今日も我が家の

日めくりカレンダーと共に

ご一緒に味わって参りましょう。

 

 

後ずさりも

立派な一歩。

 

 

病気をして仕事も失った。

何もかもうまくいかない。

毎日つらくて

「もう一歩も前に進めないよ」

とぼやいたら、

友人が掛けてくれた言葉。

 

そうか、

後ずさりをしてもいいのだ、

今は後ずさりをすることで

助走をつけているときなのだと、

前向きにさせてくれた。

 

         千葉県 匿名希望 無職

 

  👠   👞   👠   👞   👠   👞  

 

人生を生きていますと、

色々なことが起きてきます。

 

それは、

人生を生きた年数分

起きてきます。

 

でも、

その物事というのは、

ただ、

起きるのです。

 

人生は自分中心に回っているとか、

思っていないのにも関わらず

やっぱり

いろんなことが起きてきます。

 

時には

兄弟げんか、

育児の悩み、

人間関係に疲れ、

失業したり、

病に倒れたり、

老いに苦しみ、

親しい方とのお別れもあれば、

いよいよ人生の終盤には

死ぬ事さえ怖くなってきます。

 

すると、

周囲は

こういうことを

言うことがあります。

 

しっかりしないとダメ。と言われます。

強く生きないとダメ。と言われます。

仕方ないじゃない。と言われます。

時が解決するよ。と言われます。

やまない雨はない。と言われます。

心療内科に行ったら。と勧められます。

あの人なんか、という比較もされます。

 

あ~、

ため息どころじゃないですよね。

 

  👠   👞   👠   👞   👠   👞 

 

伏見山正法寺

今月の掲示板です。

 

 

 

人の傷を見て

笑うのは

傷の痛みを

知らない奴だ

 

 (シェイクスピア)

 

 

皆さんが心を痛めている時、

誰かが

「そうか、辛いよな」

と言ってくれますか?

 

それとも、

「そんなことじゃあ・・・」

と言うでしょうか。

 

仏さま

菩薩さまは

「そんなことじゃあ・・・」なんて、

きっと言わないと思いますよ。

 

  👠   👞   👠   👞   👠   👞 

 

実は

心から傷ついた方と言うのは

このように追い詰められているんです。

 

 

 

やまない雨はない

とかじゃなくて

今降ってるこの雨が

もう耐えられない

っつてんの

 

アニメ・イラスト作家 谷口 崇

 

 

ですよね。

 

だから、

人生は

 

 

 

向いた方が前だ

 

 

大相撲の横綱だって、

前ばかりじゃない。

前に押して、

後ろに引いて、

左右に身をかわし

上からも

下からも

身構えていきます。

 

だから、

悩んでいる方は

一歩引いても大丈夫ですよ。

 

いつか、

あるお坊さんが言ってましたよ。

「硬い木は、意外と風で倒れます。

柳のようにしなやかだと

意外と倒れないんですよ。

人の心もしなやかだといいですね」

 

人生の中で

二歩も

三歩も

四歩も

五歩も

後ずさりをして

引いてきた

私から

今日は

この言葉を

ご一緒に

味わって

頂きました。

 

 

 

その一言が

人の心を

傷つける

 

その一言が

人の心を

暖める

 

(東京都杉並区 曹洞宗永昌寺の今月の掲示板)

 

 

あ~

今日も

人生の

荒波は

疲れましたよね爆  笑

 

今日も

一日

お疲れさまでした☕ウインク

 

 

今日の東京都心は、晴れ☀️時々雲☁です。

 

今日は第三日曜日ですね。

東京都港区安楽寺の法話会に行ってきましたニコニコ

 

 

参道です。

 

 

本堂と玄関です。

 

 

お参りのあとは法話会です。

今日のご講師は、安楽寺住職の藤澤克己師です。

 

 

青字は藤澤師の言葉の要約です。

 

 

<人生の問い>

 

 

なんのために

生まれて

なにをして

生きるのか

こたえられない

なんて

そんなのはいやだ

 

 (アンパンマンのマーチ)

 

毎月、お寺の掲示板の言葉を元にお話をしていますが、

今月はこの言葉を選びました。

 

皆さんは「アンパンマンのマーチ」をご存じですか?

大人の皆さんでも、一度は耳にしたことがあると思うのですが、

曲自体は「楽しく」「明るい」曲で、

幼稚園や保育園の運動会の行進曲などにも

多く使われているようです。

 

子供向けのアニメソングなのですし、

漢字は「生」だけですから、

一見、読みやすく、分かりやすいですよね。

でも、

その曲に書かれている歌詞の一部がこれです。

 

私はこの言葉を最初に聞いたときは

「ハッ」としたんです。

 

先日、ある法事でこの言葉をご紹介したんですが、

大人の方でも、

「なんのためにうまれて、なんのために生きるのか」

それを答えられる方はいませんでした。

 

皆さんは、如何ですか?

何とお答えになりますか?

 

  🍈    🍞    🍈    🍞    🍈    🍞

 

実は、

仏教では答えがあるんです。

 

お寺の法要や法話会の時に、

三帰依文(さんきえもん)を言うことがありますよね。

 

人身受け難し、いますでに 受く。

仏法聞き難し、いますでに 聞く。

この身 今生において 度せずんば、

さらに いずれの生においてか この身を度せん。

大衆もろともに、至心に三宝に帰依し 奉るべし。

 

自ら 仏に帰依し たてまつる。

まさに 願わくは 衆生とともに、

大道を体解して、無上意を発さん。


自ら 法に帰依し たてまつる。

まさに 願わくは 衆生とともに、

深く 経蔵に入りて、

智慧 海のごとくならん。


自ら 僧に帰依し たてまつる。

まさに 願わくは 衆生とともに、

大衆を統理して、一切無碍ならん。

 

無上甚深 微妙の法は、

百千万劫にも 遭遇うこと難し。

我いま見聞し 受持することを得たり。

願わくは 如来の真実義を解し たてまつらん。

 

(意訳)

この世に人として を受けることは なことです。

しかし、今すでに生を受けています。

 

そして、人として生を受けても仏教に出遇うことはさらに難しいことです。

しかし、今すでに仏教に出遇うことができました。

 

この人生において迷いの道を断ち切らなければ、

私の人生はどこに向うのでしょうか。

私はこの教えに生きるすべての人びとと共に、

仏さま(仏)、教え(法)、僧侶・仲間(僧)の

三つの宝に帰依(きえ:大切に)いたします。

 

私は仏に帰依いたします。

そして生きとし生けるものとともに、

このないをおこして、

この教えを実践することをわずにはいられません。

 

私は法に帰依いたします。

そして生きとし生けるものとともに、

この教えによって、

深い海のような智慧ることを願わずにはいられません。

 

私は僧に帰依いたします。

そして生きとし生けるものとともに、

この教えに生きるすべての人びとを分けてなく大切にして、

教えを実践することにげがないように願わずにはいられません

 

この上ないだ深くすぐれた仏教の教えは、

どれだけ長い時間をやしても出遇うことは難しいことです。

しかし、今すでにその教えに出遇うことができ、

これをりどころとすることができました。

私は、普遍的真実であるこの教えを

らかにできるように願わずにはいられません。

 

 

つまり、

人間に生まれたからには

仏法を聞くために生まれて

仏法を実践するために生きる

と言うのですね。

 

さて、

皆さんはそれを聞いてどう思いますか?

 

確かに仏法は「いい教え」を伝えてくれていますが、

大抵の方は

「そんなこと言っても、ピンとこない」

そのように言われることでしょう。

 

 お願い     お願い     お願い     お願い     お願い    お願い

 

アンパンマンを描いたのは、

やなせたかしさんという方です。

NHKでは

「あんぱん」というドラマでもおなじみでしょうか。

 

やなせさんは戦争体験者ですが、

そこには

「逆転しない正義」

を思う心があったようです。

 

戦争当時、

教師やマスコミは誰もがこう言ったのです。

「この戦争は正義の戦い」

「敵国をやっつけるには、人の犠牲はやむを得ない」

「お国の為に死ぬ事は名誉な事」

 

ところが、戦後、この正義は見事に逆転します。

「人を犠牲にする正義はあり得ない」

 

アンパンマンを見て下さい。

お腹をすかせる人がいたら、

自分の顔をちぎって与えるのです。

 

困った人がいれば

救わずにはいられない

 

これは実は

逆転しない正義です。

 

やなせさんは

こういうことを

伝えたかったのかもしれません。

 

  🍈    🍞    🍈    🍞    🍈    🍞

 

作られたものには、

大抵「目的」があります。

はさみは、「ものを切るため」に作られました。

包丁は、「食べ物を切るため」に作られました。

 

では、

生まれた人の、

「生きる目的」は

何なのでしょうか。

 

今日は

答えが「仏法に会うためです」とは申しません。

それを言っても、

心には響かないでしょう。

 

先ほど、

若い女性が安楽寺の掲示版をみていましたよね。

あれを見て、

「あ、なんだろう」

「私って、ホントは何をしたいのか」

「私って、ホントは何をして生きたいんだろう」

「私って、何を大切に生きているだろう」

「私が大切にしたい人ってだれだろう」

 

そういうことを

一人一人が振り返ってみる

きっかけになればいいなと思い、

今日はテーマにさせて頂きました。

 

そこから、

「なんで?」を深堀してみる。

 

「なんで、親がいるんだろう」

「なんで、先生がいるんだろう」

「なんで、友達がいるんだろう」

「なんで、仏さまがいるんだろう」

 

  

  🍈    🍞    🍈    🍞    🍈    🍞

 

よく聞く言葉を味わってみましょうか。

 

他人と過去は変えられない

 

私たちって、

他人に変わってほしいなんて言うけれど、

他人なんて簡単に変わりません。

 

私たちって、

起こった事実を悔やみ、嘆き、怒り、悲しむけれど、

既に起きてしまった過去の事実は変わりません。

 

でも、

ここからが大事なところです。

 

私たちのこれからの

人生の生き方

人生の感じ方

そういうもので、

他人もそうですが

過去の事実の意味が変わっていく。

 

言い換えれば、

自分が過去の事実を

作り変えることができるのです。

 

皆さんは

どれくらい辛い過去がありましたか?

