今日の東京都心は、気温か30度晴れになり、

風もあまりないために、すごく蒸し暑い陽気でした。

 

明日から私は仕事が6連勤なのですが、

今日もお参りをしてきました。

お寺の境内の蓮の葉ですが、

毎年咲く、赤や白の「蓮の花」が楽しみですニコニコ

 

 

今日で5月も終わりですね。

お参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、山口県下関市常元寺の伯浄教師です。

 

 

 

 

青字は伯師の言葉の要約です。

 

 

<いつの間にやら>

 

浄土真宗本願寺派のホームページを見ていますと、

「浄土真宗は、出会いの仏教です」

と書いてあります。

また、

「阿弥陀様との出会いを大切にします」

とも書いてあるんですね。

 

では、

「出会い」は、なぜ必要なんでしょう。

それは、

「出会う方」で、人生が変わるからです。

 

私は福岡の高校を出たのですが、

その高校は元々「鎮西女子」という女子高で、

共学になるということで、男子を集めに掛かっているところでした。

その時、たまたま、父親の知り合いが鎮西女子の校長先生で、

「君、高校進学なら、うちに来なさい」

そんなご縁でありました。

 

そして、高校2年の7月、

帰ろうとした私を呼び留めてくれた女性徒がいました。

その子は今、山口県の下関市で浄元寺の坊守(住職の奥さん)をしています。

そうです。

今の私の連れ合いです。

 

まさに、

誰と出会うかで、

出会いは

「人の人生」を

変えていくのです。

 

皆さんもそれは

御経験を通して

実感されていることでしょう。

 

   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ

 

ある方に言わせれば、

出会いには3つの形があると言います。

 

ひとつは

知らない者同士が会うこと。

「初対面」と言うことです。

 

二つ目は

知っている者同士が再び会うと言うこと。

「再会する」と言うことです。

 

三つ目は

知っている者が、知らない者に働きかけるということです。

「値遇(ちぐう)」と言います。

 

平成28年の事です。

私は子どもを授かりました。

当時、連れ合いは大阪の病院にいましたので、

仕事先の広島から新幹線で病院まで行きました。

 

私が病院に着くと、看護師さんがこう言います。

「抱かれますか?」

「え!いいんですか?」

心の準備の無いままに我が子を抱いてみましたが、

それは思ったより重く、

それは思ったより温かい我が子でした。

 

顔はお猿さんみたいですが、

それはどうでもいい事です。

私は思わず、

声を掛け続けました。

「父ちゃんぞ!」

「父ちゃんぞ!」

 

それから、数年後、子どもが子供園に通うようになったころ、

改めて私は聞いてみました。

「お前、生まれた時に、

お父ちゃんは ”お父ちゃんぞ” ”お父ちゃんぞ” 

声を掛けたのを覚えとるか?」

 

その問いに、子どもはこう言います。

「知らん!」

まあ、そりゃそうですよね。

では、と、もう一度子どもに聞いてみました。

「じゃあ、お前がお父ちゃんの事を

お父ちゃんと思うようになったのはいつだ?」

 

その問いに、子どもはこう答えました。

「いつの間にやら」

「いつの間にやら、お父ちゃんと呼ぶようになっとった」

 

そうですね。

私が「父ちゃんぞ~」「父ちゃんぞ~」と、

いつでも、

どこでも、

どんなときでも

呼んでいたことで、

これが「親子の出会い」になったことでありました。

 

そして、

私と仏様との出会いも「値遇」なのです。

 

私の方はわからなかったけれど、

仏さまは全部私の事はお見通し。

仏さまは私の事を全部知った上で

私に呼び掛け続けてくれているんです。

それにちゃんと私が気づけていけたら、

どんなに仏さまは幸せなことか。

 

実はですね、

私たちもね、

いつの間にか

仏様と出会っていたんですよ。

 

じゃ、

仏様と出会うと、

人生が変わるのでしょうか。

 

変わります。

 

本当なら

この私は、

このお娑婆の縁が尽きたら、

六道輪廻(ろくどうりんね)」を巡りに巡り、

「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」に行くことが決まっているのに、

仏様との出会いで

「お浄土」というところに往き、仏様と成らせて頂くのです。

 

そのお浄土とは、どんな世界でしょう?

苦しみ、悲しみを超えた「穏やかな世界」なのです。

そして、再び、この娑婆に還ってきて、

有縁の方を救い、見守っていく仏となっていくのです。

 

そして、

それを聞かせてもらうことで、

「思うようにいかない」この娑婆での生活だけれど、

「苦は苦のままで、安心して生きていける世界」

にいることに目覚めていきます。

 

いつの間にやら

私たちは

仏様とも

出会っていたのだけれど、

本当に良かったと思うのです。

 

 

<親の涙>

 

私の父は、平成19年に65歳で亡くなりました。

振り返れば、

平成17年、胃がんのために胃を全部摘出する手術をしました。

予後がよく、本人も家族も安心をしていましたが、

やがて、今度は胃ではなく、他の臓器の癌が見つかり、

今度は手術後の予後も悪く、

緩和ケアからホスピス病院に転院をしていったのです。

 

父は次第に身体も弱っていき、

「話せなくなりそうだから、今のうちに兄弟三人で会っておこう」

ということになりました。

当時、二人の妹は関東にいましたから、

山口県にいる私と日にちを合わせて、面会に行く日を決めました。

 

さて、

ホスピスというところは家族が病院で一緒に泊まれるので、

面会の日は3人で病院に泊まる計画をしていましたが、

その日は病院のボイラーの故障でお風呂が使えないことになりました。

 

その日は6月19日です。

ムシムシしますから、二人の妹は「お風呂に入りたい」と言います。

じゃあということで、

病院から車で20分のところにある川棚温泉に行くことになりました。

 

「じゃあ、お父さん、病院のお風呂が故障してるから、

川棚温泉でお風呂に入って帰ってくるけど、8時には戻ってくるからね」

その時、父は話すのがしんどいので、

手をあげて「分かった」の合図をしてくれました。

 

さて、お風呂に入って、「さあ帰ろうか」と思ったのですが、

妹二人はせっかく来たのだから、

夕食は温泉名物の「瓦(かわら)そば」を食べたいと言います。

私はえ~っと思ったけれど、

多数決では2対1ですから、

瓦そばを頂いて帰ることになりました。

結局、病院に帰ったのは、午後9時半になっていました。

 

病院に戻り、

「お父さん、今、帰ったよ」

そういうと、父はものすごい勢いで何かを言っています。

言葉にならないので、

何を言っているのかが、わかりにくかったのですが、

やっとわかりました。

「おそく・・・、なるなら・・・、でんわ・・・、してこいや~・・・」

 

私はびっくりしましたが、こう言いました。

「そうか、連絡しなかったのは悪かったけど、

お父さん、携帯にも出れないじゃろうが・・・」

 

そうしたら、それを聞いて、また何か言っています。

〇△✖※◎▽×※〇・・・・・

 

そして、

次の日です。

父は往生しました。

 

  👴    👴    👴    👴    👴    👴    👴

 

気が付けば、

私たち兄弟3人は

実の父親に

どなられて

しかられて

最後は終わった子供たちでした。

 

もう、こうなると、

私たちは「後悔の念」しかありません。

後悔したら、

皆さんはどうされていますか?

自分の胸の内だけにしまっておれますか?

もし、胸の中にしまっていたら、

もうそれは

一生持ったまま、

苦しいまま、

になってしまいます。

 

ですから、

後悔をしたら、

人に聞いてもらうのが一番の様です。

 

私はお通夜の晩に先輩僧侶に、

父との最後の会話の場面を伝えたんです。

ありのままに・・・。

 

そうしたら、その先輩僧侶はこう言ったのです。

「そりゃ、叱ったんじゃないじゃろ。

それは、約束の時間に帰ってこないあんたたちが

心配で心配で仕方がなかったんじゃろ。

 

いつ、車の事故があるかわからん。

いつ、誰かが急に倒れるかわからん。

いつ、誰がどうなるかなんて、わからんじゃないか。

 

誰かの人生の最後に、

いつも立ち会ってきた僧侶だから、

そして何より親だから、

心配で心配で仕方がなかったんじゃろう」

 

そうか。

そうか。

 

父は自分の身体が、

人生で一番きつい時でさえ、

もう年の頃なら50歳前後の、

いい歳をした私たちなのに、

最後の最後まで

子どもの事を思ってくれていたんですね。

 

そう思うと、

父は今も私たち兄弟3人の心の中に

今もはっきりと

生き続けてくれるのでありました。

 

(画像お借りしています)

 

 

  👴    👴    👴    👴    👴    👴    👴

 

山口県に福田康正(ふくだこうしょう)という先輩僧侶がいます。

よくお寺では「お寺の掲示板」と言って、

お寺の掲示板に「仏教に関する言葉」や、

「有名人の言葉」を書いて貼りだすということをしていきます。

 

ところが福田先生は自分で言葉を考えて、

自分のお寺の掲示板に貼っていくのです。

そして、その言葉を「枕言葉」にして、

その言葉に添った法話をしていくのです。

 

その中でこういう言葉があるんです。

 

(画像お借りしています)

 

親の涙の

注がれていない

子供は

一人もいない

 

仏の涙の

注がれていない

人は

一人もいない

 

産んでくれた方、

育ててくれた方だけじゃない。

どんな時でも

涙を注いでくれた方の事を

「親さま」と言います。

 

