今日の東京は午前中は雨雨で、午後は雨が上がりましたがくもり、気温は一桁びっくり

ブルブルの一日となりました爆  笑

 

お参り後は募金をしますニコニコ

 

 

今日も法話を聞きましょう照れ

 

 

今日の御講師は、昨日に引き続き、長野県長野市善立寺の長原真了師です。

 

 

 

 

青字が長原師の言葉の要約です。

 

 

<抱えたまま生きていく>

 

数年前ですが、私の大学時代の恩師の方のお祝いがありました。

会場では、友人、先輩、様々な人が参加していましたが、

その中に私の親友の婚約者も来ていました。

 

私の親友ですが、28歳の時に自動車事故で命を落としています。

結婚式を一か月後に控えていた時期のことでした。

 

私は事故がある二日前に、親友の彼とは連絡を取り合っていましたので、

彼のお母さんから事故の連絡を頂いたときは、あまりに突然すぎて、

今も覚えていますが、身動きができないほど、身体も心も固まっていました。

 

その後、彼の顔を見に行きましたが、

全身包帯に包まれて、顔すら見えない状態でした。

言い換えれば、それほどひどい事故だったのです。

 

婚約者である彼女はというと、涙も枯れて放心状態でそばにいました。

聞けば、当日は結婚式の打ち合わせなどがあり、遅くなったので、

彼女を自動車で送っていった日の帰り道の事故だったとのこと。

高速道路での居眠り運転が原因でした。

 

🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗

 

話をお祝いの会場の時に戻します。

彼女のほうから、私に声を掛けてきました。

  「今、お話ができますか?」

 

話は当然のように、あの時とあれ以降の話しでした。

  「私、もう彼には会えないかもしれません・・・」

 

私は話を傾聴していきます。

  「私はあの時、ずっと彼の傍にいました。

  一時も離れることはありませんでした。

  もう、誰も愛さない。

  また、生まれ変わったら一緒になろう。

  そう思ってましたが、それは守れなかったんです」

 

聞けば、あれからしばらくは、ずっと一人でいたけれど、

心の傷を癒してくれるような、素敵な方に出会ったようでした。

 

思えば、きっと亡くなった彼も彼女の幸せを願っているはず。

周囲からは「あんた、悲しいことがあったけど、結婚出来てよかったね」

そんな風に言われていく。

 

だけど、

  「あの誓いは何だったのか」 

     そう思う自分がいる。

  「いいのか、自分だけ」 

     そう思う自分がいる。

  「結婚出来て良かったね」の言葉に、

     返って傷ついていく自分がいる。

  「幸せになってよかったね」の言葉に、

     返って戸惑う自分がいる。

  「結婚=幸せ」なの・・・?

  「結婚が幸せの条件なの・・・?」

 

でも、この悩み、誰にも打ち明けられない気持ちだった。

  言ったところで、世間は理解をしてくれない。

  言ったところで、恥ずかしい。

  言ったところで、批判され、意見をされる。

 

誰にも言えずに悶々とし、

世間の視線、世間のものさしから

精神的にはみ出していく。

精神的に孤独になっていく。

その中で生きる苦しみがある。

 

そんな内容を彼女は伝えてくれました。

 

私は

解決できない悲しみ

解決できない苦しみ

それを抱えたままで受け止めてくれる世界がある。

 

泣いていい

愚痴っていい

そんな悲しみ、苦しみを

超えた世界があることを伝えました。

それが仏様の世界だということ。

やがて、あなたも行く世界であることも。

 

 

🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗  🚗

 

皆さんはいかがですか。

解決できない、誰にも言えない悲しみ

解決できない、誰にも言えない苦しみ

悲しみは乗り越えるものではなく、

抱えたままで生きていくものなのかもしれません。

 

でも、それを

見ているよ。

わかっているよ。

今ここに一緒におるぞと

呼び掛けてくるのが阿弥陀様であったと聞いていきます。

 

親鸞聖人は仰せになります。

 

