今日の東京は午前中は曇りくもりでひんやりと、

お昼からはパラパラと雨雨が降り出しました。

こんな日は、くれぐれも身体を冷やさないようにしないと、ですよね。

 

お参り後は募金をしましょう。

だんだん、ルーティンになってきました。

 

 

お参り後のお目当ては法話会です。

こんな日こそ、心の芯から温まっていきたいと思います。

いつもの如く、今日も長文ですが、最後までお付き合い下さいニコニコ

 

 

今日の御講師は、昨日に引き続き、滋賀県彦根市純正寺の美馬ひろみ師です。

女性らしい、柔らかで温かいご法話をお読み下さい。

 

 

 

 

青字が美馬師の法話の要約です。

  (尚、以下の文章はbonbu-kokiの文責です)

 

 

<お浄土がなかったら

        困りますか>

 

皆さんはお浄土がないと困りますか?

私は10年前に母が亡くなったんですけど、

お浄土がないと困ると思って、先輩に打ち明けたことがありました。

でも、もう、それは解決した・・・・。

そんなお話を聞いて下さい。

 

私はお坊さんになってから、布教使になろうと思ったんです。

法話をする布教使になるには、伝道院と言う学校に行ってなるか、

行かずに試験を受けてなるか、二つの道があったのですが、

私は滋賀の先生に2年ほど付いて勉強をすることにしました。

 

その先生に付いて、法話の実地をするんですが、

具体的には、最初の10分か15分を私が法話をして、

残りの時間で先生がお話をまとめるというものです。

 

滋賀と言うのは琵琶湖があって、私の実家は西でしたが、

その先生は東にお寺があって、直線距離なら10キロほどの場所を

30分くらいかけてぐるっと回っていくのです。

 

さて、

その当時、私の母は運転免許を持っていなかったので、

自転車で行ける範囲で買い物をしていました。

そんな時、私が自動車でお寺に出かけようとすると、

  「気をつけてな」

そう言って、手を振りながら、

さあ、私が出発しようとすると、後ろのドアの「バタン」という音がします。

 

あ~。

母が乗り込んでくるのです。

母は私の車を使って、実はいろいろな場所に行きたいのです。

  「仕方ないなぁ~」

 

ですが、このままお寺まで行って、私の母とわかれば、

あちらにも気を使わせますし、私も気まずいです。

そのため、お寺の少し前で降りてもらい、

母はそのままお寺に来てもらい他人のふりをしてもらいます。

法話会が終れば、ひと足先に母はお寺を出て、

来るときに降りた場所で待っているんです。

そして、乗り込んできたら、こう言うんです。

  「さあ、イオン行く?」

  「ごはんどうする? 食べていく?」

そんなことを2、3年続けていたんですよね。

 

おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん

 

さて、そんな母もしばらくして体調が悪いことが続き、病気が見つかりました。

そして、入院生活が始まっていきます。

社交的な母は、最初は「山本さん」と呼ばれていたのに、

いつの間にか「愛子さん」と呼ばれて病院にも馴染んでいました。

家では、嫌なことは嫌とはっきり言う方でしたが、病院では優等生です。

点滴も、痛いことは嫌いなはずなのに、

「私で練習したらうまくなるからな、いつでもどうぞ」と、

明るく振舞っていました。

 

しかし、入院は長期化し、そんな余裕も次第になくなっていきました。

   痛いだろうな・・・。

   つらいだろうな・・・。

   寂しいだろうな・・・。

私は子供が小さかったので、病院に泊まるようなことはできませんでしたが、

徳島の義母が来てくれたことで、1泊だけ病院に宿泊することができました。

 

その翌朝です。

朝、病室の扉を開ける音がしました。

何と、そこにいたのは私の友人です。

   友人  「何してるん?」

   わたし 「あんたこそ、何してるん?」

聞けば、友人は仕事の前に毎朝、この病室に寄っていてくれたのだそうです。

   母が孤独で淋しかろう・・・。

そう思っていたのに、そんな風に支えてもらっていたんですね。

 