生まれて

何も知らない

何もできない

この私は

今まで何度

親に救われてきた事でしょう。

私が親を困らせた時も

私が親を喜ばせた時も

親は私に涙を注いで育てて、

守ってくれていたんですね。

 

それを仏様に置き換えてみましょうか。

 

生まれて

何も知らない

何もできない

この私は

今まで何度

仏さまに救われてきた事でしょう。

私が仏さまを困らせた時も

私が仏さま親を喜ばせた時も

仏さまは私に涙を注いで育てて、

守ってくれていたんですね。

 

合掌を知らない

頭を下げることを知らない

 

そんな私を

涙で導く方たちに

感謝しても

感謝しきれないと思うのです。

 

 

 お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

自分はいったい

どれくらい親に

涙を注がせて

きたのだろうか・・。

 

このようなことを

お考えになったり

想像したことはないですか

 

今の自分があるのは

きっと

親の涙が注がれてきたから。

 

そう思えたら

もっと親には

優しくなれるのかも

しれませんね。

 

私たちは

自分のために注いでくれた

たくさんの親の涙を

実は

ほとんど知りません。

 

遅くなってもいいから

そういうことに気付き、

仏さまの涙にも気づき、

これからの人生を歩んでいけたら、

きっと生き方も違ってくるかもしれませんね。

 

(画像お借りしています)

 

(画像お借りしています)

 

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

今日も

出遇えて

よかったニコニコ

 

 

今日の事です。

 

仕事が休日でお寺の法話もなく、

一日どうしようかなと思っていたら、

たまたま1時で仕事を終えた友人と

写真展に行った後、

お茶をすることになりました。

 

待ち合わせの時間、

友人からLINEが来て、

「電車の駅を降り損ねたから遅れる」とのことだったので、

待ち合わせ場所に近かった歌舞伎座のお土産コーナーを、

いつもはスルーするのに、じっくり見ることができました。

 

最初の目的で行った、キャノンギャラリーでの写真展。

「ただ、見るだけだよなぁ」と思っていたら、

自販機に反射する飛行機の写真とか、

予想外に構図が面白くて、

その場にいた写真家さんと10分ほど丁寧に

撮影の裏話が聞けました。

 

じゃあ、そろそろお茶でもしようと、

友人のお気に入りの喫茶店に行ったら、

今日は臨時休業日とのこと。

それならと入った不二家レストランは、

普段は平日でも待つのに、

待たずに入れて、

しかも眺めのいい席でした。

 

ケーキを頂き、コーヒーを飲みながら、

私は「行ったボランティア先で、感じの悪い方がいた」という話をしたら、

友人は「職場で感じの悪い方がいて、気分がよくなかった」と言います。

じゃ、

今月の神社の言葉

「人こそ人の鏡」(書経)を

お互いに肝に銘じようと話しました。

 

もう帰ろうかと思ったら、

友人が「せんねん灸」のデモショップがあるから行きたいと言い、

帰りが遅くなるなぁと思いながら付いていったら、

長年気になっている「耳鳴り」に利くお灸があることを知りました。

 

思うようにはならないこともあったのですが、

家に帰ってきて、

あぁ、今日もいい一日だったなと

しみじみ思いました。

 

 

<日々是好日>

 

 

<日々是好日>

 

一日一日がよき日になる

 

朝 目の前で電車の扉が閉まり

次の電車がくるまで読書ができた。

昼 いつものランチが品切れで

気になっていた新しいメニューに挑戦した。

午後、お客様から叱られて

まだ伸びしろがある自分がわかった。

夜 デートがなくなって

たまたま見たテレビが面白かった。

深夜、布団に入って

あぁ、今日もいろいろあっていい日だったな、

と思えた。

 

私たちの人生に起こる

出来事に意味はない。

 

ひとつひとつの出来事に

ツイていた ツイていなかったとか

幸せ、不幸せとか

意味をつけなくてもいい。

ただそうした毎日をありのままに

生きていれば

一日一日がよき日になる。

 

      (禅語エッセイ 発行:リベラル社)

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

私の家には仏教関係の図書が、

それこそ、

大手の本屋さん並みにあるんじゃないかと言うほどあるのですが、

その中でもお気に入りの一冊が「禅語エッセイ」で、

その中でもお気に入りの一節が「日々是好日」です。

 

私たちの人生に起こる

出来事に意味はない。

 

意味づけをしているのは

自分の都合や感情ですが、

やっぱり、

結局は、

それって、

人生で出会う「ご縁」でしかないのです。

 

今日も、

大変なこと

予想もしなかったこと

苦しかったこと

悲しかったこと

ムカついたこと

虚しかったこと

いっぱいあったかもしれませんね。

 

今日も・・・、

だけではありませんよね。

今週も・・・

今月も・・・

今年も・・・

 

そして

この今生は

何かしらのご縁を

私たちは頂いて生きていきます。

 

そのことを受け止めながらも

「味わいの転換」をしていってみる。

 

もしかしたら、

人生は

思ったほど

悪くないかもしれませんよね。

 

明日も

よき一日を

お過ごし下さい😊

 

 

先々週の土曜日のご法話の際に、

真宗大谷派の坊守さんだった鈴木章子さんご紹介がありました。

お名前だけは、法話でたびたび出て来るのですが、

これもご縁だなと思い、東本願寺出版から本を取り寄せました。

 

鈴木章子さんのお話はどうぞここから・・・(笑)

 

 

 

さて、

今日はこの本ではなく、

一緒にもれなくついてきた、真宗大谷派の新聞である、

同朋新聞からの言葉です。

 

 

お寺の掲示板のお話です。

 

 

 

あなたは、

見える世界で

生きている

でも、あなたを

支えているのは、

木の根っこのように

見えない世界なんだ

 

               佐賀枝夏文

 

見えないものに

支えられている。

それは何でしょうか。

 

見える世界ではなく

見えない世界とは何でしょうか。

 

見えないもの・・・。

空気?

風?

 

いやいや、

もっとありますよね。

 

やさしさ?

思いやり?

 

仏さま?

神さま?

 

それとも、

先に往った有縁の方の面影でしょうか。

先に往った有縁の方の言葉でしょうか。

 

たくさん

たくさん

考えてみましょうか。

 

何が自分を支えているのか。

 

たくさん

たくさん

気が付けたらいいですよねニコニコ

 

 

今日の東京都心は25度を超えて、夏日晴れ晴れとなりました。

今日は浅草の三社祭の最終日でしたが、

皆さん大汗で頑張っていました。

お疲れ様です。

 

さて、今日は第三日曜日ですね。

東京都港区安楽寺にお参りに行ってきました。

 

 

参道です。

 

 

本堂と入口です。

 

 

お参りのあとは法話を聞きましょう。

今日のご講師は、安楽寺住職の藤澤克己師です。

 

 

青字は藤澤師の言葉の要約です。

 

 

<心動くとき>

 

 

人の諸々の

愚の第一は

他人に

完全を求める

ということだ。

  『竜馬が行く』より

 

    晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ

 

毎月、お寺の掲示板の言葉を元にお話をしていますが、

今回はこの言葉です。

 

この言葉は、司馬遼太郎さんの小説、

「竜馬が行く」に出て来る言葉なんです。

この小説は幕末の世を描いたもので、

主人公の坂本龍馬がいますが、

竜馬自身は、あまり「出身の身分の高い立場」ではありませんでした。

 

そして、登場人物には、

武市半平太(たけちはんぺいた)という人物が出て来るのですが、

この人は家柄も良く、勤勉で、大変に優秀な人物なんです。

そのため、多くの人から尊敬を集める人物でもありました。

 

やがて、竜馬も半平太も同じように仕事をしていくのですが、

半平太は仕事の設計図もしっかりと描いて、

妥協をすることなく、人を使って、

きっちり、きっちりと仕事を指示していくんです。

 

ところが、竜馬は半平太ほど「きっちり」とはせずに

はっきりとしないところもありながら、

人を使って仕事をしていきます。

 

そうしたら、

普通なら、きっちりとした方が、

「信頼も厚く」「緻密に」「計画的に」

仕事が捗(はかど)りそうですが、

正しいことをきっちりとした半平太からは、

やがて人が離れていくことになるんです。

 

それに比べて、

竜馬の方は半平太ほどの「きっちり」はないはずなのに、

竜馬が「人を誉める」「人に気遣う」

そういうところから、周囲の人は竜馬についていくようになったんですね。

 

半平太の方は、

その中で「暗殺」のようなことも企てていくんですが、

それは「正しい」ことのように思えるのですが、

実は人心の掌握には程遠くなっていったんですね。

 

 晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  

 

では、皆さん、

世の中って、こんなことってないですか?

