今日の東京は晴れ晴れです。

土曜日でもあり、たくさんの方のお参りがありましたニコニコ

やっぱり、外国の方が多いですね。

 

お参り後は義援金を忘れずに。

 

 

今日も法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日の御講師は、昨日に引き続き、大阪府大阪市西法寺の園淵和貴師です。

 

 

 

 

青字が園淵師の言葉の要約です。

 

 

<コップの置き場所>

 

最近お墓を見ていますと、墓石に色々な文字が刻まれています。

「友情」とか、「愛」とか、「絆」とか、

その人の想いが込められているのがわかります。

多いのは、「〇〇家」の墓という、ご先祖の名前が刻まれているものですね。

その次によく見るのが

「南無阿弥陀佛」と書いてある浄土教のお寺の文字でしょうか。

そして、その中で

「倶会一処(くえいっしょ)」

と刻まれてあるものもあります。

 

私のお寺では

「正覚華化生(しょうがくけけしょう)」

と言う文字のお墓があります。

お浄土では既に私の居場所があって、そこには蓮のつぼみがあるそうです。

そして、私がこの世の縁尽きて、浄土に生まれていく時にその場所にいき、

パっと花が開くのだそうです。

 

さて、

「倶会一処」の話しに戻ります。

倶会一処とは、

「お浄土に行ったら、

懐かしい方と再び共に会える世界があります」

と言うことです。

これはお釈迦様がお説きになった「阿弥陀経」の中に出てくる言葉なんです。

 

阿弥陀経では、お浄土とはこんなところだと出てきます。

花は咲き誇り、

池があって、

鳥はさえずり、

音楽も流れています。

その説明の後に「倶会一処」という言葉が出てくるんです。

 

私たち、お浄土の事を聞いても、ピンとこないですよね。

ピンとこなくていいんです。

だって、見たことも行ったこともない世界ですからね。

 

わからんけど、

「いのち終えても、また会える世界がある」と、

今は聞いていってください。

 

 

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インターネットを見ていたら、面白いCMを見ました。

コップに半分の水が入っているんです。

さて、このコップの水は重いでしょうか、軽いでしょうか。

 

 

こういうのって、よく、

「まだ、水が半分残っている」とか、

「もう、水が半分しか残ってない」とか、言うじゃないですか。

気になって、最後まで見てみたんです。

 

これね、

「大した重さじゃない」って、出てきたんです。

ま~ね。

そりゃ、コップに半分の水ですから。

だけど、その続きがあるんです。

 

そのコップを持って10分、20分と持っていて下さい。

ちょっと腕が疲れてきますよ。

じゃ、そのコップを2時間、3時間持ち続けたらどうでしょう。

汗が出て来て、腕が震えてきますよ。

じゃ、そのコップを半日ずっと持ち続けたらどうでしょう。

もう、片手で持てないんじゃあないですか。

 

これ、ストレスのCMだったんです。

 

小さくてもストレスを

「ずっと、持っていないといけない」というのは、

とってもしんどいことです。

さて、この解決方法は何だと思いますか。

 

その「ストレス」と言うコップを、

どこかに置けばいいんです。

 

手を離せば、安心しますよ。

じゃ、その「ストレス」というコップを

置ける場所を探す必要がありますね。

 

ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス  ロックグラス 

 

私たちは生まれたその瞬間から、

「死んだらどうなる」

という重いコップを持ってるんです。

 

よくわからずにそのままで

見て見ぬふりをして未解決のままで、

そのコップを持ち続けてる人、

今もいるんじゃないですか?

 

このコップを置ける場所が、

今、皆さんの目の前にありますよね。

阿弥陀様の前にどうぞ、置いて下さい。

この仏さまに預けちゃえばいいんです。

 

阿弥陀様は「五劫」という、とんでもなく長い間、

みんながもれなく幸せになる方法を、考えて考えて考えた方です。

私やあなたは「死」については、まったくのド素人です。

阿弥陀様は「死」については、プロ中のプロなんです。

だから、我々はコップを預けて、安心をしておけばいいんです。

 

うちのご門徒のおばあちゃんがね、こう言うんです。

「なかなか、お迎えがきませんわ~」

これ、僧侶的に言いますと、

「もう、お迎えは来てますよ」なんです。

 

死んでから、阿弥陀様が慌てて迎えに来るんじゃないんですよね。

私の身体の中にすでにいる阿弥陀様が、

いつ来るかわからない死の場面に必ずいて、

その瞬間に

「正覚華化生(しょうがくけけしょう)」

お浄土の蓮のつぼみが花と咲くのです。

 

皆さんは、

「死んだらどうなる」という重いコップを

安心して置く場所はお決まりですか?

