今日の東京は、気温は10℃前後でしたが、よく晴れていました晴れ

風も穏やかだったので、寒い一日というほどではなかったような気がします。

今日も外国の方も含めて、並ぶほど、たくさんの方のお参りですニコニコ

 

お参りの後は、法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は、福岡県糸島市海徳寺の松月英淳(まつづきえいじゅん)師です。

 

 

 

 

青字が松月師の言葉の要約です。

 

<支え、支えられ>

 

皆さん、今、椅子に座っていますよね。

午前中は、前席30分、後席30分、合計60分ですが、

いすに座って、自分の体重をお尻と背中に分散させながら

自分の全体重を椅子に掛けています。

いや、椅子は何もいいませんが、60分もの間、ご苦労を掛けるのですから、

皆さん、終わった後は、「ありがとうございました」と

椅子にお礼を言ってもバチは当たりませんよ。

 

人は

人にも支えられて生きているんですが、

モノに支えられて生きてるんですね。

 

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私の末娘は小学校5年生なのですが、ある日のことです。

 

娘が学校から帰ってきました。

娘が 「お母さんは?」 と聞きます。

私が 「お母さんは今、スーパーのイオンまで買い物だよ」 と言います。

すると、

娘は 「なーんだ、誰もいないんだ」 と言います。

私は、おいおい・・・と思って、

「お父さんがいるじゃないか」 と言います。

すると、

娘は 「お父さんは、いいと~」 と言います。

 

幼児を過ぎて、小学校高学年になり、

更にこれから中学、高校、大学、大人になっても、

母親はずっとこの子の心の中に居続けるんでしょうね。

 

ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  ニコニコ  

 

娘ではありませんが、ある小学校5年生の女の子の詩です。

 

タイトルは「おふろの砂」

 

   お父さんが湯から上がってきた。

  そのあと、私が入った。

  底板を触ったら、少し砂があった。

  真っ黒になって働いたからだ。

  私は黙って入っていた。 

 

さて、

なぜ、この娘さんは「黙って入っていた」んでしょうね。

きっと、

「私の為に真っ黒になって働いてくれた親がいた」

そのことに、気づいたからではないでしょうか。

 

皆さんも気づいていますか。

誰かを支え、

誰かに支えられ、

モノにも支えられ、

そして、

仏様にも支えられていることを。

 

 

<忘れたい 忘れたくない>

 

明日ありと 思う心の あだ桜

夜半に嵐の 吹かぬものかは

 

これは、親鸞聖人が9歳で出家をして、

その日のうちに得度(お坊さんになる儀式)をしようとしていたのに、

遅い時間になり、「明日にしよう」と言われて

親鸞聖人(親鸞少年)が言った言葉として伝わってきています。

 

つまり、

明日もまだ咲いていると思っている桜も、

夜中に嵐が来て散ってしまうかもしれません。

明日の命など誰もわからないのですから、

明日とは言わずに、今日得度をしなければ、

いつするんですか?

 

そういう意味を込めた言葉なのですが、

これは突き詰めて言いますと、

お釈迦様が説いた仏教の根本、

「無常」という意味なんですよね。

 

生死と書いて、世間では「せいし」と読みます。

「せいし」と読むときは、生きる事、死ぬ事、と別々に解釈します。

よく、生死の境目・・・、とかいうわけですが、

この世はそうやって分別をするんです。

分けることで、はっきりさせたいんですね。

そうやって、結局は何でも分けていくんです

 

バラバラに分けるから、

生きる事やそれ以外でも、

一つのことに執着してしまうんですよ。

 

仏教では生死と書いて、「しょうじ」と読みます。

「しょうじ」と言う時は、生きる事と死ぬ事は一緒と見ます。

よく、「生死とは、紙のごとし」と言います。

紙は表と裏がありますが、分けられないですよね。

文房具屋さんに行って、「紙の表だけ下さい」なんてないですよね。

一つということは、同じと言うことなんです。

同じですから、

生きることと死ぬことは、

別々に分けて考えていくのは

仏教では無意味な事なんです。

 

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あるお葬儀での話です。

若い娘さんが亡くなりました。

若い方が亡くなると、お参りの方の数が多くなるんです。

幼稚園でも、小学生でも、中学生でも、高校生でも、同級生が来ますからね。

 

年配の高齢の方が亡くなると、

年齢的にも覚悟が出来ますから、泣く方は少ないですが、

お若い方が亡くなると読経をしていても、

泣き声や鼻水をすする音がよく聞こえます。

 

