東京は昨日の寒さくもりから一転、穏やかな温かさ晴れとなりました。

土曜日と言うこともあって、

お参りの方の列が本堂からはみ出て、階段の下まで続きます。

 

お参り後は募金です。

 

 

今月の参拝カードです。

これを書いている私と、

これを見ているあなたは、

父母兄弟姉妹なり照れ

 

 

裏面です。

 

 

今日も法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は、長野県長野市 善立寺の長原真了師です。

 

 

 

 

青字が長原師の言葉の要約です。

 

 

<わしが鬼じゃった>

 

今日は節分ですね。

大きな寺院では、豆まきをしているところも多いでしょうね。

節分の風習ですが、

元々は中国の除災招福の宮中行事で、それが日本に伝わってきました。

また、中国では「豆は邪気を払うもの」と言うことで、

豆が用いられるようになりました。

そのいわれだけを聞きますと、仏教とは何も関係もないことがよくわかります。

だから、このお寺は静かでしょう。

 

さて、登場するのは鬼ですが、

なんで鬼は、角が二本で、寅のパンツなんでしょうか。

ちなみに鬼は阪神ファンと言う説もありますが、これは定かではありません。

 

 

鬼とは「眼に見えない」という意味があります。

よく、鬼門って言いますよね。

鬼門の方向は北東です。

ですから、北東には眼に見えないものが行ったり来たりして、

不吉な方角なのだそうです。

京都の町を考えると、京都御所の北東には何があると思いますか?

なんと、比叡山延暦寺があります。

そこにお寺を配置して、鬼門から悪いものが入ってこないようにしたんですね。

 

でも、眼に見えないものは不気味でもあり、怖さも伝わりにくいです。

そこで、恐ろしいものを鬼として具現化する必要がありました。

 

 

さて、昔は十二支は方角が決まってたんですが、

鬼門の方向に何がいますか?

そうです、牛と寅。

鬼のルックスは、角と寅のパンツでしたよね。

 

悪いものの反対側、裏鬼門には善いものを置きたいですね。

これは古事記の伝説から、

桃の木を南東に配置すると縁起が善いとされてきました。

 

よく、桃太郎というお話がありますが、

家来は何でしたか?

そうです。

猿、鳥(きじ)、犬でしたよね。

これもまた、南東の方角に配置されているものでした。

 

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島根の妙好人(みょうこうにん)に、浅原才市(あさはらさいち)さんがいます。

妙好人とは、

僧侶ではないけど、普通の庶民ながら、

念仏の教えをよく理解をしていた方をいいます。

 

才市さんは、仏法を熱心に聞きました。

そして、

聞けば聞くほど、

「仏法」という鏡に自分の身を映したときに、

煩悩にまみれた自分に気づかされていきます。

自分の都合で生きている自分に気づかされていきます。

このような生き方しかできない、

我が身の姿を知らされるのです。

今までは、自分はまあまあの人間で、

他人こそ、鬼じゃないかと思ってたけど、

 

わしが鬼じゃった

鬼とは、わしのことじゃった

 

そう、気づいていくのです。

 

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鬼が居たら、鬼を追い払えばいい。

鬼が出たら、鬼退治をすればいい。

本当にそうでしょうか。

 

鬼が出たら退治すればいいなら、

実はそれでは私が救われないのです。

 

私と言う存在は

優しい自分もいるけれど、

鬼の自分もいるではないですか。

その鬼は煩悩と言って、一生消えることはないのです。

 

鬼を退治すると言うことは、

「自分が自分でなくなっていく」と言うことなのです。

それでは鬼の私は救われないではないですか。

 

鬼とは私のこと。

私が迷いの中に居て、鬼とは迷いの事だった。

今はいい人でも、

縁に触れたら何をしでかすかわからない私なのです。

 

だからこそ、

そんな私を見抜いて、阿弥陀と言う仏様が、

そのままで救うとは立ち上がったのです。

 

鬼に気づく。

これからも仏法と言う「法鏡」に

わが身を照らしてみて下さいね。

 

 

<願いに生きる>

 

今は国民全員にマイナンバーが交付されています。

例えば、1528714・・・とか言えば、それがその人の事です。

同姓同名で紛らわしいこともなければ、

国が番号を考えますから、親は名前をつける手間が省けます。

 

では、名前ですが、あっさりと、今の名前を捨てられますか。

名前は捨てられないですよね。

だって、

名前には願いがあるのですから。

願いの中で、願われた私だったんです。

 

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私のご門徒さんのお話です。

お名前を出すことは了解を得ていますので、ご了承下さい。

 

