我が家の今日の日めくりカレンダーが目に留まりました。

 

努力が

足りなかったんじゃない。

別の道もあるよと

神様が教えてくれただけ。

 

受験で志望校に受からなかったとき、

母がこう言ってくれました。

年齢を重ねるほど

この言葉の意味が分かり

ありがたさを実感します。

 

時が過ぎると

大したことではなかった、

違う道を選択して正解だったと

思うことは多々あります。

大切にしたい言葉です。

  東京都 匿名希望 会社員

 

 

さて、この言葉、

神様のままでも良し。

仏様に変えても良し。

 

人生のキャリア組は、

きっと、

うんうんと

頷いているかもしれません。

 

人生は

「人間万事塞翁が馬」

何がよくて、何が悪いなんてわかりません。

 

それに、

私たちの思う「良い」「悪い」なんて、

いつだって、

コロコロ変わるんですからね。

 

人生は、運ではなく縁。

ご縁に添って、生きていく。

 

  ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ

 

 

どうにもならなかったことは、

自分には必要なかったもの

 

これも日めくりカレンダーの言葉なのですが、

私はこの言葉が大好きです。

 

もう、随分前の話しなんですが、

全日本大学駅伝の優勝回数は史上最多。

その名門大学の陸上部のマネージャーに

「なりたかったけれど、叶わなかった」

と嘆く女子学生がいました。

 

私はこの言葉を伝えたんですが、

その学生は

「そうですか・・・」

とだけ言いました。

 

きっと、

「それは悲しかったね」と

言えば良かったのでしょう。

 

でも、この言葉。

いつかこの言葉の味わいが、

わかる日が来ればいいなと、

今でも思っています。

 

頑張っても、

頑張っても、

つかみ取れないことがある。

 

人生は、運ではなく縁。

ご縁に添って、生きていく。

 

  ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ  

 

 

道を間違えたって大丈夫!

どこ通ったって

着けばいいんだよ

 

これもまた、日めくりカレンダーの「子供さんの言葉」です。

 

なるほど、

人生にもドライブにも迷いは付きものですよね。

でも、着けば良し。

着いたところが、私の居場所。

 

人生は、運ではなく縁。

ご縁に添って、生きていく。

 

  ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ    ニコニコ

 

 

美しい景色を探すより

景色の中に美しいものを

見つけなさい

 

最後も、日めくりカレンダーの言葉です。

 

人生は迷いの連続です。

 

こうだったらいいな。

あれがほしいな。

あそこに行きたいな。

 

希望には

胸が膨らむ一方です。

 

でも、

着いた場所。

なったこと。

ともなったご縁。

 

美しいものを求めて

現実との乖離に迷うより、

そこでの景色の中で

美しいものを見つけていく。

 

それが

生きる

ということかも

しれません。

 

人生は、運ではなく縁。

ご縁に添って、生きていく。

 

今日のカレンダーの言葉。

必要な方に

ちゃんと

届きます様にお願い

 

 

今日の東京都心は晴れ☀️後雲☁、

午後は冷え込んできましたが、

改めて太陽晴れが照っている時の暖かさを感じますニコニコ

 

さて、今日は第4日曜日ですね。

東京都豊島区誓願寺の法話会に行ってきました。

 

 

 

お参りのあとは、法話を聞きましょう。

今日のご講師は、大坂の文殊四郎琢磨師です。

 

 

 

 

青字は文殊四郎師の言葉の要約です。

 

<不幸のままでは終わらんよ>

 

只今、ご紹介頂きました文珠四郎です。

ちなみに、文珠四郎が名字で、琢磨が名前です。

 

さて、

お寺の資料に

浄土真宗本願寺派勧学の中西智海さんの詩が載っていましたね。

 

 

      <人は去っても>

 

人は去っても、その人の微笑みは去らない。
人は去っても、その人の言葉は去らない。
人は去っても、その人のぬくもりは去らない。
人は去っても、拝む手の中に帰ってくる。

 

あなたの大切な方は、

この娑婆からは去っても、

微笑みは去らなかったでしょ?

言葉は去らなかったでしょ?

ぬくもりは去らなかったでしょ?

拝めばちゃんと手の中に帰ってきてたでしょ?

 

浄土真宗では、昔から使わなかった言葉があります。

「死んだ」とは言わない。

「往生した」

と言います。

 

世の中の方は

死んだら無になる、

死んだら何もなくなる。

そう思う方も多くいます。

 

でも、

死ぬんじゃないんだよ。

生まれて往くんだよ。(往生)

とお経の中で仏さまが教えてくれているんですよ。

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い    

 

仏さまは、常にこの私やあなたを願ってくれています。

では、どのように願ってくれているのでしょう。

ひと言でいうと、この言葉になります。

 

摂取不捨(せっしゅふしゃ)

 

仏の手の中におさめ取り、

決してあなたを捨てません。

 

これが、

浄土真宗のコアメッセージになります。

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い    

 

私はお寺が実家と言うわけではなく、私の父は学者でした。

学者は理論を大切にしますから、

父は宗教には興味がなく、私の家には仏壇もありませんでした。

 

私は大学で哲学を勉強しましたが、

哲学と宗教は同じ「思想」というジャンルですから、

哲学の他に宗教も学んでいました。

 

キリスト教、イスラム教、仏教の他に、

浄土真宗の歎異抄も勉強しましたが、

結局は

「阿弥陀様? いるかいないか、わからんやないか~」

という調子でした。

 

さて、私が就職する時代。

自殺者の数は、30000人を超えていました。

私は「希望を失った人に、”響く言葉”を伝えたい」

そういう思いで、大手の出版社に就職をしました。

 

ところが、大変な激務の中で、

会社の方針は

「売れる本を作れ」

 

ですが、私としては

「100万人に売れる本より、

ひとりの心に響く言葉が書いてある本を作りたい」

そう言う気持ちの方が強かったのです。

 

ですから、

段々、現実とかけ離れていき、

ついに私はうつ病になりました。

 

朝、出勤しようと思っても靴下が履けません。

そのため、「今日は休みます」と会社に連絡をしました。

翌日は、靴下は掃けましたが、全身のだるさでベットの上で動けなくなりました。

そのため、「今日も休ませて下さい」と会社に連絡をしました。

そして、

ついに「しばらく休ませて下さい」と休職をすることになりました。

 

こうなると、もうダメですね。

私の中では「希死念慮」

つまり「死にたいという自殺願望」が生まれてきたのです。

 

ああ、もうダメだ・・。

そんな時期のことです。

ふと、以前から知っていた歎異抄の

「摂取不捨」

という言葉が思い出されてきました。

「あなたが自分を見放しても、

あなたを見放さない仏さまがいるよ」

 

あ~・・・・。

それって、ええかも・・・・。

 

とにかく、

自殺は踏み留まり、

それから、しばらくして

私はお坊さんになろうと決めました。

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い    

 

お坊さんになろうと決めたとき、

学校時代の友人に「浄土真宗のお寺の子」がいましたから、

その人に連絡を取ると、「大阪の行信教校」にいくように勧められました。

行信教校とは、浄土真宗本願寺派のお坊さん学校です。

 

ですが、しばらくして私は大失敗をするのです。

当時、学校の寮に入りながらの生活でしたが、

「当番で法話をする」という決まりごとがありました。

お坊さんになれば「法話」は必ずしなければなりませんから、

浄土真宗のお坊さん学校らしい課題です。

 

ですが、その中で「法話」が大変苦手な人がいました。

きっと「人前で話す」のが、大の苦手だったのでしょう。

そのため、いつも困った顔をしていましたので、

私は彼の為にこういう案を考えたのです。

「法話が好きな俺がたくさん担当して話すから、

君はその分回数を少なく話せばいい」

 

さて、その時はお酒を頂きながらの席となりました。

私は得意げに、あの考えを彼に伝えたのです。

私は当然、「ありがとう」という言葉が返ってくると思っていました。

ところが、彼はこう言うのです。

「少なくしたって、話すんだろ。俺は話すこと自体が嫌なんだ」

なんと、私の案を一蹴したのです。

 

お酒の勢いもあって、短気な私はブちぎれました。

「お前なんか、学校やめちまえ!!」

 

お坊さんの学校に来ていて、法話が話せないとなんだ!

