今日の東京都心は、久しぶりにしっかり雪雪の結晶が降りました。

スマホでざっくり撮っても、雪雪の結晶が舞ってるのが分かりますよね爆  笑

狛犬ならぬ、有翼獅子像も・・・。

 

 

テラスには人がいませんでしたが、雪ダルマ雪がお客さんでおりました爆  笑

(私は作ってないですよ、笑)

 

 

では、お参りの後は、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日の御講師は、福岡県飯塚市西光寺の藤井智子師です。

 

 

 

 

青字が藤井師の言葉の要約です。

 

 

<このいのち

 なかったことにしないから>

 

私の祖母は、お菓子や贈り物で出た「リボン」や「包み紙」を捨てない人でした。

普通なら、捨ててしまうものであっても、祖母は取っておきます。

そして、手を加えて、人形にしたり、飾り物を作っていくのです。

私たちなら、簡単に手放すようなものでも、

祖母の手にかかれば、

捨ててしまうようなものだって、

何でも生かしてくれるのでした。

 

その祖母の旦那さん、つまり私の祖父ですが、

祖父は私が生まれる1年前に往生しました。

だから、私は祖父の顔は知らないんです。

 

ですから祖母は、私に祖父の事をよく話してくれました。

ギターはひけないくせに、ギターをもってうろうろしていたこと・・・。

お寺に嫁に来てみたら、お寺には10円しかなかったこと・・・。

 

そして、こんなことも話してくれました。

祖父は戦時中、軍の命令により、ある船に乗ることになっていました。

でも、乗る直前になって、ある知らせが来たそうです。

「事務の担当者が、業務を外れてしまうことになった。

ついては、お前はお寺の出身だから字が上手だ。

今度の船には乗らずに、申し訳ないが事務方として残ってくれ」

 

上官の言葉でしたので、乗船せずにいたところ、

上官の乗った船は、

敵からの攻撃を受けて沈んでしまったそうです。

 

結局のところ、

上官は祖父にとって、

字の上手なことをみちんと見ていてくれて、

危ない場面も回避することができた。

まさに「いのちの恩人」となったのでした。

 

その祖母も28年前に往生したのですが、

こんなことを言っていました。

本当に苦しいことは、人には話せない。

本当に辛いことは、言葉にもならない。

 

祖父も祖母も、

あの時代を生きた方は、

みんな苦労人です。

 

今なら、思えるのですが、

これは、

たくさんの悲しみや苦しみを持つ人のみの言葉

の様な気がするのです。

 

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悲しみや苦しみですが、人生で出会ったらどうでしょう。

なんだか、人生にとっては「無駄なこと」のように思えます。

でも、

悲しみや苦しみが無駄にならない

悲しみや苦しみが生かされていく道がるとすれば、

果たしてどうでしょうか。

 

親鸞聖人は

「仏さまのお心の事」を

きはもなし

と言いました。

 

「きは(際)」というのは、「端っこ」ということです。

私たちはよく「きは(際)」を作ります。

これは役にたつ、たたないという、「きは(際)」を作って分けていきます。

これはいい、これは悪いという「きは(際)」を作って分けていきます。

その結果、

これはダメ。

これは無駄。

これはなし。

そうやって生きていくのです。

 

でも、

仏さまから見たら、

ダメであっても、

無駄であっても、

ないものであっても、

その人生のプロセスは

全部が全部「生かされていく」道なのです。

 

だから、

仏様というのは

あの人は救う。

あの人は救わない。

そんな分け隔てをすることはありません。

 

それが

仏さまのお心である、

きはもなし

なんです。

 

  ガーベラ    ガーベラ    ガーベラ    ガーベラ    ガーベラ    

 

昔の実話です。

昔は幕府がありましたけれど、

その幕府に年貢、年貢は主にお米となるのですが、

年貢を納めていたのが農民でした。

そして、そのまとめ役が「庄屋」で、

庄屋と幕府の間の中間を取り持つ中間管理職が「代官」でした。

 

あるところに、平左衛門という代官がいました。

武蔵の国に生まれ、井戸家の養子となり、

幕臣として30年あまり勘定役を勤め上げました。

その平左衛門は、大の「甘いもの好き」です。

出世欲のない平左衛門は定年を迎えたら、

「きっぱりと代官をやめて、

全国の甘いものを求めて旅をしていこう」

そんな夢を持つ人柄でした。

 

ところが、「さあ、定年」と思っていたところに、

島根県の「石見(いわみ)に行ってくれないか」という話がありました。

最初は渋っていた平左衛門ですが、

行けば「幕府の偉い人」でも滅多なことでは口に出来ない

「極上の甘味」を食べられるようにする、というのです。

 

まあ、それで釣られたのでしょうか。

平左衛門は、付き人の藤十郎とともに岩見にやって来ます。

ところが、当時の岩見は、飢饉があります。天災もあります。

それが代わる代わるやってきて、お米も農作物もうまく育ちません。

生きるために一番大事な食糧がないんです。

 

人々の心は病んでいました。

まず、身体が病んでいきます。

すると、心だって病んでいきます。

 

心が病むとどうなるか。

その時代、子どもを売るのです。

そして、子どもの間引きもありました。

間引きとは、生まれたばかりの子を殺してしまうようなことです。

子供一人分の食糧だって、惜しい時代ですから。

 

もう、こうなると、

石見全体が「生きる気力」を失っていたのです。

平左衛門は思いました。

「これは、とんでもないところに来てしまった」

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

ある日、平左衛門が道を歩いていると、

小さな小さな知さな子供の骨を見つけました。

「これは間引きされた子供の骨だ」

 

平左衛門は、付き人の藤十郎とともに

地面に穴を掘り、その子を埋めてあげました。

 

その後、

屋敷に帰った平左衛門は腕組みをしたまま、

藤十郎が出したお茶にも口をつけず、じっとしたまま動きません。

 

そして、

しばらくの長考のあとでこう言いました。

「わしはこの年まで、こんなにひどい惨状を見たことがなかった。

わしらは、農民から多くの年貢を取るだけ取ってきたが、

農民の現状も知らずに奪ってきた。

自分達はよかったが、これは大きな過ちだった」

 

平左衛門は、ここで大きな決心をします。

「このままではだめだ」

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ 

 

とにかく、荒れ放題の石見の土地です。

平左衛門は藤十郎を薩摩(鹿児島県)に使いに出し、

「さつまいも」の種イモを盗んできます。

やせ地でもとれる食物として

さつまいも栽培を導入したのです。

さつまいもは少しずつ育ってきました。

そうして、なんとかしながら、飢えをしのいだのです。

 

ある時は、イナゴが大量に発生し、

稲や作物を荒らしてしまうという惨事に見舞われますが、

イナゴの佃煮で急場をしのいだそうです。

 

こうなると、

「石見では飢饉がないらしい」

聞きつけた隣村の人たちが来るようになったのです。

「石見だって、人に分けるほど裕福じゃない」

藤十郎は平左衛門に「関所を作りましょう」と提案します。

ところが、あんなに温厚だった平左衛門は、

その時初めて大きな声で怒りながら言いました。

「関所などは設けん!」

「いのちは、みな、平等だ!」

 

やがて、石見はまた、

未曾有の大飢饉(享保の飢饉)が発生していました。

すると、平左衛門は今度は民衆を救うため、

幕府の許可を待たずに年貢米を幕府に送らずに

人々に分け与えました。

更に、被害の大きな村々の年貢を免除し、

農民たちには助け合いの心を説いたのでした。

 

これらの優れた施策によって石見からは、

ひとりの餓死者も出さなかったのでした。

 

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さて、幕府に背いた平左衛門です。

「このまま」とはなりません。

幕府から来た「罪人用」のかごに乗って、

石見を出発する日がやってきました。

 

かごに乗って出発すると、農民たちが追いかけてきました。

「俺たちの殿様を返せ~!」

大勢の民衆に囲まれた平左衛門でしたが、

平左衛門は静かに言いました。

「私は大丈夫。必ず石見に前って来るからな」

 

石見に帰ってくる。

それは優しい嘘でした。

当時幕府への犯行の代償は「切腹」と決まっています。

平左衛門は藤十郎に言いました。

「介錯は頼んだよ」

 

翌日、平左衛門は亡くなりました。

享保18(1733)年のことでありました。

 

後の「遺言書」では、このように書いてありました。

「せっかくの石見への奉職でしたが、このようなことになって申し訳ありません。

特別美味しい菓子を頂けるとの仰せでしたが、

私には石見のさつまいもの甘露煮こそが、最上のものでありました

 

ちなみに、この時のことは、代々引き継がれ、

今でも地元では「いも代官」として、

平左衛門は多くの人に慕われています。

 

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60歳までは普通に「代官」としてやってきた平左衛門でしたが、

石見への赴任のご縁を頂き、その心を大きく動かしたものがあります。

 

「間引き」された、

小さないのちを見たからです。

 

平左衛門は長考の末に、決心をしましたよね。

 

このいのち

なかったことにしないから

 

飢饉、天災で多くのいのちが

「あたりまえ」のように亡くなっていく。

亡くなることは「当たり前」の時代です。

 