 

今はどうですか?

「あれがあったから、自分は育ててもらった」

「あれがあったから、自分は変われた」

「あれがあったから、自分は大切なご縁と巡り合えた」

 

いい

悪い

 

そういうものを

超えてみましょうか。

 

過去があったから、

今の自分がある。

 

今の事実で

過去が変わっていく。

 

そう言う風に見ていくと、

「諸行無常」

とは言いますが、

人生は時間軸の中で

いろいろなものが

繋がってきています。

 

なんのために生きるのか

なにをして生きるのか

 

もし、答えが今なくても

大丈夫です。

 

なんだろう?

なぜなんだろう?

と思って

自分が日々

アップデートしていきましょう。

 

その中で

見つかればいいし、

見つからなくても

 

困った人がいれば

救わずにはいられない

 

そういう阿弥陀様のような

逆転しない正義を持って、

今日を精一杯生きていけば

きっと出会えるものがあると思います。

 

 あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

他人と過去は変えられないが

自分と未来は変えられる

 

 

もうひとつあります。

 

 

 

過去は変えられないが

過去の解釈は変えられる

 

どちらも、

深い言葉です。

 

何のために生きるのか?

 

ちなみに藤澤住職にお聞きしたら、

「仏さまのお慈悲の実践のために生きていきたい」

と仰っていました。

流石、宗教者の方は違います。

 

私は?と言うと、

今の答えはありますが、

それよりも

これからの人生の中で

最後に死ぬ時に振り返って

「ああ、このために生きてきたんだ」

そう思うことで

初めて「自分の人生の意味、目的」を

知るような気がします。

 

だって、

人生の目的も

何をして生きるのかも、

年齢やその時の状況で

いくらでも

変わるじゃないですか。

 

皆様はいかがですか?

わからなくて大丈夫です。

御住職の言うように

日々の

アップデートの中で

見つけていきましょうよ。

 

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

 

今日の東京都心は、午前中は雨☔で、

午後からは雨☔もあがりましたが、

湿度も高く、ちょっと動くと汗が出てきます。

 

私は今日も

仕事が休みなのですが、

こういう日も仏法との

ご縁があるんですね。

有難い爆  笑

 

今日は地元の

浄土真宗本願寺派

世田谷組(せたがやそ)の

イベントに行って参りました。

 

会場は東京都世田谷区妙祐寺です。

 

 

インド様式のお寺です。

 

 

 

今日は門徒の集いがありました。

 

 

では、今日も法話を聞きましょう。

今日のご講師は、千葉県我孫子市真宗寺の柏倉学法師です。

 

 

 

 

字が柏倉師の言葉の要約です。

 

 

<願われて愛されて>

 

私たち浄土真宗では、大切にしているお経が三つあります。

仏説、無量寿経

仏説、観無量寿経

仏説、阿弥陀経です。

 

その中でも一番大切にしているのが、

仏説無量寿経です。

それは何故かと言えば、

阿弥陀様という仏さまが、

何を願い、

何を想い、

何を大切にしようとしたか。

そういう根本的なことが書いてあるからです。

 

そもそも、

仏さまの国、仏さまの世界は210億もの世界があるそうです。

それは210億の仏さまがいるということなのですが、

その世界をひとつひとつ、阿弥陀様はご覧になったそうです。

 

すると、

この人は救われてるけど、

あの人は救われずに苦しんでいる。

そうやって、

仏さまなのに救ってもらえない人が見えたんです。

 

それじゃあ、だめじゃん・・・。

 

阿弥陀様は、

全ての人を漏れなく救いたい。

そういう想いを持ったんです。

 

あの仏説無量寿経には

その想い、決意、誓いが書かれている。

 

だから、

浄土真宗ではこのお経を大切にしています。

 

  あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい

 

私の娘は今、小学3年生なんですが、

娘を授かった時、私には強い「願い」がありました。

それは、「賢くなってほしい」ということでした。

 

私の本名は「学(まなぶ)」です。

私の両親は「よく遊び、よく学ぶ子」になってほしい。

そう言う願いを持って名前を付けてくれたのに、

私は「よく遊び、よく遊び」の子供でした。

 

遊んだお蔭で、苦労もするのですが、

そうなると、娘には「賢くなってほしいな」と思いますよね。

 

私はある時、

娘に知育パズルを買ってきたんです

 

(イメージとして、画像をお借りしています)

 

色々な色や形があって、

そこに見合う場所に入れてみて、

入ればOKということで、

成功体験や知恵が育っていくというんですね。

 

ところが、

娘はどうもうまくいかない。

それで良く見ると「対象年齢」と書いてあって、

うちの娘は対象年齢以下でした。

「ありゃ・・・」

 

知育玩具というけれど、

年齢が合わなければ、

かえって失敗経験が増えたり、

集中力がなくなったり、

飽きっぽくなっていくそうです。

 

それでも、

せっかく買ってきたんですから、

私は一緒に遊んで、手を取って誘導したり、

中に入ればオーバーに褒めたたえました。

 

でも、

やっぱり簡単には入らないんですね。

「あ~、やっぱり難しいのかなぁ」

なんて思ってたらですよ、

ある時、扉を開けて、

形のピースを全部押し込んで喜んでいたんです。

 

それはそれで

「賢いわ、この子」

って思っちゃいました。

 

でもこの話。

四角いピースは、丸い穴には入れないんですよ。

三角のピースは、四角い穴には入れないんですよ。

これは、

条件が付いてるってことです。

 

これ、

ピースを

「あなた」や「私」に

置き換えてみましょうか。

 

「あなたは、この仏様の国には入れませんよ」

「だって、こういう条件を満たしていないから」

もし、そうやって、

仏様から拒否をされたらどうですか。

 

悲しいでしょ

辛いでしょ。

やるせないでしょ。

 

そんな悲しい事。

そんなことがあるなら、

私は仏に成りませんと

阿弥陀様は

想い、願い、誓ったのです。

 

今、阿弥陀様が如来と呼ばれていると言う事は、

その想い、願い、誓いは

「成就された」

ということです。

 

大丈夫

私も

あなたも

大丈夫なんです。

 

娘が丸も三角も四角も、

全部をガバっと入れた、

あの扉。

あれがお浄土への入り口なのかもしれません。

 

阿弥陀様の救いって、

無条件の救いです。

 

きっと、

あのパズルの扉のようなものなんですよね。

 

  〇   △   □   〇   △   □  

 

私は今は千葉県に住んでいますが、

実家は東京都青梅市(おうめし)です。

そのため、昔からちょくちょく、

地元に帰ることがあります。

 

私の親友に「みつる君」

通称みっちゃんがいます。

 

随分前になりますが、

私が地元に帰ってみっちゃんと

一杯やっていた時の事です。

みっちゃんは悩みがあるといいます。

聞くと、

当時思春期になった息子さんが

手に負えないと言います。

時々、警察の厄介になったり、

みっちゃんの奥さん、

つまり息子さんのお母さんにも手を出すと言います。

 

私は言いました。

「そうか、それは大変だな。

でも、お前もそうだったよな。

そのお前の息子じゃ、仕方ないじゃないか。

お前もひどかったよな・・・」

 

実は、みっちゃんは、自分が思春期の時、

やっぱり荒れていたんです。

だから、みっちゃんは、今さら、自分の息子に

「ちゃんとしろ」なんて言えないというのです。

 

みっちゃんは言います。

「でも、俺は親には手を出したことはないけどな」

 

いや、

そうはいっても、

どっちもどっちなのかなぁ・・・。

 

私はそう思いながらも、

話しの視点を変えてみようと思いました。

 

私 「そう言えば、みっちゃんの息子さんの名前はなんて言うんだ?」

みっちゃん 「優哉(ゆうや)」

私 「それはどういう意味?どういう想いでつけの?」

みっちゃん 「優哉の優は、やさしいということ。優しい子になってほしかった」

 

私は質問を続けました。

私 「じゃ、優しい子になるように、お前は優しく育てたのか?」

みっちゃんは少し考えて言いました。

  「う~ん、どうだったかな・・・」

 

思えば、

学生時代のみっちゃんは、いや、大人になっても

やんちゃ坊主なところがありました。

大声でわめき、喧嘩をするし、人との口論も当たり前。

あげくのはてに、

「他人と喧嘩して鼻を骨折しても記憶なし」ということもありました。

 

みっちゃんは腕利きの大工さんでしたが、

休みの日には競輪競馬のギャンブル漬け、

奥さんがいるのにも関わらず

女性の影がちらつくこともありました。

 

私は思わず言いました。

「優哉君はお前の背中を見てるよ」

「お前は自分のことを振り返らずに、優哉君をどうしたいんだ」

「優しい子になってほしいという願いがあるなら、

そのように育てていくしかないんじゃないか」

 

  キャップ    キャップ    キャップ    キャップ    キャップ    キャップ  

 

それから、随分経ちました。

私が地元に帰って、馴染みのお店でお酒を頂いていた時の事です。

偶然にもみっちゃんがお店に入ってきたのです。

「おう、久しぶり!」

 

その後、若い女性入ってきて、

みっちゃんと親しく話しています。

「なんだよ、お前はちっとも変わってないな」

そう思ったとき、ひとりの若い男性が入ってきました。

みっちゃんが言いました。

「これ、うちの息子の優哉と、そのお嫁さん」

 

え?うそでしょ?