しかも、俺が親身になって考えてやったのに・・・。

 

さあ、

その翌日です。

なんと、彼は寮から失踪してしまいました。

うそやろ・・・・。

 

私は自分がやったこと。

私は自分が言ったこと。

すべてを後悔しました。

 

学校の中では、大きな額でこのような言葉が飾ってあります。

「学仏大慈心」

意味は

仏さまの大きな慈悲の心を学びましょう。

 

「慈悲」

と言います。

相手は楽しい時は、共に喜びましょう。

相手が悲しい時は、共に悲しみましょう。

そういう意味です。

 

とは言うものの、

私たちの「慈悲」は、

「親族ならそれが出来る」けど、

「赤の他人にはできない」という慈悲なんです。

でも、仏さまの「慈悲」は

「分け隔てなく」ですから、

誰でも、どんな人にも、同じ心で寄り添われるんです。

だから、「大」が慈悲について、「大慈悲」

大慈悲こそ、仏さまの代名詞なんです。

 

でも、

「仏さまの心」を学んでおきながら、

私は彼の悲しみに寄り添えなかったのです。

 

それから、私はまた「うつ病」を発症していました。

そして、2年間の自宅でのひきこもりが待っていました。

 

情けない・・・。

恥ずかしい・・・。

申し訳ない・・・。

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い    

 

2年間の引きこもり生活の時です。

またも、立ち直るのは

「摂取不捨」

の言葉でした。

 

ある時ふっと、

ああ、そうだ。

自分には仏様が付いていて下さったんだっけ。

 

実は

「自分を見放す」ことで

「責任逃れ」をしていた私に気づきました。

 

阿弥陀様は言います。

罪は罪で許されないけれど、

罪を引き受ける強さも持っていてね。

 

もしあなたが、

なさけない、はずかしい、申し訳ないと思うなら、

情けないなら、情けないままで歩んでいきなさい。

恥ずかしいなら、恥ずかしいままで歩んでいきなさい。

申し訳ないなら、申し訳ないままで歩んでいきなさい。

 

罪を消して、

なかったことにはしないけれど、

だからこそ、

罪を抱えた、ありのままのあなたを

決して、決して見捨てないからね。

 

そのように、

阿弥陀様が仰っていたのが

蘇ってきたのです。

 

あなたのままを救うと聞いて、

「じゃ、何をしてもいいんだよね」

とはならないのが

良心のある人だと思います。

 

であれば、

少しでも、情けなくないように生きていく。

少しでも、恥ずかしくないように生きていく。

 

そういう人生を

少しでも努力していくのも

必要ではないでしょうか。

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い    

 

私たちは

「意味の世界」

を生きていると思います。

 

同じ出来事でも、

それを「幸せ」と受け取るか。

それを「不幸」と受け取るか。

それはそれぞれの心が決めることです。

 

私たちが人生で出会うこととは、

老いに出会うこと。

病に出会うこと。

死に出会うこと。

 

もし、生まれるのが当たり前なら、

老、病、死も当たり前ですから、

ジタバタしなくていいんですよ。

必ず出会うこの出来事に、

「いい」も「悪い」もないんです。

当たり前に出会う事なんですから。

 

でも、

そこに「意味」を見出していく。

 

私の先輩は「癌」になったんですが、

「このたび、癌を頂戴いたしまして・・・」

と淡々と言いきったんです。

でも、そこには

「では、これからどう生きようか」と

「時間の尊さ」や「家族の有難み」を知っていくんです。

 

私は深刻な「うつ病」を2回経験しました。

時間が掛かりましたし、

「希死念慮」「絶望」も味わっていったのですが、

そこで出会わなければ、実はお坊さんにもなっていないし、

「絶望」があるから、「希望の尊さ」に気が付いていくのです。

 

過去の事実は変らないけれど、

過去の意味が変わっていったんです。

 

であれば

不幸があっても

不幸のままでは終わらんよ。

 

これに気づけることが

「人生の味わい」ではないでしょうか。

 

 

 

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い    

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

文殊四郎師は、

「挫折の経験から仏様の救いに出会っていかれた」とのことでしたが、

実は私も一緒で、苦しい体験から浄土真宗の教えに出会って、

今はあの日が嘘のように充実した落ち着いた生活を過ごしています。

 

過去の事実は変らないけれど

過去の意味は変えられる。

 

過去の意味は変わっていくんです。

 

仏法や仏さまに出会って、変わっていく様子

梯實圓和上はこのように言っています。

 

(画像お借りしています)

 

それはきっと、

皆様の人生の中で、

それぞれが

御経験されて

いるのではないでしょうか。

 

そして、

それはとっても大切な「気づき」だと思います。

 

今日は法話の後で、

誓願寺の古賀住職がこのように言っていました。

 

「今日の法話で、この言葉を思い出しました」

 

これからが

これまでを決める。

 

 

(画像お借りしています)

 

これまで色々なことがあったでしょうが、

これからの生き方が

過去のつらい体験を

意味ある尊く有難いご縁と転じていく。

それがこれからの自分の人生を

豊かにする機縁となっていく。

 

だから、

これからの生き方って

凄く大事なんです。

 

人生は

最後の最後まで

わかりません。

 

人生は

不幸のままでは終わらんよ。

 

 

今日もお育て頂きましたお願い

今日もようこそのお参りでしたニコニコ

 

今日の東京都心は暖かな1日となりましたが、

東京のソメイヨシノの桜開花🌸は、明日以降に持ち越しの様ですねニコニコ

 

今日もお参りのあとは、法話を聞きましょう。

 

 

今日のご講師は、神奈川県藤沢市恵光寺の稲葉空土師です。

 

 

 

 

青字は稲葉師の言葉の要約です。

 

 

<つくべき縁  はなるべき縁>

 

よく仏教では、

「縁起」

という言葉を使います。

 

詳しくは

「因縁生起」(いんねんしょうき)

と言いますが、

ひとつの物事が起こるには、

原因があって、結果がある。

でもそこにはたくさんの「縁」が絡むのです。

 

よく、「縁」に「ご」をつけて

「ご縁」

というのですが、

ご縁とは、

自分にとって都合の良い「嬉しいご縁」もありますが、

自分にとって都合の良くない「厳しいご縁」もあるんです。

それらをひっくるめて、

「ご縁」の中で私たちは生きているのです。

 

   🌸     🌸     🌸     🌸     🌸

 

Kさんという、私のお寺の総代の奥様のお話です。

奥様と旦那さんはとても仲が良く、

お二人で社交ダンスもしていましたし、

旦那さんをお浄土に見送ったあとも、

奥様はいつもニコニコとしていました。

 

ところが、ある日、脳梗塞になってしまいました。

一命は取り留めてリハビリも終りましたが、

また元の生活に戻るにあたり、

この際だからと、家を取り壊し、

次女さんとの「二世帯住宅」を建築することになりました。

 

住み慣れた我が家を取り壊し、基礎工事から始まっていきます。

奥様とすれば、

我が家は、歳老いた奥様が暮らしやすいようにバリアフリーに生まれ変わり、

なによりも次女夫婦との暮らしが始まるのです。

身も心も安心した生活が、目の前にあったのです。

 

ところが、

「こんな時間に」という電話がお寺に掛かってきます。

日中の電話であれば「何かな?」という感じですが、

朝早く、夜遅くにお寺に掛かってくる電話は大体想像がつきます。

「どうされました?」

「母が息を引き取りました・・・」

もう電話の向こうは涙声です。

 

お通夜は私がお勤めをし、

ご葬儀は私の父である住職が勤めました。

 

奥様は三人のお子さんに恵まれていたのですが、

奥様は以前、当時18歳の娘さんを亡くしています。

「10000人にひとり」の難病でした。

 

ご葬儀にいらしていたご長男さんが言いました。

「父の時は大丈夫だったんですけど、

母親の時はダメですね・・・」

 

そうです。

きっとこれが「母の愛」を

まっすぐに受け取った方の

正直な気持ちなんでしょうね。


私はご家族のリクエストで、

奥様が親しんだ「正信偈」という親鸞聖人の教えを読んだのですが、

総代さんご夫婦とは長いお付き合いですし、

あの奥様の素敵な笑顔、優しい言葉ともう出会えないと思うと

読経中に自然と涙が出て、コロナ禍でしたので

紺色のマスクの色が変わるほど泣けてきた事でした。

 

  悲しい    悲しい    悲しい    悲しい    悲しい    悲しい  

 

話しは変わりますが、

人生を80年と仮定するとして、

おおよそ、皆さんが寝ている時間はどれくらいだと思いますか?