その時代に、

ひとりもいのちをおとさせない。

そう、決心をしたんです。

いや、覚悟をしたんです。

さらに言えば、

自分のいのちと引き換えにしたんです。

 

さつまいもを

おぜん立てしていって、

いのちをつないだんです。

 

あなたはいいよ。

あなたはダメ。

そんな、

いのちの関所は作らなかったのです。

 

お米はみんなの生きる糧。

幕府より、

今日生きるのが精いっぱいの

老若男女

すべてのいのちが見えていたのが

平左衛門でした。

 

読みかえれば、

仏様には

きはもなし

 

あなたは救うけど、

あなたは救わない。

そんなことを言わないのが

仏さまなんです。

 

人生は何一つ無駄なことなんてありません。

全ては生きる力へと生かしてくれるものです。

 

今日は雪ですね。

必ず雪は解けていきます。

 

今日は冷え込みましたね。

必ず冬は春になるんですね。

 

 

黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

「このいのち なかったことにしないから」

 

その「いのち」の言葉ですが、

藤井師の午前中の法話では、

このような言葉を教えてくれました。

 

観無量寿経の解説の時です。

 

あなたに罪があるのなら、

私も罪があるのです。

と仏様が仰いました。

 

それを聞いて、あるお話を思い出していました。

お孫さんが不登校になりました。

おばあちゃんは、孫の母である自分の娘の育て方が悪いんだと、

いつも文句を言っています。

 

でも、お寺で法話を聞いた後で、

おばあちゃんはこのように気づいたそうです。

「私はいつも、自分の娘が悪いから孫がダメになったと思っていた。

でも、その娘を育てたのは誰だったのか。

それを気づかされ、とても反省をさせられました」

 

あなたに罪があるのなら、

私も罪があるのです。

とおばあちゃんが仰いました。

 

仏さまは色々な「いのち」を見ていらっしゃます。

そして、

見て見ぬふりをすることは決してないのですね。

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

その「私」の生き方について、

禅僧であり、元大学教授の澤木興道師はこのように言っています。

 

われわれの

たった今の生活態度がインチキならば、

今までメシを食べさした人も、

今まで教えてくれた人も、

今までものをくれた人も

みなインチキをさせるために

してくれたことになる。

 

もし、今日の生活態度が立派ならば、

その立派なことをさせるために私を生み、

私を育て、私を教え、

私にものをくれたことになるのである。

 

このたった今の生活態度が

全過去を生かしていくんじゃ。

 

インチキとは、

大小関係なく、

「間違った行動」ということです。

 

私に罪がある時は

産んだ人、育てた人、教えた人、モノをくれた人も

罪ということになるでしょうか。

 

誰かに育てて頂く、私たちです。

仏さまにお育て頂く、私たちです。

あなたや私を

見て見ぬふりはしない、

そういういのちの伴走者なのですね。

 

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日は立春。

季節の変わり目ですが、

色々なモノだって、

変わっていいですよね😊

 

さて、

我が家の今日の「日めくりカレンダー」の言葉が心に残りました。

 

毎日が

人生の

スタートなんだよ

 

スキルアップのための資格取得に励んでいたときのこと。

私が「新しいスタートを切りたいの」と言ったら、

娘がこのひと言を掛けてくれて驚きました。

そんなことを言える子に育ったのだと思うと、

うれしかったです。

 

            熊本県匿名希望 パート・アルバイト

 

禅で言えば、

即今当初自己

 

即今(そっこん)・・・たった今

当初(とうしょ)・・・ここで

自己(じこ)・・・私が行います

 

何があっても、

今日がスタート🌈

何があっても、

毎日がスタート🌈

 

 

日々是好日

(にちにちこれこうじつ)

 

いつだって、

今日が人生で

一番いい日です✨

人生は毎日、

一番いい日の連続なのです✨

 

   ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ

 

 

 

今、自分にできることを

やっていくのが人生よ

 

人生思い通りにいかなくて悩んでいたときに

母がくれた言葉です。

  

             広島県 匿名希望 主婦

 

諸行無常

ものごとは

必ず移り変わるのです。

 

「高僧の名言」もいいけれど、

私は「凡夫のつぶやき」だって、

同じ凡夫目線の気づきとして、

いいなぁ~って、思ってます😊お願い

 

 

 

今日の東京都心は気温10℃行ったのかな?

って感じでしたが、

今日も全国的に冷え込んでいるようですね。

 

せっかくあるのに、

掲示板は書く方がいないこともあるのか、

「黒板」と化しています爆  笑

ちょっともったいないですね。

(映り込みがありますが、何も書いていません)

 

 

今日から2月です。

お寺の参拝カードも変わりましたニコニコ

 

 

裏面です。

 

 

お参りの後は、法話を聞きましょう。

 

 

今日の御講師は、福岡県福岡市西音寺の笠一道師です。

 

 

 

 

青字が笠師の言葉の要約です。

 

 

<復元力>

 

人生って、「出会いによって決まっていく」と思うのです。

例えば、先だった方がいる。

先立ったいのちを訪ねていけば、

その方がどこに行ったかを知らされます。

 

私たちは、

自分の行き先が分からないと不安になりますが、

自分の行き先が分かっているから、

自分の行き先があるから安心するんです。

 

振り返れば、

私たちは

阿弥陀様の御手の中で

生かされているんですね。

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

先ほど、「人生は出会いによって決まっていく」と言いました。

もし、本当の宗教、本当のこと、本物に出会えれば、

人生の大きな支えになると思います。

 

では、本当の宗教、本当のこと、本物って何でしょう。

私は3つの事があると思います。

 

一つ目

私をそのまま認めてくれるものに出会うこと。

 

マザーテレサさんの有名な言葉があります。

人生において、不幸とは、

病気でも、貧困でもありません。

誰からも必要とされていないと感じることです。

誰からも愛されていないと感じることです。

 

自分を認めてもらえないとしたら、どうでしょうか。

きっときっと、生きていく意味を見失うかもしれませんね。

 

認めてもらう。

それも、

「努力しないと認めないよ」なんて言わない。

「私をそのまま認めてくれる」

その力、ハタラキこそ大切なものではないでしょうか。

 

二つ目

私を見捨てないものに出会うこと。

 

この世は能力主義です。

そんなお前では知らんぞ~。

そんなお前ではつまらんぞ~。

 

切り捨て、見捨て、置いてきぼり。

それで、もし、救われない人がいるのであれば、

やっぱり、本物とは言えないと思います。

 

三つ目

人生は順境にも逆境にも出会っていきます。

その時に私の生きる力として支えになっていくものに

出会うこと。

 

生きていれば、順境の時はいいですが、

逆境の時は「何で私だけこんな目に」と必ず思います。

その時に「あなたの大切にしているもの」は、

人生の支えになってくれるでしょうか。

 

家族、お金、健康・・・、

すべて手から離れていく「支え」ではないでしょうか。

 

もし、あなたの出会った世界の支えが、

人生の支えにならなかったら、

それはそれで悲しい事ではないでしょうか。

 

  ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

小学1年生の男の子の作文です。

この男の子は、記憶がないくらい幼い時にお父さんを亡くし、

つい最近にはお母さんも亡くして、

今はおじさん、おばさんに育ててもらっています。

要約してお伝えしますね。

 

おかあさん

おかあさん

なんどよんでも

あのときは

へんじをしてくれなかったね。

 

まいにち、ぼくは

おぶつだんのおかあさんにむかって

「きょうもいってきます」といいます。

まいにち、おかあさんとあってるから、

さみしくはないよ。

 

でも、

ときどきがっこうでせんせいが、

おとうさん、おかあさんのはなしをすると

そのときは

さみしくて

かなしくて

しかたがないときもある。

 

でも、

ぼくのむねのなかには

いつもおかあさんがいてくれるから、

ほんとうはとてもうれしいです。

 

おかあさん

いつまでもぼくのむねのなかに、

いつづけて下さい。

 

この作文を想像すると、

おじさん、おばさんは、毎日仏壇に向かって、

手を合わせていたのでしょう。

そして、自然にこの子も手を合わせたり、

お仏壇を見ては

お母さんがちゃんといる。

お母さんはちゃんとぼくを見ている。

そう言う風に育っていたのでしょう。

 

この男の子は、

この先何度も順境にもあうでしょうが、

この先何度も逆境にもあうでしょう。

 

その逆境の大変な時に、

この子を見捨てることなく

この男の子の胸の中で

見えない力が「ハタライて」いくと思うのです。

 

男の子は、

会うべくものに

出会ったのだと思います。

 

    ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

もう一人、今度は小学校高学年の女の子の作文を要約してお伝えします。

 

お母さんは

いつも

にこにこ

そして

のんびりとしています。

 

そんなお母さんに

私も似ていると思います。

 

この間、運動会に向けて、

かけっこの授業がありました。

私は「どんけ」でした。  ※どんけ=ビリ

 

私は家に帰って、

「今日のかけっこ、どんけだった」と

お母さんに言いました。

 

するとお母さんはこう言いました。

「かけっこは、真剣にやったと?」

 

私は

「うん」と返事をしました。

 

すると、お母さんはこう言ってくれました。

「1番かどんけかは、大事じゃないのよ。

あなたが頑張ったかが一番大事。

頑張ったなら、

あなたはあなたでそれでいいんじゃないの」

 

それを聞いて私は、

このお母さんの娘で良かったと思いました。

 

もし、これが、

「あんた、今度は4番になりなさい」

4番になったら、2番になりなさい。

2番になったら、1番になりなさい。

 

そう言って、

「もっと」「もっと」

「もっと頑張りなさい」

「なぜできないの」

そう言われたらつらいですね。

頑張ってるのに、

「もっともっと」は厳しい言葉だと思います。

 

その時に、

「認める」

「見捨てない」

「支えになる」

そのハタラキって大事だと思われませんか。

 

    ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ    ガーベラ

 

船の設計をする設計士さんのお話です。

皆さん、船をつくる時に、

設計士さんが一番気を付けること。

設計士さんが一番大事にしていること。

なんだと思いますか?

