今日の東京は晴れ晴れです。

気温は低めですが、日中は風も少なく、日なたは暖かです。

お寺では、消防訓練🚒始まろうとしていました。

 

お参り後は、ルーティンの募金です。

 

 

さあ、法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は、岡山県高梁市浄福寺の山下瑞円師です。

 

 

 

 

青字が山下師の言葉の要約です。

   (以下の文章は、bonbu-kokiの文責です)

 

 

<お迎えは誰?>

 

私の周りでもよく聞くのですが、

年配の方が「早くお迎えが来ないかな」といいます。

皆さんもよく聞く言葉ではないでしょうか。

では、このお迎え、どなたが来るんですか?

 

浄土三部経と言って、

具体的には無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経のことを言うのですが、

そういうお経の中には、実はちゃんと書いてあるんです。

阿弥陀様が建立したお浄土という苦しみのない世界から

阿弥陀様という仏様が迎えに来ると言うんです。

それも「亡くなった後に来る」と言うよりは、

お経には「臨命終時(りんみょうじゅうじ)」と言って、

いよいよ、いつ死ぬかわからない状況の中にやってくると言います。

ちなみに「臨命終時(りんみょうじゅうじ)」は、略して「臨終」です。

 

今は医療の進歩で延命できる時代になりましたが、昔は自然に命を終えました。

浄土思想が日本に伝わって、初めは一部の人にしか伝わっていませんでしたが、

阿弥陀様は紫の雲に乗り、お供の者を引き連れてやってくると言います。

それが来迎思想と呼ばれるものです。

 

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そして、実はお迎えが来るのは、誰でも彼でも来るわけではないのです。

執持名号(しゅうじみょうごう)と言って、

「執持」とは保ち続けると言う意味で、

「名号」は南無阿弥陀仏のことです。

つまり、亡くなる寸前まで、

絶えず「南無阿弥陀仏」と言い続けていかなければならない。

それもお経には「一心不乱」と言う言葉が出てきますから、

一心不乱に言い続けなければなりません。

 

できる限り南無阿弥陀仏を、一心不乱に、死ぬ直前まで言い続ける。

いや~、

皆さん、出来ますか?

 

くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり

 

10年前、京都の本願寺の布教研修会であった話をしていきます。

国立滋賀医科大学で生命倫理を担当する、

早島理(はやしまおさむ)先生が行ったアンケートの紹介でした。

第一生命が協力し、「現代人の死の意識調査」というタイトルで、

10歳代から90歳代の約1000人を対象にしたアンケートでした。

その中で、こんな質問がありました。

「あなたはどんな死に方がいいですか?」

 

第一位は64%で 突然死、つまりぽっくりと往きたい。

つまり、「痛み」や「苦しみ」は嫌で、

寝たきりや認知症で家族に迷惑を迷惑を掛けたくはない。

寝たきりや認知症にはなりたくはないというものです。

 

第二位は31%で、段階型です。

徐々に死に近づいていくが、時間が残されている。

残された時間で家族や友人に伝えていったり、

残された時間で色々なことをやり切って往くんですね。

 

それにしても、第一位と第二位で合計95%ですから、

日本人はこの「どっちかがいい」ということなんですね。

 

さて、ここで問題があります。

ちなみに、第一位の死に方では、死ぬ寸前まで「南無阿弥陀仏」ができません。

じゃ、お迎えはなし。

 

第二位の死に方ならできますが、

それでも本当に身体が弱ってからは食事も出来なくなり、

まして声なんか出ないですよね。

じゃ、これもお迎えなし。

 

さて、そうやって、お経をまっすぐに読むと、

一部の方以外は、結局はほとんどの方が「お迎えなし」なんです。

 

いや、さすがにこれでは困りますよね。

 

くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり   くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり 

 

ところで、

救われる人と、そうでない人がいるなんて、

これが本当にお釈迦様の教えなのでしょうか。

 

実は天親菩薩はお釈迦様のお経を深く考察され、

表面上は読み込めない意味も考察されました。

そして、天親菩薩の浄土論では、このような言葉が出てきます。

「帰命尽十方無碍光如来」

(きみょう じんじっぽう むげこう にょらい)

 

「尽十方」とは、四方八方に上下を加えて十方。

つまり、場所を特定しない。

どこでもということ。

 

「碍」とは、妨げることですが、「無」があるから、妨げがない。

それに「光」ですから、妨げのない光。

「無碍光」とは、時間のさまたげがないので、

いつでもということ。

 

「如」とはさとりのことで、覚りの場所から来るから「如来」

「南無」とは、

「任せなさい」ということ。

 