 

睡眠の浅い人もいるでしょうが、

人生の平均で一日8時間寝るとします。

すると、

人生で、寝ている合計の時間は24年です。

 

では、お食事もしますよね。

それを計算していくと

人生で、食事をしている合計の時間は10年です。

 

では、おトイレも行きますよね。

それを計算していくと

人生で、おトイレを使う時間は5年です。

 

では、足し算です。

24+10+5=39年。

 

ということは、

80歳-39年=41年。

人生とは、

あとの「半分の時間」を使って、

仕事し、子育てをし、

いろんなことをしていくのです。

 

言い換えれば、

与えられた41年間分の時間の中で、何をしていきますか。

 

ここで皆さんに質問です。

自分のいのち

家族のいのち

それを除いて、

何を一番に大切にしていますか?

 

名誉

お金

健康

時間

平和

 

どれも大事にしていきたいですけれど、

実際にはどうでしょうね、

 

2023年に亡くなった、音楽家の坂本龍一さんは言いました。

 

芸術は長い

人生は短し

 

音楽でも映画でも、

芸術を作った人の作品は、

末永く時代を超えて愛されますが、

それに比べたら、

それを作った人の人生は、

とても短いということです。

 

   🍴  🚽  💰  ランニング  PC  札束   病院  救急車  鉛筆

 

私が21歳の時に、ひとつのお別れがありました。

彼は私の学校の後輩で、アメリカに行っていたのです。

ところが、アメリカの地で交通事故で亡くなりました。

20歳でした。

 

さきほどの奥様の娘さんは18歳で難病の為、

亡くなっています。

 

よく

「逆縁」

とも言いますが、

親御さんの辛さ、悲しみ、やるせなさ、

「何故?」という回答のない苦しみが

突然、ご縁となって降りかかってくるのです。

 

仏教では、そのことをこう教えています。

 

老少不定(ろうしょうふじょう)

 

先に往くのは

老いた者から順番とは決まっていない。

時によって、「亡くなるご縁」に出会っていけば、

年少の者が先に往くことだってあるのです。

それは「不定」

決まってないよ、と言うのです。

 

   👴     立ち上がる    👵    ニコニコ    看板持ち   立ち上がる  

 

私が生まれた時、

住職の父はこう思ったそうです。

 

「生まれたことは嬉しいが、

生まれたからには

かわいい我が子も

いつか

死んでいかねばならない。

そして、

いつ死ぬかは

誰もわからない」

 

私も二人の子供に恵まれましたが、

やっぱり同じことを思いました。

 

「生まれたことは嬉しいが、

生まれたからには

かわいい我が子も

いつか

死んでいかねばならない。

そして、

いつ死ぬかは

誰もわからない」

 

先ほど

人生の80年の話しをしましたが、

その80年

実はその時間は保証されていないんです。

 

その中で私たちは、

生かして頂いています。

 

親子

夫婦

親戚

友人

同僚

ご近所さん

 

ご縁が整って、

つくべき縁に恵まれます。

 

でも、

いつか

はなるる縁が整えば

その縁は離れていく日が

必ずやって来ます。

 

今日もお彼岸ですね。

この娑婆で離れた

大切なあの方

有縁のご先祖様

 

どうか、

お彼岸のご縁の中で

仏さまと出会って

「仏縁」

を結んでほしいと思います。

 

 

お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

生まれてからずっと

同じ方々と出会っていくわけではなく、

親しい方、近い方との

出会いと別れを繰り返して

私たちの人生は成り立っています。

 

私の好きな言葉がここにあります。

 

(真宗大谷派  東京真宗会館の参拝カード)

 

つくべき縁あればともない、

はなるべき縁あれば、はなるる

 

つくご縁が整ったときは、

共にその方と喜んで歩みましょう。

離れるご縁が整ったときは、

残念ですがその方と離れていきましょう。

 

思えば、

自分にとっての良縁は、いつまでも続いてほしいもの。

自分にとっても悪縁は、さっさと離れてほしいもの。

 

ですが、

「べき」と言っても、

「くっつきなさい」

「離れなさい」という

命令系ではなく、

「そのようなご縁が、いい悪いに関わらず整った」ということです。

 

仏教では

「善い」「悪い」をわけずに

いかなるものも

「ご縁」として、

自分の人生と「共にあるもの」

と考えます。

 

この娑婆の縁尽きる、辛い別れもあるけれど、

阿弥陀様が「お浄土」と言う場所を作ってくれたおかげで、

私たちは「この娑婆の縁」尽きても、

倶会一処

「また再会できる場所」

を恵まれました。

 

でも、

お浄土に往くまでは、

「お彼岸」

という

 

真東から登った太陽が

真西に沈むこの季節の

「仏縁」

を見過ごすことなく、

 

西方浄土に向かって

合掌をしていきながら、

亡き方の事を

ずっとずっと

想っていきたいものです。

 

 

今日もお育て頂きましたニコニコ

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

今日の東京都心は雲くもりですが、

一時期の寒さも和らいだ1日でした照れ

 

いつものように、

お参りのあとは法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、神奈川県藤沢市恵光寺の稲葉空土師です。

 

 

 

 

青字は稲葉師の言葉の要約です。

 

 

<今日からお彼岸ですね>

 

私の祖母のお話です。

祖母と言っても、私のお母さんのお母さんということです。

 

祖母は、野球が好きなおばあちゃんです。

関西人ですが、なんと大の巨人ファンなんです。

そのため、私が子供の頃は、

東京ドームに連れて行ってくれたこともありました。

 

やっぱり関西の方なのでしょうか。

物事をはっきりといいますし、

料理などは、ありきたりのものじゃなくて、

自分で研究して料理を作っていくなど、

とにかく、何でも積極的なおばあちゃんです。

 

そのおばあちゃん。

阪神淡路大震災を経験します。

その為、

自分の息子のいる東京に引っ越してきました。

ここなら私の母である「自分の娘」の住む藤沢市にも近いし、

関東でやれやれと思いきや、

今度は東日本大震災です。

結局は、

住居を転々とするのです。

 

結構、苦労もしたのですが、

年齢には叶いません。

徐々に身体は弱っていき、

救急搬送をしてもらったり、

施設にお世話になることになりました。

 

そして、

病院での生活になっていきます。

私も自分の子供を連れて、

つまり「おばあちゃんのひ孫」をつれて、

病院に面会にいくこともありました。

 

そうした中で、

おばあちゃんはこういうのです。

 

いろんなとこ、

点々としてきたなあ・・・・

でもな、

これから行くところは

「お浄土」って決まってるんや

 

そして、

去年、お浄土に往生したことでありました。   

 

  👵     👵     👵     👵     👵    👵

 

臨終勤行は、私がしました。

綺麗にお化粧もしてもらいました。

東京の火葬場は、どこも1週間待ちということでしたが、

神奈川県逗子の火葬場はすぐに出来たので、

予定の日にちで火葬をすることができました。

 

火葬の日、

おばあちゃんの息子である、私の叔父さんがこう言ってくれました。

 

「お母さんは旅行が好きだったけど、

晩年は好きなところには行けなかった。

施設に入ってからは、

ほとんど外には出なかったから・・・。

でも、そう言えば、

海に行きたいって言ってたこともあったから、

今日はこのあと、葉山マリーナに寄ってみようか」

 

そのあと、

おばあちゃんと共に、葉山マリーナに寄ったんです。

おばあちゃんは

ようやく

外に出て

海に来ることが

できました。

 

そのあと、四十九日前のことです。

私が家に帰ると、

「ドン!」「ドン!」と大きな音が聞こえます。

なんだろうかと、しばらく耳をすませていると、

「ドン!」のあとに「パラパラパラ」という小さな音が付いてきます。

「ああ、そうか・・・」

その日は三浦海岸の「花火の日」だったんですね。

 

しばらく、

「ドン!」と遠くにきれいに光る花火と、

「パラパラパラ」という小さな音で静寂がやってきます。

 

私はおばあちゃんを思い浮かべながら、こう思ったのです。

本当に

諸行無常なんだなぁ・・。

ものごとは、

いつか移り変わる。

あの明るく華やかなことも

いつか終わるんだな・・。

 

先立つあの方は

今、どうされていると思いますか。

私たちは、今、どうしたらいいと思われますか。

 

 🎆  🎆  🎆  🎆  🎆  🎆  🎆  🎆  🎆  🎆  🎆

 