 

それは

復元力

だそうです。

 

船って、海や川、つまり水の上を動きますよね。

その水はいつも平らではありません。

私たちがお風呂に入るときだって、

お湯の水面は「右左前後上下」に揺れるでしょう。

まして、あの大きな海などでは、

人の背の何倍もの「右左前後上下」の揺れが有るのです。

 

その時に、船の重心に戻る力が大切です。

戻らないと船は沈むんです。

その戻る力の事を「復元力」と言います。

 

 

先ほども言いましたが、

人生は順境ばかりじゃない。

人生には逆境が

どの人にも、

必ず、

しかも

何回も

やってくる。

 

その時に、

あなたを

「認める」

「見捨てない」

「支えになる」

 

その力こそ

人生で

何よりも

大切なのでは

ないでしょうか。

 

揺れていく心を

元の重心に戻していく。

 

その力のことを

仏さまの世界では

「本願」と言います。

「本願」とは、

仏さまの願いと言う事です。

 

仏さまの願いとは何でしょう。

それが、

摂取不捨

「認める」

「見捨てない」

「支えになる」

という力なのです。

 

そこに本物の力を見ていく。

そのことを

喜ばして頂くことが

人生では

肝要だと思います。

 

 

 

黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

人生にはいろいろなことがありますよね。

何か落ち込むようなことがあれば、

道を行く人がみんな幸せそうで、

うらやましく見える。

 

そういう瞬間は、

人生で何度もあるのではないでしょうか。

 

それでも、

生まれてからずっとどん底の方もいないと思います。

 

悩みごとがあっても、

「去年の今頃は何で悩んでた?」と聞けば、

大抵のことは思い出せない人が多いのも人生だと思います。

 

あんなに大きな悩みがあったって、

今日も大笑いすることって、

やっぱりあるじゃないですか。

 

人にはきっと「復元力」があるのかもしれませんね。

その復元力こそ、本願力、仏さまのハタラキかもしれませんね。

今日もお育て頂きました。

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は、最高気温9度。

寒いと言ったら、他の地域の方には怒られそうですが、

この寒さ、もうしばらくの辛抱ですね。

 

今日もお参りの後は法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日の御講師は、福岡県福岡市西音寺の笠一道師です。

 

 

 

 

青字が笠師の言葉の要約です。

 

 

<私、どうなるとやろ>

 

今日のご讃題(テーマ)

 

弥陀の誓願

不思議に助けまいらせて

往生をば遂ぐるなり

と信じて

「念仏申さん」と

思いたつ心のおこるとき、

すなわち摂取不捨の利益に

あずけしめたまうなり。

      (歎異抄一章)

 

 

(意訳)
“すべての人たちを救う”

不思議な阿弥陀如来の誓願の力によって救われ、

疑いなく阿弥陀様のお浄土へ往く身となり、

念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、

摂め取って捨てられることのない

救いに会うことができるのです。

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

 

よく、

お寺に行くということは、

「お育てにあずかる」

と言います。

 

言い換えれば、

「この未熟な自分を育ててもらう事」

それが、

お寺参りの理由だと言うのですね。

 

さて、この私たち。

実に世間の事に忙しいですよね。

「お寺? そりゃ、歳を取ってからばい」

そう、年配の方が仰いますが、

結構そのような方は多いようですね。

 

でも、いざ、聞いてみると、

「もう少し、早くから聞いときゃ、よかったと・・・」

 

皆さんは、今でも、

自分の価値基準だけで

人生を渡って行って

大丈夫でしょうか・・・。

 

    ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

漢字に「品字様」というものがあります。

「品」という字は「口」が三つある漢字ですが、

そのように漢字が三つある文字の事です。

 

例えば、

七、七、七で何でしょう?  㐂です。よろこぶです。

毛、毛、毛もあります。

言、言、言もあります。

 

では、

女、女、女では何でしょう? 姦です。かしましい、うるさいです。

 

では、最後。

耳、耳、耳は何でしょう?

これに口をつけると完成です。

正解は囁。 ささやくです。

 

先ほど、

摂取不捨(せっしゅふしゃ)

と言いました。

阿弥陀様は、この私を

例え、私が逃げても、

追いかけて、

おさめ取って、

決して捨てることはない、

ということです。

 

でも、

追いかけて・・・・、

というのがピンとこない方もいるでしょうが、

私はこう思うのです。

 

阿弥陀様という仏さまは、

私のいのちにピタッとくっついて、決して離れない。

 

遠くにいて、叫ぶように、

「お~いい、こっちに来い!」なんて言わない。

囁くように、耳元で言ってくれるのです。

「ここにいるからね。大丈夫だよ!」

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

私の母の母、

つまり私にとっては、おばあちゃんのお話です。

 

もう、お浄土に還ったのですが、

私のおばあちゃんは、

福岡にある真言宗のお寺である「東長寺」の檀家さんでした。

それが、御縁あって、浄土真宗の私のお寺に嫁いできたんですね。

当時、おばあちゃんは知っている方から、こう言われたそうです。

「あんたのところ(お寺)は、御説教があるからいいね」

 

そうです。

真言宗さんに比べて、浄土真宗は御説教、

つまり法話をするのが「伝道の要」なんですね。

だから、仏教をたくさん教えてもらえるんです。

また、みんなで集まったら、楽しいですものね。

 

さて、

そんなおばあちゃんも、

ある日の事、

「背中が痛い」と言いはじめました。

おばあちゃんは「リウマチ」も患っていましたから、

「リウマチ」の方は結構、痛がる範囲が広範囲なので、

きっと「リウマチ」からの痛みだろう。

周囲は勝手に思っていました。

 

ところが、いつまでたっても、痛がるものですから、

大きな病院で検査をしたところ、大きな病気が見つかりました。

「すい臓がん」

「ステージ4」

 

その後は、いくらか治療をしましたが、これ以上は厳しいだろう。

そう医師からも判断され、

おばあちゃんは入院をしていた4階から6階に移りました。

ちなみに、

4階は一般病棟。

6階はホスピス、緩和ケア病棟です。

 

おばあちゃんは、徐々に身体が弱っていきました。

だんだん歩けなくなり、

ついにはベットからも起きあがれなくなりました。

また、だんだんしゃべれなくなっていきました。

 

もう、それは家族が見ていても

痛々しいほどで、

私たちは「今生のお別れ」が

少しずつ近づいていることを感じ始めていました。

 

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ある時、横浜からいとこがお見舞いにやってきました。

かなり衰弱したおばあちゃんに向かって、いとこはこう言いました。

「おばあちゃん!

がんばらないといかんばい!」

「おばあちゃん!

家に帰らんといかんばい!」

 

私はそばで聞いていて、こう思いました。

「何と、厳しい言葉だろうか・・・・」

 

確かに、

そのいとこは3週間後に結婚式を控えていました。

できれば、おばあちゃんに出席をしてほしい。

 

気持ちはわからないでもないですが、

ここまでおばあちゃんは、

頑張って、

頑張って、

頑張ってきて、

動けない、しゃべれないのに、

まだこの「娑婆という場所」では

頑張らないといけないのでしょうか・・・。

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

そうしたことがあって、ある日です。

おばあちゃんは、少しだけ元気な日があって、

家族にこんなことを言ったのです。

「こげんなことになって・・・・、

亡くなったら・・・、

私・・・、

どうなるとやろ・・・・」

 

もう、小声だけれど、

おばあちゃんの声が病室に静かに広がりました。

そばにいた、家族は一瞬、びっくりしました。

また、浄土真宗のお寺に来たのだから、

ホントは聞いているはずなんだけれど、

最後の最後、おばあちゃんはそのように言ったのです。

 

私はすぐに、

おばあちゃんの耳元で

囁くように伝えました。

 

阿弥陀様は

あらゆる人たちを

抱きかかえて

必ず

お浄土に

連れて行って

くれるからね。

 

また、

みんなで

会える世界が

必ず

あるのだからね。

 

また、

お浄土で

会わせてもらおうね。

 

そこまで言うと、

おばあちゃんからは

大粒の涙がこぼれました。

 

