今日の東京は晴天晴れですが、今日も風が強い一日でした。

お寺やお寺の周辺では、本当に多くの外国の方を見かけます。

 

お参り後は義援金を忘れずに。

 

 

今日も聴聞を致しましょうニコニコ

 

 

今日の御講師は、兵庫県加古川市金照寺の宰務清子師です。

 

 

 

 

※青字が宰務師の言葉の要約です。

 

 

<四無量心>

 

仏教では仏様の御心を表すときに、

「仏様とは四無量心のお方ですよ」といいます。

 

四とは四つということで、

無とは、限り無い事、

量とは量るという数量の事ですから、

無量とは、量れないほどのと言う事。

心は、もちろん心の事ですから、

合わせると、

量りしれない、限りのない「四つのお心」と言う事です。

 

まずは、

「慈」です。

慈しみの心が量りしれないということ。

つまり、

あらゆる人に与える、深くて限りない友愛の心のことです。

(慈無量心)

 

次に、

「悲」です。

悲は悲しみですから、あなたの悲しみ。

つまり、 

あらゆる人の悲しみ・苦しみを共感するの心のことです。

 (悲無量心) 

 

次に、

「喜」です。

喜は喜びですから、あなたの喜び。

つまり、

あらゆる人の喜びをみて、みずからも喜ぶ心です。

 (喜無量心) 

 

最後は、

「捨」です。

自分と他人の壁を捨てると言う事です。

つまり、

いずれにもかたよらない、平等な心のことです。

 (捨無量心) 

 

この四つが「仏様のお心」と言うのですが、

さて、この四つのお心、私達はどうでしょうね。

 

 

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私の友人で中学校で仲の良かった子がいます。

彼女はピアノが上手だったので、

中学校の合唱コンクールではピアノを弾いてもらおうということになりました。

何しろ、引っ込み思案の彼女でしたから、

「いや、私なんて~」と謙遜していたのをよく覚えています。

 

さて、そんな彼女が進学、就職する際に選んだのが看護師と言う職業でした。

しかも、産婦人科で働いていましたので、年中ナースコールが鳴ります。

さすがにナースコールが鳴って、

「いや、私なんて~」とは、やっていなかったようですが・・・。

 

その後、私に連絡が来ましたが、

「今後、結婚することになったんよ」というお知らせでした。

しかも、お相手は同僚の医師とのことです。

 

ちょうどその頃、私は仏教の勉強をしていて、

時間がある日は時給800円のアルバイト中です。

それ聞いてね、

私も飛び上がって祝福した・・・・、ならいいんですが、

正直、もやもやしました。

一生、経済的には困らないだろうし、

旦那さんが医師なんて、かっこいいし、人に言いやすいし・・・・。

 

私、負けた気分・・・・・。

 

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それから半年後の事です。

彼女から電話が掛かってきました。

聞けば、義理のお母さんとの関係、義理のお姉さんとの関係、

その他もろもろ・・・・。

   「いろいろ、気い使って、しんどいわ・・・・」

気が付けば、2時間もお話にお付き合いをしていました。

 

その点、

   「私は自由でありがたいわ・・・」

   「私はまだ、ましかな・・・・」

そんなことを思う自分がいました。

 

皆さんは、

そんな心は持ち合わせてはいないでしょうか。

 

結局、

勝った、負けた

好き、嫌い

いい、悪い

 

仏様の御心を知れば知るほど、

自分の小ささに気が付いてきます。

 

お寺にあった、子供向けの本に書いてありました。

 

灯(明かり、光)が

強ければ強いほど、

足元の影が大きくなる。

 

私の影は、お恥ずかしい限り大きなものでした。

 

私もそうですし、

皆さんもそうだと思うのですが、

小さい時から年を重ねると身体も変わりますよね。

心だって同じように、小さい時とは変わっています。

 

小さな子供の時の夢、

何になりたかったですか?

私はバレリーナでしたが、今は僧侶です。

才能、環境、ご縁の中で、

私たちは心だって変わっていきます。

 

だから、

私たちは仏教を聞いて、

変わらないもの(仏様の心)を知って、頂いていく必要があるんです。

 

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私が宮崎の青島というところに、ご縁を頂いていった時のことです。

時間があったので、浜辺を散歩していました。

たくさんの石や貝殻が落ちていて、

きれいなものは誰かのお土産にしようかな、

なんて思いながら探していると、

細長くて白い貝殻を見つけました。

 

  「あ、これ、白くて長細くてなんて言う貝かな・・・」

そう思って、手に取ってよくよく見ると、

二つの穴が開いています。

  「あ、これは、大きな鳥の頭蓋骨だ」

 

きっとですよ、

  大きな鳥が何かの理由で命を終えて、

  身が海に落ちたのでしょう。

  海では、落ちた身を魚が食べたでしょうか。

 

  やがて、身もなくなり、骨だけになって、

  海の波に洗われて、削られて、

  砂浜に打ち上げられたのでしょうか。

 

  それから、私に手に拾われるまで、

  何日、何年、この浜辺にそっといたのでしょうか。

 

それから、

浜辺では、小さなくぼみがあって、

小さな魚がその潮だまりで泳いでいます。

  この魚は、また潮が満ちてくる時に、大海と交わり、

  この小さな魚は大海に帰って行くのでしょうか。

 

親鸞聖人は海のことを「苦海」と表現することがありました。

人生は思うままにはならない。

仏様のように、量りしれないお心を持つことは

私たちには難しいかもしれないけれど、

私たちは「破滅」に向かってるんじゃない。

じゃあ、どこに向かっているのでしょうか。

 

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私の友人にお寺の娘さんが居て、そのお父様は僧侶ですが、

私の勉強会の大先輩になります。

 

ある日、友人から電話が掛かってきましたが、

「お父さんが亡くなった」とのことでした。

実は、私は一昨日お父さんと電話でお話をしたばかりでした。

その時は「ちょっとした手術をしてくるわ」

と、すぐにでもまた元気になる雰囲気の電話でしたから、

私も「ああ。そうですか、お大事に」程度の会話です。

 

そんな調子ですから、ご家族にとっては突然のお別れです。

なんでも、手術はうまくいたのですが、

別のところが悪くて、突然亡くなったそうです。

当然、直ぐには家族も受け入れることが出来ませんでした。

 

そして、ご葬儀、7日、7日と経って、

四十九日が終って友人からメールが来ました。

体重は減り、人、ひとりを見送るのが

こんなに大変なのかとしみじみ思ったそうです。

でも、こうも続けて教えてくれました。

 

亡くなってからは、近くの方やご門徒の方とお話をする機会があったそうです。

そして、こんな言葉を掛けられたそうです。

   「こっちは淋しくなるけど、お浄土は賑やかになるわな」

   「命あるときから、お浄土の話を聞いておってよかったな」

   「また、会えるお浄土があってホントによかったな」

 

そうだった。

そうだった。

また、会える世界があったんだ。

自分を握ることしか知らない私だけど、

その私もまた、そこに行けるんだ。

 

「死ぬ」のに、「生きるんだよ」と教えてもらったな。

それを往生(おうじょう)と言う。

往き、生まれる世界があったんだ。

 

私たちは「正定聚(しょうじょうじゅ)」

仏さまに成ることが

既に決まっている

仲間たちだったんだね。

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

私たちの優しさには限界があるけど、

仏様の優しさには限りがない。

それだけでも、凄い事ですよね、

 

そんな私を仏にすると、

言っている阿弥陀様と言う仏様がいる事に感謝ですニコニコ

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い