 

「これって、こうでしょ」と言われる。

「これは、こうすべきなんです」と言われる。

 

逆に、

「こうすべきなのに、何であなたはしないんですか?」と言われる。

「こうして下さいと言ったのに、なんでできないんですか?」と責められる。

 

そうやって「完璧」や「きっちり」を求められたら、どうでしょう。

人の心は「完璧」に向かって動くのでしょうか。

人の心は「きっちり」に向かって動くのでしょうか。

 

 晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ  晴れ

 

あくまで私の感じ方で今日はお話をしているのですが、

この言葉は「仏さまのまなざし」に似ているような気がしたので

今日はここで取り上げたのです。

 

まずは

「完璧を目指しましょう」

と言っても、「完璧になれなかった人」はどうしますか。

いや、むしろ、「完璧」な人はいないですよね。


なんでもかんでも、「完璧」を望むことは「愚」である。

そのことを今日の言葉では言っています。

 

一生懸命にやっていても、

失敗もすれば、

うまくできないこともあります。

 

そのとき、

「あなたはできていませんね」

そう言わないのが仏さまです。

 

仏さまはすべてをご覧になっています。

仏さまは

「あれが出来てないから」

「これができてないから」

そうやって差別も区別もしないし、

出来ていない私やあなた。

怒っている私やあなた。

苦しんでいる私やあなた。

悲しんでいる私やあなた。

それを放ってはおけないと

仏さまは立ち上がって見守ってくれています。

 

それが、

仏さまのまなざし

というものだと思います。

 

それに気が付けない私やあなたではあるけれど、

「これってこうでしょ」と言われることがあっても、

精一杯頑張る自分を

たまには誉めてあげましょうよ。

 

そうしたら、きっと、

止まってしまっていた心も

少しずつ動いていくでしょう。

 

 お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い 

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

人に完璧を求められたら辛いですね。

でも、裏返せば、

人に完璧を求めらたら

「辛い思いをさせるんだよね」と言う事でもあります。

 

「求める」ということは、

自分の価値観に従わせるということ。

ところが、十人いたら、十人十色が本来の姿ですものね。

 

そう言えば、

昔、私が職員研修で使った有名人の「詩」がありました。

 

 

私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 

ご存じ、金子みすゞさんの「詩」ですが、

岐阜県のある療育施設の玄関にも飾ってあり、

東京の高齢者施設にもある言葉です。

 

もちろん、「完璧」を否定するものではありませんが、

今日のような仏さまの区別・差別をしない「ものの見方」を

もう一度考えてみたいものですよね。

 

今日も必要な方に

大事な言葉が届きますように・・・クローバー

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は、気温24度。

今日は晴れて晴れ

空調なし」の場所では、

アイスクリーム🍨も美味しく感じます爆  笑

 

今日もお参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、三重県津市存仁寺の山田敎尚師です。

 

 

 

 

青字は山田師の言葉の要約です。

 

 

<ご縁の中で>

 

私の連れ合いは長崎県の諫早の出身なのですが、

お通夜の時にお菓子を飾ったりしてあるんです。

何かな、と思ってよく見ると、

それは「目覚まし」と言うんだそうです。

 

これには、

実は三つの意味があるそうです。

供養のものを通じて

一つ目は、目を閉じた亡き方に「目覚めて」ほしい。

二つ目は、お通夜の大事な日には、残された者は寝ないで「目覚めて」ほしい。

三つ目は、亡き方を「大切なご縁」と感じ、仏法に「目覚めて」ほしい。

 

残った私たちも、

いつか、このようになっていく。

いや、

いつ、こうなるかもわからない。

そういう

「無常のいのち」を感じていって欲しい。

そういうことなんですね。

 

ちなみに

目覚めた方の事を「ブッダ」といます。

ブッダとは、仏さまのことですよ。

 

本当に、死んで終わりの命なのか。

よくよく、

仏法を訪ねていかなければならないでしょう。

 

  お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い  

 

世の中に

「死なない方法」があるんですよ。

なんだと思いますか?

それは

「生まれてこないこと」です。

 

言い換えれば、

生まれたからには、死ぬんです。

 

仏教では、「生」と「死」を合わせて「生死(しょうじ)」と言います。

仏教では、「生」と「死」を切り離さないんです。

よく、一枚の紙で表されるんですが、

紙の表と裏。「切り離して」と言われてもできないでしょう。

それと同じようなことで、

「生」と「死」は「二つで一つ」なんです。

 

例えば

生れてくる。

これを原因(仏教では因)と言いましょう。

死んでいく。

これを結果(仏教では果)と言いましょう。

 

老いや病気や事故、災害等で人が亡くなっていきます。

生まれたからは必ず死ぬんですが、

死ぬのに老い、病気、事故、災害。

そういうことが絡んでいく。

この「絡んでいくもの」を仏教では「縁」と言います。

 

よく死亡診断書では、医師が「死因」を書きます。

「老衰」「癌」「大きなケガ」のことが書かれることもあるでしょう。

でも、それは結果(果)じゃない。

そうなる「きかっけ」こそ、「縁」です。

だから、最終的には「死因」と言えば、

死んだ結果は「生まれたから」なんです。

 

言い換えれば、

生まれたから死んでいくんです。

 

   お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い

 

皆さんは車を運転しますか?

例えば、ちょっと急ぐ用事があって、スピードを出したら、

後ろの車がなんと覆面パトカーで、車を止められる。

「はい、スピード違反ですね」と言われたとします。

あの時、10人中ほとんどの方はこう思うでしょう。

「運が悪かったな」

 

あれは、仏教的には、

 車に乗った。

 あの時間に乗った。

 急いでいた。

 その道路を使わないとならなかった。

そこに、

 あの時間にパトロールがあった。

そういう、小さなことの積み重ねでしょう。

これを「縁」というのですが、

縁が絡んで、最後は「つかまった」となったのです。

こういう状況を仏教では

「縁が整った」と言うんですね。

 

「運がいい」とか、「運が悪い」とかよく言いますね。

でも、あとから考えれば「あれがあったから」ってことがあるんです。

この間テレビで「宝くじが当たった方」のその後をやってました。

「宝くじが当たった」

それはもう「運がいい」としか言いようがない。

でも、そのあと、

 宝くじのお金で買った、何台もの大きなテレビで、劇画をたくさん見た。

 働かなくていいから、家にこもって、ステーキやお菓子ばかりたべていた。

 そうしたら、健康的に大きな問題が起こっていた。

そういうんですね。

それ、「運がいい」からのお話ですよね。

 

逆に、「絶対大丈夫」という志望校に落ちちゃった。

それは「運が悪い」ですよね。

でも、違う学校に行ったら、生涯の伴侶と巡り合った。

それ、「運が悪い」からのお話しですよ。

 

結局は

常に移り変わるんです。

人生は無常なんですよね。

 

言い換えれば、

すべては「縁」によって変わっていくのが人生です。

 

 

 

  お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い

 

讃岐に庄松(しょうま)さんという男性がいました。

庄松さんは1799年生まれで、1871年に亡くなっていますが、

生涯独身で、わずかな田を耕したりしながら過ごしていたそうです。

「妙好人(みょうこうにん)」と言うんですが、

この方は熱心に仏法をお聞きになさっていたそうです。

 

ある時、

庄松さんが独身であることを知っている近所の人たちがこう言ったそうです。

「庄松や、お前さんが死んだら、お墓を建ててあげよう」

すると、庄松さんはこう言ったそうです。

「それはそれは・・・。ありがたい話じゃのう。

でも、墓を建てても、わしゃ、墓の下にはおらんぞ。

わしゃ、いのち終わったら、お浄土にいくでのう」

 

今は、「墓じまい」の相談が多くなりました。

ご先祖の御遺骨も「合同墓」に、という話もよく聞きます。

代々継がれてきたことも、独身の方が増えたり、

「若い方の負担になりたくない」とご両親が考えたり、

それは「時代の成せること」なのかもしれませんね。

 

では、お墓のいいところは何でしょう。

まずは、

「手を合わせるご縁」が出来ると言う事です。

お墓が無ければ、どこで手を合わせますか。

家が狭かったり、仏壇は本家が持っているとかで、

お仏壇も置けない方も多いのです。

 

つぎに、

「お参りのご縁」が出来るようになります。

お墓がなければ、お寺にもお墓にも来なければ、

ただ「忙しい日常に終始する」だけの毎日ではないでしょうか。

 

お墓に来たら、

「倶会一処(くえいっしょ)」と彫ってあるお墓もあります。

「倶会一処」とは、

「共にひとつのところで、再会する」ということなんです。

 

へ~、そんなところが、あんの?

お浄土?

誰が言ったの、そんなこと?