その涙とは

大切な家族と別れる淋しさの涙もあったとは思うのですが、

それよりも、

「また会わせてもらえる世界がある」と聞かせてもらう、

喜びの涙の方が大きかったのではないかと思うのです。

 

阿弥陀様と言う仏さまは、

「あなたが頑張って、お浄土まで来なさい」

そういう仏さまではありません。

 

「あなたはそこにいていいよ。

私、阿弥陀が必ず抱きかかえて

お浄土まで連れていくからね」

 

そうです。

阿弥陀様という仏さまは、

私のいのちにピタッとくっついて、決して離れない。

摂取不捨の仏さまでありました。

 

私たちは

また会える世界がある幸せ。

また、「ありがとう」と感謝が言える世界がある幸せ。

 

それが、

阿弥陀様の「お救いの世界」でした。

 

今も私は、

阿弥陀様という仏さまは、

私のいのちにピタッとくっついて、決して離れない。

摂取不捨の仏さまでありました。

と言いましたが、

 

振り返ってみて下さい。

以前は、

念仏もしない私、だったのです。

手を合わせることも知らない私、だったのです。

頭を下げることも知らない私、だったのです。

 

でも、今は

念仏をし、

お経を読み、

手を合わせ、

頭を垂れる。

 

気が付けば、

いつから

そんな私になったのでしょう。

 

みんな、

仏さまの導き

仏さまのはたらき

仏さまのお育ての結果だと思うのです。

 

お寺に来るのは何のためでしたっけ?

そうです。

「お育てにあずかる」

言い換えれば、

「この未熟な自分を育ててもらう事」

それが、

お寺参りの理由なんですよね。

 

それもすべて

仏さまの導きです。

 

有り難いことですよね。

 

 

 

黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

今日は私が月に2回行っている、

「緩和ケア病棟」への訪問日でした。

私が病棟に行くと、

高齢の女性がベットで横になっていました。

 

初対面ながら、私が話しを傾聴していくと、

そのおばあちゃんは子供の頃、

何で行かなければならないのかわからなかったけど、

「お寺にいきなさい」と家族に言われて育ったそうです。

 

私はこう言いました。

「それは、きっと、仏教の柔らかさ、優しさ、慈しみを

知ってほしかったからだと思いますよ」

おばあちゃんは、目を丸くしながらこう言いました。

「そうか・・・、そうかもしれないわね」

 

おばあちゃんは、自分の運命を受け入れながらも、

ニコニコと優しく、穏やかな方でした。

この方が今いる場所は、緩和ケア病棟のベットの上です。

これが、仏教の「お育て」なのでしょうね。

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は気温が低い上に、とても強い風が吹きました。

外を歩けば、身体の芯まで冷えるようでしたが、

ニュースを聞けば、日本海側では、「まだ、雪雪の結晶で大変」との事。

ほんとに春🌸が待ち遠しいですね。

 

さて、今日は第四日曜日です。

東京都豊島区誓願寺の法話会に行って参りましたニコニコ

 

(光って見えない・・・爆  笑

 

お寺の掲示板です。

 

 

 

本堂です。

 

 

お寺が大事にしている言葉。

 

 

さて、今日の御講師は、鹿児島県日置市明信寺の那須良彦師です。

 

 

 

 

青字は那須師の言葉の要約です。

 

 

<さるべき業縁のもよおせば>

 

みなさんは、

「仏教とは何ですか?」と聞かれたら

なんとお答えになりますか?

実は、答えはこのようになります。

 

諸悪莫作(しょあくまくさ)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)

是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

 

つまり、

 

(悪いことをしてはいけません)

(善いことをしましょう)

(善いことをすれば、

    おのずと心は清らかになります)

(これが仏教なり)

 

唐の時代のことです。

中国の有名な詩人“白楽天(はくらくてん)”が、

“道林(どうりん)”というお坊さんに「仏の教えとは何か」と尋ねました。

道林は法句教にある「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)の言葉」を示されました。

 

諸々の悪いことをなさず、善いことを行い、

善いことをすることで自らの心が浄まっていく、

これが諸仏の教えである。

と言ったのです。

 

すると、白楽天は「そんなことは3才の子供でも知っている」と言いますが、

道林は「3才の子供でも知っているが、80才の老人でも実行はできない」と

答えられたそうです。

 

まさにその通りではないでしょうか。

ですが、

誰でも善・悪の道理はよく分かっているのですが、

「自己中心の煩悩だらけの私」であるがために

「善いこと」を実行することは難しく、

「悪いこと」をせずにはおられないのが、

この私たちだと思います。

 

こんなことを言えば、

「私は善いことをたくさんしてるし、

 悪いことはめったにしてない」

そう仰る方は多いでしょう。

 

そこなんですよ。

自覚のない自分。

 

そして、

そもそも「善いこと」「悪いこと」の区別だって、

人や時代によって違うし、

自分だって、

昔の自分と今の自分は、

言うことが絶対に違ってるはずです。

 

結局は、

人はあやふやなモノなんですが、

そこもまた、

「自覚が薄い」のが私たち

だと思うのです。

 

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親鸞聖人はこんなことを言っているんですよ。

 

善悪のふたつ

総じてもって

存知せざるなり

 

お弟子の唯円が書いた「歎異抄」という本では、

このような親鸞聖人の言葉が出てきます。

聖人は、ご自身の深い凡夫としての自覚から、

この言葉を言うのですが、意味はこういうことです。

 

本当の善悪は

阿弥陀如来(仏様)だけが

知るところであり、

私たちのような煩悩具足の凡夫は、

何が本当で何が本当ではないのか、

何が善で何が悪なのか、

それがわからないはずなのです。

 

親鸞聖人曰く、

ただ、念仏のみがまこと。

 

何もわからない中で唯一、

真実、まことなるものがあります。

それが念仏です。

 

そう仰っています。

 

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もう、随分前に往生されていますが、

山本仏骨(ぶっこつ)和上のお話です。

 

山本和上は、「教誨師(きょうかいし)」というお仕事もされていました。

「教誨師」とは、刑務所に行き、受刑者に対して、

社会復帰できるように「精神的なケア、支援」をする宗教者のことを言います。

 

さて、ある日、

山本和上は佐賀県鳥栖市にある女性受刑者だけの刑務所に行き、

法話をしておりました。

法話が終って、控室に帰ってくると、

ひとりの刑務官がこんなことを言いました。

「今日の会場の中で、一番前に座って、

話しを熱心に聞いていた若い受刑者がいたんですが、

先生はお気づきになりましたか?」

 

先生はもちろん、気が付いていました。

見た目の年齢からすれば、

小さな子がいるお母さんのような風貌です。

「ええ、もちろんです。

あの方は何の罪でここにいるんですか?」

刑務官が言います。

「殺人と、強盗と、放火です」

 

山本先生はびっくりします。

あんな優しい風貌の彼女から見れば、

想像もできなかったからです。

 

その後、刑務官から、彼女の事が語られました。

 

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時代は戦時中まで戻ります。

彼女はご夫婦で大陸に渡っていました。

その後、戦争が終わって、引き揚げてくるのですが、

ご主人は戦地で亡くなっていました。

ですから、ふたりの幼子とともに、女性は大阪で暮し始めます。

 

暮らしは「経済的に困窮」していましたが、

隣に住むおばあちゃんが何かと気にかけてくれました。

「これ、頂き物だけれど、よかったらどうぞ」

 

ある日、頼みごとがあって、

お隣のおばあちゃんのお家を訪ねますが、

あいにくお留守でした。

鍵も掛けずのお出かけのようだから、すぐに帰るだろう。

ちょっと待たせてもらおうかな・・・。

 

ところが、何気なく、部屋の中の箪笥が目に留まりました。

おばあちゃんは、

いつもあの箪笥の引き出しからお金を出してくれる。

今、ほんの少しだけでもお金があれば、

子供たちに食べ物を買ってあげられる。

彼女は「自分のため」じゃない。

「子供たちの笑顔だけのため」に心が揺れたのです。

 

そして、箪笥の引き出しに手を掛けた時、

玄関の戸が開き、おばあちゃんのお孫さんが入ってきました。

「ちょっと、あんた! なにやってるの!」

 

それから、もみ合っているうちに、

何と女性はお孫さんの首を絞めていたそうです。

 

呆然と立ち尽くしてると、今度はおばあちゃんが帰ってきました。

おばあちゃんは、目の前で死んでいる孫と

空きっぱなしの箪笥の引き出しを見て言いました。

「これは何!」

「日頃の恩を仇で返すのか!」

 

それから、もみ合っているうちに、

おばあちゃんの方は転倒して頭の打ちどころが悪く、亡くなっていきます。

 

もう、こうなると、頭も真っ白になって、

なにがなんだかわかりません。

「私が捕まったら、あの子たちはどうなるんや・・・」

気が付けば、おばあちゃんの家に火をつけてしまったのでした。

 

その後、お子さんたちは「児童養護施設」で過ごすことになり、

その女性は佐賀の刑務所に留置をされることになったのです。

 

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ここに親鸞聖人の言葉があります。

 