 

 

<会いたいよ>

 

長生きの世の中になりました。

長生きすると、たくさんのことが経験できます。

ところがそんな人でも、「死」の経験だけはありません。

どんな人でも、長短に関わらず、

性別、立場に関わらず、

人の「死」の経験は今生では1回ですからね。

だから、私たち、

「経験したことない」「見たことがない」ものは、ピンとこないんです。

 

さて、

私の長女が幼稚園の頃の話です。

親子遠足という行事がありました。

毎年、4月に親子でバスに乗って、日帰り遠足をするのです。

その年の行き先は「蜻蛉(とんぼ)池」というところです。

 

うちの長女はというと、

「蜻蛉池にはね、とんぼの遊具があってね、白鳥がいてね・・・」

行く前からもうハイテンションです。

 

あのですね、

行ったこともないのに、

行き方も知らないのに、

もうワクワクなんです。

 

私たちなら、

行ったこともなく、

行き方もしらなかったら不安じゃないですか?

 

うちの長女がワクワクなのは

お母さんが一緒だから

  不安もなし

  安心

  お任せ

なんですよ。

娘の「行ったことなし」「行き方知らず」のコップは、

お母さんに渡ったんです。

 

皆さんは

死の前に放り出されたらどうですか?

生まれてすぐに、私の背中に

「死んだらどうなるの?」

が乗っかりました。

 

その不安とストレス。

お母さんが一緒ではないけれど、

阿弥陀様がご一緒です。

そうしたら、一気に見える世界が変わってきませんか。

 

蜻蛉池というところは、

長女は周りの大人が「こんなところだよ」と教えてくれました。

お浄土と言うところは、

私たちはお経やお坊さんが「こんなところだよ」と教えてくれました。

 

ピンと来なくても、

親子旅行の行き先と、

私のいのちの続きは、

一緒に行ってくれる方に任せていけばいいんです。

 

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私のお寺の月参りの時のお話です。

もう亡くなっていますが、あるおばあちゃんのお話です。

 

当時、おばあちゃんは、広島出身の90歳で一人暮らしでした。

膝には人工関節を入れて、心臓にはペースメーカーが入っていました。

お参りに行くと「ようこそ、我が城へ」とおちゃめな面もありましたが、

お参り時はいつもヘルパーさんがご一緒におられました。

 

おばあちゃんは原爆体験をして、悲しい別れや悲惨な体験をしていますが、

私に向かってこう言うのです。

  「いよいよ、私の番です」

 

ご両親を亡くし、ご主人を亡くし、実の弟さんも亡くなりました。

おばあちゃんはこうも言いました。

  「いのち終わるのは恐ろしいですね」

 

そんなおばあちゃんが嬉しそうにしていた時がありました。

「初夢で親戚の人たちと外を走り回る」というものです。

でも、冷静に振り返ると、夢に出てきた人は全員亡くなっていました。

 

その話の最中に、私は「倶会一処」の話をしました。

おばあちゃんは広島の安芸(あき)門徒です。

広島と言う土地は、浄土真宗の大変盛んな地域です。

おばあちゃんは小さい時から

仏教やお浄土、阿弥陀様のお話を散々聞いて育っています。

今更・・・・、なのですが、改めてお伝えをしたんです。

「懐かしい人と、また出会える世界が開かれています」

 

すると、おばあちゃんが泣き出したのです。

つい、私もつられて涙が出ました。

 

お寺から、散々、お浄土の話を聞いていても、

私たちは「まだまだ、ずっと将来のことでしょ」

という聞き方をします。

ところが、今、目の前に迫って、

どれほどそれが有難いことだったか実感します。

 

おばあちゃんにとっては、親戚だけじゃない、

戦争時に必死におばあちゃんを育てて守ったご両親、

長年連れ添ったお連れ合い、

可愛がった実の弟、

 

みんなに会いたいよ

 

いのち終わることは恐ろしい事だけど、

お浄土を頂いている私たちには

まだ会える世界が用意されています。

 

大丈夫。

任せてね。

阿弥陀様はそう言っています。

 

 

<必ず連れていくから>

 

阿弥陀様って、どこにいると思いますか?

お経には「あなたの中に入っています」と書いてあります。

では、どういう姿でしょう?