さるべき業縁のもよおせば、

いかなるふるまいもすべし

 

人間は、ご縁が来てしまえば、

どんな振る舞いもしてしまうのです。

 

振り返れば、

心穏やかな時は、周囲に優しくできる自分がいますが、

少し心が波立つことがあれば、

怒りや嫉妬、妬みで人を非難し、傷つけてしまう。

このうつりゆく姿が、人の姿ではないでしょうか。

誰も、彼女のことを責めることはできないでしょう。

 

幸せだって、

これが幸せと決められたら、そこから漏れる人が出てきます。

阿弥陀様は「全ての人を救う」と言います。

条件を付けたら、そこから漏れてしまう人がいるからです。

だから、条件は一切付けないのです。

 

私が私で肯定されていく。

その世界こそ、仏様の世界なのですね。

 

 

<長さだけではない>

 

2009年のことです。

お寺の電話が鳴りました。

お子さんが亡くなったとのことでした。

聞けば、うちのお寺のご門徒さんではなく、

うちのお寺の事を聞きながら、ご葬儀の申し出をされてきたのでした。

 

お話を聞いていくと、亡くなったのは3歳の男の子で、

生まれてから一度も自宅に帰ったことがなかったので、

「少しでも家で一緒に過ごしたい」と言います。

 

普通は

「お通夜のあとでご葬儀をして、それから出棺」というのが多いとは思いますが、

長野では、

「お通夜をして、出棺、それからご葬儀」というのが習慣です。

 

ちょうど時期は寒い時期でしたが、

一日目と二日目が仮通夜、三日目がお通夜、四日目がご葬儀、

そのようにしていくことにしました。

 

にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり

 

ご葬儀の日、お父さんのあとでお母さんの御挨拶がありましたが、

私にとっては今でも印象に残っているお話だったので、

ここでも概要をご紹介させて頂きます。

お母さんはこのようにご挨拶をされました。

 

   「この子は3年の命を生き抜きました。

    亡くなってから、たくさんの方に声を掛けてもらいました。

       「短かったね」 

       「辛いでしょうけど、頑張って」 

       「残念だったね」 

       「可哀そう」

    ですが、どの言葉も慰めにはなりませんでした。

    素直に受けとめられなくて、本当に申し訳ありませんでした。

                 (涙・・・・・・・・・・)

    この子がお腹にいた時が、私の人生で一番幸せな時でした。

    その後、この子が生まれて重い障害があることがわかりました。

    お医者さんや看護師さんからは「おめでとうございます」ではなく、

    「残念ですが、障害が重いので長生きはできない覚悟をして下さい」

    そのように言われました。

    

    夫婦二人で子どもを初めて見たとき

    うちの子には多くの管が体中についていました。

    でも、生まれたてのいのちは、

    「僕は生きたいんだよ」と

   言っているように思えました。

    それを見たときに、この子の気持ちに寄り添いたい。

    そんな感情が湧いてきました。

 

    退院後は自宅には帰れません。

    長野市から安曇野市の長野県立こども病院に転院しました。

 

    私たちはできるだけ、病院に通いました。

    ものを言わぬ子ですが、たくさんの事を話しかけました。

    少しでも強く握れば、壊れそうな小さな手をでしたが、

    手と手を合わせて、お互いのぬくもりを通わせました。

 

    3年が過ぎ、この子は亡くなりましたが、

    世間では「健康が第一」「長生きは素晴らしい」という風潮がありますが

    あれは本当でしょうか。

    もし、それが幸せの条件なら、私たちは幸せを選べないんです。

 

    「長生き」「健康」

    この言葉は、私たちにとって本当に辛いものです。

    この子は3年の命でしたが、

    私たちは掛けがえのない深い時間を過ごしました。

    だからこそ、「残念」「可哀そう」と言う言葉は言ってほしくないのです。

   

    私はこの言葉に出会いました。

    「人生は長さだけではない。

    幅もあれば、深さもある」  

    この言葉に私は救われました。

    ありがとうございました」

 

 悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい

    

 実は、お母さんと話をしていくうちに、ある言葉を伝えていたのですが、

 それが、金子大榮先生の

    「人生は長さだけではない。 

     幅もあれば深さもある」だったんです。

 

 

私たちは生きていることが当たり前になっていますが、

生きているのは当たり前じゃないですよね。

当たり前の反対は、何だかご存じですか?