 

その後は4人でテーブルを囲み、

話しが始まっていきました。

あの悩みの後、

実はみっちゃんは、

少しずつ家に帰る日が多くなっていったのだそうです。

家にいれば、家族とのコミニュケーションも促進されます。

すると、家族が少しずつ仲良くなっていったそうです。

 

親を信頼できなかった優哉君も少しずつ変わっていき、

その後、みっちゃんと同じ道、

つまり大工さんとして頑張っているそうです。

 

願いがある。

願いがあっても、

そのままでは願いは叶いません。

願いに「行い」があって、

初めて願いは

叶っていくもの

なのかもしれません。

 

阿弥陀さまが

願いだけでなく

自らの行いによって

今、仏に成り

多くの方を救うように。

 

誰もが

掛けられた願い

があるのです。

 

大事にしていきたいものです。

 

  キャップ    キャップ    キャップ    キャップ    キャップ    キャップ  

 

数年前のお話なんですが、

私の連れ合いの友人が結婚をすることになりました。

その方は40歳代であり、人生の様々な経験を積み重ね

今回の「結婚」というご縁を頂いた方でした。

 

結婚ですから、当然お相手がいます。

お相手の男性も同年代でのご縁との事。

じゃ、どんな方が会ってみようということで、

私はそのお相手の男性に会ってみたのですが、

まあ~・・・。

いい男!。

 

いや、顔と言うよりは、

全体的に包容力があって明るくて、

実に気持ちのいい方でした。

 

その男性も気さくな方で、

「いや、柏倉さんは私が初めて会ったお坊さんです」

と上機嫌です。

 

そんな交流をしているうちに、

男性から連絡がありました。

「今回の私たちの結婚式、是非司婚者をして下さい」

え?うそでしょ?

私は最初は尻込みしましたが、

私の連れ合いの

「いいんじゃない。やれば~」

の一言で決まりました。

 

そして、結婚式です。

式も終って、披露宴の後は

二次会、三次会、四次会まで盛り上がりました。

最後の方は、私と新婚夫婦、新郎のお父さんと言う

何とも言えない組み合わせの盛り上がりでした。

 

そして、

この新郎のお父さんが、また、いいお父さんです。

「子を見れば親がわかる」

「親を見れば子がわかる」

そんな言い回しも聞いたことがありますが、

とにかく、お父さんも優しくて包容力があって明るくて、

褒め言葉がいくらあっても足りないくらいです。

 

ですから、私もお酒の力も借りながら

お父さんに聞いてみたんです。

「息子さんはいい男ですよね。

どうしたら、あんないい子に育つんですか?

どうやって、あんないい子に育てたんですか?」

 

お父さんは笑顔で言います。

「何もないですよ」

私はしつこく聞きます。

それでもお父さんは

「何もしてませんよ」

と謙遜します。

 

では、と。

もう一回押していきます。

「いや、やっぱり気になりますねぇ~」

 

するとお父さんはこう言ったのです。

「何も難しいことはありません」

そう前置きをしながらこう言ったのです。

 

ただ、愛せばいいんだよ」

 

  💒    👰     💒    👰    💒    👰

 

どうでしょうか。

みなさんも自分を振り返って、

順風満帆に人生が送れたでしょうか。

 

いや、

時には色々なことがあったでしょう。

もしかしたら、受験の失敗。

もしかしたら、就職試験の失敗。

もしかしたら、人間関係の悩み

もしかしたら、失恋もあったでしょうか。

 

あらゆる人生のピンチの時、

ちゃんとそばにいた方が

いたんじゃないでしょうか。

 

そして、

その方の支えがあったからこその

「今日」という日があるのかもしれません。

 

そして、

その「そばにいる方」は

大切な人を「ただ愛した」のでしょう。

 

それは、

親切にしとけば、あとで何かいいことがある

なんて、

見返りを求めない

無償の愛だったのではないでしょうか。

 

この子にしあわせになってほしい。

そう願う方が傍にいる。

 

これを阿弥陀様に置き換えれば、

人生のあらゆるピンチの時に

必ず

必ず

傍にいる方がいる。

 

この人に

幸せなってほしい

 

それは

阿弥陀様の

想いであり

決意であり、

誓いであり

願いであるのですね。

 

だから、

大丈夫。

 

あなたは

願われ

愛された

人だから。

 

 

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

柏倉先生の名誉のために言えば、

お子様の時のことは存じ上げませんが、

僧侶として実によく努力し勉強されている先生です。

いや、親の願い通りに育っていますよ、先生爆  笑

 

さて、

ある時の調布市西照寺の法話会で

世田谷区の正法寺の御住職が言っていました。

 

よく名前っていいますが、

名字には、「歴史」がある。

名前には、「願い」がある。

 

名字は文字通り、そのお家が、

何年もの間、続いてきた、

ご先祖様のことです。

そのうちのたった一人が欠けても

今の私は存在しない。

この御縁の繋がり、

いのちのリレーの

不思議さ、有り難さ、尊さを感じます。

 

では、

名前はどうでしょう。

私がこの世に生まれた時、

まだ名前がない親以外はどこのだれかもわからない存在。

その時、名前を付けてくれた人がいた。

それは親であり、祖父母であり、

または有縁の方だったかもしれません。

 

でも、

「名前」はやみくもに根拠なくはつけません。

そこには

「この子にはこんな子に育ってほしい」

「この子にはこんな人生を送ってほしい」

そういう「願い」が込められている。

 

そういうことに気付けると、

人生は

「見える景色」が

変わってきます。

 

 

誰もが愛されてきた。

これに異論を唱える方はいないでしょう。

誰もが人生のどこかの場面で、

誰かにたくさんの愛情を頂いていた。

 

仏教では「愛」は自己中心的なモノの捉えもあるのですが、

今日は素直に「その人を大切に想い、その人に情を注ぐ」

という言葉で「愛」を共感したいと思います。

 

人生は、

ピンチの時、

上手くいかない時、

思わず気持ちが萎えてしまうけれど、

このことだけは

忘れないで参りましょう。

 

私たちは

願われて

愛された

存在だということを。

 

 

今日もお育て頂きましたニコニコ

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

今日も遇えて、よかったウインク

 

 

今日の東京都心は、晴れ☀️後雲☁です。

気温は25度を超えましたが、

個人的には長袖も全部仕舞い、すっかり半袖陽気です。

 

さて、今日は平日なのに仕事もお休みで、さあ、どうしよう?

いやいや、こんな日も「仏様とのご縁」は整っているようです。

 

今日は、午前中は東京都中央区の築地本願寺で法話、

午後は東京都墨田区の慈光院で法話会があったので、

お参りに行って来ました。

今日は慈光院でのご報告です。

 

 

親鸞聖人の言葉の石碑(ちょっと見ずらいですね爆  笑

 

 

まずは、お参りです。

皆様もよかったら、ご一緒に合掌を致しましょうお願い

(阿弥陀様、いつもありがとうございます)

 

 

今日も法話を聞く前に、

心得を確認します。

 

 

今日の御講師は、神奈川県川崎市川崎多摩布教所慶念寺の小林賢五師です。

 

 

 

 

青字は小林師の言葉の要約です。

 

 

<たった今、共にいます>

 

仏教では、

よく「聖道門(しょうどうもん)」と

「浄土門(じょうどもん)」と言います。

仏教は「仏様に成る教え」ですが、

仏様に成るのに、

頑張って自分の力で仏様になる。

そのために、たくさん学んで、たくさん修行して、

自分の力、つまり「自力」で頑張っていくのを

「聖道門」と言います。

自分の力で「苦しみ」「悲しみ」「辛い事」

そういうものを克服していくのです。

 

ところが、

「自分の力」と言っても、

みんながみんな、

学びや厳しい修行ができるでしょうか?

大抵の人は出来ないですよね。

じゃあ、そういう人、

多くの人は救われずにいて、

いいんでしょうか?

 

そんなことがあれば、

優しい仏様であればあるほど、

「仕方ないんじゃない?」なんて言いません。

 

多くの人が救われないんなんて、絶対におかしい。

だからこそ、「自力」じゃなくて、「他力」の出番です、

「他力」とは仏さまの力

のことなんですが、

仏様にお任せをしてお浄土に迎えて頂く。

それが、「他力本願」の「浄土門」です。

 

皆さんは、

ご自分で頑張って、

この「苦労の娑婆」から抜けられそうでしょうか?

それとも、仏様にお任せしながら、

この「苦労の娑婆」の荒波を乗り越えるのでしょうか?

 

   波    波    波    波    波    波    波 

 

さて、

その「他力」と言われる仏さまが

お経に出て来る「阿弥陀様」です。

 

私が言ったんじゃない。

親鸞聖人が言ったんじゃない。

お釈迦様が

2500年前に

教えてくれた

仏さまなんですよ。

 

天台宗とか、浄土宗とか、浄土真宗とか、時宗とか、

日本のお寺で一番多い「ご本尊」が阿弥陀様です。

 

お寺にいくと、

「南無阿弥陀仏」

なむあみだぶつ

って言うでしょう。

 

それって、

「南には阿弥陀様はいない」

とかじゃないですよ。

 

お経の言葉って、

インドから中国を経て日本に来るのですが、

インドから中国を経る時に、

インドの発音を漢字にあてはめたから、

漢字ばっかりで書かれています。

 

音を漢字に当てはめたので、

漢字そのものに意味はありません。

ここは間違えないようにしたいですね。

 

南無とは、ナモであり、

おかませします。ということ。

阿弥陀(あみだ)ですが、「あ」とは否定語です。

「みだ」とは、「ミータ」、つまり「量」の事です。

ミータに「あ」が付くので、

「無量」、測れないということです。

もっと詳しく言えば、

アミタには、「アミターユス」と「アミターバ」と言う意味があって、

アミタ―ユスとは、「寿(いのち)」のことで、

アミターバとは、「光」のことです。

 

ひっくるめて言えば、

阿弥陀様というのは、

無量の光

無量の寿(いのち)の

仏さま

ということになるんです。

 

その阿弥陀様に

「私の人生をお任せします」という意味が

「南無阿弥陀仏」となるんですね。

 

   ✨    ✨    ✨    ✨    ✨    ✨

 

皆さんは

法話を聞いて、如何ですか?

