高橋のカレンダーシリーズを離れて、今週は坊主めくりを紹介してきた。

こちらは正真正銘の僧侶の皆さま。

既に日にちが決まっているものを紹介するので、

今まで当ブログで書いてきた言葉も出てくるのだが、その点はご容赦頂きたい。

 

自分とブログに遊びに来てくれる何人かの皆様と、仏教の味わいを共有したい。

その一念で書き留めていることをご理解いただき、来週からもうしばらく続けたい。

 

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空 (くう)

 

「存在もしない事象にこだわっても意味はなく、失敗もまた良し」                                     

 

                                            千葉:増田俊康師

 

 

 

天才バカボンのパパの、この決めぜりふも「仏教由来」    ありのままを受け止めよ

 

 

 

 

 

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なかなか、空の解釈は難しい。

空についてはいろいろな解説本も多いが、

元駒澤大学総長であり、仏教学者界の重鎮、奈良康明師は

若くて仏教に関心の希薄な一般学生に対して、学長時代に学校便りでこう説法した。

 

押して駄目なら、引いてみな。

 

一辺倒に考えない柔軟な心。

すなわち 「こだわるな」

「空」のこころである。

 

 

 

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諸行無常の人生の中で、失敗をした時、

「ああ、うまくいかずに失敗したな」と、まずは「事実」ありのまま受け止める

だが、悲しいかな、次にどうなるかと言うと、失敗したことに拘り始めることが多くある。

「失敗」だけなら、そこまでのダメージなのに(仏教では、これを第一の矢という)、

拘ることで二次的に「ショック」「自信喪失」と言う「苦」を引き起こし

(仏教では、これを第二の矢という)、

結局は昨日も今日も悶々と過ごしていくのである(仏教では、これを第三の矢という)。

 

ああ失敗したな、で終われば「一本の矢」しか受けないものを、

その後のくすぶった感情が更なる、第二、第三の矢となり自分に突き刺さり、

未解決、未消化の中で人生の大事な時間だけが過ぎていく。

 

だが、3月16日の当ブログで紹介した、

「去年の今ごろは何で悩んでた?」の名言のように、物事は移り変わること、

そして、いつまでも存在しない、実体のないものに引きずられないことが、

総じて「空」のこころであり、「空」の言いたいことと、読み替えたい。

 

 

如是我聞(にょぜがもん)

(この言葉を)私はこのように聞きひらく。

 

但し、解釈は人それぞれでいいと思う。

この言葉を皆様なりに味わって頂けたらと思うことである。