その日のご葬儀の喪主は、亡くなった方の長男とお聞きしていました。

喪主の長男さんのお名前は「誠二さん」と言いました。

長男なのに「二」が付きます。

私は聞いてみました。

「あの、他に長男さんが居らっしゃるのですか?」

 

誠二さんはこう教えてくれました。

   「実は自分には、姉がいました。

   しかし、私が生まれる前に亡くなってしまいました。

   姉が亡くなった時に、両親はひどく悲しんだそうです。

   大事な子を授かったのにお別れをしなければならなくなった・・・・。

   そして、私が誕生するときに、

   誠実に姉の分まで二人分生きて欲しい。

   だから、私は誠二なんだと・・・・・」

 

私達は自分のいのちだけで、生きてないですよね。

掛けられている「願い」に生きるんです。

 

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さて、ここに「南無阿弥陀佛」という名前があります。

「南無」とは命の拠り所にするということです。

お任せします、と言うことです。

これが禅宗さんですと、お釈迦様を第一に考えていますから、

「南無釈迦牟尼仏」

これが、日蓮宗さんですと、法華経というお経を第一に考えますから、

「南無妙法蓮華経」

 

話を戻しましょう。

阿弥陀佛の「阿」ですが、

これは「無い」とか、「否」とか、「NO」と言う意味です。

 

「阿弥陀佛」の「弥陀」とは、ミーターとも言います。

ミーターと言えば、私たちの生活にありますよ。

ミーターとはメーターのことで「量」です。

 

「阿弥陀佛」の「佛」とはいのち(寿)」の事ですから、

「阿弥陀佛」とは「無量寿」

無量寿とはいのちにかぎりのない仏様。

 

つまり、「南無阿弥陀佛」とは、

「いのちに限りのない仏様にお任せします」ということ。

この名前は、仏様からの私たちに対する願いなのです。

 

 

私達は量ることで生きています。

量ることで、比較をします。

量ることで、人を傷つけます。

量ることで、自分が傷つきます。

量られることで、苦しみます。

 

しかし、私たちは

生きているだけで尊い存在でした。

願いが掛けられていたのでした。

 

南無阿弥陀佛とは、

皆さんが自分の口で言ったとしても、

それは阿弥陀様からの呼び声なんですよ。

 

 

<お母さん

     どこに行ったの?>

 

私は地元の小学校や中学校で、子供の前でお話をすることがあります。

2~3年前のことですが、地元の中学校で話す機会がありました。

その時に、「皆さんは信仰を持っていますか」という質問をしたんです。

今、一般の方では同じ質問をすると、

信仰を持っている人は30~40パーセントくらいなのだそうです。

 

さて、その時ですが、200人ぐらいの数の中で

「持っています」と言う意味で手をあげてくれたのは10人いませんでした。

こうなると、理由が知りたいところです。

 

ある子はこう言いました。

     「宗教に頼るほど迷ってない」

また、ある子はこう言いました。

     「宗教に頼るほど弱くない」

そして、ある子はこう言いました。

     「宗教には携わるなと言われている」

 

笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き  笑い泣き

 

皆さん、「まよい」と言ったら、どう書きますか?

 

迷い

 

ですよね。

ですが、私の先生はこう教えてくれました。

 

真酔い

 

「お酒に酔う」の酔うですが、

酔いを自覚していると「もうこの辺でやめておこう」とお酒は止まります。

ですが、

お酒に飲まれると、「自分は大丈夫」「もっと、もっと」と、

酔ったことに無自覚になっていきます。

 

迷いとは、迷いを自覚している人。

本当に寄っている「真酔い」の人は気が付かないから、ずっとそのままです。

 

迷いに自覚する人は、

救われたい、苦しみから抜け出したいと思うので。

宗教の門を叩きます。

そこから信仰が始まっていきます。

 

人生で、宗教に出会う意味を考えると、

自覚あるうちに出会ってほしいと願ってやみません。

 

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私は地元でラジオ番組を持っています。

もちろん、ローカルだから、東京では残念ながら聞けません。

毎週土曜日12時から「僕のパパは住職さん」というタイトルで、

私が住職さんで、一緒に担当している方が子供役で、

リスナーからのメールや手紙に回答をしていきます。

 

相談事は仏事の事や、大事な方を亡くした悲しみの方の御手紙もあります。

中には苦情もあるんです。

  お坊さんのあの態度が悪い・・・・。

  なんで戒名はあんなに高いんだ・・・・。

いや、私に言われてもね~・・・。

 

さて、数年前の年の暮れのことです。

一通の手紙が来たんです。

宛名は60歳代後半の女性でした。

内容を読むと、ちょっとラジオで紹介するには内容が難しいだろうなと判断し、

私は番組では紹介せずに直接その方に連絡をして、

私のお寺でお話を聞くことにしました。

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい

 