私はお寺の息子ですが、

大学に入ってからはアメリカンフットボール部に入りました。

当時、その大学は強豪校として知られ、部員は150人いました。

そんな中で、私は一年の時に「得度」をすることになりました。

 

私が得度、つまりお坊さんの資格を取るということは、

あっという間に部の中に広まりました。

 「おい、滝に打たれるのか?」

 「お前、煩悩が無くなるのか?」

 「坊主丸儲けになるのか、いいな!」

もう、周囲は言いたい放題です。

 

あのですね。

浄土真宗では勉強はありますが、

滝には打たれません。

得度まで何年もかかりません。

ですから、

「得度」をして部に戻ると、

「早かったね」などと言われたものです。

 

さて、

アメフト部の夏合宿は、長野県の黒姫高原です。

黒姫高原には、昔の争いの爪痕があって、

戦没者の名残があるのです。

 

そこで、

地元の方と相談をしたアメフト部の監督は、

なんと得度をしたての私に、

現地に行って「追善供養」をしてくるようにと指示を出したのです。

 

まあ、合宿中に怪我や事故があっても嫌ですから、

お経をあげるのはいいのですが、

なんで「オレ?」という感じです。

 

しかし、

運動部において、

監督命令は「絶対的なもの」なのです。

私はすぐに、

お寺の住職である父に相談をしました。

「そうか、それじゃ仕方ないな。

でも、くれぐれも現地では、阿弥陀様の安置は忘れずにな」

 

まあ、そんなことで、当日を迎えました。

けもの道をどんどんと進んでいきます。

「行け」と言っておきながら、

「危ないから」と監督は来ることはありません。

 

阿弥陀様を安置しているところに、

ガサガサ、ガサガサという音がします。

「ん! けものか!」

「まさか、落ち武者か!」

 

顔を出したのは、

アメフト部のキャプテンでした。

 

   🏈     🏈    🏈    🏈    🏈    🏈

 

アメフト部の監督が言ったのは、

「追善供養をしてこい」ということでした。

 

追善供養

 

つまり、

自分が功徳を積む、善いことをする。

その「善」を

今は亡き故人様に差し向ける(追)ことで、

少しでも良い世界に行ってもらいたいと願う。

故人の死後の平安を願い、

冥福を祈ること(供養)なんですね。

 

だから、

お坊さんが読経する。

有縁の方が集まる。

そのことは、

残された者の使命、役割であると思われています。

 

それはそれで尊く、

素晴らしいことでもあります。

 

ですが、

浄土真宗では

「追善供養」は行いません。

行うのは

「追悼法要」です。

 

「悼」は、

人の死を悲しみ、その死を惜しむ気持ち、

亡き方を偲ぶ、思い起こすということです。

「法要」とは、

読経をしたり、

香を焚いたり、

花を添えたりしながら、

先立った大切な方を「偲ぶこと」です。

 

でも、

本当の意味を考えてみますと、

お釈迦様は亡くなった方の為に

お経を説いていませんので、

お経を故人様にあげることではありません。

だって、

既に仏様になった方に

お経はおかしいでしょう。

 

むしろ、

お経はこの娑婆に残った私たちが

「自分の生き方」を

確認するために

聞いていきます。

 

そして、

有縁の者が参集し、

故人を偲び、

お経を我が事として聞き、

僧侶に仏様のことを聞かせてもらう(説法、聴聞)。

そのようなために「法要」を行っていくのです。

 

さあ、

今日からお彼岸が始まりました。

普段は忙しく動き回る私たちですが、

このお彼岸の期間は、

手を合わせ、

香を焚き、

お経やお坊さんの話しに耳を傾け、

心静かに故人様、仏さまに

向き合ってほしいと思う事であります。

 

 

お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

今日からお彼岸が始まりました。

私の職場は

「お彼岸・お盆」はお休みと言う職場なので爆  笑

今日はそれならばと、

いつもの「法話会」で聴聞させて頂いた次第です。

 

お経のお話ですが、

以前もご紹介しましたが、

 

 

こういうことだと、私は聞いていますし、

仏教の成り立ちを教えて頂くと、

お経とは、

「亡くなった人へのお経」ではなく

「私のためのお経」であることがわかります。

 

宗派によって、

「追善供養」か「追悼法要」かは、

別れるのかもしれません。

 

でも、

大切なことは、

先に往かれた「大切なあの方」

そして、

「会ったこともないけれど、

私の命をつないでくれた、大切なご先祖様」

そういう方々に

想いを寄せていく。

 

そのようなことがお彼岸なら

やっぱり

花を飾り

香を焚き

手を合わせていくのは

人としても

自然なことなのかもしれません。

 

ご先祖様だって、

10代遡れば1000人、

20代遡れば100万人、」

30代遡れば10億人のご先祖様がいた、

といいますからね。

その中のたった一人でもいなければ、

私と言う人間は、今、この娑婆にはいなかった事実。

凄いご縁の中で生かされているのが、この私です。

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたニコニコ

 

今日も東京都心は晴れ晴れで暖かな日となりました。

でも、日陰ではちょっと寒いかなって感じで、春までもう一息です。

 

今日は第三日曜日ですね。

東京都港区安楽寺の法話会に行ってきましたニコニコ

 

 

お参りのあとは、法話を聞きましょう。

今日のご講師は、安楽寺住職の藤澤克己師です。

 

 

青字は藤澤師の言葉の要約です。

 

<いそぐべからず>

 

 

人の一生は

重荷を負ひて

遠き道を

ゆくが如し

いそぐべからず

 (徳川家康)

 

 

毎月、安楽寺の掲示板の言葉を元にお話をしていますが、

今月は徳川家康の言葉です。

 

この言葉は、家康の遺言のような言葉で、

家康が人生を振り返って、

まさに実直に感じたことを

言葉に表したのだと思います。

 

家康と言えば、

仏教をよく知っていたようなのですが、

争いの中で

「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」

と書きしるした旗を翻して戦っていたことでも有名です。

 

厭離穢土ですが、

穢土とはこの世の事。

厭離とは、離れましょうということですから、

苦悩に満ちた現世を厭い離れましょう

と言う事です。

 

また、欣求浄土ですが、

浄土とは清らかな仏の国の事。

欣求とは心から願いましょうということですから、

清らかな仏の国である極楽浄土に生まれることを心から願いましょう

という事です。

 

つまり、

厭離穢土欣求浄土とは、

苦悩に満ちた現世を厭い離れ、

清らかな仏の国である極楽浄土に生まれることを心から願いましょうという、

仏教の中でも「自力修行」ではなく、「浄土教」の根本思想なんですが、

家康の好きな言葉、大切にしていた言葉なんですね。

 

  🏁    🏁    🏁    🏁    🏁    🏁

 

人の一生は

重荷を負ひて

 

この言葉を考えると、

まさにそうだなと思います。

 

家族のことを思えば、苦にならないはずなのに、

時には重荷になることがあります。

 

仕事のことを想えば、好きで選んで始めたはずなのに、

時には責任や試練が重くのしかかることがあります。

 

身の回りの社会に目を転じれば、

近所付き合い、会社の付き合い、経済の負担、借金に至るまで、

様々なストレスが重くのしかかります。

 

人の苦労は、それぞれが必ずあるのですが、

重荷を背負っているときは本当に人は孤独なものです。

そしてこう思うのです。

「なんで自分だけ不幸なのか。

あの人は楽しそうで本当にうらやましい」

 

でも、

2500年以上前に

人の重荷を見抜いていた方がいました。

それがお釈迦様で、

人の人生は

一切皆苦だと言うのです。

 

一切皆苦といっても、

「世の中の全部が苦しみ」という意味ではなく、

苦しみとは「思うようにはならない」ということで、

「思うようにならないのが人生」と、

世の中や人生の見方を示してくれました。

 

  🏁    🏁    🏁    🏁    🏁    🏁


さて、

家康の言葉に戻りましょう。

 

遠き道を

いくが如し

いそぐべからず

 

と言っています。

 

いそぐべからず、とは言っていますが、

「重荷を下ろせ」とは言ってないんです。

重荷を下ろせれば、もちろん楽になるのですが、

苦しみもまた、人を育てると言う事なんです。

 

今は苦しい事でも、

苦しみが、のちのちに

その人を助けていくことがあるんです。

 

では、

いい事ばかりの人生ではどうなるでしょう。

一見、夢の人生、理想的な人生と思うのですが、

いいことばかりでは

「有頂天」と言いますが、

「もっともっと」

「やりたいことが全て叶う」

ではどうでしょう?