 

それを教えてくれたのは

お釈迦様です。

それが確かに書いてあるのが、

「仏説阿弥陀経」と言う、お釈迦様のお経です。

 

その教えに出会わせてもらえるのが

お墓でしょう。

お寺でしょう。

 

手を合わせる。

お参りをする。

亡き方とお話をする。

倶会一処の話しと出会う。

多忙な日常生活ではできないことだと思いますよ。

 

庄松さんは「死んだらお墓にはいない」と言いましたが、

お浄土に往った(行った)のですから、それが正解。

でも、

還相回向(げんそうえこう)のはたらきにより、

また、お浄土からまた、この娑婆に還ってきて、

有縁の方の傍にいるんです。

 

だから、

あなたがお墓に行く時は

仏様もちゃんとそばにいてくれるのです。

 

結局、

そういうことは、

先立った方が

今、ご縁を結んでくれているのです。

 

そういうことを忘れてはなりませんよね。

 

  お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い

 

庄松さんのエピソードでは、このようなものもあります。

昔の方は、義務教育が熟している時代ではないですから、

「文字の読み書き」が出来ない方も多かったそうで、

庄松さんもその一人でした。

 

周囲の方は、庄松さんが文字を読めないのを知っています。

ある時、少し「からかいの気持ち」もあったのでしょう。

こう言ったそうです。

「おい、庄松。

お前はいつも大事そうにお聖教(お経本)を懐(ふところ)に入れているが、

その本にはなんて書いてあるんだ。

いっぺん、聞かせてくれや」

 

文字の読めないことを知っていて、

ちょっと意地悪なことを言われたのですが、

庄松さんは堂々と本を開きました。

 

そして、一枚めくりました。

つぎに、一言言いました。

「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」

また、一枚めくって言いました。

「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」

更にもう一枚めくって言いました。

「庄松をたすくるぞ(庄松を助けるぞ)」

 

「たすくる」というのは、

助ける、救うということです。

 

庄松さんは、

普段、お坊さんの御説教を聞きながら、

お経にはこういうことが書いてあると

端的に言い放ったんですね。

 

もちろん、

お経には文字ひとつ一つに意味があります。

でも、

「何がいいたいの?」

「何を伝えたいの?」

そのことを聞く。

しっかりと聞く。

 

そのことが庄松さんには伝わっていたんですね。

 

庄松さんは

伴侶ともご縁がなく、

お金にもご縁がなく、

文字を読むご縁もありませんでした。

 

でも、

仏法に出会うご縁に恵まれた。

仏法と出会えてしあわせだったと思い、

生涯を過ごしていたそうです。

 

私たち、

しあわせになりたいですね。

自分の意のままに過ごせば、

あれもこれも欲しくなります。

嫌いな人とは会わずに、好きな人とすごしていたい。

そういうことが

しあわせと思っているからです。

 

でも、

しあわせは、「つかむもの」じゃないですよね。

しあわせは「気づくもの」

しあわせは「感じるもの」

そのように「目覚めた方(仏さま)」は仰います。

 

ちなみに

しあわせとは漢字で「仕合わせ」と書きますね。

いろいろなものの「巡り合わせ」「ご縁」が

その方の人生を豊かにし、

その方の人生を深めていきます。

 

私たちも

もっともっとご縁の中で

仏法と出会って、

目覚めていきませんか?

 

 

 

お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

ちなみにお話に出てきた「運」と「縁」について、

AIの回答を要約するとこのような言葉がありました。

 

運は、出てきた結果。

運は、結果としてのめぐり合わせ。

運は、コントロール不可能な事。

「自分の意思や努力では変えにくい巡り合わせ」そのものを指し、

人の力を超えた幸・不幸のめぐり合わせ。

 

「縁」は、「人や物事とのつながりや関係性、巡り合わせ」を指す。

「縁」は、その結果をもたらす人間関係や条件・きっかけ。

「ご縁」「良縁」「親子の縁」など、関係性やきっかけを表す。

 

ちなみに、なるほどと思ったのは、この記述でした。

  • 「運」は選べないが、「縁」は自分の姿勢で広げられる。
  • 「縁」が重なることで、良い「運」をつかむ機会が増える。
  • 「縁」は行動次第で、増やしたり深めたりしやすい
  • 行動や感謝の姿勢で「縁」を大切にすると、その結果として「運」が巡る。

 

縁を大事にすると「運命がかわる」かも、でしょうか・・・。

 

いや、

運が良くても悪くても、

縁に恵まれても恵まれなくても、

仏さまは「それはどうでもいい事」と言っています。

(無分別智・・・都合でものごとを分けない。分けるのは意味のないこと)

 

運が良かろうが、運が悪かろうが、

縁が薄いだろうが、縁が濃いだろうが、

そんなことはどうでもよくて、

そのままの私。

そのままのあなた。

を仏さまは救うそうです。

ありがたいですね。

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心の気温は23度。

半袖でも充分な陽気晴れです。

 

さて、今日は第二土曜日です。

東京都調布市西照寺にお参りに行ってきましたニコニコ

 

お参りのあとは、法話を聞きましょうウインク

今日のご講師は、東京都小平市照恩寺の山本豊師です。

 

 

 

 

 

 

青字は山本師の言葉の要約です。

 

<灯火>

 

仏教では、よく「生老病死」を四苦と言います。

四つの苦しみ。

苦しみとは、「思い通りにならない」ということですが、

「老」と「病」は、そのあとに「死」に繋がっていくんです。

だから、それを突き詰めていくと「四苦」は

「生」と「死」にの二つに集約されていくんですね。

 

そして、その「生」と「死」について、

お寺ではお坊さんが色々なことをお話をするのですが、

最近は「お寺離れ」もあって、

たまに話しをしても、どうも「上(うわ)の空」っぽいんです。

それって、

「我が事」と聞いてないからなんですね。

 

生きていくのに、「苦」はいやですね。

でも、

その「苦」がないと、

大事なものが生まれてこないんです。

それが

「問い」です。

 

なぜ、私がこうなるのか?

私はどうしたらいいのか?

生きていく意味は何なのか?

死んだらどうなるのか?

 

それについて、

世の中の説明はあいまいです。

不確かなものだと思います。

 

ですが、

その答えに

「救い」を示してくれることがある。

それが、宗教というものであり、

それを聞けるのがお寺だと思います。

 

  お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い  

 

 

今日は鈴木章子(すずきあきこ)さんのお話をしていきましょう。

鈴木章子さんは、北海道の東端、知床半島の付け根に近い斜里町の

真宗大谷派西念寺の坊守(住職の奥様)で、

斜里大谷幼稚園の園長をつとめておられました。

また、四人の子どものお母さんでもありました。

 

章子さんは毎日園児が通園すると、

腰を落とし、しゃがみ込む姿勢をしていました。

「○○ちゃん!おはよう!」

その声に、園児たちは園長先生の胸に飛び込んできます。

すると章子さんは、思いっきり「ハグ」をして出迎えたそうです。

 

そうして、ある日、いつものように園児にハグをしたところ、

胸に激痛が走ったのだそうです。

「いくら何でも、この痛みはおかしい」

すぐに病院に行って検査をすると、

かなり進行した「乳がん」の診断を受けます。

 

その時、章子さんは42歳です。

自分はお寺の坊守。

自分は園長。

自分は四人の子のお母さん。

 

章子さんはすぐに手術を希望します。

すると、手術は成功し、元気を取り戻していきました。

 

ところが、しばらくして、今度は反対側の胸に癌ができていきます。

今度は2度目の手術になるのです。

「今度はどうなるかわからない」

 

章子さんの実家はお寺で、当時ご両親はまだ健在でしたが、

相当の覚悟を持って里帰りをし、「最後のお別れの挨拶」をしていきます。

「今度は、ダメかもしれない」

そう言うと、

その時、お母さんは

「どうなるかわからないけれど、今度はお浄土で会おうね」

そう言ってくれたそうです。

 

そして、手術はまた成功します。

二度目の手術のあと、

しばらくして相次いで、お父さん、お母さんが亡くなっていきます。

「自分が先だと思っていたのに・・・」

 

これまでを見れば、世間の方は、

「不幸続き」と見ていったことでしょう。

でも章子さんにとっては、

「悲しさ」とは別に、

充足感があったそうです。

 

北海道の田舎町。

鉄道に乗り、ひとたび駅に降りれば、

日が落ちる頃にはあたりは真っ暗です。

その中を歩いて、自分の家であるお寺を目指して歩くのです。

「こっちだよね」

「大丈夫だよね」

そんなことを思っているうちに、

ひとつの明かりを見つけるんです。

 

「ああ、あの灯火(ともしび)が家だ」

「私が帰る場所は、あの灯火のところだ」

 

帰るべき場所では

「待っていてくれる人がいる」

 

だから、

「私は安心して帰れるんだ」

 

章子さんは、

「死もまた同じ」だと思ったのです。

 

お父さん、

お母さんには、

往ったところがある。

 

そこに往ったおかげで、

今、お浄土に明かりが灯り、

私のいくべきところに

「灯火」がはっきりと見えている。

 

思えば、

私は色々なものに護られているのを知った。

だから、

もう私は怖くない。

だから、

もう私は安心できるんだ。

 

それから、

今度は肺に癌が転移したことがわかりました。

そして、転移した癌のために肺を切除していきます。

その時に感じたことは、こういうことでした。

 

肺一葉 捨てて 

はじめて 空気の存在を 実感しました
無形の存在を たしかに 受容できました 

             (「無形の存在」 鈴木章子)

 

死と向かい合う苦しい闘病生活の中、

常に念仏の教えを聴聞し、

「いのち」とは?

人間としての生き方とは?