さるべき 業縁の もよおせば、

いかなる ふるまいも すべし

          (歎異抄)

 

そうなるべき縁が来たのであれば、

どのような振る舞いでも

してしまうのがわたしです。

と親鸞聖人は仰いました。


この言葉は、親鸞聖人と弟子の唯円さんとの会話に出てきます。
「聖人の仰せならば、私は、背きは致しません」と言う唯円に、

親鸞聖人は「では、人を千人殺して来なさい」と命じます。

「そのようなこと、私の器量ではできません」と唯円が返せば、

「人を殺さないのは、

あなたが善い心を持っているからではありません。

ただ、その縁がないだけです。

また、逆に、

決して殺害はしてはいけないと思っていても、

そうなるべき縁がもよおすならば、

殺すということもあるかもしれないのが、

この私たちのありようなのです」

と聖人は語ったそうです。

 

これは、他人事ではありませんよね。

縁によっては、

私も何をするか分からないのです。

そんな恐ろしい事件を、

私は決して起こしません

とは言い切れないと思うのです。

 

なぜなら、

人は病気の時は健康を、

経済的に苦しいときはお金を、

争いが絶えないときは仲良しこそが一番幸せと思うものです。

 

でも、そんなことは、いずれも長くは続きません。

幸せを感ずるときはやがて過ぎ去り、

何かに悩まされ、

迷いの生活を送ることになり、

その迷いの度合いが深くなれば

自分が何をするか分からないのではないでしょうか。

 

ですから、

迷い、悩む私たちにいつも本当の幸せに目覚め、

真の生き甲斐のある感動のある人生を送ってくれよと

呼びかけ続けてくださっている仏の声を

聞かせていただく必要があるのです。

 

利井鮮妙という先生がいたのですが、

有る方からこう質問がありました。

「仏さまなんて、ホントにいるんですか?」

「極楽なんて、ホントにあるんですか?」

「見たんですか?」

 

その答えがこうでした。

「仏がいるか、浄土があるか、私は知りません。

ですから、

それをわかっている方が

何を言っているのかを

聞くだけなのです」

 

だから、

今日もこうやって、

阿弥陀様の前で

お経に聞き、

阿弥陀様に聞いていくのですね。

 

 

黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

今日のお話。

確かに「殺人」も「強盗」も「放火」も

時代を超えて、

国を超えて、

「悪い事」なのだと思います。

ですが、今日の女性の受刑者のこと。

私には「さるべき業縁のもよおせば」に思えてなりません。

 

また、話しを聞いていて、

最近裁判のあった「安倍元首相襲撃の犯人」のことを思い出していました。

あれもまた、「悪い事」には違いないですが、

これもまた、私には「さるべき業縁のもよおせば」に思えてなりません。

 

でも、

振り返って、

この私たち。

「私って、善いことをたくさんしてるし、

悪い事はたまにしかしてないし、

それは殺人とかじゃなくて、

嘘とか、そう言う程度のものだし・・・」

 

そう言って、しまうことはないでしょうか。

そうだとしたら、「道を大きく踏み外すことがない」程度の

「小さなご縁しか出会っていない」ということでしかないのかもしれません。

 

たまに、

「あんないい人があんなことをするなんて信じられない」

などと言います。

 

人は、

もしかしたら

いや、多分

ご縁によって動かされている。

そう思えてなりません。

 

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昨日、ある機関紙の記事を見ていました。

その方は、

癌が見つかり治療を始めます。

ところが、完治もままならぬうちに、

お子さんが大きな交通事故で一時は意識不明になっていきます。

一命は取り留めたものの後遺症として高次脳機能障害になったそうです。

そこから、また、ご自身はその数年後、

違う部位のがん宣告を受けたのだそうです。

 

どんなお気持ちだったでしょう。

どんな辛さや悲しさ、苦しさだっだのでしょうか。

 

「なぜ、私の人生ばかり、ハードルが次々と積みあがり続けるのだろう?。

世間の人たちは皆、とても楽しそうなのに・・・」

 

機関紙には、その方の言葉が重く書かれていました。

 

その後、その方は気力を回復させていくのですが、

ちなみにその方の気持ちを回復させたのは

「仏教カウンセリング」だったとのことです。

 

そういうものに出会えるのも

また、ご縁なんでしょうね。

 

今日もお育て頂きました。

 

今日もようこそのお参りでした。

(NAOさん作:つちぼとけ)

 

 

今日の東京都心は、気温が最高7度程度。

寒い一日でしたが、日本を見渡せばどこも厳しい寒さの様ですね。

皆様、日中はともかく、

家に帰った後くらいは、温かくして過ごして下さいね🍵。

 

さて、

今日は最近聞いたお坊さんの言葉や、

最近行ったお寺の掲示板や機関紙の言葉から、

いろいろなことを皆さんとご一緒に味わって参りたいと思います。

 

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1月14日(水) 東京都台東区臨済宗宗雲院の掲示板

 

 

 

 

幸せってのは

なるもんじゃなく

気づくもんだ

「足るを知る」

 

    ビートたけし

 

 

どんなに満たされていても

私たちは「足りない」と言います。

結局は、

他と比較して

一喜一憂してるだけ、

のような気も

するのですけどね。

 

 ガーベラ     ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ

 

1月18日(日) 東京都世田谷区正法寺 白川淳敬住職のお話

 

 

あるご夫婦がおりました。

そのご夫婦はとても仲が悪く、

顔を見ればすぐに口喧嘩をしてしまいます。

 

そこで、旦那さんが思いつきます。

「それなら、これからは筆談にしよう」

 

さて、それからというもの、

奥さんがメモを旦那さんに渡します。

「ご飯の支度が出来ました」

 

ある時は、旦那さんがメモを渡します。

「今日は仕事で遅いので、食事はいらない」

 

ざっと、そんな調子です。

 

そして、ある時、

旦那さんが奥さんにメモを渡します。

「明日はゴルフで朝が早いから、5時に起こしてくれ」

奥さんがメモを渡します。

「わかりました」

 

さあ、翌朝です。

旦那さんは起きて、びっくりしました。

もう5時半になっています。

旦那さんは怒って、奥さんにメモを渡しました。

「どうして起こさなかったんだ!」

 

旦那さんは怒り心頭でしたが、

旦那さんがよく見てみると、

旦那さんのまくらの周りには、

たくさんのメモが落ちていました。

 

「5時です。起きて下さい」

「5時です。起きて下さい」

「5時です。起きて下さい」

「5時です。起きて下さい」

「5時です。起きて下さい」

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

人の話をきちんと正面から聞いていく。

自分のことを素直に正面から人に話す。

大事なことだとは思いませんか。

 

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1月20日(火)  埼玉県入間市 超法寺の末田雅裕住職の説法です。

言葉のいい方、伝え方のお話でした。

 

(写真はお借りしました)

 

人に話をする時は、いい言葉を使ったほうがいいですよ。

漢字に「叶う」ってあるでしょう。

あれは「口」にプラス「+」ですよ。

「いい言葉」、「プラスの言葉」を

選んで口にすると、

願いが「叶う」そうですよ。

そう、「いいことがある」っていうこと。

 

逆に、

人に話をする時に、悪い言葉を使うでしょう。

すると、せっかく「叶う」のに、

「マイナス」つまり「一」が入っちゃうから、

「吐く」になっちゃう。

ものごとを吐き出しちゃ、いいことなんかないよね。

 

これから、

言葉の使い方、言い方。

ちょっと工夫すると、

いいことが「叶う」かもしれませんよ。

 

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今日、1月21日(水)は、

家の近くの寺町へ散策に出かけました。

まずは、東京都杉並区 曹洞宗、永昌寺の掲示板です。

 

 

その一言が

人の心を

傷つける

 

その一言が

人の心を

暖める

 

 

言った方は忘れていても、

言われた方は覚えているのが

「その一言」

 

いい言葉

人を大切にする言葉

人を思いやる言葉

人を元気にする言葉

なるべく多く使いたいものですよね。

 

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つぎに、東京都杉並区 築地本願寺和田堀廟所

 

 

お寺の掲示板です。

 

 

 

人生は

出会いによって

育てられ

別れによって

深められる

 

出会いの数だけ別れがある

今年一年の出会いに感謝

今年一年の別れに感謝

 

出会ったから

別れがあるんです。

では、こんな別れなら、

出会わなかった方がよかった?

