今日の東京は青空。
青空の下で写真を撮れば、下手な私も見栄えはまずまず。
しかし、気温はあとちょっとで30度。
晴れに喜び、気温にブーイング。
今日も凡夫全開の私です。(笑)
さて、昨日のブログの続きです。
最近、昔購入した仏教関係の本を読み返していたら、こんなクイズがありました。
眼の前に池があるとします。
その池で、自分の奥さん(旦那さんでもいい)と、
自分の母親(自分の父親でもいい)が、池に落ちておぼれているとします。
あなたはどちらを先に救いますか? というものです。
さて、どうしますか?
もちろん、正解は様々でしょう。
泳げる妻はあと、とか、
母親には、いつも怒られていたから、妻が先とか、
妻には、いつもいじめられているから、母親が先とか。(苦笑)
いや、そういうの無しで、先入観を絞っていくことで、
「手元に近い人から救う」 というのがその本では示されていました。
私たちは「妻」「母」とレッテルを貼って区別をするけれど、
そのレッテルを剥がせば「唯の人」となり、
唯の人が二人おぼれていれば、当然手前の人から救うというわけです。
これが仏様の智慧であり、「こだわるな」「とらわれるな」「偏るな」の見方です。
これが「自分の子供」「他人の子供」と置き換えると、
当然、人情としては「自分の子供」になるでしょうが、
それが「佛の智慧」には及ばない、「凡夫の損得の偏った知恵」となるんですね。
そして、それが般若心経の「空(くう)」のこころでもある。
ひろさちやさんは、自身の複数の著書の中で、同じことを書いています。
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さて、今日の法話会のご講師は、
昨日に続いて、群馬県富岡市蓮照寺住職の松岡満優(まつおか まんゆう)師。
人は「相対」の世界に生きていて、他人と比べて一喜一憂します。
しかし、「病人」「元気」「できる」「できない」などと、
レッテルを貼って一喜一憂するのではなく、その人を丸ごとありのままに肯定することが、
仏様の智慧(浄土真宗では阿弥陀様の智慧と慈悲)だと、お示しになりました。
それは、自らの愛娘を5年前に日本でも症例の少ない難病のために5歳で亡くした、
松岡師ならではの、真に迫る説法でした。
難病と聞いていて、私がすぐに頭に浮かんだのが「難病と闘うこどもたち」のことでした。
長野県立こども病院の難病の子供たち。
「明日をも知れぬいのち」の子供たちの実話ですが、この詩は有名です。
今は亡き、宮越由貴奈さんの詩は、多くの人の感情を揺さぶりました。
「電池が切れるまで」という本から、文章の抜粋と宮越さんとは別の詩の転記をしてみます。
少々長いですが、お時間ある方は、お付き合い願います。(青字が本の部分)
因みに小泉さん(仮名)のお子さんは、当時、難病のため明日をも知れぬいのちです。
なぜ、うちの子が? 他人の子は元気そうじゃない・・・。
なぜ、うちの子が苦しむのか、
なぜ、自分が苦しいのか、
だれも、その問いには答えられない。
我が子は、明日のいのちはわからない。
だからこそ、今日一日が愛おしく大事な日なのだと言うのです。
<親の思い>
長野県立こども病院は、難病や長期療養のこどもたち専門の病院である。
ある日、小さな女の子を連れて時々、院内学級に遊びに来ていた小泉さん(仮名)が
1人で山本先生を訪ねてきた。
「先生、私、工業高校出なの。直してくれる」
恥ずかしそうに、一枚の紙を差し出す。ノートから切り取ったらしい紙には、
ぎっしりと字がつまっている。
「消したり、書き足したり、何度も書き直しているのがわかりました」
目を通した、山本先生は、重みのある一言一言に圧倒された。
「うーん、直せない」
小泉さんと話すうちに、まだ若いこのお母さんがそれまで、
様々な体験をしてきたことを知る。
それは「すべての不幸を一身に背負った人生」といえるようなものだった。
難病を患って長期入院し、治療に耐える子どもたちと同じように、
闘病生活はお父さんやお母さんにとってもつらい闘いなのだ。
そして、ほとんど手直ししないまま、一編の詩が完成した。
(親の思い)
五体満足で育っている子どもをもつと
子どものいない人をうらやむことがある
切って縫って体にきずをもつ子どもをもつと
元気で普通の子どもをうらやましく思う
一生ハンディの残る子どもをもつと
一時の治療ですむ子どもをうらやましく思う
余命宣告されたり子どもの死んでしまった親は
ハンディが残ってでも生きているこどもをもつ親をうらやましく思う
子どもができない親(夫婦)は
産める親をうらやましく思う
腹の底から大笑いしているそんな時もよいけれど
私は、いつも微笑んでいられる一日一日
瞬間、瞬間を大切にしたい。
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自己実現
~ 人は比較を超えた存在である ~
私は学生時代にこの言葉を知ったのですが、
それ以来ずっと忘れずにこの言葉は大切にしています。
私たちは、
「人より優れていること」で優越感を持ち、
「人と同じこと」で安心し、
「人よりできないこと」で劣等感を持ちます。
ところが、その自己中心的、または世間に合わせた「ものさし」に当てはめられ、
レッテルを貼られた方は大変です。
つらいと思います。自分もそうでした。
神様はたとえ石ころひとつでさえ、同じものは作りませんでした。
きれいごとではなく、私たちは本当に「違っていていい」のでしょう。
人は生まれ持つ「天分」「役割」があります。
その天分を生かし、生き生きと生きていくこと。
私は私らしく。あなたはあなたらしく、生きていくこと。
それが、<自己の実現>なのだと思います。
松岡師自身も
「子供が病気で不幸」
「健康な他人の子が羨ましい」
自分の持つ「幸せの物差し」に我が子を当てはめて苦しんだそうです。
まさに「病気」「可哀想」と言う、レッテルを貼って、一喜一憂の世界に悩んでいく。
でも、「唯(ゆい:お子さんの名前)は唯ですから」という、
母親(松岡氏の奥様)の一言で我に返ったそうです。
比較しないで、レッテルを貼らない。
レッテルを剥がしたときに、その人の本当の姿が現れ、その人が正しく見えてくる。
仏教ではよく、正見(正しく物事を見ていきましょう)と言いますが、
それが煩悩具足の凡夫に教えてくれる、仏教の大いなる「智慧」です。
最後に一言。
皆様の「いのちの充電池」ですが、
今生での電池が切れるまで、あと何パーセント残ってますか?
私はまだ生きているから今日で1%。
浄土真宗では、そう頂き、
仏教では「諸行無常」と説かれています。