を問い続けられました。

 

健康なときは気にも留めなかったけれど、

空気のような「形がないもの」の存在を実感し、

見えなくても「いのち」を生かすものがあることを

受け止めることができたと

目覚められたのです。

 

その後、5年間の闘病生活の後、

章子さんは昭和63年に47歳で往生されます。

 

章子さんは闘病中に

四人の子供達へ詩を残されていますが、

今日はこの言葉を紹介致します。

 

死にむかって進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ
今ゼロであって当然な私が
今生きている
ひき算から足し算の変換
誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命
嬉しくて 踊っています
“いのち 日々あらたなり”
うーん 分かります

 

私たちは

「死に向かって進んでいる」と思っています。

でも、

「死にむかって進んでいるのではない」

とはっきり仰っているのです。

 

「今をもらって生きている」のでした。

「今ゼロであって当然な私が今生きている」とありますが、

私達は両親を縁としていのちを賜り、

この世界に生まれました。

そして育てて貰い、

教えて貰い、

又、大地大海の恵みを貰うなど多くのご恩を貰っています。

このご恩を、「お陰さま」と言います。

 

そして章子さんは、

「ひき算から足し算の変換」と喜びました。

「今を貰っている」からこその

「ひき算から足し算の変換」なのでしょう。

 

人生は苦です。

思い通りにならないことがありますね。

でも

「問い」があるから、

「救い」が見つけられるんです。

 

それが、

宗教と出会う

喜びではないでしょうか。

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

すでに、亡くなったあの方はどこに行ったのか。

もうすぐ、亡くなる私はどこに行くのか。

やがて、亡くなる我が子はどこに行くのか。

 

その「問い」に

灯火を持って答えてくれるものがある。

これが「宗教」であり、

「救い」なのだと思います。

 

そして、

その灯火があれば、

私たちは「安心」できるのだと思います。

 

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

今日の東京都心は1日曇りくもりでした。

ゴールデンウィークも今日で最後ですが、

私は今日もお寺参りです爆  笑

 

お参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、神奈川県横須賀市専福寺の照本さおり師です。

 

 

 

 

青字は照本師の言葉の要約です。

 

<今日のご讃題:テーマ>

 

安楽浄土に いたるひと
五濁悪世(ごじょくあくせ)に かへりては
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の ごとくにて
利益衆生(りやくしゅじょう)は きはもなし

 

           親鸞聖人(浄土和讃)

 

(意訳)

 

阿弥陀様の願いに添ってお浄土に往生し、仏さまとなった者は、

大いなる慈悲の心をおこし、再びこの迷いの世界に還(かえ)り来て、

お釈迦さまがなさったように

迷いの中で苦しむ人たちを自在に救うはたらきをしていくのです。

 

 

<還相の菩薩>

 

阿弥陀様というのは、

私へ「二つのはたらき」を示してくれています。

 

ひとつは

往相回向(おうそうえこう)です。

 

往相の往とは、「往く」ということ。

往相の相とは、「姿」ということ。

回向とは、

「自分が手にした功徳を、他の方に回して振り向けて差し出していく」ということ。

 

つまり、

過去の生まれ変わり死に変わりの中で、

仏様などには到底なれなかった、この私が、

阿弥陀様の功徳で、

お浄土と言う「苦の無い」仏さまの世界に往く姿、ということです。

 

そうです。

死んだら無になるとか、

死んだらゴミになるなんてことはないのです。

 

この娑婆の縁尽きても

「死んで終わりの命ではなかった」

そして、その行き先こそ、極楽浄土の世界なんだ。

 

それが阿弥陀様の第一のメッセージです。

 

   お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い  

 

私たち、生きていくのは、本当に「四苦八苦」でしょう。

すべてが思い通りになんて、生きられないのです。

「どうして?」

「なんで私が?」

人生には、そういうことが多いと思います。

 

まずは「四苦」

生老病死です。

 

「生」は、

「生きる」ということではなく、「生まれる」と言う事です。

私たち、誰も生まれる条件を選べない。

時代、国、性別、能力、親さえ選ぶことはできません。

その結果、

生まれてから同じスタートラインには立てないのです。

 

「老」は、

年齢を重ねれば重ねるほど、実体験しますよね。

若い時は「他人事」

今は「我が事」

「白髪」が増え、シワも増え、シミが出来、目も見えなくなってきます。

歩くスピードは落ち、夜更かしもできなくなりました。

駅の階段を登れば息があがり、平らな処でつまづく自分がいるのです。

こんなはずじゃなかったのに・・・・。

そう思ったとたん、否定し、抗い、諦めて、苦が始まりました。

 

「病」は、

どうですか。

老眼なら、まだいいでしょう。

生活習慣病、白内障、緑内障、高血圧、

年をとればとるほど、通院は増え、

飲む薬が増えて来るので、支出の医療費は凄いことになっています。

日本は長寿国と自慢できるのはいいことですが、

長寿ゆえに「かなりの確率」で、癌患者、認知症患者が増えてきます。

高齢者社会=癌患者社会=認知症社会なんです。

こんなはずじゃなかったのに・・・・。

そう思ったとたん、否定し、抗い、諦めて、苦が始まりました。

 

「死」は、

どうですか。

生まれたからには死んでいく。

人の致死率は100%と聞いてはいるけれど、

ほとんどの方は他人事です。

「死」は、必ず私の上に訪れるんです。

「死」は、必ず私の大切な人の上に訪れるんです。

そんなに大事なことなのに、

「ああそうですか」なんて簡単に言えないですよね。

こんなはずじゃなかったのに・・・・。

そう思ったとたん、否定し、抗い、諦めて、苦が始まりました。

 

   お願い    お願い    お願い    お願い    お願い    お願い 

 

「生老病死」四苦の他にも、

もう四つの苦があります。

 

まずは

愛別離苦(あいべつりく)。

愛する者とも、必ず別れていかなければならない苦しみがあります。

 

つぎに

怨憎会苦(おんぞうえく)。

憎い人、嫌いな人とも、会っていかなければならない苦しみがあります。

 

人がいたら、感情が芽生えてきます。

感情を持ち始めると、「執着」が生まれてきます。

その「執着」を中心に、

感情が「好ましいもの」であれば、になります。

感情が「好ましくないもの」であれば、憎悪になります。

そこから、苦が始まっていくんですよね。

 

そして、

求不得苦(ぐふとっく)。

求めても得られない苦しみです。

ほしいものが手に入らないと、モヤモヤします。

では、ほしいものが手に入れば、モヤモヤはなくなるのでしょうか。

残念ながら、

次にもっと欲しくなる。

あるいは、次の何かが欲しくなります。

生きている限り、これが続くのです。

でも、求めているものは、

いつだって手に入る訳ではないですよね。

じゃ、やっぱり死ぬまで苦しみは続くんでしょうか。

 

最後は、

五蘊盛苦(ごうんじょうく)。

五蘊とはいろいろな感覚。

「盛」とは、盛んにということですが、

心身があるということは、

それだけで色々な欲が生まれてきます。

欲が生まれても、思い通りにならないことも多いのですから、

やっぱり「苦」が待っているのです。

 

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そうやって、

色々な苦しみ。

自分の思い通りにいきたいのに、

自分の思い通りにならないという「苦」を抱える。

それでいて、思い通りにならないから、思い通りにしようとして、

周囲を巻き込み、周囲に毒を吐く。

「そういう私」を見ていたのが、阿弥陀様、阿弥陀如来なんです。

 

この者は

自分の力では覚りをひらくことはできないし、仏にもなれない。

覚りを開かぬ者は六道輪廻(天・人間・修羅・餓鬼・畜生・地獄)を

永遠にぐるぐると回っていくしかない。

 

そのように阿弥陀様には「私」という存在が映ったからこそ、

「これではいけない」と立ち上がったのです。

 

その私を目当てとして阿弥陀様は、

死んで、そこで終わりの命になど、させないからね。

また、生まれ変わっても、

六道輪廻の中で同じ苦しみを

味わうことがないように

あなたをお浄土につれて行くからね。

と誓ってくれたのです。

 

それを

往相回向というのです。

 

 

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さて、

阿弥陀様の「私への二つはならき」のふたつめは

還相回向(げんそうえこう)です。

 

還相の還とは、「還る(帰る)」ということ。

往相の相とは、「姿」ということ。

回向とは、

「自分が手にした功徳を、他の方に回して振り向けて差し出していく」ということ。

 

つまり、

阿弥陀様の功徳でさとりを得て、仏と成らせて頂いた「この私」が、

今度はすぐさまこの娑婆に還ってきて有縁の方を導く姿、ということです。

 

そうです。

亡くなった方は

「あちらで待っている」

のではありません。

 

お浄土で仏様になるということは、

自利と利他の方になるんです。

自利とは、自分のさとり、自分で良いことをしていく。

利他とは、自分のさとりを持って、必要な方を救うんです。

 

悟った者は、悟らない者を救うのが仏のはたらきですから、

親鸞聖人は、

あちらに行ったきりじゃない。

還ってきて、苦しむ人を助けること「還相回向」は「必然」

と見たんです。

 

お釈迦様は35歳で悟ったあと、

菩提樹の木の下で風に吹かれて、

優雅に遊んでいたんじゃないんです。

そのあと、

涅槃に入るまで45年、

さとりをもって苦しみ人に法を説いて回っていったのです。

自らのさとりを持って、苦しむ方を救っていったのです。

これを遊行と言います。

 

そして、この還相回向なんですが、

どんな形で私たちの前に現れると思いますか?

実は私たちの前に現れる姿のことを、

還相の菩薩

と言います。

 

菩薩というのは、

よく仮の姿となって現れます。

 

時には人、

時には風、

時には動物、

時には花、

自由自在なんです。

 

苦しむ者にわかりやすい姿になって

苦しむ者を救い、導いていきます。

 

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私のお寺には、「ラテ」という12歳の犬がいます。

保健所で殺処分寸前のところを、ある方をご縁として、うちに来ました。

これがまた、可愛い!

本当に癒されるのです。

 

実はこのラテ、6歳の時に緑内障になりました。

目の調子がどうも良くない。

ネットで調べると「緑内障かもしれない」と出ています。

しかも、「早期に手当をしないと失明する」と書いてあります。

私は急いで動物病院につれて行ったのですが、

いつもとは違う病院だったので、簡易診断で終りました。

 

連れて帰ったものの、やっぱり変です。

今度はいつもの動物病院に行こうとしたけれど、

あいにくの土曜日です。

可愛いラテが苦しんでいるのに、月曜まで待つなんて!