話を戻しましょう。

その娘さんのお通夜の晩です。

お母さんは娘さんと一緒に過ごすからと、

自宅から毛布を葬儀会場に持参します。

 

そして娘さんに近づくと、娘さんの身体いっぱいに毛布で娘さんを包みました。

  「寒かろう、風邪ひくよ」

 

皆さん、

死んだ子は風邪をひかないですよね。

でも、お母さんは娘さんが使い慣れた毛布をわざわざ自宅から持参し、

娘さんの体をその使い慣れた毛布で優しく包んだのです。

 

お通夜の晩、お母さんの声が響きました。

  「どうして、目を開けてくれないの!」

  「どうして、息をしてくれないの!」

  「どうして、お母さんと呼んでくれないの!」

 

翌朝は、お葬儀の日です。

係の方が、

  「最後ですから、お花を手向けましょう」 と言いました。

棺にお花が沢山、入れられました。

 

係の方が言いました。

「おなごりは尽きませんが、

 ご出棺の時間も迫っていますので、この辺で・・・・」

 

その時、お母さんは棺に飛びつきました。

  「どうして死んでしまったの!

   もう一度お母さんと呼んで!」

 

お母さんの声だけが、大きく、深くご葬儀場に響きます。

いや、死んだ理由はお母さんも知っています。

「交通事故による出血多量」

 

いや、そうじゃなく、

なぜ?

どうして?

この子が私より先に往かなければならなかったのか。

 

  死んだ子は風邪をひかない

  死因は交通事故による出血多量

 

いや、そうじゃなく、

私たちには「情」があるのです。

 

お母さんの問いに私たちは、

明確な答えを持たないのではないでしょうか。

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  

 

あるご門徒さんの七回忌があったんです。

そのお母さんも、また、逆縁(親より子が先になくなること)という

ご縁に出会った方です。

 

そのお母さんは、このように私に言いました。

「亡くなって丸6年が経ちますが、早く忘れたいんです。

一時(いっとき)忘れては、思い出し、

一時(いっとき)忘れては、思い出しの繰り返しです」

 

「地獄のようなあの出来事。

早く忘れて、楽になりたいんです。

でも、忘れることができないんです」

 

忘れたい・・・。

 

悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい  悲しい

 

ご夫婦で仲良くお参りに来ていたご門徒さんのお話です。

   「最近、物忘れが多いな」

そう思って通院をしてみると、奥様の診断は「認知症」でした。

 

奥様は言います。

   「そのうち、自分の名前も忘れてしまうのでしょう」

   「ばあちゃん、ばあちゃん、と懐(なつ)いてくれている、

    あの可愛い孫のことも忘れてしまうのでしょうか」

   「忘れたくなくても、忘れていくのが怖いんです」

 

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浄土宗、浄土真宗、時宗は、浄土門(じょうどもん)と呼ばれます。

対して、それ以外となりますが、

自力で覚りを目指そうとする仏教を聖道門(しょうどうもん)と言います。

 

聖道門では、「執着から離れよ」と教えます。

ものごとに執着しているから苦しいのですから、

執着するものを捨てたり、離れたり、忘れれば、

苦しみから解放されると言うのです。

 

でも、

あのお母さんに

「忘れなさい」 なんて言えますか?

あのおばあちゃんに、

「忘れていいんです」 なんて言えますか?

 

私たちには

「情」があるんです。

 

情があるものを「有情(うじょう)」と言いますが、

情があるばかりに、「苦悩」をする私たちです。

 

その苦悩の有情を

「見捨てない」という仏様がいるんですね。

聖道門では、こぼれ落ちる、この私が、

唯一、仏に成っていく道があった。

それが浄土門という道であったと聞いていきます。

 

聞かないと仏教はわかりません。

これからも

仏様のお話を聞いて頂きたいと思うことであります。

 

 

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「情」の薄い人を薄情といいます。

「情」のない人を情けないと言います。

 

浄土真宗のお坊さんは

辛いことを、

  「無理に忘れなくてもいいんですよ」と言います。

大事な事でも、

  「忘れてもいいんですよ」と言います。

いや、本当は

  忘れようが、忘れまいが、どっちでもいいんです。

  「そのまま救う」が、仏様の救いですから。

 

結局は、

忘れた方がよくても、忘れられない。

忘れたくないのに、忘れてしまう。

それが、私たちの心の有りようなのです。

 

「物事に執着するな」と言われたって、

執着するのが私達の心の有りようなのです。

 

その私が救われていく道がある。

有難いニコニコ

 

 

今日もようこそのお参りでしたお願い