その後、友人はこんなことを教えてくれました。

   「おばさんは、大丈夫って言ってたよ。

    そしてね、

       生きているときは周りにみんながいてくれて、

      一人になんてなってないし、

      亡くなってもお浄土に行くから

      命が終るのは怖くない。

      だって、お浄土に行ったら、

      パパが待っていてくれるから。

      だからね、一瞬たりとも、一人じゃないんよ” 

    そう言ってた」

 

私はそれを聞いてびっくりしました。

それと同時に、”母はきっとこう思ってたんだ”と気づきました。

 

     「あの子が法話で言ってたことは、

    親鸞さんの言ってたこと。

    ひろみの言うことはあやしいけど、

    親鸞さんの言うことは大丈夫やから、

    私は大丈夫なんや」

 

私は布教使として、

   何か仏教のことを話さなくちゃ、

   親鸞さんの言葉をどうやって伝えようか、

そんなことばかり考えて焦っていたけど、

母は、私の話す法話を通じて、

まっすぐ阿弥陀様の方を向いて、

あれやこれやと理屈をつけずに、

素直に教えを納得をしていたんですね。

 

おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん  おばあちゃん 

 

最後の3日間は、注射の針が痛くて 

「痛いの」「やりたくない」

そう言ってました。

その時は私が傍にいる事を心強く思っていました。

 

それでも、ある時、カレンダーの7月というのが目に入った時、

「あんた、何してんの! 早くご本山に行きなさい!」と、急に怒り出したんです。

「この子には、ご本山から与えられた役割がある」

私が母から叱られた最期の言葉でした。

 

私は一番最初に

「お浄土がないと困りますか?」と聞きました。

私は先輩職員に

「お浄土がないと困るんです」と言いました。

でも、「困る」と言うのは、

お浄土を疑っているということです。

あるかどうか、確信がないから、有ってほしいと願う。

 

今は、はっきり「お浄土はある」と言い切れます。 

私は

母の「お浄土に私は行く」という想いを受け継ぎました。  

きっと、本当に信じたら、

こんなことも言わなくなるでしょうね。

 

今、私は一人でも多くの方に

この教えやこのご縁に出遭ってほしいと思っています。

 

 

<誰かがいないと

  いのちはつながらない>

 

仏教を感じるのはどんな時ですか?

きっと葬儀の時が一番かもれませんね。

ある方の葬儀のお話です。

 

その方は私のお産婆さんでした。

もう、ご高齢でしたが、私の父、私の兄、そして、私と、

ほぼ家族全員がお世話になりました。

私は実は分娩時間に48時間を要したそうです。

  「あんたはお母さんが命がけで産んだ子や」

そのことを教えてくれたのも、そのおばあちゃんでした。

 

私が生まれても、母は一か月もの間、病院に入院をしていたそうです。

母と生まれたばかりの私がずっと病院にいるものですから、

父は毎日私を抱きに来て、時には連れて帰ろうとしたそうです。

その時、無謀な父を叱ったのが、このおばあちゃんです。

  「一人で見られるはずがないやろ!

  この子を連れ帰ったら、お母さんはひとりぼっちになるやろ!

  よく考えなあかん!」

 

そのおばあちゃんが亡くなったのが、6年前の事でした。

おばあちゃんが亡くなったことは、息子さんからの連絡で知りました。

早速、私は駆け付けました。

大抵は葬儀会場と言うのは、

お話をするときは声を小さくして話すことが多いのですが、

その日はなぜか、皆さん普通の会話の声で話しています。

 

自然と私の耳にも会話が聞こえてきました。

  「私もおばあちゃんに取ってもらったんよ。うちの子もそうやった」

  「私もおばあちゃんやった」

  「いや、こんなことして褒められてな・・・・」

  「いや、あんなことして叱られてな・・・・・」

 

その雰囲気は、とてもお葬儀とは思えないものでした。

だって、生まれた話ばかりじゃないですか。

こうやって、

私とおばあちゃん、

みんなとおばあちゃんは、

一緒に生きてきたんですね。

共に人生を歩んできたんですね。

 