私は泣きながら月曜を待ちました。

 

月曜日、いつもの病院に行きましたが、

「緑内障ではないでしょう」

そう、言われて、やっぱり帰ってきたのです。

でも、その後もラテは痛がり、苦しんでいます。

やっぱり変だってば!

 

また、かかりつけの病院に行くと、今度は病名が付きました、

「緑内障でした」

 

だ・か・ら!

言ったじゃん!!

 

その後、ラテは失明しました。

何日も苦しんで、最後はこれか・・・。

私は何日も泣きました。

なぜもっと早く手を打てなかったのか。

これからラテは幸せに生きられるのか。

 

でも、ですね・・・。

今は失明しましたが、ラテはラテのままでした。

いつものように、無邪気に私に飛びついてきます。

 

このラテの生き様を見てこう思ったんです。

犬は人間の七倍のスピードで年を取っていきます。

でも、それは「生老病死」を

私たちにスピード感を持って、教えてくれているんです。

 

ラテは、過去をかえりみない。過去を考えていないんです。

ラテは、未来を不安に思っていない。未来を考えていないんです。

だから、今日生きる事だけを考えてるから、いつも楽しそうです。

 

ところがこの私、

過去を思って、

あの時こうすれば、こうしてなかったから、と考えて悔やんでばかりです。

未来を思って、

もうこうできないんじゃないか。こうだったらどうしようと不安ばかりです。

ラテのように

「今を受け入れる」

「過去に生きず、未来に生きず、今を生きる」

 

ラテもいづれは死んでいくけれど、

もしかしたら、ラテは私の菩薩なのじゃないだろうか。

 

出会いって、

いい出会い、

悪い出会いもあるけれど、

それ自体が私やあなたを導く菩薩なのかもしれませんね。

 

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今年の1月1日に西本願寺がテレビに出ていましたが、

その中で大阪の本願寺派のお寺の住職が出ていました。

名前は若林住職。

年齢は30歳前後くらいでしょうか。

最後に今日はこのお話をしていきます。

 

まず、若林住職に女性の門徒さんが質問をしていくシーンがありました。

女性が聞きます。

「母はもう亡くなっているのですが、

生前の母は、”神や仏は信じない”という母でした。

そんな母だったから、母が私の事を見守ってくれているなんて思えないんです」

 

その時の若林住職の答えはこうでした。

「そうでしたか。

でも、どこかの誰かがあなたの背中を押してくれたから、

今、あなたはこの場所にいるのではないのでしょうか」

 

その答えの意味がよくわからなかったのか、

女性は無言だったそうです。

 

さて、その若林住職。

30歳前後で住職になったのには訳がありました。

住職にはお父さんがいたのですが、

実は病気が見つかって、その時に余命宣告を受けたそうです。

前住職であるお父さんは、みるみる身体が弱っていきます。

それでも、無理をしてでも、ご門徒さんに法話をしていきます。

 

「人は死んでもおわりじゃないんや。

阿弥陀様に抱かれて、お浄土の蓮の上に生まれさせてもらうんや。

そしたらな、

すぐさまさとりを開いて、またすぐここに帰ってくるんや。

ありがたいやないか・・・」

 

そして、

最後の説法も終り、

お父さんは手すりにつかまりながら、

「ありがとう」

「さようなら」

そのように挨拶をしたそうです。

 

その日。

若林住職はお父さんに聞いたそうです。

「今、どんなや・・・」

 

すると、

お父さんはこう言ったそうです。

「うれしいわ~。

こんなうれしいことはないわ。

こんなワシでも、お浄土に生まれさせてもろうて、

また、この娑婆に還ってきて、あんたらを導けるんや。

うれしいわ~。

こんなうれしいことはないわ!」

 

その三日後、

お父様は往生されたそうです。

 

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私と言う存在は

苦を抱え、

周りに毒を吐く。

なかなか、六道輪廻を抜けられない身分なのです。

 

でも、この度、

阿弥陀様との出会いの中で

仏と成らせてもらい、

名残惜しいと思っていたこの娑婆に再び帰ってきて、

今度は有縁の大切な方を導く役割を担うのです。

 

先に往った大切なあの方は

どこか遠くに往ったんじゃない。

今、私と共にいる。

 

それが、本当の事なんです。

 

こんなことを言えば、

なんじゃそりゃ!

と思う方もいるでしょう。

 

でも、

なんじゃそりゃ!に

救われる世界がある。

 

そのことを忘れないで、

いきたいと思うことであります。

 

 

 お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

よく、浄土真宗は「ご利益」がないでしょ。

そう言われることが多いようです。

 

「私の願い」を聞くのが、

御宗旨ではないからです。

 

お守りもない。

御朱印もない。

病気が治るわけじゃない。

老いが止まるわけじゃない。

長寿が約束されるわけじゃない。

試験に受かるわけじゃない。

お金儲けができるわけじゃない。

 

でも、

浄土真宗のみ教えの中で、

往相回向と還相回向の話しは

私に勇気、希望、安心を与えます。

 

これこそが

御利益なのかもしれません。

 

今日のご法話を読んで頂き、

そのことに共感して頂ければ嬉しく

なんやそりゃ!

に救われる世界がある。

 

そのことを

今日も御伝えできればと思います。


今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたニコニコ

 

 

今日の東京都心は、朝はひんやり、

日中は暑くはなく、この季節らしい日和となりましたニコニコ

 

今日の東京都心の空です。

昔は空を見て、色々な姿を見たものです。

最近、空を見てますか?

 

今日は龍。

如何でしょうか爆  笑

 

 

 

お参りのあとは、法話を聞きましょう。

 

 

今日のご講師は、神奈川県横須賀市専福寺の照本さおり師です。

 

 

 

 

青字は照本師の言葉の要約です。

 

 

<母の心は仏の心>

 

私たちが正しくものごとを見ることは「智慧」のはたらきですが、

正しく見るには、まず「誤ったものの見方」を知っておくことが大事です。

 

仏教では、

私たちは四つの「間違ったものの見方」をしていると言います。

この四つを

「常楽我浄」

と言いますが、

常楽我浄は延命十句観音経に出てくる言葉なんですね。

 

では、

まちがった見方の四つを説明していきます。

 

まずは、

一つ目は「常」です。

常とは、「変わらないもの」ということです。

私たちは「変らないことが当たり前」と思ってはいませんか。

 

ところが、

私達の住んでいるこの世の中は、すべて無常です。

変わっていくんですよ。

常ではありません。

絶えず移り変わってゆきます。

いつも同じであってほしいと私達は願いますが、同じではありません。

移り変わります。

 

例えば、

家具でも箪笥だって数年たてば傷んできますね。

どんな建物でもやがては朽ちます。

それもある日突然朽ちた建物になるのではありません。

徐々に朽ちてゆくのです。

一年一年、一月一月、一日一日朽ちていっているのです。

もっというと、一刻一刻朽ちていっているのです。

 

久しぶりにクローゼットから出した洋服のファスナーが

きつかった経験はないですか。

 

人間でいえば「生老病死」という変化は避けられません。

いつまでも若いままであってほしいと思いますが、

残念ながら老いてゆきます。

これもある日突然老いるのではありません。

一瞬一瞬、老いつつあるのです。

 

愛する人には

いつまでも元気でいてほしいと願いますが、

誰しも最後には死を避けることはできません。

いつもいると思ったのに、

突然愛する家族がいなくなるのです。

その時、あまりの悲しみに

「もうこの悲しみがずっと続く」

「もう何もする気力がない」

と思っていたら、

いつの間にか、

ランチに行け、

旅行に行け、

趣味を楽しんでいた自分に気づきます。

 

「常である」と見るのが誤ったものの見方であり、

「無常である」と見るのが本当のことなのです。

 

第二に「楽」です。

「楽」とは、

「思い通りになると思っている」ということ。

そう思ってないですか。

 

私達の生きるこの世の中は「楽」ではありません。

苦しみです。

「思い通りにはならない」と言う事です。

楽とみるのは誤ったものの見方で、

苦であるとみるのが正しいのです。

 

お釈迦様は四苦八苦と説かれました。

生まれる苦しみ、

老いる苦しみ、

病の苦しみ、

死にゆく苦しみ、

そして愛する人と別れる苦しみ、

いやな人と会う苦しみ、

求めても得られない苦しみ、

身も心も様々な苦しみがあります。

 

すべては思い通りにはならなんです。

「そんなことは知っている」と言いますが、

では、

なぜそのご縁で

「慌てたり」

「焦ったり」

「抗おう」とするのでしょうか。

おかしいですよね。

 

 

第三に「我」です。

我とは、

「頼っていない」ということです。

頼らずに、自分で何でもできると思っている。

 

今、アメリカとイランで対立がありますが、

その影響で物の値段が高くなっていると言います。

高くなっても、お金を出せば買えるでしょう。

でも、

更に見ていくと、ある企業がユニットバスの製造を中止したり、

ある製品を注文したら、それは納入ができませんと、

今はお返事が来るそうです。

そうしたら、「お金を出せばなんでも買える」というのは

妄想になっていきますよね。

 

