今日の東京は晴れです。
気温は20度越えで、今日も温かな一日です。
今日からお彼岸が始まりましたが、
本堂では早速法要が行われていました。
亡き人を偲ぶ。
日常生活で忘れがちな、
大事なことを思い出すには大事な時間です
お参り後は義援金を忘れずに。
では、今日も聴聞を致しましょう。
今日の御講師は、昨日に引き続き、北海道札幌市浄光寺の青山直樹師です。
※青字が青山師の言葉の要約です。
<人生の実力>
今日は、ホスピスという場所で約2500人の患者さんを看取った、
淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫先生のお書きになった
「人生の実力」と言う本を参考にいろいろ考えていきましょう。
ホスピスというと、
積極的な治療を選ばなくなった末期がんの患者さんが、
痛みだけを取り除きながら、最後の時間を過ごしてもらう場所です。
積極的な治療はしませんので、
そこでは「看取り」が行われます。
「看取り」とは、
死んでいく瞬間に立ち会う、
その人の最後を看取る、
と言うことなんです。
先生の看取った数は約2500人。
それも一日お一人、
いや、日によってはお二人、三人と看取った日もあったようですが、
まさに、患者さんにとっては、人生最後の立ち会い者なんですね。
さて、
先生は毎年入院をしてくる患者さんの平均年齢の統計を取ったそうです。
ある年は70歳、
ある年は75歳・・・・。
つい、年に取ってバラバラであるような気がしますが、
実は割と平均された年齢が割り出されました。
このホスピスに入院してくる患者さんの平均年齢は
63歳でした。
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約2500人の患者さんを看取って、先生が感じたのは
人は死ぬまで成長できる
と言うことでした。
人は青年期までは身体的には成長しますが、あとはゆっくりと衰えていきます。
ところが精神的には、死ぬまで成長できると先生は言います。
一般に「精神的な成長」と言えば、
一直線で伸びるのかと言えば決してそんなことはなく、
らせん状に成長するのだそうです。
つまり、精神的にいい時期があると思っても、どこかで挫折し、
また、いい時期が来て精神的に成長するのだけれど、
また不遇な時期があって、精神的に落ち込む。
年齢と共にそれは克服することもあるけど、その繰り返しの中で
気が付けば精神的に成長できているというものです。
ある男性の例ですが、
その方は63歳の末期がん患者さんでしたが、
両親は幼い頃に離婚し、結婚しても離婚し、仕事ではリストラに遭い、
決して、恵まれた人生のようには思えませんが、
それでもホスピスに入院して、痛みが取れるようになって、
「自分は幸せな人生でした」と言えるようになっていました。
つまり、
つらいこと
悲しいこと
やるせないこと
どのような不遇なことがあっても、
それでも「幸せなんだ」と
捉える力があったと言うことなんです。
そのような力がしっかりあるかどうかが、
「人生の実力」だと先生は言っています。
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「看取り」という仕事を通して学んだ最も大きいことは
「人は生きてきたように死んでいく」ということである。
先生はそう言います。
そして、このように続けていきます。
しっかりと生きてきた人は、しっかりと死んでいく。
周りに感謝して生きてきた人は
家族や我々スタッフに感謝しながら死んでいく。
不平を言いながら生きてきた人は
不平を言いながら死んでいく。
周りに感謝しないで生きてきた人は
感謝をしないで死んでいく。
つまり、
生き様が死に様に反映すると言うのです。
これが2500人を看取って、先生が分かったことでした。
但し、
不平不満を言いながら、周りに感謝をしなかった人が、
死ぬ間際に「感謝」を口にすることも少なからずはあるそうです。
その時、周囲の人は大変驚くそうですね。
それも「人は死ぬまで成長する」ということなのでしょうか。
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先生によると、人生の最後の場面で影響することが二つあるそうです。
一つは、
過去の振り返りです。
これは医学界では「内観療法」と言うのですが、
過去を一つ一つ丁寧に振り返り、自分の気持ちと対峙するんです。
自分の過去を振り返って、
良かったと思うのか、
感謝が湧いてくるのか、
後悔の気持ちの方が大きいのか、
自分がしてきたことが多いと思うのか、
人にしてもらったことの方が多かったと思うのか、
きちんと整理できた人は、感謝も出来て、精神的に成長できるのだそうです。
そして、そのことは、最後の死にざまにも影響するそうです。
もう一つは、
信仰の目ざめです。
人は死んだらどこに行くのか。
キリスト教や仏教では、人の死後の行き先を明らかにしています。
行き先がわかると、人は心が穏やかになっていきます。
ここで法話を聞いている皆さんは、
もう既に信仰の目ざめを頂いているから安心ですよね。
まとめていきますと、
人は生きてきたように死んでいくのです。
「今を生きる」を大事にしたいですね。
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さて、
皆さんは念仏(南無阿弥陀仏)を称える時、
どのようなお気持ちで称えていますか?