 

そうしたら、

自分の振る舞いと言うのは際限なく乱れ、

動物のように本能で生きるしかなくなり、

他人に構うことなく生きていく。

「もはや、人とは呼べない人格の人生」

となってしまうでしょう。

 

やっぱり、

人が人であるには、

「苦」にお育て頂くということが

重要のような気がするのです。

 

そのためには、

あくせくと結果を追い求め過ぎず、

いそぐべからず。

 

いそぐべからずというのは、

丁寧に生きていこうということ。

 

そうしたら、

安心した生き方が出来るから、ということ。

 

それが人の一生じゃないのかな、

ということです。

 

そういうことを

家康が教えてくれたのではないかと

思えるのです。

 

いろんなことがあっても大丈夫

最後の最後は

阿弥陀様の手の中に

あなたの人生はあります。

 

いそぐべからず。

 

安心して生きていって下さいね。

 

お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

徳川家康の言葉では、

この言葉が私は印象に残っています。

 

(画像お借りしています)

 

不自由を

常と思えば

不足なし

 

 

思えば、

あれがほしい。

これがほしい。

あれが足りない。

これが足りない。

だから、不自由なんだと。

だから、不満足なんだと。

だから、「苦」なんだと。

 

でも、

最初からなくて、

これからもない毎日だったらどうですか?

最初から不自由で思い通りにならなくて、

これからも不自由で思い通りにならない毎日だったらどうですか?

 

毎日だったら、

それが当たり前になって、

苦は苦のままで

苦が苦でなくなるんですよ。

まさに不足なし。

 

これもまた、

仏教の教えることだと

私は思うのです。

 

凄いな

家康さん爆  笑

 

今日もお寺の同朋と、

法話会後は喫茶店☕🍰で親睦会です照れ

 

いそぐべからず

 

遠まわりした者のみが

人生のいろいろな景色を

見ることが出来るのですよね。

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は晴天晴れ

午前中はちょっと風が吹いて肌寒かったですが、

午後は風も穏やかになり、暖かな一日でした。

 

今日は第二土曜日です。

東京都調布市西照寺にお参りに行ってきましたニコニコ

大きなお寺と違って、小さなお寺こそ、絶妙の居心地の良さです。

 

 

親鸞聖人がお出迎えです。

 

 

お参りの後は、法話を聞きましょう。

今日の御講師は、東京都八王子市延立寺の松本智量師です。

 

 

 

 

青字は松本師の言葉の要約です。

 

 

<君とふたり歩くだけ

      君のとなり歩くから>

 

朝のテレビで、「ばけばけ」というドラマが去年から始まっています。

あと2週間くらいで終ってしまうのですが、

主人公は小泉八雲さんとその奥様の生き様が描かれています。

ドラマゆえに「着色した演出」も当然あるのですが、

人の人生には「順風満帆」などはないんだよ。

つくづくそう思うのです。

 

さて、

このドラマにはテーマ曲があります。

作詞・作曲はハンバート ハンバートというグループですが、

この曲の歌詞が、実に「暗い」のです。

 

朝から、こんなどんよりと暗い歌詞を歌ったら、

さぞかし、NHKには「抗議の電話が殺到したか」と思いきや、

「心が癒された」

「涙が出た」

と絶賛になったのです。

そして、

ついには紅白歌合戦にも出ることになったんです。

 

じゃ、

それってどんな歌詞なんでしょう。

 

実は、私も僧侶になって随分と経ちますが、

こんなに

「仏教の浄土真宗」の気持ちを歌った歌はないだろう。

そんな想いまでしているんです。

 

では、皆様とご一緒に味わっていきましょう。

 

ハンバート ハンバート - 笑ったり転んだり / THE FIRST TAKE

 

 

「笑ったり転んだり」

 

毎日難儀なことばかり 

泣き疲れ眠るだけ 

そんなじゃダメだと怒ったり 

これでもいいかと思ったり

 

風が吹けば消えそうで 

おちおち夢も見られない

 

何があるのか どこに行くのか

わからぬまま家を出て

帰る場所などとうに忘れた

君とふたり歩くだけ

 

日に日に世界が悪くなる

気のせいかそうじゃない 

そんなじゃダメだと焦ったり 

生活しなきゃと坐ったり

 

夕日がとても綺麗だね 

野垂れ死ぬかもしれないね 

 

何があるのか どこに行くのか 

わからぬまま家を出て

帰る場所などとうに忘れた

君とふたり歩くだけ

 

黄昏の街 西向きの部屋 

壊さぬよう戸を閉めて

落ち込まないで 諦めないで

君のとなり歩くから

今夜も散歩しましょうか 

 

  🎵    🎵    🎵    🎵    🎵    🎵

 

 

毎日難儀なことばかり 

 

まさに私たちの日常ってそうじゃないですか?

 

泣き疲れ眠るだけ 

そんなじゃダメだと怒ったり 

これでもいいかと思ったり

 

ダメだと思ってみたり、

まあ、こんなもんかと諦めたり・・・。

 

風が吹けば消えそうで 

おちおち夢も見られない

 

この大きな日本、大きな世界からみたら

この私の悩み、苦しみはちっぽけなもの。

風が吹けば飛んで行ってしまうかも・・・。

でも、世界から見ればちっぽけなことでも

私にとっては、大きなことなんです。

そんなことに怯える私です。

 

何があるのか どこに行くのか

わからぬまま家を出て

帰る場所などとうに忘れた

 

日々迷いの中の私です。

どこに行けばいいのでしょう。

どこに帰ってホッとできるのかさえ分かりません。

でも、

 

君とふたり歩くだけ

 

日に日に世界が悪くなる

気のせいかそうじゃない 

 

給与は上がらず、解雇に怯え、

ハラスメントにだって必死に耐えています。

憧れのあの子にとっては、私は蚊帳の外です。

やっぱり、何度考えても気のせいではありません。

 

そんなじゃダメだと焦ったり 

生活しなきゃと坐ったり

 

それじゃ、ダメと思っても、

やっぱり、生きていかなければならないんです。

 

夕日がとても綺麗だね 

野垂れ死ぬかもしれないね 

 

気が付けば夕日。

何もないまま、今日も終るのでしょうか。

私は野垂れ死ぬしかないのでしょうか。

 

何があるのか どこに行くのか 

わからぬまま家を出て

帰る場所などとうに忘れた

 

君とふたり歩くだけ

 

黄昏の街 西向きの部屋 

壊さぬよう戸を閉めて

落ち込まないで 諦めないで

 

西向きの部屋で

古くて緩くなった戸をしめていく。

でも、

そんな私でも

落ち込むことなく

諦めることなく

歩いて行っていいんだと思えてきた。

 

君のとなり歩くから

 

今夜も散歩しましょうか。

 

今日も一日が終ったけれど、

散歩をしていこうと思う。

散歩をするとき、私は自由だから。

 

  🎵    🎵    🎵    🎵    🎵    🎵  

 

人生は、

一切皆苦

思うようにはならないものです。

 

笑うこともあるけれど、

私は何回転んだらいいんだろう。

 

「本当にこの世はうらめしい。

だけど、本当はこの世はすばらしい」

 

そういうとドラマのキャッチコピーが、

この歌詞全体に込められているんですね。

 

さて、

この歌。

私たちは大変な日々を過ごしているのですが、

 

君とふたり歩くだけ

君のとなり歩くから

 

そういう方がいるってことなんです。

 

西向きのお部屋

 

って言うんですが、

西とは「極楽浄土」の方向なんですよね。

 

散歩

 

って言うんですが、

散歩をするときって、

明確な場所もいらない。

特定の時間もいらない。

どこにいってもいい。

いついってもいい。

どれくらい歩いてもいい。

 

散歩をするときは

誉められないけど、

けなされもしない。

自由な私がいるんです。

 

仏教で南無阿弥陀仏って言いますよね。

南無阿弥陀仏とか、

阿弥陀様っていう時に、

それらには別名があるんです。

 

それは

大丈夫

ということです。

 

大丈夫と言えば、

あなたはそれで大丈夫?

