嬉しかった瞬間でした。

それから、自宅に気分よく帰りました。

 

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しかし、

しかし、

しかしですよ。

 

親鸞聖人は「行者のはからいにあらず」と申しましたが、

娘は自分の努力で、

まして、

「私の教育の成果で手を合わせていた」のではありませんでした。

 

自然法爾

 

誰のお陰で手が合わさるのか。

後から、はっと気が付いたことでした。

 

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私はお寺の次男坊なんです。

お寺というのは、朝のお参りが有りますが、

小さい時はよくお参りをさせられました。

 

我がお寺には、当時、2種類のお参りがあったのですが、

一つは住職である父親に呼ばれて、朝のお参りをしていました。

「重誓偈」という短いお経から始まって、最後は「なんまんだぶ~」です。

 

もう一つは、おばあちゃんとのお参りです。

おばあちゃんのお参りは、「なんまんだぶ~」だけです。

早く終わってくれるので、

当然、私はおばあちゃんとのお参りの方が好きでした。

 

さて、

私が中学生になったころ、おばあちゃんは認知症になりました。

そして、体調を崩して入院をしていきます。

それでも、病院で「なんまんだぶ」は言っていたようです。

 

病院にお見舞いにいくと、こんなことを言うんです。

「あそこに御菓子の入った棚があるから、お茶しましょう」

おばあちゃんが指さしたその方向は、病院の白い壁でした。

それはちょうど、家にいる時、

おばあちゃんのいるベッドの位置関係からすると、

同じ方向を指さすものでした。

 

しかし、その後も体調はどんどん悪くなっていきました。

やがて、ある日の早朝に連絡が入って、

私たち家族は病院に駆け付けましたが、

早朝におばあちゃんは往生しました。

 

おばあちゃんがいなくなって、「何だか淋しいな」と思いました。

おばあちゃんが言っていた「なんまんだぶ」も

少し寂しいものに思えてきましたが、

今思えば、既に大好きな「なんまんだぶ」に抱かれてお浄土に往ったのでした。

 

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今週はお彼岸ですね。

「彼岸」とは、さとりを開いた状態を意味する言葉です。

ちなみに私たちが、今いる世界は「此岸(しがん)」と言います。

川で言えば、私たちはこっち岸にいるんです。

それに対して、仏様の世界は川の向こう側、

彼(か)の岸、彼岸ですね。

西方浄土という、お浄土のある場所です。

 

さとりを開いた状態とは、人間界ではなく、仏様の世界と言う事です。

亡き人は仏様の世界に往くんです。

お彼岸は、もともとはインドにも中国にもない行事ですが、

善導大師の観経疏(かんぎょうしょ)という本には、

  「1年の中でも特に春分と秋分は、

  太陽の軌跡が真東から真西へ移動することから、

  阿弥陀さまの西方浄土を願生することに

  最も適した仏道修行の時節である」

と示されています。

 

その季節感と、

日本の様々な宗教観や風習が合わさり、

日本独自のお彼岸と言う行事が誕生したようですね。

 

 

お彼岸を迎え、

私が手を合わせている。

「私が思う」から手を合わせていると思っていたけれど、

 

実は、

私が手を合わせるように仏様のお手回しがあったのです。

私が思うから手を合わせているのではなく、

「仏様が私を思う」から自然と手が合わさっていたのです。

 

お彼岸。

大事に過ごして下さいね。

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い 

 

 

皆さまは、お彼岸のお参りはお済ですか。

お忙しい方は、時期がずれても、

近いうちにお参りが出来たらいいですよねウインク

 

お参りができなくても、

西方浄土に手を合わせることはできるでしょうね。

それも、

自分の思いや努力で手が合わさるのではなく、

普段、合わない手が自然と合わさる「いわれ」を聞くと、

普段、下がらない頭も下がってくるというものですよね。

 

まあ、そうは聞いても、

思いがあるから手を合わすんだ。

これもまた私たちの自然な感情なのですけど・・・爆  笑

 

いずれも尊いことなんですけどね

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い