当たり前の反対は、有ることが難しい。

有ることが難しい、つまり有り難し。

有り難しのことを、私たちは有難うというのです。  

 

つまり、

命とは、有難う なんです。

 

私達は悲しみの中でしか学べないこともあります。

実はこのお母さん、まだ当時は20歳代の後半の年齢です。

でも、どうしてあんなに凄い挨拶が出来たのだろう。

私はもう少しお話を聞いてみました。

 

聞くと、お母さんは富山の出身だそうで、

富山といえば、浄土真宗の盛んな土地です。

その中で、お寺の日曜学校に通っていたそうです。

子供だから、深いことはわからなかったでしょうが、

いのちの有り難さは感じていたのではないでしょうか。

 

私達、

悲しみの事実は変えられなくても、

悲しみの意味を変えることはできるんですよ。

 

にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり

 

平成28年、7月26日、

神奈川県の相模原市の障害者支援施設 津久井やまゆり園で

障害者19人が殺害される事件が起きました。

犯人はこう言ったのです。

「障害者なんて、いなくなればいい」

 

私の姉はダウン症です。

あのような発想は当事者だけでなく、その家族も苦しめることになるのです。

 

もちろん、犯人の言っていることは「ヘイトクライム」であり、差別思想です。

ですが、犯人1人の責任ではなく、

今でも社会にある「偏見」「差別」が、

差別の思想の根底にあるのではないでしょうか。

そうしたら、「社会の在りよう」として、私たちにも責任があるのはないでしょうか。

社会を作っているのは、私達一人一人なんですから。

 

にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり  にっこり

 

私は高齢者施設に法話をしに行くことがあります。

衣を着て袈裟を付けて行くんですが、

その時は、個室訪問もさせて頂きます。

 

ある時の訪問で、誰かの視線を感じました。

振り返ると、居室で横になっている男性が私を見ています。

私は居室におじゃましてみました。

 

男性は言いました。

  「俺な、こんなになってしまったわ」

見ると、寝たきりで、食事もトイレも全介助の様子でした。

そして、そのあとこのように言葉を続けたのです。

  「これで生きてる意味って、あんのかね」

 

後で、施設の職員に聞いた話では、

東京からご夫婦で、長野の高齢者施設に入所をしているのだそうです。

お子さんもいて、東京で大学教授や安定した生活を送っているそうです。

ところが入所をして6年が経つのに、面会は一度もないのだそうです。

「まさに、現代の姥捨て山ですよ」と、施設の職員は言いました。

 

おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  

 

最後のまとめです。

  長生きすることがいいこと

  障害がないことがいいこと

  老いがないことがいいこと

 

私たちは「いのち」を有益性で見てはいないでしょうか。

役に立つか、役に立たないか。

普通と同じか、そうでないか。

 

人は老います。

それこそ、お世話にならないと生きてはいけない。

そういういのちの事実があるじゃないですか。

誰かに生かされていく日がくるのです。

 

私がどんな命の長さになろうとも

私がどんな生き方をしても、

私がどんな姿になろうとも、

この私に如来の心が届けられていく。

 

いのちに意味が有る無しと、

区別をつけるのが私達凡夫の姿なら、

阿弥陀如来は区別・差別なしで、

私たちを救います。

 

安心して、この人生、精一杯過ごして下さい。

人生は長さだけではない。

幅もあれば深さもあるのですから。

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  

 

 

東京都世田谷区 真宗大谷派 西蓮寺 掲示板

 

 

 

東京都台東区 臨済宗 宋雲寺 掲示板

 

 

またひとつ、お育てを頂きましたニコニコ

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い