という意味の大丈夫もあるけれど、

阿弥陀様の大丈夫は

「あなたはあなたで大丈夫」

という意味の大丈夫です。

 

その「大丈夫な阿弥陀様」が

私や

あなたに

こう言ってくれているのです。

 

君とふたり歩くだけ

君のとなり歩くから

 

だから、

私も

あなたも

大丈夫

なんですね。

 

お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

最近の法話を聞いていますと、

浄土真宗のお坊さんの多くが

この歌の歌詞に共感し、お話をして下さいます。

 

確かに

人生は思うようになりません。

「なんで自分だけこうなんだ」と

誰もが思うことですよね。

 

その中で、

いや、

気が付いていないかもしれないけれど、

共に歩む方がいるんだよ。

 

そういうことを

思い出させて

気づかせてくれるのであれば、

この歌も「有難いなあ」と思うのです。

 

さて、

法話会のあとは、

駅前のサイゼリアで

ご門徒さんと恒例の懇親会🍺🍕🍗🍷です。

 

 

最高齢は90歳、最年少は私ですが(笑)、

皆さんが元気なのは

「ともに歩く方がいるから」

なんです。

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

 

今日の東京都心は晴れ☀️です😊

来週は徐々に温かくなってくるようで、

まさに、暑さ寒さも彼岸まで。

これだけ世界や日本の気候が変わってきていても、

この言葉だけはまだまだ「使えます」よ爆  笑

 

さて、

お参りのあとは法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、広島県広島市永光寺の永光聖法師です。

 

 

 

 

青字は永光師の言葉の要約です。

 

 

<不要なことが心を育てる>

 

これはラジオから流れて来た言葉なんですが、

「一年が早く感じるのは何故でしょう?」というもの。

確かに、この間お正月だと思っていたら、

もう3月の中旬でもうすぐ桜が咲くんですよね。

 

それは、どうしてかと言うと、

「年をとると感動することがなくなるから」

だそうです。

 

確かに、

目にするもの、

耳にするもの、

「ああ、それはこうなってるから」

「ああ、それはこんなもの」

そうやって、

物事の知識が増えて、

世の中の仕組みも知って、

酸いも甘いも経験して、

感動がなくなれば、

楽しさも減ります。

嬉しさも減ります。

喜びも減ります。

 

その結果、

淡々と一日、一日が過ぎていくんです。

その結果が「一年が早いね」と感じると言う「一説」です。

 

確かに、子供の頃は、

河原の石ころひとつだって、

輝いて見えたもんですよね。

 

  🎍    🎄    🎍    🎄    🎍    🎄

 

先日、81歳になる私のお寺の、男性のご門徒さんのお話です。

何でも、その男性はテレビの「笑点」を見ていて、

「18歳と81歳のちがい」という話をやってたそうです。

笑点ですから、中身はもちろん、「お笑いやジョーク」ということです。

 

例えば、

偏差値を気にするのが18歳。

血糖値を気にするのが81歳。

 

心がもろいのが18歳。

骨がもろいのが81歳。

 

自分探しの旅に出るのが18歳。

街に出て、自分の家がわからなくなるのが81歳。

 

まだ、何も知らないのが18歳。

もう、何も覚えていないのが81歳。

 

私は今43歳ですが、

私が81歳なら「バカにするな~」と思ってしまいそうですが、

それを、その男性はにこにこしながら教えてくれるんです。

 

そして、

私が驚くようなことを言いました。

「まだわしゃ、何も知らんのよ~」

 

「知らんこと」ばかりだったら

いろいろ知っていけて

人生は楽しいんじゃ!

忘れたら、また聞きゃいい。

この年で何も怖いことはない。

 

あのですね。

私なんて、いつも知ったかぶり。

ホントは知らん事ばかりでも、

知ってますよと、しらーっとしてしまいます。

 

今からだって、

いろんなことを

気づけていけて、

感動出来たら、

きっと嬉しいでしょうね。

 

  👴    👴    👴    👴    👴    👴

 

皆さんは子供の頃、道草をしましたか?

お母さんに

「学校が終ったら、まっすぐに帰ってくるのよ」

なんて何て言われても、

ちょっと川に寄ってみたり、神社に寄ってみたりね。

 

そうやって、

遠まわりすると、

遠まわりした人しか、

知らない世界があるでしょう。

遠まわりした人しか、

気づけない世界があるでしょう。

 

いろんな野草に出会ったり、咲いている花だって違う。

木だって、大きな木、小さな木。

石だって、河原と山の石は違うでしょう。

 

私たちは、

自分に関係ない草、

自分にとって邪魔な草を「雑草」と呼び捨てます。

でも、「雑草」と言う名前の草はないんですよ。

草だって、ちゃんとみんな名前がある。

 

自分の人生に大きな邪魔をしない草のはずなのに、

家に生えれば、「邪魔扱い」で引っこ抜くじゃないですか。

外に生えれば、「無関心」で知らんぷりですね。

 

これ、

「草」を「人」に変えてみましょうか。

自分にとって、

邪魔な人、うっとおしい人、憎たらしい人。

「排除」の対象ですよね。

自分にとって、

町を歩く人はどうですか。

「無関心」の対象ですよね。

 

これ、

「草」「人」を「出来事」に変えてみましょうか。

自分にとって、

うっとおしいこと、

悲しいこと。

悔しいこと。

切ないこと。

思い出したくないこと。

 

「排除」したいですよね。

「関心を寄せずに、なかったこと」にしたいでしょう。

 

うん、うん。

わかります。

でも・・・。

 

  悲しい    悲しい    悲しい    悲しい    悲しい    悲しい 

 

京都に浄土真宗佛光寺派の佛光寺というお寺がありますが、

そこでは「八行標語」という、

大きな「お寺の掲示板」があります。

そこで、このような標語が出たことがありました。

 

落ちる

葉が

土を肥やす

ように

不要に思える

ことも

心を

育てていく

 

自分の人生を振り返って、

「なんであの時」と思う瞬間もあったでしょう。

「どうしてあの時」と思う瞬間もあったでしょう。

悔しい

切ない

悲しい

やるせない

 

そういう事って、

振り返ったら、

「ああ、あの時のあれがあったから、

今はこうしていられる」ということがあるんです。

「あの時のあれが、私に大切なことを教えてくれた」

「あの時のあの出来事が・・・・」

 

そういう事ってあるのです。

 

それは、

「私にはないよ」

なんて思う方もいるでしょう。

 

でも、それは

「気づいていないだけ」

なのかもしれません。

 

そうなると、

一見、

不要なことだと思っても

人生には

不要な事

無駄なことなど

ひとつもなく、

すべては

私のこころを育てる

貴重な「ご縁」であった。

 

そう観ていくのが

もしかしたら

よいのかもしれません。

 

 

   🍃    🍃    🍃    🍃    🍃    🍃

 

最後に、

96歳のおばあちゃんと、

70歳の息子さんのお話です。

 

👵おばあちゃん

「私は、美味しいものを食べたいとか、旅行に行きたいとはもう思わないよ。

でも、叶えたい願いがひとつだけあるの」

👨息子さん

「ほう、ひとつだけの願いとはなに?」

👵

「ボケないこと。ボケたらみんなに迷惑が掛かるから」

👨

「なぁ~に。ボケる前から、もう今すでに迷惑をかけてるじゃない」

👵

「・・・・・・」

👨

「あのさ、人はどの人も生まれてから、みんなに迷惑をかけてきた。

それでも、お互い様だから、みんなやってこれたのさ。

結局、人は迷惑をかけながら生きていくんだから、

そりゃ、今さら心配しなくていいんじゃ」

 

👨

「それより、お母さんは自分が死んだ後のことは心配してあるんかね?」

👵

「お浄土に行く準備の事かね?」

👨

「そうじゃ、行くなら手土産がないといけんじゃろ」

👵

「手ぶらじゃ行けんか?」

👨

「初めて行くところに、手ぶらで行ってどうする?」

👵

「それもそうじゃな。で、何がいいかな」

👨

「手土産を持って行くのなら、そこ(お浄土)にないものじゃな」

👵

「お浄土にないものは何かね?」

👨

「そりゃ、「陰」じゃろ」

👵

「陰?」

👨

「そうじゃ。

おかあさんは戦時中は旦那が戦死したよね。

以後、女手ひとつで子どもたちの面倒を見てきた。

来る日も来る日も働いて、

時には台所でひとり泣いていたお母さんを

子供たちはちゃんと見ていたんじゃ。

苦労しているところを絶対に人には見せずに、

愚痴も聞いたことがなかった。

今は笑っていたって、

どんな人も

人の人生には陰があるんじゃ。

 