阿弥陀様の話しを聞いて、如何ですか?

わかってくれていますか?

 

わかったようで、

実はよくわからないのが

ホントの所

ではないでしょうか。

 

じゃあ、

わからないのだから、

わからないといけない。

ではないんです。

 

親鸞聖人は、

阿弥陀様の事を

「不可思議光(ふかしぎこう)」

と言いました。

 

不可思議というのは、

「思議」というのが「考える」ですから、

それに「不可」がついている。

だから、

考えつかない。

考えてもよくわからない。

ふしぎ~・・・。

というのが

阿弥陀様だと言っています。

 

だって、

私たちが考えつくような仏さまでは、

ちょっと不安じゃないですか?

私たちが考えもつかない力、

考えつかないハタラキがあるから、

やっぱり仏さまなんですよね。

 

だから、

仏さまの話しは

よくわからない。

これでいいんです。

 

では、

今日も

そのお話をしていきましょう。

 

  ✨    ✨    ✨    ✨    ✨    ✨   

 

私のお寺は「都市開教」と言って、

古くからある地域のお寺ではなく、

周りにお寺がない地域にわざわざお寺を作って

みなさんに仏教に親しんでもらおうと始めたお寺なんです。

ですから、最初はご門徒0人から始めて、

最近は、法話を聞きに来てくれる人も多くなり、

ようやくお寺らしくなってきたところです。

 

さて、ある日のことです。

いつものように法話が終って

一息ついていると、

ひとりの男性が私のところにやってきました。

「あの、お聞きしたいことがあるんですが・・・」

私は、

「ああ、なんでしょうか」と聞きかえしました。

すると、その男性はこう言ったのです。

 

「阿弥陀さまを信じていけば、みんな救われますよ、と聞きました。

では、阿弥陀様を信じてなかった者は救われないんですか?」

 

その男性に笑顔はありません。

真剣に聞きたいのかな?

そう思った私は、端的にこう言ったのです。

 

「阿弥陀様の光は、無量光です。

ここには阿弥陀様の光が届くけど、あそこには光が届かない。

そういうことがないんです。

その方が気が付いていなくても、

ちゃんと阿弥陀様の光は届いているんですよ。

だから、心配をしなくても大丈夫です」

 

私がそういうと、

その方は

「そうですか・・・」

そのように頷かれました。

 

そして、

次の法話会の後の事です。

また、あの男性が私のところにやってきました。

 

「あの、お聞きしたいことがあるんですが・・・」

私は、

「ああ、なんでしょうか」と聞きかえしました。

すると、その男性はこう言ったのです。

 

「お話を聞いていて、

私がお浄土にいけることはわかりました。

でも、

こういう話を聞いていない者、

「南無阿弥陀仏」と言ったことがない者は

お浄土には行けないんじゃないんでしょうか」

 

その男性に、また、笑顔はありません。

あれ?前回も同じようなことを聞いていたな?

でも、同じような回答はもうできません。

そもそも、この私だって「確証的なこと」は言えません。

だって、阿弥陀様は親鸞聖人の言うように「不可思議光」で、

考えつかないような仏さまなんですから・・。

私は正直に言いました。

 

「話を聞けない者がお浄土に行けるかどうかは

私にはわかりません。

ですが、「行けない」ということはないと思います。

阿弥陀様は、

こうしたら救う、こうしないと救わないなんて、

救いに条件を付けていません。

摂取不捨、

もれなく必ず救うと聞いていますから」

 

私がそういうと、

その方は

「そうですか・・・」

そのように頷かれました。

 

さあ、

また法話の時間がやってきました。

法話が終って、やれやれと思っていたら、

また、あの男性がやって来ました。

 

「あの、お聞きしたいことがあるんですが・・・」

私は、

「ああ、なんでしょうか」と聞きかえしました。

すると、その男性はこう言ったのです。

 

「私の妻はすでに亡くなっているのですが、

浄土真宗の話しを聞いていません。

でも、私は妻がなくなったあと、浄土真宗に出会い、

阿弥陀様のこと、南無阿弥陀仏のことを聞かせて頂きました。

 

住職さん、

妻はホントにお浄土にいるのですか?

妻はどこに行ったんでしょう?

 

もし、

妻がお浄土にいないのなら、

私は妻のいないお浄土に

ひとりで行くのでしょうか?」

 

そうだったのか・・・。

この男性の苦悩は

亡き奥様と

本当にお浄土で会えるんですか?

 

そういうことだったんですね。

 

私は言いました。

「申し訳ありません。

私には正直わからないことです」

 

でも、

謝罪をしたあと、

このようにお話を続けました。

 

  ✨    ✨    ✨    ✨    ✨    ✨   

  

「親鸞聖人はこのように私たちに教えてくれました。

 

つつしんで

浄土真宗を案ずるに、

二種の回向あり。

一つには往相、

二つには還相なり。

 

回向とは

「仏さまの功徳」「仏さまのはたらき」のことです。

 

阿弥陀様のハタラキとは、

一つ目が「往相回向」

二つ目が「還相回向」

だと言います。

 

まず

「往相回向」の「往相」とは、
「往生浄土の相」のことです。

「往」とは「往く(いく)」と言うこと。

「相」とは「すがた」と言うこと。

 

つまり、往く姿、

どこにですか?

阿弥陀様の光が当たる者は

誰一人残さずにお浄土に往くということ。

往く姿があるんです。

 

この娑婆の縁が尽きても、

いのちは終わりじゃなかった。

姿、形が無くなっても

見えなくなっても

いのちは続いていくのです。

 

お浄土に往けば

全てわかります。

懐かしいあの方。

愛しいあの方。

見つけたい人を見つけていけます。

自分の思いを届けられます。

 

そうなんです。

私たちは

お浄土に参るのです。

 

では、

「還相回向」の「還相」とは何でしょう。

「還相回向」の「還相」とは、
「還来穢国の相(げんらいえこくのそう)」ということです。

 

つまり、

穢国(この娑婆世界)へ還来するすがた、

帰ってくる、

戻ってくる姿ということです。

 

私たちは、往ったきりじゃない。

お浄土でのんびりとはしていません。

 

また、この娑婆に還ってきて、

有縁の方

苦しんでいる方

悲しんでいる方

がっくりと肩を落とす方

そういう人たちの傍に来て

その方に寄り添い、

その方の横につき、

その方が泣けば泣き、

その方が笑えば笑い、

その方とともに歩む役割、

ハタラキとなっていくのです。

 

お浄土は、

どこか遠くにあるのではないですよ。

仏様に成った方は、

お浄土とこの娑婆を

自由自在に行ったり来たりしています。

それが仏と成った方のハタラキです。

 

こういうのを

他力の救い

というのですね。

 

旦那さんは、

今日はこのお寺まで、どうやってきましたか?

なんで、お寺に来ようと思ったんですか?

お寺より、楽しいことがいっぱいあるじゃないですか。

この暑い中、電車賃使って、どうされましたか?

 

旦那さんは、なぜ、合掌するんですか?

合掌したら、何かいいことがありますか?

 

そうやって、

ひとつひとつ紐解いていけば、

亡き奥様が、

手を引いて、

背中をして、

ここまで参らせてくれたのではないのでしょうか。

 

つまり、

今、奥様が、

旦那さんとご一緒

なのではないのでしょうか。

 

還相回向ですよ、旦那さん!」

 

そこまで言うと

その男性の顔が

少しだけ緩んだような

安堵したような顔になったことでした。

 

 

  ✨    ✨    ✨    ✨    ✨    ✨   

 

皆さんは今日はこのお寺まで、どうやってきましたか?

なんで、お寺に来ようと思ったんですか?

お寺より、楽しいことがいっぱいあるじゃないですか。

この暑い中、電車賃使って、どうされましたか?

 

皆さんは、なぜ、合掌するんですか?

合掌したら、何かいいことがありますか?

 

そうやって、ひとつひとつ紐解けば、

ほら、やっぱり懐かしい方のお陰で

ここにいます。

 

ここで座っています

ここで聞いています。

ここで生きているんですね。

 

自分で生きていると思っていたら、

それは、誰かのハタラキだった。

 

そういうのを感じたら、

今も

不可思議な光に包まれる

実感も湧く事でしょう。

 

今日も

感謝しかないですよね。

 

 

 

 

 お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

よく、浄土真宗は「変わってる」と言われます。

凡夫がみんな救われる?

悪人こそ、阿弥陀様のお目当て?

自力を捨てて、他力(仏さま)にお任せ、丸投げ?

 

それは仏教なのかと。

 

でも、

一方ではこういうことも聞いていきます。

 

こんな私、そんなあなただから、如来のお目当て。

この娑婆尽きたら、即、仏さまになってお浄土に往き生まれる。

そして、またこの世に還ってきて、有縁の方と一緒にいる。

 

それって、いいよね。

それって、優しいよね。

 

自分の愛しい人がどこにいったのか?