 

仏教では、こう言います。

独生独死(どくしょうどくし)

独去独来(どっこどくらい)

 

私達は一人ずつ生まれて来て、

私達は一人ずつ死んでいく

 

お釈迦様は「人生は苦なり」と言いました。

生きていれば、いろんなことがあります。

自分は一人で生きていると思ってみても、

人は一人では生きていけないんやなと思いました。

 

私一人のために、

誰か一人のために、

  産む人

  へその緒を切る人

  お乳を与える人

  おむつを替える人

  あやす人

  優しく抱っこをしてくれる人

  ご飯を食べさせてくれた人

  そのあとも私や誰かに関わった全ての人

これで大きくなったんです。

 

こうやってつながれた命です。

言い換えれば、

誰かがいないと

いのちは

つながらないんです

 

生まれた時から、誰かの手で生かされてきた。

よく、私たちは

「人に迷惑をかけたらいかん」

「人に手を掛けさせたらいかん」と言われてきましたが、

おむつを替えたり、抱っこをしたりなんて、

これ全部、一人でできませんよね。

 

私達は一人ずつ生まれて来て、

私達は一人ずつ死んでいく、というけれど、

視点を変えたら、こういうことなんですね。

 

生きてる間は

誰かとつながって

いのちはあるんだ

 

<コンビニの

   100円コーヒーを

       買いますか?>

 

その方との出会いは、私が女子高校生の時でした。

家の近くの焼肉屋さんに「アルバイト募集」のチラシが貼ってありました。

私はそれまでアルバイトをやったこともなく、履歴書も知らんようなことでしたが、

私はチラシを見た途端、「これだ!」と思って、

制服のまま、ルーズソックスのまま、

自転車をお店の前に止めて、お店の扉を開けました。

出てきたのは、明るい声で元気のいい女性の店主でした。

   わたし 「こんにちは。アルバイトのチラシをみたんですけど・・・」

   店主  「まあ、女子高生! 可愛いね! アルバイト! はい合格!」

 

店主のお名前は陽子さん。

陽子さんの元気の良さもあって、お店は大繁盛でした。

アルバイト自体は数カ月でしたが、その後、私が大阪の大学に行った時も、

大人になってからも、ずっと連絡を取り合うお付き合をさせてもらっていました。

 

さて、そこから数年経って、

陽子さんは60歳を超えてもお店を経営していましたが、

大病をされてからは週1日、週2日と、時間を縮小してお店を開いていました。

その後はコロナがやってきます。

私も会いたいなと思っても、

私がコロナに感染していて、

病後間もない陽子さんにうつったら、それこそ一大事です。

私は会うことを我慢し、メールやLINEを中心にやりとりをしていました。

 

2022年の11月のことです。

陽子さんからLINEが来ました。

今、ここにLINE記録が残っています。

文章そのままとはいきませんが、少しご紹介します。

 

 

以前送った私の息子のおもしろ動画が動かなくなったから、

「もう一度送って」というのです。

いや、どれやろ?

私の息子が「鼻でレコーダーを吹く」というものでした。

私は、陽子さんに少しでも元気がつくならばと、喜んで送りました。

その後も、「運動会でうちの子が6年連続べべだった」とか、

日常のたわいもない話を送っては、二人で楽しんでいました。

あ、ちなみに、「べべ」と言うのは関西では最後と言う意味ですが・・・。

 

そんなやり取りの中で、

「お願いがあります」と陽子さんが送ってきました。

「お願いがありますが、また今度。では、また」

 

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陽子さんのお願いLINEが送られてきました。

  「お願いしたいことがあります。

  私のお葬式をお願いします。

  お経は半分ぐらいにして、あとの半分は私の想い出話しで。

  お金は受け取ってね」

LINEを通じて話をしていくと、癌と言う病気であることがわかりました。

 