お浄土と言うところは、

「無量光明土」

と言うんだと

よくお母さんは俺たちに教えてくれたね。

 

お浄土は

とてつもなく

「無量」の光に

溢れているところだと。

 

だから、

おかあさんのその陰は

お浄土に行くとすっかり消えていくんだよね」

 

「よかったのう・・・」

 

  👵     👨     👵     👨    👵    👨

 

人生には苦労が尽きません。

明るく笑っているあの人だって、

人が絶句するような過去があるのです。

 

それでも、

この娑婆では

それが「土を肥やす」ように

心を育てていく「貴重なご縁」になっていく。

 

そして、

この娑婆の縁が尽きる時、

今度は阿弥陀如来のお浄土で、

光に包まれて「陰」が消えていくのです。

 

嬉しいですね。

 

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

お寺の掲示板でこのようなものがありましたね。

 

影(陰)は

光があたらないとできないのですが、

影(陰)ができているのは、

既に光が当たっているという証拠なんですよね。

 

その光の事を

仏教では

仏様

阿弥陀如来

というのです。

 

そして、

娑婆であった陰は

お浄土では無量の光に照らされて消えていく。

 

私たちには、

その世界が待っています。

 

今日もお育て頂きましたニコニコ

今日もようこそのお参りでした。

 

我が家の今日の日めくりカレンダーの言葉が心にすっと入ってきました照れ

そこで、今日は皆さまとシェアしたいと思いますウインク

 

 

桜だって

350日間は下積みだよ

 

 

頑張ってもなかなか成果が出ない、

評価されないことを愚痴ったときに妻に言われた。

「桜だって、

花が咲いている2週間ほどは

みんなに注目されるけど、

それ以外は無視されているんだから」と。

 

                東京都 清水和弘 無職

 

🌸  🌸  🌸  🌸  🌸  🌸  🌸  🌸  🌸  🌸  🌸

 

桜の生き様を見れば、なるほどの一言。

本当は、桜は人に見せるための命ではない。

本当は、桜の花は人に見せるために咲いてるんじゃない。

でも、その花の美しさを人は見て、感動しますよね。

 

人の人生にも、

当てはまるのではないでしょうか。

 

頑張ってるのに何故?、

ということは人生では山ほどあるのだけれど、

芽が出ないときほど、

根を張っていきましょうか。

 

人生で、

花は必ず咲くから

大丈夫ですよ。

 

ちなみに、

お釈迦様が言うには・・・ですよ、

阿弥陀様と言う仏さまが如来となるための下積みの時間は

「五劫」

なのだそうです。

 

五劫の「劫」というのは時間の単位です。

一劫とは、

大きな岩が天女の羽衣で100年に1回こすられ、

その岩が全部無くなるまでの時間だそうです。

 

五劫はその五倍。

 

つまり、

阿弥陀様が私たち衆生を救う方法を考えるのに、

それほどまでにとてつもなく長い時間(下積み)が

かかったということです。

 

それを

「五劫思惟(ごこうしゆい)」

と言います。

 

阿弥陀様の「五劫」に比べたら、

もしかしたら、人の下積みは大した時間ではないのかも・・・爆  笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の東京都心は晴天晴れでしたが、

風が強くて外を歩く時はちょっと🤏寒い感じでした。

 

今日もお参りの後は、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日の御講師は、東京都世田谷区正法寺の白川憲仁師です。

 

 

 

 

青字は白川師の言葉の要約です。

 

 

<いつでも一緒>

 

私の息子は小学生なのですが、

ある時、音読の宿題が出ました。

今の小学校は児童全員に「iPad 」を支給して、

自分が音読をしている動画を撮影し、

それを先生に送信して、「宿題提出」となるんです。

 

さて、

息子の教科書に載っていた物語には、

かえるくんが出てきます。

それと、

がまくんが出てきます。

あと、もう一人、カタツムリくんが出てきます。

 

物語りには、タイトルが付いています。

タイトルは「ふたりはともだち (アーノルド=ローベル作)」です。

 

 

(画像お借りしています)

 

  🐸    🐌    🐸    🐌    🐸    🐌    🐸

 

がまくんは、玄関前に座っていました。
かえるくんがやって来て言いました。

「どうしたんだい、がまがえるくん、きみ悲しそうだね」

「うん、そうなんだ」
がまくんが言いました。

「今、一日のうちの悲しい時なんだ。
つまり、お手紙を待つ時間なんだ。
そうなると、いつもぼく、とても不幸せな気持ちになるんだよ」

「そりゃ、どういうわけ?」
かえるくんがたずねました。

「だって、ぼく、お手紙 もらったことないんだもの」
がまくんが言いました。
「一度もかい?」
かえるくんがたずねました。
「ああ 一度も」
がまくんが言いました。

「だれも、ぼくにお手紙なんかくれたことがないんだ。
毎日、ぼくの郵便受けは
空っぽさ。

お手紙を待っているときが悲しいのはそのためさ」

ふたりとも 悲しい気分で、玄関の前に腰を下ろしていました。

すると、
かえるくんが言いました
「ぼく、もう 家へ帰らなくっちゃ。
がまくん、しなくちゃいけないことがあるんだ」

かえるくんは、
大急ぎで家へ帰りました。
エンピツと紙を見つけました。
紙に何か書きました。
紙を封筒に入れました。
封筒に、こう書きました。
「がまがえるくんへ」


かえる君は、
家から飛び出しました。

知り合いの
かたつむり君に会いました。
「かたつむりくん」
かえる君が言いました。
「お願いだけど、
このお手紙をがまくんの家へ持っていって、
郵便受けに入れてきてくれないかい」

かたつむり君が言いました。
「まかせてくれよ」
かたつむり君は言いました。
「すぐやるぜ」
それから、かえるくんは、
がまくんの家へ戻りました。

 

がまくんは、

ベットでお昼寝をしていました。
「がまくん」
かえるくんが言いました。
「きみ、起きてさ、

おてがみが来るのを、もうちょっと 待ってみたらいいと 思うよ」
「いやだよ」
がまくんが言いました
「ぼく、もう待ってるのあきあきだよ」

かえるくんは、窓から郵便受けを見ました。
かたつむりくんは、まだ来ません。

「がまくん」
かえるくんが言いました
「ひょっとして、だれかが、きみに、お手紙をくれるかもしれないだろう」

「そんなこと あるもんかい」
がまくんは言いました。
「ぼくにお手紙をくれる人なんて、いるとは思えないよ」
かえるくんは、まどから のぞきました。
かたつむりくんは、まだやって来ません。

「でもね、がまくん」
かえるくんはいいました。
「今日は、誰かが、きみにお手紙をくれるかもしれないよ」

「ばからしいこと、言うなよ」
がまくんが言いました。
「今まで、誰も、お手紙 くれなかったんだよ。
今日だって同じだろうよ」

かえるくんは、窓からのぞきました。
かたつむりくんは、まだやって来ません。

「かえるくん、どうして、君はずっと窓の外を見ているの」
がまくんがたずねました
「だって、今、ぼく、お手紙を待っているんだもの」
かえるくんが言いました。
「でも、来やしないよ」
がまくんが言いました。

「きっと来るよ」
かえるくんが言いました。
「だって、ぼくが君にお手紙出したんだもの」
「君が?」

がまくんが言いました。
「お手紙に、なんて書いたの」
かえるくんが言いました。
「ぼくは、こう書いたんだ」


≪親愛なる、がまがえるくん
ぼくは、きみがぼくの親友であることを
うれしく思っています
きみの親友、かえる≫

 

「ああ」

がまくんが言いました。
「とても いいお手紙だ」

それから、ふたりは玄関に出て、
お手紙が来るのをまっていました。

二人とも、とても 幸せな気持ちで、
そこに座っていました。

長いこと 待っていました。

 

四日たって、
かたつむりくんが、がまくんの家に着きました。
そして、かえるくんからのお手紙を、がまくんに渡しました。

お手紙をもらって、がまくんはとても 喜びました。

 

おわり


  🐸    🐌    🐸    🐌    🐸    🐌    🐸

 

さて、このお話。

大人が読み流せば、あっという間に終わってしまうし、

普通に考えれば、かえるくんとがまくんの友情物語です。

 

でも、ちょっと考えてみませんか。

かえるくんは、

がまくんの事が気になって仕方がなかったのです。

 