お星さまなのか。

天国なのか。

それを答えられないのは、

やっぱり「嫌」ですよね。

 

難しいことはわからない。

それでいいと言います。

 

だけれども、

こうだよと、

聞いていけば、

「そうなのかも・・」

って思える時がきますし、

 

「そうだよ、きっと」

「だって、そう聞いてるから」

そういう思いになっていくとも思うのです。

 

お浄土がある。

亡き方はお浄土に往き、

自分もやがてそこに往く。

 

それも、

苦を超えて、

自他をも超えた、

穏かな境地、

仏様となって

生まれ往くと言うのです。

 

そのことが嬉しく、

有り難い事なのですが、

浄土真宗では、

 

今、亡き方がここに還ってきていて、

今、大切な方が自分の傍にいる。

 

このこともまた、

嬉しく、

有り難い事なのだと

頂いていきます。

 

このブログで何度も出しますが、

最後は中西智海さんの言葉で終りましょう。

 

 

姿が見えないから、

いないんじゃない。

 

今、

拝む掌の中に

帰ってきています。

 

どうぞ、

たった今、

話し掛けてあげて下さいね✨

 

 

今日もお育て頂きましたニコニコ

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

今日の東京都心は梅雨の薄曇りでしたくもり

何とか雨は降らずとも、

湿度はムシ~っと全開です。

今日も蒸し暑い一日となりました爆  笑

 

さて、今日は第二日曜日です。

午前中は何も予定がなかったので、

東京都豊島区の誓願寺にお参りに行って参りました。

 

 

お寺の掲示板です。

 

 

 

人の背中は見ゆるけど

我が背中は見えぬ

 

ですが、

我が背中を静かにじっと見ている方がいるのです。

今日もその方のお話を聞いて参りましょうか。

 

まずは、僧侶、門徒全員で

「正信偈(しょうしんげ)」のお勤めです。

 

 

皆様もご一緒に

合掌して頂けると嬉しいですウインク

 

まんまんだぶっ!

(阿弥陀様、いつもありがとうございます)

 

お参りの後は、法話を聞きましょう。

今日の御講師は、神奈川県川崎市髙願寺の宮本廣宣師です。

 

 

 

 

青字が宮本師の言葉の要約です。

 

     <本日のご讃題(テーマ)>

 

十方微塵(じっぽうみじん)世界の
念仏の衆生を 見そなはし
摂取(せっしゅ)して 捨てざれば
阿弥陀と名付け たてまつる

                                     

             親鸞聖人

 

(bonbu-koki意訳)

東、西、南、北、

北東、南東、南西、北西、

上、下の十方の方角の中、

その方角の隅々まで見渡して、

苦しみ、嘆き、悲しむ私たちを

仏さまは一人残らずご覧になり、

摂取不捨、

「決してあなたを見捨てません」と仰せです。

その仏さまの事を、「阿弥陀様」と名付けて奉ります。

 

 

 お願い    お願い    お願い    お願い     お願い     お願い    お願い

 

 

<私の罪を抱きしめて>

 

私は身長が185cmで、学生時代はアメフトをやっていました。

それも「ゆるい同好会」と言うよりは「厳格な部活動」です。

「酒は禁止」

「ラーメンは筋肉にならないから禁止」

 

そして、

試合の様子をビデオに撮り、夜中の2時くらいまで

ひとり一人の動きの分析と、次の試合の戦術を練っていきます。

だから、終わるのは夜中の2時、3時ですから、

部室に泊まるなんてしょっちゅうでした。

 

さて、大学の運動部と言うのは

最上級生の4年生の責任が大変重いものです。

それなのに、私が最上級生になった頃、チームは負け続けました。

負けると、次はこうしようと思っても、また負けた。

じゃ、次はこうしようと思っても、また負けた。

じゃあ、今度はこうするぞ!と思っても、またまた負けた。

もうこうなると、

「じゃあ、どうすればいいの?」

「何が正しいの?」

「何が悪いの?」

もうわかりません。

とうとう、チームは一部の最下位が決定。

二部優勝校との「一部二部入れ替え戦」に回りました。

 

入れ替え戦になると、

OBがざわつきます。

父兄も不安がります。

もう、4年生は針の筵(むしろ)です。

「4年生は何をやっとるんじゃ!」

「しっかりやれ!」

 

ところが、入れ替え戦でもチームは惨敗。

とうとう、二部に降格です。

もう、私たち4年生は泣きに泣きました。

どれだけの涙を流したことでしょう。

 

そしてこう思ったのです。

全ての関係者に

悪い事しちゃったなあ・・・・。

 

ところが、

私たちの涙を見ていたのは、

4年生と共に戦った3年生以下の後輩たちでした

後輩たちは死に物狂いで、練習に励みました。

挫折をすると、

人は変わっていくことがあるです。

チームは翌年、二部で優勝。

一部二部入れ替え戦も勝って、最短で一部に返り咲きました。

 

   🏈      🏈      🏈     🏈     🏈

 

親鸞聖人は、ご自身の深い凡夫としての自覚から、

「善悪のふたつ 総じてもって 存知せざるなり」

と言われました。

 

本当の善悪は

仏さま、阿弥陀さまだけが知るところであり、

私達のような煩悩具足の凡夫は、

何が本当で何が本当ではないのか、

何が善で何が悪なのか、

それがわからない

と言います。

 

しかし、

何もわからない中で唯一、真実、本当の事があります。

それが、

私たちに今、届いている念仏、仏さまのお慈悲の光です。

 

あの時、

我ら4年生が、

だらしなかったからだ。

俺たちが悪かった。

その罪を一心に背負って

泣きに泣いたけれど、

あの涙は無駄じゃなかった。

 

あの涙があったからこそ、

仏の光は

「あなたを放っとけない」

あなたの罪は私が引き受けた。

 

そのように

「見えない力」がはたらいて、

物事が動いていったのではないでしょうか。

 

そういう光の中で

後輩はがんばっていたんじゃないか。

今、そう思うことであります。

 

   🏈      🏈      🏈     🏈     🏈

 

平安、鎌倉時代に、

熊谷直実(くまがやなおざね)という侍がいました。

 

よく聞く、「源平合戦」でのことです。

直実は最初は「源氏」側にいたのですが、

自分が頑張ってるのに自分への評価が低くて

ならばと「平家」側に付くようになったそうです。

でも、その後、やっぱり「源氏」側についていく。

その時々の流れ、思惑、思いの中で自分の立場を変えていきます。

 

さて、

この戦いで敵を探し求めていた直実は、

波際を逃げようとしていた平家の馬に乗った若者を見つけます。

見ると、かなり豪華な鎧(よろい)を身に付けています。

これは、タダものではあるまいと、

その若者を呼び止めて一騎打ちに挑んでいきます。

 

直実が、むずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、

よくよく見れば、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年でした。

直実が「私は武蔵の国の住人、熊谷次郎直実だ」と名乗ると、

その若者は「私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。

きっと知っている者がいるであろう」と答えたそうです。

 

随分と、堂々として、若いのに覚悟の有る武士だと感動した直実は

一瞬この少年を逃がそうとしましたが、

背後に自分たちの味方の手勢が迫ってきます。

たとえ自分が少年を逃がしたとしても、

「どのみち、生き延びることはできないだろう」と考えた直実は

「同じことなら、直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう」

と言って、泣く泣くその若者の首を斬ったそうです。

その後、首実検をするとこの若者は平清盛の甥、平敦盛とわかりました。

年齢は17歳だったそうです。

 

直実が思い起こせば、

合戦中にどこからか

「大変美しい笛の音色」が幾度も聞こえてきたそうです。

「こんな美しい音色を奏でるとは、

なんとこころの澄んだ者がいるものだ」

 

そう思っていたのですが、

首を切った若者の馬には「笛」が付いていたそうです。

 

  🐎      🐎      🐎      🐎      🐎

 

このことが直実の「人生の分岐点」になっていきます。

自分は、自分の子供と同じくらいの歳の「平敦盛」を殺めてしまった。

思えば、いままで幾人ものいのちを斬ってきた自分なのだ。

こんな罪を重ねた自分は

地獄行きしか、

道はないだろう。

 

そう思い、人づてに聞いた「法然上人」を訪ねていきます。

そして、法然上人にこのように聞いたのです。

「この私は、死んだらどこにいくのですか?」

法然上人の答えはこうでした。

「罪の軽い、重いは、仏さまは問いません。

私たちは必ずお浄土に参るのです」

 

地獄行きを覚悟していた直実ですが、

法然上人の答えは予想もしないものでした。

その言葉に涙を流した直実はその後僧侶となり、

京都に平敦盛の石碑を立てたそうです。

 

直実が涙を流した時、

直実の罪と共に

直実自身をぎゅっと

仏さまが抱きしめてくれたのです。

 

これを

摂取不捨(せっしゅふしゃ)

と言います。

 

罪に震え

罪を悔い

涙を流す者を

ぎゅっと抱きしめて

決して

その者を見捨てない。

 

それが、

摂取不捨。

仏さまのお心です。

 

  🐎      🐎      🐎      🐎      🐎

 

佐賀県に向島(おくしま)という小さな島があります。

全人口が4~50人くらい。

とっても小さな島ですから、

このお話の当時、小学校の全生徒は1名。

その1名も中学生になることで、この小学校はなくなることになります。

 

そして、

その最後の担任だったのが秋山忠嗣(あきやまただし)先生です。

今は、スクールカウンセラーのようなお仕事をされているそうですが、

秋山先生のお話を聞いて下さい。

 

 

(画像をお借りしました)

 

秋山さんが中学二年生の時、

秋山さんは「不登校」になりました。

最初、両親は無理やり学校に行かせようとしますが、

通学途中で嘔吐をしたりすることで、

両親も行かせるのをあきらめてしまったところもありました。

 

父は言います。

「お前。こんなことじゃ、

高校にも行けないし、仕事だってできないじゃないか!」

父は叩き、

柱に括り付けたりもしたそうです。

 

母は言います。

「お前は小学校の時には何でもできたのに、

中学校に入ってからは何もできなくなっちゃったね・・・」

 

この両親の言動は

少年だった秋山さんの心に深く突き刺さります。

こうなると、

家庭全体が沈んだ雰囲気になり、

秋山さんは「自分の居場所」さえも見失いました。

 

秋山さんは

ビルの上に登ります。

ここから飛び降りたら、

苦しみから解放されるんだ。

そう思って、下を見ました。

 

子供の頃のお父さん、

お母さんとの

楽しかったことも思い出します。

 

でも、今は違う。

あの人たちは・・・。

 