更にLINEを続けていきます。

陽子さんLINE  「法名はいりません」

わたしLINE   「法名は亡くなった後につける名前ではありません。

           生きているときに頂くんです。

           この名前には、「釋」と言う字が一番前に付きます。

           釋とはお釈迦様の釈(釋)のことで仏様の弟子のことです。

           この名前を頂くことで

           「その道を貫いて生きていく」という証の名前なんですよ。

陽子さんLINE  「そうなんだ。 じゃ、つけてもらおうかな。 何がいいかな」

わたしLINE   「何でもいいですよ」

陽子さんLINE  「私は凛として生きることが好き。 だから凛はどう?」

わたしLINE   「じゃ、凛と言う字と、陽子さんの陽で、釋凛陽はどう?」

陽子さんLINE  「いいね! ありがとう。 これで安心できた。 おやすみ」

 

これが、私と陽子さんの最後のLINEとなりました。

 

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さて、その後は悲しみの対面、ご葬儀の日です。

約束は「お経半分」ですが、私はお経をいつもの倍速でお勤めしました。

 

その後は娘さんが挨拶をします。

娘さんは紙を取り出しましたが、

それは生前に陽子さんが自分の挨拶文として書いたものでした。

 

娘さんの代読が始まりました。

最初の言葉は、参列者へのお礼から始まります。

その後、このような言葉が代読されました。

 

  さて、皆さんは

  コンビニの100円コーヒーを買いますか?

  例え一杯は100円でも、

  二日で200円、一週間なら700円です。

  それを続けていったらどうでしょう。

  そうやって、コツコツ貯めた蓄えは、

  もしかしたら、大事な人の役にたつかもしれません。

  今ある100円を

  誰かのために使えるようにしてください。

 

  私はお浄土に先にいきますが、

  皆さんが来るときにはたくさんのお料理と

  外国のおいしいお酒を用意して待ってます。

 

コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  コーヒー  

 

私達は一人で生まれ、

一人で死んでいきます。

  生きていることはいいこと。

  死ぬことはわるいこと。

そう思っているのですが、

生きることも死ぬ事も、

「同じ尊さがあるんだよ」

と仏様は仰います。

 

生きていると、色々な人と関わっていくのが私たちです。

今、陽子さんのお話をしましたが、

皆さんがお浄土に往ったとき、

「私もいいですか?」と陽子さんに聞いてみて下さい。

陽子さんは優しい人だから、きっといいって言いますよ。

 

親鸞聖人は、

29歳で生涯の師である法然上人とお出会いになりましたが、

わずか6年で離別します。

その後、京都に戻った法然上人に、会おうとしたら会えたのに

聖人は京都には戻らずに関東布教の道を選びます。

ですが、皮肉なことにその後は会うことなく、生涯再会は果たせませんでした。

 

私も11月に無理してでも陽子さんと再会したかったのですが、

あの時、無理にでも会っておけばよかったんだろうか。

今、後悔しても遅かったし、それはかないませんでした。

 

でも、お浄土に往けば、

親鸞聖人も待っています。

私の両親も先に往って待っています。

皆さんの大切な方も待っています。

陽子さんも美味しい料理を作って

待っていてくれます。

 

慌てなくても

ゆっくりしても

必ずお浄土に参るのです。

 

それまでは、

このいのち

大事に大事にしていきたいですね。

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い 

 

 

今日は午前が2話、午後が1話でしたが、

なかなか中身の濃い時間だったと思います。

法話の良し悪しは論じてはいけないでしょうが、

私達は難しい仏教より、

身近な話題から法を感じ取り、

人生に活かし、後生に活かすほうがいいですよね。

美馬師の飾らない人柄で、

今日も3話とも素晴らしい説法でしたが、

人柄が法を伝えていくんですね。

 

今日も文字に起こして、どこまで伝わったかなと心配しますが、

何はともあれ、今日もお育て頂きました。

 

明日、来れる方は来ていただき、「美馬ワールド」を感じて頂きたいですね。

来れない方はYouTubeがありますので、どうぞお聴聞なさってください。

 

 

 

 

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い