女性がお寺に来てくれました。

質問がありました。

「人は死んだらどこに行くんですか?」

「人は死んだらどうなるんですか?」

 

実は、その方の息子さんのお嫁さんが41歳で亡くなったのです。

世間並みのお葬式はしないで、密葬だったのだそうです。

 

女性のお孫さん、

つまり、亡くなったお嫁さんには小学4年生の男の子がいました。

その子が聞くのです。

 

「お母さん、どこに行ったの?」

「お母さん、どこにいるの? 教えて」

 

男の子はその日の朝、「行ってきます」と言って、お母さんと別れました。

しかし、男の子が学校から帰ってくると、家の中が慌ただしくなっています。

「探せ」と言う声もあります。

 

やがて、男の子は数日、親戚の家に預けられ、自宅に帰ってくると、

お母さんの小さな骨箱を見せられたそうです。

 

それから、毎日女性に聞くのです。

「お母さん、どこに行ったの?」

「お母さん、どこにいるの? 教えて」

 

溜まりかねた女性は思わずこう言ったそうです。

「お母さんは星になったんだよ」

 

その日から、毎晩、男の子は夜空を見上げます。

冬になれば、信州の夜は冷えてきます。

東京と違うから、信州には星が沢山見えます。

 

「お母さんはどの星なのかなぁ」

 

星空  星空  星空   星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空 

 

「この子が不憫で仕方ありません。

私はこれで良かったのでしょうか」

 

その女性は私にこのように言いました。

 

私は

  「それはお辛かったですね」

  「それは苦しかったですね」

そのようにお声を掛けましたが、

その時、女性もこらえていた涙が一気に出てきました。

そして、本堂で大泣きをされました。

 

一通り泣き終わると、女性は言いました。

「ありがとうございます」

「私は星になったと言いましたが、和尚さんはどう思いますか?」

 

星になったのかどうか?

私は率直に三つのことをお伝えしました。

 

一つ目です。

星になった。

今はそれでいいのですが、

男の子が成長して「星になったのではない」と見抜いたときにどう答えるか。

 

二つ目です。

死には実態がありません。

「星になった」というのは耳障りはいいですが、

例えば昔「千の風になって」という曲が流行りましたが、

風や陽射しを「そこにいるか」のように感じていけば、

「癒し」の効果はあるでしょう。

でも、癒しには限界があるから、結局は悲しみを背負う人生にはなっていきます。

 

三つ目は、

「星になった」というのを、自分が本当に信じているのであれば、

これからもその説明で押し通せます。

しかし、信じていないのであれば、これからは振り向いて

「じゃあ、本当はどうなったのか」を聞いていかないといけませんよね。

 

私達はみんな誰もが、やがて死んでいきます。

例外などはいません。

「やがて、あなたも死が来ます。原因は関係ありません。

みんなが等しく、死を迎えるのです」

お嫁さんが身をもってそれを教えてくれたんです。

そして、

「死んだらどこへ行くの」と

お孫さんが聞いてきた「いのちの行方」

これをこれから訪ねていきましょう。

 

そのようにお話をしました。

 

星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  星空  

 

それから、その女性のお宅とのお付き合いが始まりました。

そのお宅は浄土真宗ではない宗派の檀家さんでしたが、

毎月ご自宅を訪問して、親鸞聖人の「正信偈」という偈文のお勤めをして、

仏様のお話をさせてもらうご縁を頂きました。

 

男の子は言います。

「僕、お母さんに会いたい。

仏様のお話を聞いて

一生懸命に生きる。

会えるなら聞くよ」

 

お母さんに会いたい。

  また会える世界のお話を聞いていく。

  お浄土の話しを聞いていく。

  阿弥陀という仏様の話を聞いていく。

  なぜ阿弥陀様がいるのかという理由を聞いていく。

  そして、命の行方を聞いていく。

小さな仏弟子が誕生しました。

 

親鸞聖人は法然上人を人生の師と仰ぎました。

また、親鸞聖人にも、聖人を慕う門弟が多くいました。

親鸞聖人はこのように仰せです。

 

 

 

ひと足先に

お浄土に往って

待ってるからね。

あなたのこと

待ってるからね。

かならず

かならず

待ってるからね。

 

私達は別れゆく人生です

私達は失う人生です。

私達は手放す人生です。

でも、また会える人生です。

 

これからも仏法に出会って下さいね。

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い 

 

皆さまには信仰がありますか。

 

親しい人が亡くなったら、どこに行くのでしょうか。

自分が死んだら、どこに行くと、親しい人に伝えていきますか。

もう、その答えをお持ちでしょうか。

 

私はこれからも、

しっかりと仏法を聞いていきたいと思っていますニコニコ

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い