挫折、葛藤、孤独、色々な思い・・・。

結局、

飛び降りることができません。

 

そうか・・・。

僕は、

強く生きることもできない

死ぬこともできない

何ていう人間なんだ・・・。

 

  😢     😢    😢     😢     😢     😢

 

何もできない自分。

ここから逃げ出したい自分。

 

秋山さんは家出をしようと決心します。

そして、玄関を出ようとすると、

玄関の出入り口にはお父さんが仁王立ちをしていました。

 

お父さん 「お前はどこに行くんだ」

秋山さん 「もう、放っといてくれ!」

お父さん 「家を出るのか。逃げ出すのか」

秋山さん 「もう、僕の居場所なんかないんだ」

 

しばらくの沈黙の後、

お父さんがこう言いました。

 

お父さん 「わかった。それなら、お前の自転車は置いて行け。

      あれは俺が必死に稼いだ俺のお金で買ってやったものだ」

秋山さんは、自転車のカギを置きました。

お父さんは続けました。

 

お父さん 「今、持っている財布も置いて行け。

      それは俺が必死に稼いだ俺のお金を渡しただけのものだ」

秋山さんは、財布を置きました。

お父さんは続けました。

 

お父さん 「それから、今、履いている靴も置いて行け。

      それは俺が必死に稼いだ俺のお金で買ってやったものだ」

秋山さんは、靴を脱ぎました。

お父さんは続けました。

 

お父さん 「今、着ている洋服。

      それは、俺が必死に稼いだ俺のお金で買ってやったものだ。

      洋服も脱いで行け」

秋山さんは、とうとう裸同然になってしまいました。

 

こうなると、

中学生になった秋山さんも、

売り言葉に買い言葉。

いや、むしろ、追い込まれていき、

このように啖呵を切りました。

 

秋山さん  「じゃあ、父さんも母さんも、

       僕にいのちをくれたのだから、

       僕のいのちも置いていくからな!

       僕を殺してくれ!!」

 

そこまで言うと、

お父さんの表情が変わりました。

そして、秋山さんに詰め寄ってきたそうです。

 

秋山さんはとっさに思いました。

「あ、殴られる・・・」

そう思うと、秋山さんは

掛けていたメガネをとっさに投げ捨てたそうです。

 

詰め寄ったお父さんは、

秋山さんの肩をギュッとつかみました。

でも、

その瞬間、

お父さんの大きな手は秋山さんの背中に回り、

ギュッと・・・・。

強く

強く

抱きしめたのです。

 

そして、

お父さんは背中を震わせて号泣したのです。

 

うそやろ・・・・。

 

実は秋山さんは

暴言、暴力のお父さんが大嫌いでした。

でも、

この瞬間、

何かが動きました。

この人を信じてもいいのかな・・・。

そんな少しばかりの「安心」が生まれたのです。

 

そして、

それをずっと横で見ていたお母さんがこう言ってくれました。

「どんな子であっても

お前はうちの子だよ。

大丈夫!

大丈夫だからね!」

 

その後、

秋山さんは定時制の高校を出て、大検で進学。

教員の資格も取って、小学校の教員をするようになっていきました。

 

  😊     😊      😊      😊     😊

 

お父さんが抱きしめたのは、

「いい子の秋山さん」だっだでしょうか。

 

お母さんが「うちの子」と言ったのは、

「いい子の秋山さん」だったでしょうか。

 

秋山さんが「いい子」だから

抱きしめたのではなかったのです。

 

「いい子だから抱きしめます」

ではなかったのです。

 

秋山さんは

お父さん、お母さんが

あれから

共に一緒に

人生を

歩いてくれたんです。

 

そのことを秋山さんは述懐します。

「あのことが、嬉しかったんです」

「だから、僕は変われたんです」

「親不孝の僕を

罪ごと

抱きしめてくれたんです」

 

さて、

このこと、

秋山さんご一家のお話と

遠くで聞いていくのでは

もったいないですよね。

 

仏さまと置き換えてみましょうか。

 

「ダメな自分」

「罪作りな自分」

「過ちばかりの愚かな自分」

そういう者を抱きしめてくれる方がいる。

 

人って、面白いですよね

そこから何かが変わっていくんです。

「いい子」だから変わるんじゃない。

 

摂取不捨

 

けっして

あなたを見捨てない。

 

摂取不捨と言う言葉に

親鸞聖人は

「永く」という言葉で

注釈を添えています。

 

つまり、

決して

あなたを見捨てない。

それも、

永く

ずっと

ずっと

ずっと

あなたを見捨てないからね。

 

人生って、

順調な時は気が付かないけれど、

いざ、

何かのご縁で

歯車が狂うと、

いざ、

何かのご縁で

ボタンの掛け違いがあると、

下りの螺旋階段のように

迷いの中に落ちて行く自分が

いるんですよね。

 

辛いですよね

苦しいですよね

泣きたいですよね

 

失敗があった時はどうですか?

自分の罪を一気に背負って

もう立ち直れないと

思うこともありますよね。

 

それって、

でも本当にその方のせいなのか・・・。

なんて、わからないですよ。

物事のいい悪いって、

見方次第で

いくらでもひっくり返るじゃないですか。

 

そういう人生の中にあって、

私が人生の道を

行ったり来たりしている時でも、

仏さまはずっとずっと

ここに一緒です。

 

そして、

罪を抱えて震える私を、

罪と一緒に抱きしめて

離さない。

見捨てないんです。

 

そのように

今日も聞いて頂ければ

今日も感じて頂ければ

嬉しいですね。

 

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

法話の後は、いつものお茶会です。

御講師さん、御住職、副住職、坊守さん、ご門徒の皆様とご一緒です。

坊守さんのお手製の混ぜご飯のおにぎりと、お漬物を頂きます。

私はこのお寺の者ではありませんが、いつも温かくお迎えをしてくれます。

はい。

今日もお土産を頂いて帰路についたことでした。

 

さて、

浄土真宗では、

原則的に「御朱印」がないのですが、

それでは・・・と、

bonbu-kokiは、

そのお寺の御住職が好きな言葉を

御朱印帳に書いて頂くことがあります。

 

その中で

多くの御住職が選ぶのは

「摂取不捨」

という、

仏説観無量寿経の言葉です。

 

意味は

もうお分かりですよね。

 

ずっと

ずっと

ずっと

あなたを

見捨てないからね。

 

この言葉。

「人生の底」にいるときほど

心に響いてくるんですよね。

 

今日も

仏さまの光が届いてること

忘れてはいけませんよ

 

手のかかる子こそ

親様(仏さまのこと)は可愛く、

親様は見捨てません。

 

大丈夫ですよニコニコ

 

今日も親様の

ギュっを

噛みしめて下さいね爆  笑

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

 

今日も我が家の日めくりカレンダーからです。

 

 

たまには

自分を誉めてあげてね

 

 

大学卒業後に新任教員となり、

初めてクラス担任、授業、部活、行事の準備などに追われ、

全てに余裕がありませんでした。

そんな私を見ていた上司が、

声を掛けてくれました。

この言葉のおかげで、

心身ともに休むことを

大切にしながら

仕事を続けられています。

 

              神奈川県 雲村舞子 教員

 

 

 お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い

 

 

では、

bonbu-kokiが

意訳をしてみましょう。

 

 

誕生直後に、この人生の新任となり、

 

親兄弟、友人との喧嘩、

受験、

失恋、

就職内定の取り消し、

職場内での人間関係、

結婚や子育て、

親の介護、

自分の病気、

自分の老い、

大切な方とのお別れ、

そして、

自分の犯した失敗の数々、

そして、

やがて必ず迎える死への不安・・・。

 

過去からの生まれ変わりの中で、

この人生では初めての出来事の

全てに余裕がありませんでした。

 

そんな私を見ていた

阿弥陀さま、菩薩さまが、

声を掛けてくれました。

 

この言葉のおかげで、

心身ともに休むことを

大切にしながら

人生を続けられています。

 

 

  あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい

 

 

悩み

悲しみ

苦しみ

泣くばかり

 

自分は

孤独だと

思っていても、

 

そういう

あなたを

見守る方が

必ずいるのです。

 

それを

忘れないことが

人生では

肝要ですニコニコ

 

 

ああ、

今日も

色々なことが

あったけれど

自分なりに

よく頑張ったぞ、自分!ウインク

 

私はいつでも

阿弥陀さま

菩薩さまの

み手の中だから。

 

 

あ~、

ホントに、

人生って、

疲れるわ~泣き笑い

 

今日の東京は、

一日曇り空くもり

 

ニュースでは、

今日から関東は

「梅雨入り」とのことですが、

それでも、

心の中だけは、

今日も快晴でありたいものですニコニコ

 

さて、

今日もお参りの後は、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日の御講師は、佐賀県鹿島市善徳寺の西河弘史師です。

 

 

 

 

青字は西河師の言葉の要約です。

 

 

<本日のご讃題(テーマ)>

 

十方微塵(じっぽうみじん)世界の
念仏の衆生を 見そなはし
摂取(せっしゅ)して 捨てざれば
阿弥陀と名付け たてまつる

 

            親鸞聖人

 

(bonbu-koki意訳)

東、西、南、北、

北東、南東、南西、北西、上、下の十方の方角の中、

その方角の隅々まで見渡して、

苦しみ、嘆き、悲しむ私たちを

仏さまは一人残らずご覧になり、

摂取不捨、

「決してあなたを見捨てません」と仰せです。

その仏さまの事を、「阿弥陀様」と名付けて奉ります。

 

<煩悩具足の凡夫>

 

人間はおぎゃぁと生まれてから、全員が持っているものがあります。

それが「煩悩」というものです。

「煩悩」とは

「自分の事を優先してしまう心」の事を言います。

自分がこうしたい。

自分がこう思う。

自分が・・・・。

自分が・・・・。

自分が・・・・。

 

でも、

思うようには

物事はいきません。

(一切皆苦)

 

その結果、

怒ったり、

愚痴をこぼしたり、

どうしようもないことでも、

嘆き、

悲しみ、

苦しんでしまいます。

 

自分の思いが優先ですから、

そりゃ、辛いですよね。

 

でも、

そういう私たちをご覧になって、

煩悩に振り回されて生きる様子をみて、

「これじゃ、いかん!」と

立ち上がってくれたのが

お経にある「阿弥陀様」

と言う仏様です。

 

  あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい

 

ある年の12月30日のことです。

連れ合いに頼まれて、

私はスーパーマーケットに「卵を2パック」を買いにいきました。

流石に暮れの買い物ですから、駐車場もいっぱいで、

レジを待つ行列も出来ていました。

 

私はある列に並んだんですが、

隣のレジを見ると、どうも隣の方が早そうです。

他のお客さんはわんさか買い込んでいますが、

私は卵を2パックです。

会計はすぐに終わるんですから、

さっさと買って、帰りたいのです。

イライラして、

私は隣のレジにさっと移りました。

 

ところが、

今度はさっき並んでいたレジが動き始めました。

見ると、私がまだなのに、

さっき私の後ろにいた人が会計を始めています。

それも、私の方を見て、ニヤリと笑うのです。

私はまた、イライラしてきました。

 

まったくもう!