例えば、

ひとつの物が目の前にあるとしますよね。

そうしたら、

これを作ってくれた人がいる。

これを運んでくれた人がある。

これを売ってくれた人がいる。

多くの「縁」で、そこに対価が付いてきたんです。

 

頼ってないと思ってるけれど、

お食事をします。

そのお魚やお肉のいのちのことを考えれば、

栄養だって、「自分で何ともできない」じゃないですか。

そうしたら、もう、みんな「縁」の中で生かされていたんですね。

 

だから、

「無我である」と見るのが正しいのです。

「私のもの」なんてないじゃないんです。

 

第四に「浄」、きよらかです。

自分は「正しい」と思うこと。

 

反対に、

私達の生きる世の中は不浄です。

これを娑婆と言います。

堪忍度(かんにんど)とも言います。

 

堪忍度って、

自分も我慢

相手も我慢

ともに我慢をしながら生きていくのです。

 

私、よく、向こうから歩いてくる人と

「お見合い」することが多いんです。

歩いていて、「ああ前から人が来るな」と思うと、

右によけます。

すると相手も右によけたりします。

じゃ、左と思ったら、相手も左によけてきます。

そして、「チっ」とか言われたりします。

そうしたら、私だって「カチン」ときますよ。

こうなると、

お互いに「私が正しい!」と思う同士ですよね。

 

「浄」はお浄土の浄ですから、

この「汚れた娑婆が浄らかだ」と見るのは誤ったものの見方です。

不浄であるとみるのが正しい見方です。

たしかにこの世は醜い争いが絶えないでしょう。

 

結局、

無常であるものを<常>と見て、

苦であるのに<楽>と考えて、

無我であるのに<我>ありと考えて、

不浄なものを<清浄>と見なすこと。

これが、

四つの誤ったものの見方です。

 

それが人間なんだと、

仏さまは見抜いたんですね。

 

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曹洞宗の北野元峰さんのお話です。

北野禅師は、

曹洞宗の大本山、福井の永平寺の第六八世貫主を務め、

曹洞宗の管長もなさった方です。

生まれは江戸時代になりますが、昭和の初期までご活躍されました。

 

元々はお寺の生まれではなく、

お父さん、お母さんもお寺というわけではなかったものの、

お父さん、お母さんが得度をしていたそうです。

 

北野さんは1842年福井県に10人兄弟の一番下に生れましたが、

お母さんはその時47歳です。

今でも47歳であれば高齢出産ですが、

当時の47歳のお産はどれだけ大変だったでしょうね。


上の姉二人が尼僧だったのですが、

上の姉が男の子が生れて出家することを祈願していたと言います。

そして、同郷出身の和尚を頼りに、

姉二人に、9歳にて上州(群馬県)最興寺の哲量和尚の下に連れて行かれます。

しかし、北野さんは、哲量和尚が年寄りだったので、

「こんな、先の短い和尚は嫌だ」と言って姉を驚かしたそうです。

 

そして、10歳で得度しますが、
いたずらが激しく師の手に負えず、

16歳にて武蔵国(東京)の松月院の魯衷和尚に預けらることになります。

 

さて、16歳で上京することになったのですが、

その時お母さんは63歳です。

当時の63歳ですから、かなりの高齢と思っていいでしょう。

事実、床に伏せることも多かったそうです。

 

上京の前になり、北野さんは「行って参ります」の挨拶の為に、

お母さんのところに行きました。

病床ゆえ、お母さんは布団の上に正座で北野さんの言葉を聞いていました。

 

「お母さん、いよいよ武蔵(東京)に行く事になりました。

私の事は心配はしなくても大丈夫です。

たくさん修行をして、たくさん学んで、

やがては大僧正になって帰って参ります。

ですから、それまでは帰っては来ません」

 

すると、

それを聞いていたお母さんはこのように言ったそうです。

 

「そうですか。

その言葉、母は嬉しく思います。

でも、母の心は違います。

もし、あなたが大僧正になったら、

帰ってこなくても大丈夫です。

あなたの力、あなたの施しが

必要な方の傍にいてあげて下さい。

 

でも、

もしあなたが、

悪い因縁に巻き込まれて落ち込んだり、

堕落僧に成り下がってしまったり、

世間からそしられて辛い日を送っていたり、

自分でもどうしようもなくなった時は、

いつでも母のところに帰ってきて下さい。

母はふところを開いて、

あなたを待っています」

 

その後、武蔵に出た北野さんは大変な努力をなさったでしょう。

曹洞宗のトップに上り詰めていったのですが、

その後このように述懐します。

 

「ここまでやってこれたのは

”母の願い”があったからです」

 

  👵    👵    👵    👵    👵    👵

 

さて、

今日のお話をまとめていきましょう。

 

私たち、

無常であるものを<常>と見て、

苦であるのに<楽>と考えて、

無我であるのに<我>ありと考えて、

不浄なものを<清浄>と見なすのです。

 

その結果、

自分の中で苦を作って

もがいています。

 

よく、

「立派になりなさい」と言われると思いますが、

阿弥陀様は

あなたに「立派になりなさい」とは言いません。

 

人の考える平等は「みんな同じ」ですが、

阿弥陀様の考える平等は「必要な人に必要なことをする」ということです。

 

立派な方に

阿弥陀様は必要がありません。

 

色々なことで迷い、

色々なことで悩み、

色々なことで苦しむ。

 

そんな私だからこそ、

救わずにはおれない。

そんなあなただからこそ、

救わずにはおれない。

必ず救うと

誓われたんです。

 

だから、

救いの目当ては

私であり

あなたなんですよ。

 

 

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ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

照本師は法話の中では、「一子地」のお話もされました。

仏さまの平等とは、

例えば子供が3人いたら、

ゲンキな子には「いってらっしゃい」の笑顔でいい。

部活で頑張る子には「お腹いっぱい」食べさせる。

でも、

病気で苦しむ子がいれば、水を与え、薬をあげて、寝ずに看病していく。

 

それは、

苦しむ者ほど、

「一人っ子のように」

手厚くお慈悲を施していく。

 

阿弥陀様とは、

そういう心だと言うのですね。

 

いつでも、

放っていかないのが阿弥陀様ですよ。

ありがたいと思いますニコニコ

 

今日もようこそのお参りでした。

 

今日の東京都心は、朝方の雨もあがって、青空も見えました。

世間ではゴールデンウィークモードですが、

私は相変わらずお寺参りモードです(笑)爆  笑

 

今月の参拝カードです。

 

 

裏面です。

 

 

お参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、神奈川県横須賀市専福寺の照本さおり師です。

 

 

 

 

青字は照本師の言葉の要約です。

 

 

<仏さまのお話>

 

仏教では、

よく「苦」という言葉を使います。

でも、「苦」と言っても、

私たちが普段使うイメージの「苦」とは違います。

これは、

自分の思い通りにならない。

という意味なんです。

 

お釈迦様は、生老病死を「四苦」と言いましたが、

生まれることも選べず、

老いることも、病と出会うことも、死ぬ事さえ、

私たちは避けられないのです。

 

お釈迦様は、

「苦」に対して、

今ここで出会った出来事が、

「自分の思い」ではない時には、

それを「思い通りにしたい」

と思う心が沸き上がってくる。

だけれど、

「思い通りにしたい」という思いが

強ければ強いほど「苦」が生まれるのだ

と見抜きました。

 

じゃ、

その「苦」を

「苦」じゃなくすには、

どうしたらいいか。

 

目の前の出来事を

そのまま受け取ればいいのです。

 

例えば、

雨が降ってきた。

すると、嫌だなと憂つになる。

これが私たちの「苦」

これをお釈迦様は「第二の矢」と言いました。

「一本目の矢」(雨)だけでなく、

自分で「二本目の矢」(憂つ)を感じて受けてしまう。

 

だけれど、

雨が降ってきた。

ああ、そうなんだね~とそのまま受けとる。

そうしたら、「苦」はないんです。

「一本目の矢」だけで、

「二本目の矢」は受けないんです。

 

でも、

それが徹底出来ないのが人間。

悟れない者。

それが徹底出来るのが仏さま。

悟った方。

 

私にはできないわ~。

だから、

「苦」を抱えちゃうのです。

 

「苦」を抱えたら苦しいですね。

自分じゃ抱えきれなくなれば、

周りにも毒を吐く私なんです。

 

そういう世界から抜け出しませんか?

というのが

「仏道」です。

 

ここに

「仏さまの救い」

というものが出て来るんです。

 

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私、ある時、

大阪の四天王寺というお寺にお参りに行ったんです。

そうです。

聖徳太子がお建てになったお寺です。

 

その中に亀井堂というお堂があります。

亀井堂には、文字通りに石像の亀がいて、

石像の亀の口からは水が出ていて、

その水で池が出来ています。

池は私たちの参拝場所から、

1メートル50センチくらい下にあるのです。

 

そして、希望する参拝者は、

木の板に自分や縁のある方の戒名を書いて、

それをその池に浮かべるんです。(経木流し)

その木は、池に浮かぶでしょう。

浮かんでいて、

それで「極楽浄土行きは間違いなし」、

と言います。

 

それをよく見ていたら、

そこの担当のお坊さんが、網を持ってきました。

そして、1メートル50センチ下にある池に向かって、

上から下に向かって木の板をすくったんです。

 

ああ、

すくった!

すくわれた!

 

しかも、

網だ。

あみだ様だ!

