今日の東京は、曇が多めの晴れ
です。
お昼と言う時間帯もあるのでしょうか、
本堂からお参りの方がはみ出して並んでいます
お参り後は募金をしましょう
募金のあとは法話を聞きましょう。
今日の御講師は、昨日に引き続き、岡山県高梁市浄福寺の山下瑞円師です。
※青字が山下師の言葉の要約です。
(以下の文章は、bonbu-kokiの文責です)
<姿即心
~お謂れを聞く~>
南無阿弥陀仏と言いますが、
元々はインドの言葉で、中国の漢字が当てはめられたものなんですね。
その阿弥陀様と言う仏様は、
阿弥陀様の方から「私に任せなさい」と言い、
阿弥陀様の方から「私に気づいてね」と言っています。
よく、「信じる」とかいうのですが、
私の方から信じるのではなく、
阿弥陀様から信じる心を頂くんですよね。
私はブレます。
自分が常に正しいと思って生きている私です。
私は受験勉強して大学に入りましたが、
少なくとも努力をしました。
また、軟式野球では投手をしていましたが、
それなりに努力はしました。
それが、大学で仏教を学んだら、
「南無阿弥陀仏と言えば、もう仏様が届いているよ」教えられました。
何かね・・・。
何もしなくて、自分が努力もしないのに、
「救います」なんて、
「もう届いています」なんて、
何だか信用できないなあ・・・。
そんな風に思っていました。
こういう「わからん者」のために、
仏様は身近にそのお姿を現してくれています。
例えば、絵像と言って、絵でそのお姿を現しています。
本堂に行けば、お木像となって、私たちの前にそのお姿を現してくれています。
ところで、この阿弥陀様ですが、目をよく見ると、半分閉じています。
半眼(はんがん)ともいうのですが、これは慈悲の心を表します。
そのため、慈眼(じげん)とも言います。
私たちを慈悲の心で見ていてくれるのですね。
慈悲の慈ですが、「慈しみ」と言う意味で、「マイトリー」とも言います。
「最高の友情」と言う意味でもあります。
慈悲の悲ですが、「うめき」や「悲しみ」のことで「カルナ」とも言います。
仏様は決して上目線ではありません。
「私が救ってやるぞ」と、も言いません。
最高と言うのは、「平等」と言うことなんです。
仏様は私に、上目線ではなく平等に見ていて下さいます。
今度は両手を見てみましょう。
右手で輪っかを作っています。
これは召喚(召喚)の印相と言います。
召喚の召は、招くと言う意味で、
召喚の喚は、よばふ、続けると言うことですから、
召喚とは、招き呼び続けることなんです。
仏様は絶えず私に「気づけ」「気づけ」と呼び続けているんです。
「私に任せなさい」と言ってるんです。
次に左手ですが、同じく輪っかを作っています。
これは摂取(せっしゅ)の印相といいます。
「おさめ取る」ということですが、
「いのちをおさめ取る」ということです。
阿弥陀様は必ず救うと誓っています。
阿弥陀様だから「救う」のではなく、
「救う」から阿弥陀様と呼ばれるのです。
今度は足を見てみましょう。
足は揃えていますが、
昔は一歩前に出ていたお木像が多かったようです。
足が一歩前に出ていると言うのは、
これすぐに救いに行けるようにという第一歩目の象徴です。
例えば、運動会でもヨーイドンでスタートするのに、
早く走る構えはやっぱり前に足を出しますよね。
でも、その足が揃っている。
つまり、スタートを切らないと言うことです。
どうして?
スタートを切る必要がないんです。
だって、
もうすでに、あなたにも、あなたにも、あなたにも、
そして私にも阿弥陀様が届いているからなんですよ。
私の父はもう亡くなりましたが、
生前、500人の高校生の前で話をしたことがありました。
父には亡くなった兄がいます。
父の兄は7歳の時に亡くなったのですが、
父が生まれたのはそのあとですから、父は兄とは会っていません。
会ったことはないけれど、兄の遺影がありました。
兄の姿は丸坊主で男前でしたが、
聞くと、優しくて頭もよかったそうです。
父は小さい時から「お前の兄貴は」と比較されてきたそうです。
それでも、父は兄に会いたいと思うのです。
今は仏様になったけど、
お浄土で会ってみたいと言うのです。
もちろん、行ったからには、
親鸞聖人やお釈迦様にも会ってみたいと、
父は高校生を前に堂々と言いました。
どんなご縁をきっかけに仏様との出会いに気が付けるか、
どんなことがこの先に待っているのか。
南無阿弥陀仏と言えば
いつでも会えるとは言いましたが、
お寺と言うところは、仏様と出会える場所です。
また、ご縁が整ったら、是非お寺にお参り下さいね。
皆さまは、
ご自分の菩提寺様のご本尊のお姿の”お謂れ(おいわれ)”を
聞かれたことがありますでしょうか。
お謂れとは、理由や由緒の事です。
仏様のお姿にはそれぞれの”お謂れ”があります。
それを知ることは、
「仏様がどんな思いで私たちを見守ってくれているか」を知ることになります。
また、それは同時に「仏様の心」を聞くことです。
その姿は、その心を表す。
まさに「姿即心」なのですね。
今日はそんなタイトルをつけさせて頂きました。
ご本尊や御仏像には、なぜ、「そのような形なのか」という、
「お謂れ」がありますから、是非皆様も御住職さんにお聞きになってみると、
これからの心持ちが違ってくるかもしれませんね。
さて、本日の御講師の山下師はアメブロをされていますので、
今日はご挨拶をさせて頂きました。
また、ブロ友さんのメッセージも届けさせて頂きましたが、
ご法話の時と変わらず、ニコニコと優しい人柄が伝わる布教使さんでした
今日もようこそのお参りでした