つまり、阿弥陀様と言うのは、

「私の名前を呼び続けないと行かないよ」ではなく、

「いつでも、どこでも、あなたを救います。任せなさい」

そう、言ってくれるんです。

そのように、天親菩薩はお経の真意を読み取られたんです。

 

ちなみに、皆さん、南無阿弥陀仏と言ってみて下さい。

なんまんだぶお願い

 

今、聞こえたものが、阿弥陀様です。

 

くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり

 

私の母のお父さん、つまり私のおじいちゃんですが、

40年前にバイクに乗っていて事故で亡くなりました。

おじいちゃん、きっと、死ぬ間際に「南無阿弥陀仏」なんて言ってないですよ。

 

私の父のお母さん、つなり私のおばあちゃんですが、

99歳まで生きましたが、最後の20年は認知症でした。

最初の10年は「南無阿弥陀仏」と言ってました。

私は「認知症でも言えるんだ」と嬉しかったですが、

最後の10年、88歳以降は「南無阿弥陀仏」とは言いませんでした。

 

これが、

死ぬ間際まで、

一心不乱に、

南無阿弥陀仏と言わないと、

「来迎はないよ」なんて言われたら、

とても私はやり切れませんよ。

 

阿弥陀仏は、救いを完成し、

今、私に届いているんです。

 

 

<いのちを救うには>

 

皆さんは、悪人正機(あくにんしょうき)と言う言葉を聞いたことがありますか。

「悪人」とは世間で言う、ルールを守らず、法を犯す人ではありません。

仏教では、自分の力で覚りを開く人が善人で、自分でできない人は悪人です。

「正」とはまさに、本当に、ということ。

「機」とは、ずばり私や皆さんのことです。

仏様の救いのお目当ては悪人なんです。

 

親鸞聖人の側近だった唯円(ゆいえん)が書いた書物に、

有名な「歎異抄(たんにしょう)があります。

その三章では、こんな言葉があります。

 

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

 

(意訳)

善人だって救われていくんだから、

まして悪人は言うまでもないことです。

 

善人より、悪人の方が救いの目当てだと言います。

 

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覚りを開いた仏様は、命を平等と見ます。

ところが、私たちは煩悩を抱えて生きています。

煩悩とは自己中心的に見る心です。

 

蚊が飛んできます。

時には私を刺しに近づいてきます。

刺されては困りますので、先手を打って、「パシン」

 

ムカデがいます。

そのままならいいのですが、時には私を刺すことがあります。

刺されては困りますので、先手を打って、「グシャ」

 

ゴキブリがいます。

そのままならいい人もいるかもしれませんが、私は見るのも不愉快です。

ゴキブリホイホイで捕まえて、捕まえたらゴミ箱に投入します。

時には小さな子供のゴキブリもいます。繁殖していたんだ・・・・・。

 

そういう私の恐ろしい本性が内にありながら、

お坊さんですから「命が大事」と外では説いていきます。

そうやって、外で説きながらも、やっぱり、

私は蚊が来たら、ムカデが出たら、ゴキブリが出たら、

こういう本性を出してしまうのです。

と、いうことはですよ。

 

縁に触れたら、何をしでかすかわからない私なのです。

いのちを平等には見られない私なのです。

仏様とは真逆の視点しか持たない私なのです。

それを目当てとしてくれたのが阿弥陀様なのです。

 

実はこれが仏法を聞く基本です。

 

くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  

 

私達って、ニュースを見ても、自分の事とは思ってはいません。

「ああ、可愛そうに」と他人事です。

「あいつは、けしからん」と裁判員です。

それはすべて他人事だからなのです。

 

喧嘩をしたくなくても、喧嘩をする私がいます。

私の正義が、相手を許せないのです。

ですが実は、相手にも相手の正義があって、それで喧嘩が始まります。

あれ? どっちも正義と正義で、悪がないのに喧嘩ですか?

可笑しいですよね。

 

そこなんです。

わがままなわが身を振り返る機縁、

あさましいわが身を振り返るご縁にしていく。

それが仏法を聞くと言うことです。

 

くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり

 

今はだいぶ落ち着きましたが、

世界中を震撼(しんかん)させてた新型コロナウイルスがありますよね。

海外ではワクチンが開発され、日本でも接種していますよね。

期待と不安が混在している状況下ではありますが、

私はこのコロナ禍をわが身を振り返る機縁として捉えています。

 

実は私には創薬研究者の友人がいます。

彼は薬学の研究に携わり始めた頃、

〝薬〟の背後には〝いのち〟が存在することを知りました。

それ以来、彼は自らが薬を服用する時、

食前の薬は「いただきます」をしてから飲み、

食後の薬は飲んだ後に「ごちそうさま」をしてきたと言います。

彼から初めてこの話を聞いた時は、何を言っているのかがわからずに

素直に理解することができませんでした。

 

実は薬が開発されて私たちの手元に届くようになるには、

研究して、開発して、治験して、平均で10年かかるそうです。

現代にはさまざまな〝薬〟があります。

ワクチンも病気の予防に用いる薬の一種ですよね。

 

ところが、そうした薬は基礎研究の段階で、

微生物や動物など、

私たちが知ることもない、

何千何万もの、

いのちの犠牲があって、

生まれるのだそうです。

とても、薬の無機質な外見からは想像もできませんよね。

 

そして、この犠牲には理由があるそうです。

それは、

人間が服薬しても安全か?