いや、そうじゃないですよね。

だから、

別れの時には

絶対に

「ありがとう!」なんです。

 

 

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お寺の機関紙です。(去年の暮れの発行です)

 

 

あなたの人生を

かわりに

生きてくれる

人はいない

 

 ドリー・パートン

 

 

「生きる」と言う事は

「いろいろなご縁と

出会っていかなければならない」

ということです。

 

それでも、

この世は諸行無常。

今、この瞬間、

今日一日だって、

また変わりゆくものです。

 

私たちは

自分に降りかかる

いろいろなご縁を、

いいご縁とか

悪いご縁とか

評価していきます。

 

私たちは

物事を

「善か悪か」と、

「損か得か」と、

「多いか少ないか」と、

どうしても

分別してしまいますよね。

 

でも、

誰も代われないこの人生ですから

(仏説無量寿経:無有代者)、

誰も代われないこのいのちですから、

この世のどのご縁も

しっかりと

受け止めていくことが

できたら

どんなにいいでしょうね。

 

もし、

それが出来たら

それこそが

「良き人生」と

言えるのかも

しれません。

 

 

今日もようこそのお参りでしたニコニコ

 

今日の東京都心は比較的暖かく晴れ

過ごしやすい日だったと思います。(個人の感想ですよ爆  笑

 

さて、

今日は第三日曜日です。

東京都港区安楽寺の法話会に行ってきましたニコニコ

 

 

参道です。

 

 

玄関と本堂です。

 

 

三帰依門と、讃仏偈のお勤めのあとは法話会です。

今日の御講師は、安楽寺の藤澤克己住職です。

 

 

青字は藤澤師の言葉の要約です。

 

 

<「今日」という初事>

 

 

毎月、お寺の掲示板の言葉を元にお話をしていますが、

今月の言葉です。

 

米寿も はたちも

一度だけ

人生初事

ばかりなり

誰も現役

今が旬

         佐々木安徳

 

   ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ

 

私たちは88歳の米寿とか、

はたち(20歳)というのは、

ちょっと前なら成人と呼ばれたものですが、

その都度、年齢的な節目が来るものですよね。

 

でも、それって、

その都度初めて、

「初事」なんですよね。

 

それは

人生の初事なんです。

 

では、今日という日はどうですか?

2026年1月18日の日曜日と言う日。

これは、私たちにとっては、

今日は「人生の初事」なんですね。

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

私は毎年1月1日にやっていることがあります。

それは、ここからすぐの「竹芝桟橋」に行って、

初日の出を見て、写真を撮ることです。

これは、「この日の出は初事なのだ」と思って見に行くのです。

 

でも、一歩引いて考えてみると、

「日の出」自体は、1月2日も、1月3日も、1月4日も出ているんです。

 

私たちは、「初めての事」はとても大事にします。

記念日と名前を付けることもあります。

 

でも、それ以外の事は

「見ているようで見ていない」のが

本当のところでしょう。

いつものこと、となると、

とたんにスルーしてはいないでしょうか。

 

竹芝桟橋には「海鳥」がいますが、

「海鳥」は初日の出を知りません。

1月1日も、2日も、3日も、

いつも新鮮に海を見ているのだと思いますよ。

 

  ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ

 

皆さんは、

今日このお寺に来るまでに、

何台、緑色の車を見ましたか?

 

そうですね。

記憶にないですよね。

 

では、これだけ交通量の多い東京の道路で、

緑色の車は一台も走っていなかったでしょうか?

 

これ、

「見つけたら、一台につき1000円をあげます」

と言ったら、多分、皆さん必死に探すかもしれません。

 

要するに、

緑であろうが何であろうが、

私たちは「気が付いていない」

私たちは「気にしていない」

ということなんです。

 

  ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ     ガーベラ

 

私たちは、

「昨日」の延長線上が「今日」だと思っています。

「今日」の延長線上が「明日」だと思っています。

 

そして、

「今日」も「昨日」と同じ日だと思っています。

「明日」も「今日」と同じ日だと思っています。

 

それが「私たち」でしょう。

 

でも、そもそも、

「明日」って本当に来るんですかね?

それは「今日」と同じような日なんでしょうか。

 

やっぱり

「今日」は「今日」でしかなく、

人生で初めて出会う「今日」であって、

人生の「初事」というのが本当の事だと思うのです。

 

「今日」が人生の「初事」と思うと、

ちょっとワクワクしますね。

「初事」ですから、

特別な日ですよね。

 

そう思うと、

「今日」が大切な日であり、

「今日」を思うと、

心が豊かになっていきますね。

 

そうです。

その「大切な今日」を無事に過ごせたら、

本当はとてもすごい事なんですよね。

 

  ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ

 

今日は皆さんお寺に来ているのですが、

正面にいる阿弥陀様は、

「今いる私」を見ていて下さっています。

決して、「明日の私」を見ているのではありません。

 

「まだ来ない未来」ではなく、

「今日の今の私」を

温かい眼差しで見守ってくれているんですよ。

 

親鸞聖人は9歳の時、

ご家庭の事情もあって、仏門に入られる決心をされ、

天台座主である慈円さんを訪ねていきます。

ところが、すでに夜だったので、

「今日はもう遅いので、

明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。

しかし、親鸞聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、

このような和歌を詠んだと言われています。

 

明日ありと 思う心の仇桜

夜半に嵐の 吹かぬものかは

 

この歌の意味は、

「今、美しく咲いている桜だけれど、

明日も見ることができるだろうと思っていると、

夜に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」

ということなんです。

 

つまり、親鸞聖人は、自分の命を桜の花にたとえて、

「明日自分の命があるかどうか分からない、

だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」

との思いが込められているんですね。

 

これは、「世の中の無常」を表しているのです。

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

繰り返しますが、

私たちは、

「昨日」の延長線上が「今日」だと思っています。

「今日」の延長線上が「明日」だと思っています。

 

そして、

「今日」も「昨日」と同じ日だと思っています。

「明日」も「今日」と同じ日だと思っています。

 

でも、

「今日」は人生で初めての「今日」なんです。

「明日」来るのは「今日」ではないんです。

 

であれば、

今日できることは、明日と思わずに

今日やっておくことも

時には必要ではないでしょうか。

 

しっかりと、

「今日」を生きてみる。

普段見て見ぬふりをしているものを

ありのままに見ることも

たまには「意識して」やってみる。

 

今日の言葉は、

佐々木安徳さんという浄土真宗のお坊さんの言葉でしたが、

これからは今日の言葉を

時々は噛みしめながら

過ごしてみてはいかがでしょうか。

 

 

ガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラガーベラ

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

まずは、2022年の日めくりカレンダーから・・・・。

 

 

クリスマスツリーを飾りながら、息子はとても喜んでいた。

そこで「去年もクリスマスをやったね!」と言うと、このひと言が・・・

                       (東京都 山田佳子 公務員)

 

4歳の子供さんの見事な説法ですよね。

 

今日は昨日の延長線上。

前もやったことがあるから、わかってるって・・・・。

 

これでは

ワクワク感も

感動も

あったものではありません。

 

「今日」という日は

人生で初めての日で

人生の初事。

 

そう思うからこそ、

日々新たなり。

今日が始まるワクワク感や感動もあるのでしょう。

 

毎日

「今日」

「今日」

とは、なかなか意識はできないかもしれないですが、

時々は思い出していきたい言葉だと思いますニコニコ

 

    ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

さて、

今日の法話会の参加者は5人でした。

法話会の後は、車座になって、

悩みを打ち明けたり、

その解決方法をアドバイスしたり、

和やかな雰囲気でした。

やっぱり、阿弥陀様の前では

誰もが素直に話せて、

お寺の持つ「見えない力」を感じます照れ

 

解散後は法友さんとお茶会で、

楽しい時間をすごしましたが、

それだって、「今日」という初事の大切な一コマでもあります爆  笑

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は晴れ晴れでした。

暖かかったわりには、ちょっと風が強かったから、

都心の方は外出時には大変だった方も多かったのではないでしょうか。

 

さて、

今日、私は東京の目黒区のお寺にお参りに行ってきました。

 

 

<浄土宗 明顕山 祐天寺>

 

 

本堂です。

 

 

阿弥陀堂です。

 

 

お寺の掲示板です。

 

 

広くて荘厳な内陣と外陣

 

 

 

では、お参りの後は、法話を聞きましょう。

今日の御講師は、東京都目黒区祐天寺の廣瀬晴彦上人です。

 

 

 

 

青字は廣瀬上人の言葉の要約です。

 

 

<つながっている>

 

今月の掲示板の言葉は、お釈迦様の言葉です。

 

一切の

生きとし

生ける者は

幸せであれ

 

お釈迦様は、

命あるもの、みんなが幸せになってほしい。

そう願われたのですね。

 

では、その幸せとは何でしょう。

  たくさんお金があることですか?

  贅沢なご飯をたくさん食べることですか?

 

人それぞれに、

いろいろな幸せの形があるかもしれませんね。

では、その中で「本当の幸せ」って何でしょう。

実はアメリカのハーバード大学で、

「本当の幸せは何か?」というのを、

科学のフィルターを通して研究してみようと言う試みがありました。

 

その中では、

「お金が増えると幸福度が上がること」が分かりました。

でも、それはどうも長続きはしなかったようです。

人の資産なんて、いつだって変わりゆくものであり、

資産では解決しないこともたくさんあったからです。

 

そして、その研究では

このようなことが結論づけられました。

 

本当の幸せとは、

大切な方とのつながりです。

 

誰かとのつながり、

誰とどのように生きるのか、

 

これが、

本当の幸せに

つながると

言うのです。

 

   ガーベラ     ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ

 

お釈迦様が存命の頃、

お弟子さんたちとガンジス川に行ったときの事です。

お釈迦様が、ガンジス川の砂を左手にすくって、こう言うのです。

 「お前たち、このガンジス川全部の砂と、

  この手の砂の数は、どっちが多いか?」

当然、お弟子さんたちは「ガンジス川の砂」と答えます。

 

お釈迦様は続けます。

「このガンジス川の砂全部をいのちと見た時に、

 人間に生まれる確率はこの手の砂の数ほどなんだよ。

 でも、今、その中にあなたがいる」

 

お釈迦様は次に、

先ほどすくった砂を、反対の右手の親指に落とします。

お釈迦様の右手の親指の爪の上には、ほんの少しの砂が残りました。

「では、その人間に生まれたあなたたちの中で、

 仏法に出会えるのは

 この親指の砂のような確率なんだよ」

 

人に生まれて

今、仏法を聞ける有り難さ、幸せを

お釈迦様はお弟子さんに伝えたんですね。

 

    ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

人は亡くなったらどうなりますか?