南無阿弥陀仏という姿になって、常に身体の中に入っています。

そして、「一緒におるぞ」「一緒におるぞ」と言ってくれて、

もう、私一人の人生ではないんです。

 

人は、

人に言えない悲しみ、

人に言えない苦しみがありますが、

それも

阿弥陀様だけが、全部知ってます。

全部、お見通しなんです。

だって、

自分の身体の中に

一心同体のように

入っているんですから

それは当然ですよね。

 

さて、沢山あるお経の中で、

7~80%の割合で出てくる、

一番メジャーな仏さまが阿弥陀様です。

そして、どの経典にも、お浄土とは西にあると書いてあります。

何で西なんでしょうね。

 

それは太陽の動きに、なぞらえたのでしょうね。

太陽は東から登って、西に沈みます。

これを「人が生まれ出て、人が見えなくなる」と言う意味で

西が人生の終盤と見立てたのでしょう。

 

例えば、

公園で子どもたちが遊んでます。

最初のうちは、みんなで遊んでますから、

親が迎えに来ようもんなら、

「何で来るの?」と言うことになるでしょう。

 

それが、

西に太陽が沈みかけて、夕暮れになり、

一人帰り、二人帰り、

いよいよ自分ともう一人になった時、

もう一人の子の親が来て「帰ろうね」と言って、

親子で帰る後ろ姿を見送った。

 

  ああ、ついに自分一人になったな、

  ああ、遊び相手もいなくなったな。

  ああ、寂しいな。

  ああ、暗くなってきて怖いな。

そんな時、お母さんが来て「帰ろうね」と言ってくれたなら、

さっきの「何で来るの?」と言う言葉じゃないですよね。

素直に「うん」

その一言ですよね。

 

ついていきますよ。

お母さんに。

安心だもの。

 

でも、西には、ちょっとした淋しさがあるかもしれない。

いや、ちょっと待って下さいね。

 

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私のお父さんの実家とお母さんの実家はお寺で、

しかも500mしか離れていません。

ですから、私は子供の頃、

よく、母と一緒に母方のおじいちゃんの家に遊びに行きました。

 

遊びに行くと、おじいちゃんはいつも草引きをしていました。

そして、家に入ると、おじいちゃんお気に入りの籐の椅子があって、

そこに座りながら私と遊んでくれました。

トランプ、チェス、将棋もたくさんしました。

 

近くに公園もあるのですが、

私はブランコに乗っては、おじいちゃんに背中を押されるのが好きでした。

”もういい加減にしなさい”と母が言うまで、

おじいちゃんはいつまでもいつまでも私の背中を押してくれました。

 

ある時、

おじいちゃんは脳梗塞になります。

身体の自由が利かなくなりました。

次に二回目の脳梗塞があり、今度は言葉が不自由になりました。

 

やがて、

入院生活が始まり、いよいよという時を迎えます。

私は中学生になっていました。

病院には、家族や親戚が集まっていました。

モニターの心拍数が「ピッ、ピッ」から「ピー」に変りました。

普段は怖い顔をしている親戚の人が泣いていました。

私のお母さんは「良かったね、楽になったね」と涙を見せました。

 

中学生になっていた私は、科学優先の知識しかありません。

普段は泣かない大人が、みんな泣いている。

私はびっくりしました。

 

それから、しばらくして、おじいちゃんの家を訪ねました。

  いつもなら、

  庭先で草引きをしているおじいちゃんがいません。

  家に入れば、籐の椅子に座るおじいちゃんがいません。

  家を出て、公園に行けば、

  ブランコをいつまでもいつまでも押してくれるおじいちゃんがいません。

私はその時初めて涙が出ました。

 

可愛そう、とか、

不幸、とかいう感情ではなく、

確かに寂しかったけど、

お浄土があって、本当によかった。

心からそう思いました。

 

おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん  おじいちゃん

 

お浄土は西にあるというお話をしました。

沈む夕陽を見て、

それは、

  洗濯物を取り込みながらでも見られる世界です。

  電車に乗っていても、電車の中から見られる世界です。

  お買い物に行って、自転車に乗っていても見られる世界です。

みんなが同じ方向を向いて

みんなが同じ思いを共有して、

そんな場が一日一回は用意されている。

ものすごい場面設定を、阿弥陀様はされましたよね。

 

私たちは

阿弥陀様が

いつもご一緒です。

 

阿弥陀様はこう言うのです。

  あなたの人生のコップは

  私、阿弥陀が受け取った。

  お浄土に

  必ず必ず

  連れていくから、

  任せてね。

  安心してね。

  大丈夫だよ。

  行く先では、

  懐かしい人と必ず会える世界を用意したよ。

  倶会一処だよ。

 

最後に親鸞聖人の言葉を添えていきましょうか。

 

寒くとも

たもとに入れよ

西の風

弥陀(みだ)の国から

吹くと思えば

 

  寒くても

  服のたもとに

  西から吹く風を入れてみましょう。

 

  西から吹く風とは、

  阿弥陀様のお浄土から吹く、

  懐かしい人からの便りなのですからウインク

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い   お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

死んだらどうなる。

懐かしいあの方はどこに行ったのか。

死んだら自分はどこに行くのか。

私たちはこの問いに、いつも見ては見ぬふりをしています。

 

たまにはこのようなことを考えるのも、

これからの人生を豊かに歩むきっかけになるような気がしてなりません。

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い        (新幹線から西方浄土を思う)