 

こんなシーンを見させてもらいながら、

私は浄土真宗の梯實圓(かけはしじつえん)和上の言葉を思い出していました。

 

「阿弥陀様が、すくう、すくうと言うても、

金魚すくいと違いまっせ」

 

私たち、仏さまにすくわれるって、よく聞くんですが、

高い上から、

下にいる私に向かって、

金魚をすくうように網ではすくわないと言うのです。

 

阿弥陀様は、

池に飛び込んで、おぼれるような私を

身体ごと抱いてすくってくれる。

それが、数ある仏さまの中の

阿弥陀様という仏さまだと聞いていきます。

 

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よく、

「平等」

っていいますよね。

例えば国が支給する給付金。

全員に〇〇万円支給しますと言ったら、

若い人も高齢者も

お金持ちもお金がない人も

すべてが同じ金額です。

 

大抵はこれを「平等」と言っています。

 

ところが、

仏さまの平等は違います。

必要度が低い方には少しでいい。

必要度が高い方にはたくさんの必要なものを。

 

これが、

仏さまのお考えになることです。

 

2011年3月11日。

東日本大震災がありました。

築地本願寺は、参拝客の避難所として仮本堂と斎場を一晩開放したんです。

築地本願寺の僧侶が午後5時半過ぎにツイッターを通じて知らせると、

交通機関がストップしたために

帰宅が困難となったサラリーマンや家族連れが続々と集まり始め、

午後8時ごろには200人を超えたそうです。

用意したおにぎり10皿も2時間ほどでなくなったそうです。

避難所として一般に施設を開放したのは、

1995年3月の地下鉄サリン事件以来だったとのことです。

 

3月と言えば、まだ寒い時期です。

避難をしてきた方の為に、そこではスープが配られたそうです。

後に、そのスープを頂いた方がこんな言葉を残しています。

「こんなおいしいオニオンスープを初めて頂いたけれど、

本当に嬉しかった」

 

これが週刊誌にも取り上げられ、

「絶品オニオンスープ」と報道したので、

外部から「ぜひレシピを教えて下さい」と問い合わせがあったそうなんです。

ところが、築地本願寺の職員は困りました。

あのスープは、

「できるだけ多くの方に温かい飲み物を施したい」

ということで、

「コンソメスープの素をお湯で薄めたもの」だったのです。

それも、多く作りたいがために、「薄目」になったそうです。

それでも、「絶品オニオンスープ」と思わせたもの。

それは何だと思いますか?

 

あの状況。

つらい状況。

まさしく「苦」の中で頂く、

温かな「施し」

それを頂いたから「絶品」だったのではないでしょうか。

 

必要な方に必要な慈悲を。

それが仏さまの「平等」です。

 

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「聞く」

ということを考えていきましょう。

私のお寺は神奈川県の三浦半島にあるのですが、

ウグイスがたくさんいるのです。

 

みなさん、ウグイスはなんて鳴きますか?

多くの方には

「ホー、ホケキョ」

という音に馴染みがありますよね。

ところが、私には、

「ホー、ホッカイドー」って聞こえるんですよ。

 

最近、ネットで大きくバズッた動画がありまして、

柴犬が出て来るんです。

飼い主さんが「たべる?」って聞くと、

柴犬が「たべる」って答えるんです。

いや、正確には

「そう聞こえる」ということです。

 

私ですね。

「家で庭に勝手に育った葉っぱをゆでて食べてるんですよ」

今、私が言ったこと。

皆さんは、「この人、雑草を食べてるのかしら?」

と思ったでしょうか。

いや、実はそれは「春菊」の葉なんですよ。

 

そういうのを並べて考えていくと、

私たちは

「耳で聞いたことは、そのままを聞いてはいない」

そう言えると思うんです。

 

言葉って、

聞いた途端に、

自分のフィルターに通して、

それからイメージが広がりますよね。

これは「知覚心理学」という分野らしいのですが、

結局は、正しく聞けてないことも多いのです。

これを仏教では

「不如意(ふにょい)」

と言います。

 

私の耳って、

そのまま聞けない。

そのままに受けてれないのが

実態のようです。

 

また、

見た目ってありますね。

 

先日うちのお寺に

坊主頭に、腕念珠をして作務衣を着てる男性が尋ねてきました。

もう、私はてっきりお寺の関係者かと思っていたら、

まったく違う一般の方でした。

 

私たちって、

「自分は正しい」

という見方をしてますものね。

 

こんなこともありました。

実家である兄のお寺で法要をしていた時の事。

私の隣には、私の母が、

私の前には、兄の娘が座っていました。

そこで、「正信偈」のお勤めをしていたんです。

ところが、うちの母は「音をとっていくのが苦手」です。

「正信偈」の節がどんどん外れていきます。

実はこうなると、隣の私にも影響があって、つられてしまうのです。

そのため、母に合図を送りながら、お勤めをしたんです。

やっと終わって、私は母に言いました。

「今日のお勤め、音が外れってたよ」

そうしたら、兄の娘がこう言いました。

「うん、今日は、ふたりとも違ってたよ」

 

いや、兄の娘はピアノを習っています。

絶対音感がありますから、

私も恥ずかしくなった次第です。

 

やっぱりですね。

「私は正しい」と思ってますからね。

その私が見る世界は、

きっと間違ったモノの見方を

するんじゃないでしょうか。

 

こうなりますと、

正しく、ありのままを見れませんから、

あの人はいい人。

あの人は悪い人。

そうやって、心で人を殺めていくことってあると思うんです。

 

自分の都合の中で生きていくのですから、

「苦しみ」の中で生きていくのは

やっぱり当然なのかもしれません。

 

そういう姿を見て、

放ってはおけないと

立ち上がったのが

阿弥陀様という仏様です。

 

言っておきますが、

仏さまは「ひとりひとりのお願いを

聞くためにいる」のではありません。

「ひとりひとりの悲しみに寄り添うため」に

あなたの傍にいるのです。

 

今日もここで出会う仏様に

ありがとうの言葉、

ありがとうのお念仏を、

申して参りましょうか。

 

 

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ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

今日も仏さまのことを書かせて頂きました。

ゴールデンウィークのお寺ってどんなかなと思いましたが、

東京都心ということもあり、

外国人の参拝者さんが多かったですね。

 

それでも、

外国の方が手を合わせる姿と言うのは、

「目には見えない神聖なもの」

そういうことが伝わっていくのでしょうね。

 

ゴールデンウィークは、

皆様はあっちこっちの旅行中でしょうか?

 

皆様がどこに行こうと、

仏さまがご一緒されていますので、

どうぞご安心くださいニコニコ

 

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

 

「煤払い(すすはらい)」と言うのを

お聞きになったことがあると思います。

 

良く聞くのは、ご自宅の年末の大掃除や、

お寺ではご門徒さんたちが集まって

御内陣のお飾りや香炉を磨いたりします。

 

さて、その煤払い。

俳人の飯田蛇笏(いいだだこつ)さんは、

煤払いをこのように詠みました。

 

煤払い

終えて山河の

澄みにけり

 

一生懸命に、

あるいは無心に、

煤払いを終えたら、

どんな気分になるでしょう。

 

飯田蛇笏さんは、

煤払いを終えたら、

清々しかった。

そうしたら、

山や川といった、

目に映る外の世界が

澄んで見えてきた。

というんですね。

 

いやいや、

でもですね。

煤払いをしたら、

なんで急に山や川が澄んでいったのでしょうか。

 

そうですね。

実際には「外の世界」が

変わったわけじゃないんですよね。

 

掃除によって

自らの心が澄み、

その目を通して

外の世界が新鮮に

輝いて映ったのでした。

 

 🗻   🗻   🗻   🗻   🗻   🗻   🗻   🗻


さて、

今日の東京都心は午前中が雨雨でしたが、

4月は結構雨雨が多かったと思います。

 

そうした時、

我が心はどうしたものだっだでしょうか。

 

「今日は雨かぁ~」

「天気が悪いから、やる気がでないなぁ・・」

 

なんてことは、なかったでしょうか。

 

そもそも、

「天気」と言えば、

酷暑や台風などの特別な場合を除いては、

基本的には「いい」「悪い」なんてないと言います。

雨であれば、

雨が降らないと困るのは自分なのに、

自分の都合で「悪い天気」とか、「恵みの雨」になり、

時には「やる気でないなぁ・・」と、

ぼやく私なのです。

 

どうも、

そうしたことを考えていくと、

自分の心の中に、

煩悩という煤があって、

貪欲(とんよく)・・・もっともっと! のむさぼりの心

瞋恚(しんに)・・・・まったくもう! の怒る心

愚痴(ぐち)・・・・・本当のことをしらない 愚かな心

 

そういうものが積もっていくと、

きっと

目が、

心が、

濁っていくのでしょうね。

 

であれば、

何かをきっかけに

「心の煤払い」をしないと

自分の目や心は

いつまでも周りの景色の美しさに気が付かない。

そんなことはないでしょうか。

 

さあ、

どうしましょう?

私はお寺で煤払いです。

煤払いしても、

そのお寺の帰り道で、

また少しづつ煤が積もる私です(笑)

だから、やっぱり、

また来なくちゃなと、

思うわけです。

 

皆様も、

ご自分にふさわしいものを通して、

心の煤払いをして、

外の景色を

澄んだものにしていきましょうニコニコ