この娑婆では「お別れ」というと思いますが、

その「死の先」はどうなっていますか?

死んだらおしまいでしょうか。

はっきり、言っておきますね。

 

そうじゃないんです。

 

人は

「生まれ、死に」「生まれ、死に」を繰り返していくと、

経典に書いてあるんです。

これを

「輪廻(りんね)」

と言います。

 

では、私たち。

この娑婆の縁が尽きたら、今度はどこに行きますか?

毎日が苦しみの絶えない、地獄(じごく)ですか? 

求めても求めても満足できない、餓鬼(がき)ですか?

本能だけで生きていく動物のような、畜生(ちくしょう)ですか?

争いの絶えない、修羅(しゅら)ですか?

 

先ほど、

お釈迦様は

「幸せにならなければならない」

と言いました。

 

では、

いのちの行き先が

「苦しむ場所」

であっては

なりませんよね。

 

そこに

阿弥陀様の

「本願」

があったのです。

 

念仏する者を必ず救う。

一人の例外もなく、

苦しみの無い「お浄土」に迎えていくからね。

 

そう、

阿弥陀様が仰ったと、

経典では言うのです。

 

このいのち終える時、

このまま闇の世界にいくことが、

今までの「生まれ、死に」ではあったけれど、

これからはもうないんです。

 

大切な方が待つ世界に行くのです。

 

今、

そういう教えに

皆さんは会っているんです。

 

皆さんはお釈迦様の言う、

「親指の爪の上」に

今、いるんですよ。

 

  ガーベラ      ガーベラ     ガーベラ      ガーベラ      ガーベラ

 

令和4年、私の祖父が往生しました。

私は群馬の出身ですが、

群馬のお寺に名古屋から婿養子として入寺したんですね。

 

祖父が生きたのは戦時中でもありましたが、

夜間学校の教師もしながら、お寺を守り、

戦火のなかで生き残ってきました。

 

火事が起きた時は、

「本堂の阿弥陀様を持って逃げた」という

エピソードもあるのです。

 

その祖父のことが私は大好きで、

私はいわゆる「おじいちゃん子」でした。

 

ですが、

90歳を超え、95歳を迎えた頃には、

足腰はガタっと落ち、歩くこともままならず、

ベッドから落ちて、頭から血を出し、救急車にも乗りましたし、

トイレも自分ではできませんから、娘が・・・・、

つまり私の母が介護をしていたのです。

 

そして、その後私に、母から電話が来ました。

「おじいちゃんを施設に入れることにしたの」

 

私は母が「どれくらい介護をしていたか」を知っていましたから、

母を責めることもなく、

「ついに来るべき時がきたのか」と思いました。

 

   ガーベラ      ガーベラ     ガーベラ      ガーベラ     ガーベラ

 

さて、

97歳になり、施設に入所したおじいちゃんでしたが、

その頃はコロナ禍で、面会が出来なかったので、

私はスマホのテレビ通話機能を使って、

おじいちゃんと面会をしていました。

 

そして、随分と時間は空きましたが、

ようやく面会が出来る時期がやってきました。

私はワクワクしながら、母と一緒に施設に面会に行きました。

そして、声を掛けたおじいちゃんから返ってきたのは

予想もしない言葉でした。

  「初めまして、どちらさまですか?」

 

おじいちゃんは、認知症が進み、

自分の娘である母のことも、

あれだけ可愛がってくれた自分の孫である私のことも

わからなくなっていました。

 

自分の大切な方が、娘や孫を忘れてしまう。

私はつらかったけれど、

一番つらかったのはおじいちゃんだったかもしれませんね。

 

でも、帰り際、

おじいちゃんは私たちにこう言ったのです。

  「大事にして下さい!」

  「また、会いましょう!」

  「なんまんだぶ!」

 

   ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ     ガーベラ

 

そして、

その後おじいちゃんはお浄土に行きました。

 

その「私の大切なおじいちゃん」なんですけど、

おじいちゃんには

行き先が有るんです。

だから、私は悲しみだけじゃなかった。

その行き先もわかっています。

だから、私は喜びもあるんです。

 

今頃はお浄土で

色々な方と再会していることでしょう。

 

私は時々、おじいちゃんの写真を見るんです。

すると、何かグズグズしていることがあっても、

背中を押してくれるんです。

  「大丈夫!」

  「大丈夫だよ!」

  「大丈夫に決まってる!」

 

私とおじいちゃんは、

過去につながっていました。

だって

あんなに可愛がってくれたから。

 

今もつながっています。

だって、

写真を見ると、背中を押してくれるから。

 

未来もつながっているんです。

だって、

またお浄土で必ず再会するんですから。

 

この世は、悲しみも、苦しみもある世界ですが、

今、お念仏に出会える幸せ。

今、阿弥陀様に出会える幸せ。

今、先に往った「大切なあの方」とも出会える幸せ。

また、私が娑婆の縁尽きても、

お浄土で「大切な方」と再会する幸せ。

 

そういうものを大切にしながら、

この一年も頑張って参りましょう。

 

黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

「本当の幸せ」

鍵となるのは、

「大切な方とのつながり」

でした。

 

これは多くの方の共感を

得ることではないでしょうか。

 

だから、

大切な方とは、

今、

そして、

今日の過ごし方が

大事になるんですよね。

 

そして、

大切な方が往生して、

悲しみが止まないのは

仕方がないのだけれど、

 

今もいるよ。

今も一緒だよ。

 

大切な方とは、

絶対的に

いつまでも

つながっている。

 

この事実をとらえること。

それには、

感覚を研ぎ澄まして、仏様に気づいていく事。

そういうものを

大事にしたいと思っています。

 

   馬     馬     馬     馬     馬

 

さて、

今日は浄土宗さんにお世話になりましたから、

久しぶりに御朱印帳を取り出して、頂いて参りました。

祐天寺の「南無阿弥陀佛」の御朱印は丸文字なんですよ。

可愛いでしょう✨

 

 

そして、戴いたもの。

おねんぶつ飴と、

お寺の印字つきの瓦せんべい

 

 

今日は浄土宗のお寺ですから、

法然上人にお育てを頂いた一日でしたニコニコ

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日は新年最初の日曜日ですね。

今日はお寺の新年法話会に行って参りましたニコニコ

 

 

まずは白川淳敬住職の御挨拶です。

 

 

まずは新年最初の正信偈のお勤めがあり、

そのあとで今年最初の法話会です。

 

 

今日のご講師は東京都台東区浄雲寺の荒木尚太師です。

 

 

 

青字は荒木師の言葉の要約です。

 

<ずっと続くと

     思っていました>

 

今日は1月4日ですが、これから今年初めて会う方にも

きっと「明けましておめでとうございます」と言うのではないでしょうか。

 

このお正月に、臨済宗の一休さんは一つの句を詠みました。

 

元旦や

冥土の旅の

一里塚

めでたくもあり

めでたくもなし

 

昔は、数え年と言って、

お正月が来るたびに「ひとつ」年齢が増えていったので、

お正月にはみんな一斉に年を重ねたんです。

 

つまり、

お正月が来たと、浮かれて喜んでいるけれど、

それは「冥土の旅へ、一歩前進した」ということですよ。

新年を無事に迎えられて、それは確かにめでたいことだけれど、

同時に、冥土にまた近づいたということでもあるのですから、

そういうことではめでたくもないでしょう。

 

そういう意味なんですね。

その他にも

 

人生は

食て寝て起きて

糞垂れて

子は親となる

子は親となる

 

世の中の

娘が嫁と

花咲いて

嬶(かかあ)としぼんで

婆(ばば)と散りゆく

 

そんな句も詠っています。

 

一見、コミカルな内容ですが、

その中で詠まれていることは

疑いようのない事実であり、

この世は

諸行無常

無常迅速

であること

を教えているんですね。

 

つまり、

物事は

ずっと続いてはいかないんだよ。

その変化は速いものなんだよ。

と言う事なんです。

 

いや、

「そんなことは知ってるよ」と皆さんは仰るでしょうが、

もし本当に知っていたら、

どんなことがあっても、それが当たり前なので

「動じないはず」なんですが、

皆さんはどうですか?