 

  あじさい     あじさい     あじさい      あじさい     あじさい     あじさい 

 

実は、これ、皆さんも

こう言う事ありませんか。

 

怒る。

嘆く。

悲しむ。

愚痴る。

 

そういう風に

「煩悩が十分に身に染み付いていること」を

「煩悩具足」

「ただの人」だよと言う意味で、

「凡夫(ぼんぶ:bonbu)

 

つまり、

私たち、人の在りようを

親鸞聖人は

自分も含めて

「人の本当の姿」のことを

「煩悩具足の凡夫」

と言い当てたのですね。

 

それも、

普段は理性を利かせて

我慢をしているのですが、

色々な「縁」に触れれば、

何をしでかすか、わからないのも、

また、私たちの性質なのです。

 

縁に触れれば、

何をしでかすか、

わからない。

他人を傷つけて・・・。

自分を傷つけて・・・。

 

そういう私たちを見て、

立ち上がったのが

阿弥陀様なんですね。

 

<摂取不捨>

 

私には妹がいるのですが、もう十年以上前のことです。

妹が東京に就職をすることになりました。

すると、私の父と母は、

よく、佐賀から東京に用事を作って行っていました。

そのうち、妹が大阪に転勤になると、

今度は佐賀から大阪に用事を作っては、

しょっちゅう出かけていました。

 

近所のスーパーにちょっと・・・、ではありません。

佐賀から、東京、大阪に、

しかもしょっちゅうですよ。

何故でしょう?

 

それは、

気になる

我が子が

いるからです。

 

心配で

心配で

仕方がないのです。

 

  あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい

 

私は二人の子供を授かりました。

我が子が、遊んでいます。

ところが、コケて、

血が出るようなケガをして、

大泣きをしています。

 

そうしたら、私は

「お~い、何だか大変そうだな。

消毒してやるから、こっちに来いや~」

なんて、

のんきには構えません。

 

泣いてる我が子。

血を出してる我が子がいたら、

猛ダッシュで子どもの所にいき、

コケた子を

抱き上げて、

そのまま抱きしめたまま

介抱していくと思います。

 

いや、私だけじゃないです。

大抵の親は、

そうするんです。

 

「こっちに来い」じゃない。

「こっちが行く」のです。

 

仏様も同じです。

コケた私を

「こっちに来い」とは呼んでいません。

「こうしないと救わないよ」とも言いません。

私がコケたら、すぐに駆け付けて

抱きしめていくんです。

 

これを

「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」

と言います。

 

摂取とは収め取ること。

不捨とは、決して捨てないこと。

つまり

収め取って、

抱きとり、

決して

見捨てない。

 

誰をでしょう。

私を、ですよ。

あなたを、ですよ。

 

仏さまはどこか遠くにいるんじゃありません。

仏さまは臨終のときに迎えにくるのでもありません。

今、生きている

私やあなたのところに

すでに来ているんです。

 

その証拠ですか。

今日も私も、あなたも

生きてますよね。

今日も、私も、あなたも

生かされていますよね。

 

 

<会わせてくれるとよ。

 慌てて来んでも良かからな>


平成27年12月のことです。

私の祖父が往生しました。

私の祖父は、お寺の前々住職。

つまり、お坊さんなのです。

 

さて、

こう見えても、

私は、おじいちゃん子です。

おじいちゃんによく懐き(なつき)、

おじいちゃんと手をつないでもらいながら

あっちこっちに行きました。

東京に来て、築地本願寺に来たことも覚えています。

京都の本山にも、おじいちゃんと行かせてもらいました。

 

そんな私も、京都で15年位、

学校に行ったり、

働いたりしていた時期がありました。

 

普段は京都でしたが、

それでも、お盆やお正月は佐賀に帰ります。

大抵は2泊三日でしたが、

おじいちゃんも私も

帰省を大変楽しみにしていました。

 

そして、

私が家でゆっくりしたあとに帰る時ですが、

帰る前にはおじいちゃんのところに行って、

「これから、また京都に行ってくる」というと、

おじいちゃんのセリフは毎回同じでした。

 

「今度は、いつ帰ってくるとたい?」

 

それから、もうひとつ、

毎回、毎回同じセリフがありました。

それがこれです。

 

「そうか・・・。

そしたらな、

今度会うときまでに

おじいちゃんの

いのち

あったらな、

また、

会わせてもらおうな。

 

でも、

もし

いのちが

なかったら、

次は

お浄土で

会わせて

もらおうな。

 

お浄土でな、

会わせてくれるとよ。

 

必ず

会わせて

もらうとぞ。

 

だから、

お前は

慌てて

来んでも

良かからな。

 

慌てなくても

お前も必ず

来るからな」

 

  あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい  

 

 

私は、お通夜の晩。

この言葉を何度も思い出し、

涙が止まりませんでした。

 

このおじいちゃんの

「毎回の言葉」

 

おじいちゃんが

往生したのは

悲しいけれど、

今、私の人生で

この言葉が

私を支えています。

 

私は、今は46歳ですが、

やがてこの娑婆の縁が尽きる時、

やがてこの娑婆でいのちが尽きる時、

それは、

またおじいちゃんと会える時なのです。

 

また、会わせて頂ける

お浄土がある。

 

それこそ、

阿弥陀如来の功徳でした。

 

   あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい     あじさい

 

私は今日で4日間の「お取次ぎ」をこれで終えますが、

最後に私からお願いがあります。

 

皆さんは、

もし、自分のお子さんや近所のお子さんから、

「死んだらどうなるの?」

と聞かれたら、

くれぐれも

「死んだら何もなくなる」

とは言わないでほしいのです。

 

私たちは

「煩悩具足の凡夫」ではあるけれど、

それをご覧になって、

阿弥陀様と言う仏さまが、

「摂取不捨」

決してあなたを見捨てません。

そのように、仰っているのです。

 

そして、

また、

お浄土で出会うことを

「倶会一処(くえいっしょ)」

と言います。

 

みんなが

同じお浄土に

生まれ往く

いのち

なのです。

 

例え、病気で亡くなっても、

例え、事故で亡くなっても、

例え、老いで亡くなっても、

 

死に方問わず

 

何も関係なく、

お浄土で

苦から解放されていくのです。

 

それは

すべて

お釈迦様が

お経を通じて

私たちに

教えてくれたこと

なのです。

 

子供たちには

「お釈迦様が言ったのだよ」

と伝えて下さい。

今は意味が分からなくていいんです。

でも大人になって、

辛いこともたくさん経験して、

いつかわかる日がくるかもしれません。

 

慌てなくてもいい。

必ず

私たちもお浄土に参るのです。

 

そして、

私たちは

また、

お浄土で会うのですから。

 

 

  お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い  

 

 

ここからはbonbu-kokiが書いていきます。

 

「摂取不捨」は「仏説観無量寿経」

「倶会一処」は「仏説阿弥陀経」

に出て来る言葉です。

お釈迦様が説いたこととして、

大切な仏さま観、

大切なお浄土観

だと思います。

 

大阪の西教寺の御住職によると、

この娑婆の縁尽きて、

人が亡くなる時、

人は何もなくなるのではなく、

人はいなくなるわけでもなく、

その瞬間

肉体から解き放たれて

精神からも解き放たれて

パシっと。

仏様に成るのだそうです。(往相回向)

 

仏様と言うのは

さとった方、

と言う事です。

 

そしてそこはお浄土という

阿弥陀様の世界

 

でも、

この娑婆にも

ちゃんと帰ってきて(還相回向)

今、

まさに

今。

私の命に寄り添って

私を生かしてくれる

「ハタラキ」になってくれている。

 

だから、

お浄土でしか

再会しないんじゃない。

今、私のいのちとなって

今、出会えている

と言います。

 

そのように

私は聞いております。

(如是我聞)

 

今、

来てるんですよ。

仏さまが。

 

これを喜ぶことを

「南無阿弥陀仏」

これを感謝することを

「南無阿弥陀仏」

というのですね。

 

亡くなった方は

もう仏さま。

苦しんでないですよ。

 

やがて

亡くなる私もまた

仏さまになります。

そこで

苦しさから

解放されていきます。

 

これが

「さとりを得る」

と言う事のようですよ。

 

今日もお育て頂きました。

今日もようこそのお参りでした

 

 あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい  あじさい 

 

 

<期間限定>

 

くれぐれもご負担なく、

ご無理なさらないようにお願いします。

 

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  ④ たけちゃん 

 

 

 

今日の東京都心は晴れて晴れ

ちょっと蒸し暑い気候となりました。

 

には紫陽花あじさいをあちらこちらに見るようになり、

空を見上げれば、龍🐉が舞っていました。

ちなみに龍🐉は「仏法の守り神」なのそうですお願い

 

皆さまのお住いの所では、

今日は何と出会えたのでしょうかニコニコ

 

 

さて、

我が家の今日の日めくりカレンダーです。

過去のものと合わせて、

皆様とご一緒に味わっていきたいと思います。

 

 

 

人生の曲がり角って、

曲がっているだけで

道がないわけではないよね。

 

脳梗塞で倒れて仕事を続けることが難しいと分かったときに、

いとこが掛けてくれた言葉です。

私自身は終わってしまった・・・と思っていたのに、

違う道があると気付かせてくれました。

感謝しています。

 

                      愛媛県 匿名希望 無職

 

 

人生の曲がり角。

もうだめだと思う時、

違う道があるのですね。

今、見えていますか?