例えば、
近々試験があり、
どうかその試験に合格しますように「南無阿弥陀仏」と称えたり、
体の調子が悪くて、
どうか体の調子が良くなりますように「南無阿弥陀仏」と称えたり、
宝くじを購入した後で、
どうかこの宝くじが当たりますように「南無阿弥陀仏」と称えてはいませんか?
実は、私たちが称える信仰としての「南無阿弥陀仏」は
自己の欲望や願いを満たす為に称えるものではありません。
阿弥陀様は
「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」と
苦しみ・悩みの多い私の人生につねに寄り添って下さっています。
阿弥陀様の救いの力が私の称える「南無阿弥陀仏」となって、
今、この私にはたらき続けておられるのです。
ですから、
私たちが称える念仏は、
いつも私のことを心配し見守って下さっている
阿弥陀様に対する報恩感謝の思いを込めた念仏であってほしいと思います。
だから、お念仏(南無阿弥陀仏)は
自己の欲望や願いを満たすためのものではないんです。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は報恩感謝の念仏を、
ご臨終の時まで言っていたことが『御伝鈔』に記されています。
口に世事をまじえず
ただ仏恩の深きことをのぶ、
声に余言をあらわさず
もっぱら称名たゆることなし
『御伝鈔』下巻第6段
ちなみに
「世事」とは、世の中の事、と言う意味で、
「仏恩」とは、仏様でのご恩の感謝の事、
「余言」とは、余計なと言う事、
「称名」とは、念仏の事です。
つまり、臨終の間際に親鸞聖人は、
世間のことはお話しされず、
ただ阿弥陀さまのお救いのおこころ深きことだけを話されました。
そして、お念仏だけをたゆみなく重ねておられました。
と言う事です。
親鸞聖人は生き様も、死に様も、
「感謝で終っていかれた」と言う事なんですよね。
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最近は北海道でも、お米がとれるんですよ。
「ななつぼし」
「ふっくりんこ」
「ゆめぴりか」
などは、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
昔からある言葉ですが、こんな言葉があります。
実るほど
頭(こうべ)を垂れる
稲穂かな
稲と言うのは、
穂が実れば実るほど、重くなって、
先の方(頭)が下がって垂れてきます。
私は農家の方に聞いたことがあるんです。
「実りが悪いと本当に稲穂は下がらないんですか?」
そうしたら、このようなお返事でした。
「やっぱり、
実が悪いと軽いから、
頭(稲穂の先)は下がらないよ」
人生は「感謝」の気持ちを持って過ごし、
仏様へは「欲望のお願い」ではなく、
普段の阿弥陀様への報恩感謝をしながら念仏をして、
人生を歩んでいきたいものです。
普段から下げているつもりでも、
肝心なところで実は下がっていないのが我が頭。
普段は下がらない頭が
自然と下がるのが
お寺であり、
仏様の前であり、
法(教え)の前であります。
もっともっと聴聞し、
人生の実力を付けていきたいと思います
今日もようこそのお参りでした