 

やっぱり、

何かあるたびに

心では「喜怒哀楽」を感じてしまい、

行動では「右往左往」してしまいますよね。

そこには「動じる」自分がいることでしょう。

 

   黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花

 

私は21歳でお寺の住職になったんです。

私は実家がお寺でしたが、

次男ですし、お寺を継ぐ気など、

まるでありませんでした。

ですから、

浄土真宗で基本的な経典である「正信偈」も

18歳までは読んだことがありませんでした。

 

自分は次男だし、お寺に興味はなし。

さあ、次はどんな夢を描いて、

どんなことをしていこうか。

そういうことばかり考えていました。

 

ところがある日、

住職である父が倒れたのです。

静脈瘤破裂です。

 

倒れて、二日後に往生しました。

父は48歳。

私は18歳でした。

 

それから、急遽、京都に勉強にいくことになり、

2年半の勉強の後に21歳で住職を承継しました。

 

思えば、18歳までは

この状態が

ずっと続くと思っていました。

 

それが、

ある日突然

崩れていく。

突然目の前に

大きな壁が現れてきたんです。

 

   黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花

 

一昨年の7月6日のことです。

私の家には男の子が生まれました。

初めての出産ということで、

連れ合いは出身地の埼玉県朝霞市での出産となりました。

名前は”なつき”と付けて、

なっちゃんと呼ぶことにしました。

 

出産当日は、

「逆子」ということが分かっていたので、

帝王切開での出産となりました。

無事に生まれてくれたのは良かったのですが、

当時はコロナや感染症予防の観点から、

まだまだ病院の規制が厳しい時でした。

そのため、

病院には面会制限があったんです。

 

「一日の面会時間は15分」

「一日の面会人数は2人までで、バラバラには来ない事」

 

さあ、こうなると、何が起こるかと言うと、

「一日2人までで、しかも一緒に」というのが条件ですから、

「何曜日は誰が面会に行くか」という

「面会枠の争奪戦」となっていきます。

 

時には、私と義理の母、

時には、義理のお父さんとお母さん、

といった具合です。

 

    にっこり          にっこり         にっこり       

 

さて、

私にはおばあちゃんがいました。

おばあちゃんにとってはひ孫となりますが、

私はおばあちゃんに聞いてみました。

「おばあちゃんも面会に行く?」

すると、

「いや、1ヶ月半でお寺に帰ってくるんだよね。

そうしたら、毎日顔を見られるのだから、それまで我慢するよ」

 

私はその時は了解しましたが、

その後、たまたま病院に車で行く用事があったので、

再びおばあちゃんを誘ってみました。

すると、今度は「じゃあ、それなら行こうかな」との返事です。

私は、おばあちゃんを連れて病院に行きました。

 

行くと、

おばあちゃんはひ孫を抱いて離そうとはしませんでした。

気が付けば、面会時間の15分全部を抱っこしたままで、

私は抱くことがありませんでした。

そして何度もこのように言うのです。

「なっちゃん、かわいいね~」

「なっちゃんは、ほんとにかわいいねぇ~」

「私は本当に幸せだよ」

 

ああ、おばあちゃんを連れて来て、本当に良かった。

あと少ししたら、お寺に帰ってくるのだから、

おばあちゃんは毎日、ひ孫の顔が見られるんだ。

だから、

私は安心をしていました。

 

     にっこり         にっこり         にっこり

 

ですが、その後、

おばあちゃんは自転車に乗っていて、

交通事故を起こしたことが原因となって

83歳で往生しました。

お寺になっちゃんが、

帰ってくる前の出来事でした。

 

私も、

きっとおばあちゃんも、

あの幸せが

これからもずっと

続いていくと

思っていました。

 

人生を真面目に歩んでいても

ある日突然、目の前に大きな壁が現れる。

この先、

どこに進むのか。

どこに行くのか。

まるで巨大迷路に入ったように、

わからなくなることがありますよね。

 

でも、

それが、

「我がいのち」なのです。

 

明日がくるのは「当たり前」

ではないのが私たちです。

それなのに、

「自分は大丈夫」と

思っているのも私たちです。

 

「当たり前」が

簡単に壊れていくことを

仏教では「無常」と言います。

 

そこで、

うろたえるのも

また、

私たちでした。

 

   黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花

 

親鸞聖人は

難思の弘誓は

難度海を度する大船

 

と仰いました。

難度海とは「渡ることが難しい荒海」ということで、

私たちの人生は

荒波激しい海のようだ

というのですね。

 

そこに阿弥陀如来が

救いの「大船」で苦悩の衆生を

救っていくというのです。

 

私たちは

今の幸せがずっと続くと思っています。

それが、いつかは崩れていくことを

知ってはいても、

 

それは今じゃない。

そのうちいつか来る、未来の話しでしょ。

 

と思っています。

 

でも、ある日突然、

その幸せが崩れていくのです。

 

でも、

どんなご縁に出会っても

仏様が常にご一緒とお聞かせ頂いています。

 

お正月に見たご来光のように

いつだって、みんなを平等に照らしてくれる。

その仏さまの慈しみの光の事を

決して忘れないでいてほしいと思います。

 

 

黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花


 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

また、「今度」でいいやと思ったら、

その「今度」は来なかった・・・・。

 

誰もが人生で

何回も経験していく事だと思います。

 

だから、

今日一日を

大切に

丁寧に生きたいですね。

 

それにしても、

おばあちゃん、

ひ孫を抱けて幸せでしたねニコニコ

 

  黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花      黄色い花

 

さて、法話会の後は、お寺の新年会です。

お弁当と、坊守さんをはじめとした婦人会の方が作った

黒豆、お漬物、なますなどを頂きました。

 

 

余興に、住職ご夫妻と有志のウクレレ演奏です。

 

 

会食後、参加者全員にもれなく当る抽選があり、

私は入浴剤を頂きました。

 

 

お寺は老若男女、

皆さんが集う場所であります。

今日の参加者は50名ほどでしたが、

年齢の最年少は9歳のお嬢さん、

最高齢は徒歩でお寺までやってきた90歳のご婦人でした。

 

皆様も、お近くのお寺に行ってみては如何でしょう。

「今度でいいや」と思わないほうがいいかも、ですよ。

あ、もちろん、

毎日がイベントではありませんけど・・・爆  笑

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今年、最初の日めくりカレンダーの言葉が目に留まり、

皆様とご一緒に味わって参りたいと思います。

 

年は取るものじゃなく、

頂くものなのよ。

 

年を取りたくないなぁーと、みんなで話していたときに、

仲良しのおばあちゃんが言ってくれた言葉です。

そういう考え方もあるのだなと思わされました。

 

        埼玉県 荒木ゆかり  パート・アルバイト

 

  🎍    🎍    🎍    🎍    🎍    🎍

 

法話を聞いていれば、毎回聞くのがこの言葉です。

それでも、法話を離れて久しぶりに、

しかも、新年の初日に目に留まったことで、

スーっと、心に染み入ってきました照れ

 

年とは、いのちのことです。

 

自分一人で頑張って生きている。

誰のお世話にもなっていないと思っていたら、

「自分は生かされていたのだ」と気づいた時。

 

いのちは自分で作りあげたもの。

いのちは自由にしていいと思っていたら、

「いのちは頂きものだ」と気づいた時。

 

いのちがあるのは当たり前。

何の不思議もないことだと思っていたら、

「いのちは賜ったものだ」と気づいた時。

 

そっか、

誰かが自分のために

いのちをプレゼントをしてくれたのですね。

 

そのことが「嬉しい」「有難う」と思えた時、

見える景色が変わってきます。

 

  🎍    🎍    🎍    🎍    🎍    🎍

 

年は自分で取ったんじゃない。

取ったら

「自分のもの」となってしまいます。

もし、往生した時には、

「失くした」となってしまいます。

 

でも、

頂いたとしたら

もとは「自分のものではなかったもの」ですよね。

だから、

もし、往生した時には、

「返した」となるでしょう。

「返した」は、

「(お浄土に)帰った」とも通じます。

 

そっか、

そうしたら、

いのちは

往生したら

返すもの、

帰ったもの、

となるのかもしれません。

 

  🎍    🎍    🎍    🎍    🎍    🎍     

 

年は頂いたもの、

賜ったものだと気づく時。

 

見えない他力に

感謝していくことでしょう。

 

今まで気が付かなかった、

大きく青い空に感動し、

自分を明るく照らす

まぶしい太陽の光に、

感謝していくことでしょう。

 

人生は「一切皆苦」

 

きっと、

今年も

思い通りには

決して

ならない人生になると思います。

 

でも、

「なったこと」を

どう受け止めるかで、

どう感じていくかで、

人生の味わいが変わることでしょう。

 

  🎍    🎍    🎍    🎍    🎍    🎍

 

今年も

仏様とご一緒の人生です。

大丈夫ですよ。

絶対に大丈夫。

 

私も

あなたも

ひとりぼっちではないのですから✨

 

お互いに

頂きものの

いのちですから、

「慈光照護」のもと

今年も感謝の中で

共に歩んで参りましょう✨

 

今年もよろしくお願い致しますお願い