服薬して効果が見込めるのか?

そういうことを判断する科学的根拠(エビデンス)が必要だからです。

つまり、この犠牲なくして、新薬が生まれることは決してありません。

 

ちなみに、みなさん、

「治験してないから、安全かどうかはわからないけれど、これ飲んで実験させて」

と言われたらできますか?

やっぱり、できませんよね。

 

彼はこう言いました。

「結局な、いのちを救うには、いのちでしかないんや」

 

「いのちを救う」のいのちとは、

私たちのいのちを指します。

「いのちでしかない」のいのちとは、

私たちが知らない間に犠牲となった何千、何万ものいのちです。

たとえ私たちが知らなくとも、

私たち一人ひとりのいのちは、

たくさんのいのちの犠牲で成り立つ、

生かされているいのちでした。

 

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彼との出あいは龍谷大学です。

ともに真宗学を専攻し、親鸞聖人のみ教えを学びました。

その後、彼は薬学の道を志し、龍谷大学を卒業後に神戸大学に行き、

京都大学大学院へと進んでいきます。

現在はがんの創薬研究者として、大手製薬会社に勤務しています。

 

そんな彼が教えてくれた大切な言葉ですが、

研究者だからといって出てくる言葉ではないように思います。

そこで私は、彼の謙虚な研究姿勢は

仏法(仏さまの教え)との出遇(あ)いに起因するものと味わいます。

 

仏法は人間中心の教えではありません。

仏さまの視点は、

すべての生きとし生けるもののいのちを平等に、

かけがえのない大切ないのちとして見られます。

ですから、仏教ではいのちを奪うことは罪です。

 

しかしながら、

そのいのちを奪わずにおれない、

犠牲なくして生きていくことのできない存在が私です。

この私のありさまを見抜き、知り抜かれ、

仏さまとなられた方が阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)です。

 

親鸞聖人が〝真実の教(きょう)〟と仰(あお)がれた

『仏説無量寿経』の異訳である『大阿弥陀経』には、

「諸天(しょてん)・人民(にんみん)、

蜎飛蠕動(けんぴねんどう)の類(たぐい)至るまで救うとあります。

 

「蜎飛」とは、空中を飛び回る小さな虫のことであり、

「蠕動」とは地面を這(は)い回っている小さな虫のことです。

つまり阿弥陀さまは、

十方(じっぽう)世界の生きとし生けるものすべてに目を向け、

私たち一人ひとりを救いの目当てとされます。

 

その阿弥陀さまの救いのお心・仏法がこの私に届いているということは、

「どんな行いをしてもいいじゃないか」という

自分中心の傲慢(ごうまん)な生き方ではなく、

逆に、

申し訳ない、お恥ずかしいという生き方に転ぜられます。

 

創薬研究者の友人は、薬学を学ぶ前に龍谷大学で仏法を学びました。

仏法を学ぶと、物事を見る視点が変わっていきます。

彼の研究者としての腹の据(す)わりには、

仏法を通していのちを見ていくという姿勢が感じられます。

 

仏法に出遇った時、いのちの犠牲は仕方ない、当たり前という視点から、

もったいない、

有り難い、

そして無駄にしない

という視点に転換されていくことを、

彼の言葉を思い返すたびに実感しています。

 

現在よりも文明が未発達の時代に

〝仏法を人生の依りどころ〟とされ、

頻発した疫病(えきびょう)や天変地異の現実と向き合い、

わが身を振り返りながら90年のご生涯を歩まれた方が親鸞聖人です。

 

まだまだコロナ禍での日暮らしです。

あえて、どこまでも自分中心のわが身を振り返る機縁とさせていただきます。

 

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  

 

 

法話を聞きながら、

「来迎は阿弥陀様もいいけど、亡くなった家族ならいいだろうな」とか

思ったのですが、こういうのも煩悩の成せる業なのでしょうね。

 

また、

いのちを救うのは、

自分の知らないいのちであった

と気づかされることで、

これからは薬を見る眼も変わるのではないでしょうか。

 

いや、それでも、すぐに忘れてしまうのが、私たちです。

これからも仏法に出会って、わが身を振り返っていきましょうか。

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い