訳を知って、

かえるくんは、がまくんと一緒に「悲しんだ」のです。

そして、手紙を待つ間、

かえるくんは、がまくんと一緒に「幸せを感じた」のです。

最後は、

かえるくんは、がまくんと一緒に「喜んだ」のです。

 

人生は苦なり。

一切皆苦ですね。

 

時には悩み、

時には苦しみ、

時には涙する。

 

その時は決まってこう思います。

「私は一人ぼっち」

 

でも、

その私に

寄り添い、

一緒に悲しみ、

一緒に喜ぶ方がいる。

 

その存在を

忘れてはならないことだと思います。

 

 お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い 

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

今日もたくさんのお話をお聞きしたのですが、

「かえるくんとガマくん」にスポットを当てて、今日はご紹介しました。

 

実は、このお話は小学校の教科書に掲載されているだけでなく、

最近は若いお坊さんが法話で紹介していたりするのです。

先月は、山口県の布教使の田坂亜紀子さんが

東京の築地本願寺の本堂の法話でご紹介していますが、

その時、田坂さんは「ああ」の部分の深さを伝えてくれました。

 

それまで気が付かなかったけれど、

そうか、

そうだったんだね。

そういう「悟りのような気づき」なんですね。

 

嬉しい時、悲しい時、

いつでも一緒。

気が付かなくても

実は一緒だったんだね✨

 

私のために

こんな慈悲をくれたんだね。

 

それが「仏さまのお心」と似ているから、

お坊さんがこのお話をなさるのでしょう。

 

ありがたい。

 

この事。

気づいて、感じていきたいと思う事であります。

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は、ひんやりしていましたが、

曇りの後で薄日も差していました。   

お参りのあとは法話を聞きましょう。

 

 

今日のご講師は、東京都世田谷区正法寺の白川憲仁師です。

 

 

 

 

青字は白川師の言葉の要約です。

 

<形が変わるだけ>

 

私たちの人生には、「生死」の問題がありますよね。

一般的には「生死」と書くと、「せいし」と読みますが、

仏教では「生死」を「しょうじ」と読みます。

 

その「生死」ですが、

仏教では「生老病死」を、

誰もが経験する「苦しみ」と見ています。

ちなみに「生」とは、「生まれてくる苦しみ」と言う事です。

 

一般には「生死」と言うと、

「生」と「死」に分けていきますよね。

でも、

仏教では「生」と「死」を分けません。

 

上手い書き方だなと思うのは、この字体です。

 

(画像お借りしています)

 

「生」と「死」が一緒に、引っ付いているでしょう。

つまり、

生きていると言う事は

死んでいくと言う事なんです。

 

死んでいくのは、

生まれてきたからです。

 

例えて言えば、

「紙」の表裏のような存在です。

文房具屋さんに行って、

「紙の裏面だけ下さい」と言っても、

きっと「無理です」と言われるでしょう。

 

「生」と「死」は切り離せないんですよ。

 

   📜     📜     📜     📜    📜  

 

さっきの話しに戻りましょうか。

一般的に「生死」と言えば、

「生まれて」

「死んで」

そこで終りでしょう。

 

だから、宗教離れした今は、

若い人は「死んだらおしまい」と思っている方は多いですね。

「死んだら終わりなんだから、死んだ後の事は考えても仕方ない」

だから、葬式もしなくていいんじゃない?、と。

 

「死んだらおしまい」と言うと、

一見、科学的なようですが、

このことについて、二つの見方があります。

 

ひとつは「断見」と言って、

「続きなく、そこで何もなくなる」という見方と、

「常見」と言って、魂が移り変わっていくという見方です。

 

私の肉体は変わっても、

「私」という存在は続いていく。

というのですね。

 

「私」が無くなるんじゃなく、

ずっと変わらないんじゃなく、

「姿が変わっていく」というのです。

 

ですから、

生死となって、死のあとに生が来る。

生のあとには、死が来るけれど、

また、生が来て、それがずっと続いていく。

 

これがずっと続いていくと言うのが、

お釈迦様がいた時代のインドの考え方です。

いわゆる「輪廻転生」ですね。

 

ところが、

「生まれ変る」ということは、

人間ばかりではないよ。

「仏様に成る」と言うことでもあるよ。

と言うのが、

お釈迦様が説いたことの

「一番の核心」なのです。

 

人生には、辛いことがたくさん在りますよね。

お金に困ったり、

病気に困ったり、

それでも、

お金が困れば、

お金の願いを聞いてくれる仏様もいるでしょう。

病気に困れば、

病気を治す願いを聞いてくれる仏様もいますよね。

 

でも、

阿弥陀様の「最も問題にした」のは、

お金でも、病気でもなかったんです。

苦悩の有る私たちいのちを仏様にしたい。

そう思ったんです。

 

「私」と言う存在は、

生死をずっと繰り返してきました。

それは「迷いの世界」の連続だったのです。

「そこから抜け出せないいのち」

それを阿弥陀様は見抜いてくれたのです。

 

ところが、

私たちは、

迷い続けているいのち、

繰り返していたいのちの記憶が全くないのです。

私たちは、

過去にいのちがあったことを

実は覚えていないのです。

 

   お願い     お願い     お願い     お願い     お願い

 

フィクションなんですが、

実に興味深い話を紹介しましょう。

「5億年ボタン」

という漫画なんですが、

結構、話題になったんです。

 

「5億年ボタン」と言うボタンがあります。

実はこのボタンを押したら、目の前に100万円が出てくるのです。

ただし、その瞬間、何にもない空間にワープし、

「たった一人で5億年間過ごさなくてはならない」というのです。

 

100万円稼げるけど、

5億年間たった一人で過ごすのです。

一見、

「そんな無茶なことはしないに決まっている」

そう思いますよね。

 

でも、

ボタンを押した瞬間に何もない空間にワープし5億年を過ごすのですが、

5億年経ったら、

その時の「淋しかったり、悲しかったりした記憶」は忘れていて、

気が付けば「目の前に100万円」があるだけなのです。

 

どうですか?

じゃあ、5億年間、

「淋しかったり、悲しかったり」したっていいですか?

 

となると、

目の前の100万円欲しさに動きますか?

実はこの100万円のことを

「煩悩」「欲望」

と言います。

 

もう一度言いますと、

私たちいのちは続きがあって、

それは煩悩や欲望などの「迷いの世界」の連続だった。

そうです。

100万円が欲しかっただけ、なのもしれません。

 

でも今、

生まれ変わりの中で、

いるのは人間の世界です。

この世界では

仏教にも出会いました。

仏さまの救いの話しも聞けるのです。

本当に嬉しく、有り難い事なのです。

 

最後にもう一度言いましょう。

いのちはずっと続くのです。

そして、

それは、

形が変わるだけなのです。

 

その事を

喜びたいと思うのです。

 

 

 

クローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバー

 

 

ここからbonbu-kokiが書いていきます。

 

いのちは終わらない。

ただ、形が変わるだけ。

 

この言葉について、

この本の法話を要約してお伝えしましょう。

 

 

病気の少女がいました。

少女は重い病で、きっと自分は死ぬんじゃないか。

「死への恐怖心」が湧いてきます。

 

布団の中で心細くなっていた時に、

お父さんが「いのち」について

こう教えてくれました。

 

風船があるとするよ。

風船を割ってみるよ。

風船はパーンと割れていくけれど、

中の空気はどこに行ったかな?

そう、空気は外に出たよね。

そして、外の空気と一緒になったよね。

 

風船の中の空気は、

なくなってしまったんじゃない。

外の空気と一緒になったんだよ。

「いのち」も同じなんだよ。

身体がなくなっても形が変わるだけで、

中のいのちは外のいのちと一緒になるだけなんだ。

仏さまの大きないのちと一緒になるだけなんだよ。

 

仏さまの大きないのちと一緒になったいのちは、

また新しいいのちを創るはたらきになるんだよ。

だから、死んでもいのちはなくならないんだ。

 

たとえ、風船は割れても、

いのちは大きないのちに包まれて

いつもみんなと一緒にあるんだよ。

 

  🎈      🎈      🎈      🎈      🎈

 

 

その少女の名前は、田久保園子さん。

浄土真宗本願寺派僧侶であり、

図書も出版されています。

この本の「タイトル」は「自然法爾(じねんほうに)」

法話のタイトルは「赤い風船」です。

 

もし機会あれば、

手に取って何度も味わってほしいと思うことでありますニコニコ

 

今日もようこそのお参りでした。