違う道が・・・。

 

 

  あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい

 

 

大変な時って、

「前向きになれ」と

周囲に言われても

すぐに「前向き」なんて

なれませんよね。

 

でも、

大丈夫です。

だって、

 

 

 

向いた方が前だ

 

向いた方向とは、導かれたところなのです。

御縁あるところに向かっていきましょうよ。

 

 

  あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい

 

 

曲がり角の道を進んで

間違えても大丈夫です。

 

 

 

道を間違えたって大丈夫!

どこを通ったって

着けばいいんだよ

 

カーナビがあるのに迷子になった私に5歳の娘が言った一言。

人生にも当てはまるというか、深いなーと思いました。

 

                     愛媛県 屋舗望恵 主婦

 

 

人生は最後には

ちゃんと「帳尻が合う」ようになるのだそうです。

日蓮宗のお坊さんがおしゃっていました。

 

 あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい   あじさい

 

 

普段なら

聞き流す言葉であっても

時に

力が湧いてくる言葉と

出会う瞬間があります。

 

もう、それは

運と、縁と、タイミング。

 

今日も

「言葉のチカラ」と

出会ってほしいと思いますニコニコ

 

 

 

 

人生ほど甘いものはない

何度でもやり直せる

 

受験に失敗した子に塾の先生が言った、励ましの言葉です。

数年前テレビで聞いていたのですが、「甘い」という言葉が意外で、

妙に勇気づけられるように思えて、印象に残っています。

 

                   東京都 上嶋玲子 主婦

 

 

大丈夫

 

何があっても

大丈夫です。

 

人生は

毎日が

今日からが

スタートですウインク

 

 

今日の東京都心は、気温か30度晴れになり、

風もあまりないために、すごく蒸し暑い陽気でした。

 

明日から私は仕事が6連勤なのですが、

今日もお参りをしてきました。

お寺の境内の蓮の葉ですが、

毎年咲く、赤や白の「蓮の花」が楽しみですニコニコ

 

 

今日で5月も終わりですね。

お参りのあとは、法話を聞きましょうニコニコ

 

 

今日のご講師は、山口県下関市常元寺の伯浄教師です。

 

 

 

 

青字は伯師の言葉の要約です。

 

 

<いつの間にやら>

 

浄土真宗本願寺派のホームページを見ていますと、

「浄土真宗は、出会いの仏教です」

と書いてあります。

また、

「阿弥陀様との出会いを大切にします」

とも書いてあるんですね。

 

では、

「出会い」は、なぜ必要なんでしょう。

それは、

「出会う方」で、人生が変わるからです。

 

私は福岡の高校を出たのですが、

その高校は元々「鎮西女子」という女子高で、

共学になるということで、男子を集めに掛かっているところでした。

その時、たまたま、父親の知り合いが鎮西女子の校長先生で、

「君、高校進学なら、うちに来なさい」

そんなご縁でありました。

 

そして、高校2年の7月、

帰ろうとした私を呼び留めてくれた女性徒がいました。

その子は今、山口県の下関市で浄元寺の坊守(住職の奥さん)をしています。

そうです。

今の私の連れ合いです。

 

まさに、

誰と出会うかで、

出会いは

「人の人生」を

変えていくのです。

 

皆さんもそれは

御経験を通して

実感されていることでしょう。

 

   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ   ニコニコ

 

ある方に言わせれば、

出会いには3つの形があると言います。

 

ひとつは

知らない者同士が会うこと。

「初対面」と言うことです。

 

二つ目は

知っている者同士が再び会うと言うこと。

「再会する」と言うことです。

 

三つ目は

知っている者が、知らない者に働きかけるということです。

「値遇(ちぐう)」と言います。

 

平成28年の事です。

私は子どもを授かりました。

当時、連れ合いは大阪の病院にいましたので、

仕事先の広島から新幹線で病院まで行きました。

 

私が病院に着くと、看護師さんがこう言います。

「抱かれますか?」

「え!いいんですか?」

心の準備の無いままに我が子を抱いてみましたが、

それは思ったより重く、

それは思ったより温かい我が子でした。

 

顔はお猿さんみたいですが、

それはどうでもいい事です。

私は思わず、

声を掛け続けました。

「父ちゃんぞ!」

「父ちゃんぞ!」

 

それから、数年後、子どもが子供園に通うようになったころ、

改めて私は聞いてみました。

「お前、生まれた時に、

お父ちゃんは ”お父ちゃんぞ” ”お父ちゃんぞ” 

声を掛けたのを覚えとるか?」

 

その問いに、子どもはこう言います。

「知らん!」

まあ、そりゃそうですよね。

では、と、もう一度子どもに聞いてみました。

「じゃあ、お前がお父ちゃんの事を

お父ちゃんと思うようになったのはいつだ?」

 

その問いに、子どもはこう答えました。

「いつの間にやら」

「いつの間にやら、お父ちゃんと呼ぶようになっとった」

 

そうですね。

私が「父ちゃんぞ~」「父ちゃんぞ~」と、

いつでも、

どこでも、

どんなときでも

呼んでいたことで、

これが「親子の出会い」になったことでありました。

 

そして、

私と仏様との出会いも「値遇」なのです。

 

私の方はわからなかったけれど、

仏さまは全部私の事はお見通し。

仏さまは私の事を全部知った上で

私に呼び掛け続けてくれているんです。

それにちゃんと私が気づけていけたら、

どんなに仏さまは幸せなことか。

 

実はですね、

私たちもね、

いつの間にか

仏様と出会っていたんですよ。

 

じゃ、

仏様と出会うと、

人生が変わるのでしょうか。

 

変わります。

 

本当なら

この私は、

このお娑婆の縁が尽きたら、

六道輪廻(ろくどうりんね)」を巡りに巡り、

「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」に行くことが決まっているのに、

仏様との出会いで

「お浄土」というところに往き、仏様と成らせて頂くのです。

 

そのお浄土とは、どんな世界でしょう?

苦しみ、悲しみを超えた「穏やかな世界」なのです。

そして、再び、この娑婆に還ってきて、

有縁の方を救い、見守っていく仏となっていくのです。

 

そして、

それを聞かせてもらうことで、

「思うようにいかない」この娑婆での生活だけれど、

「苦は苦のままで、安心して生きていける世界」

にいることに目覚めていきます。

 

いつの間にやら

私たちは

仏様とも

出会っていたのだけれど、

本当に良かったと思うのです。

 

 

<親の涙>

 

私の父は、平成19年に65歳で亡くなりました。

振り返れば、

平成17年、胃がんのために胃を全部摘出する手術をしました。

予後がよく、本人も家族も安心をしていましたが、

やがて、今度は胃ではなく、他の臓器の癌が見つかり、

今度は手術後の予後も悪く、

緩和ケアからホスピス病院に転院をしていったのです。

 

父は次第に身体も弱っていき、

「話せなくなりそうだから、今のうちに兄弟三人で会っておこう」

ということになりました。

当時、二人の妹は関東にいましたから、

山口県にいる私と日にちを合わせて、面会に行く日を決めました。

 

さて、

ホスピスというところは家族が病院で一緒に泊まれるので、

面会の日は3人で病院に泊まる計画をしていましたが、

その日は病院のボイラーの故障でお風呂が使えないことになりました。

 

その日は6月19日です。

ムシムシしますから、二人の妹は「お風呂に入りたい」と言います。

じゃあということで、

病院から車で20分のところにある川棚温泉に行くことになりました。

 

「じゃあ、お父さん、病院のお風呂が故障してるから、

川棚温泉でお風呂に入って帰ってくるけど、8時には戻ってくるからね」

その時、父は話すのがしんどいので、

手をあげて「分かった」の合図をしてくれました。

 

さて、お風呂に入って、「さあ帰ろうか」と思ったのですが、

妹二人はせっかく来たのだから、

夕食は温泉名物の「瓦(かわら)そば」を食べたいと言います。

私はえ~っと思ったけれど、

多数決では2対1ですから、

瓦そばを頂いて帰ることになりました。

結局、病院に帰ったのは、午後9時半になっていました。

 

病院に戻り、

「お父さん、今、帰ったよ」

そういうと、父はものすごい勢いで何かを言っています。

言葉にならないので、

何を言っているのかが、わかりにくかったのですが、

やっとわかりました。

「おそく・・・、なるなら・・・、でんわ・・・、してこいや~・・・」

 

私はびっくりしましたが、こう言いました。

「そうか、連絡しなかったのは悪かったけど、

お父さん、携帯にも出れないじゃろうが・・・」

 

そうしたら、それを聞いて、また何か言っています。

〇△✖※◎▽×※〇・・・・・

 

そして、

次の日です。

父は往生しました。

 

  👴    👴    👴    👴    👴    👴    👴

 

気が付けば、

私たち兄弟3人は

実の父親に

どなられて

しかられて

最後は終わった子供たちでした。

 

もう、こうなると、

私たちは「後悔の念」しかありません。

後悔したら、

皆さんはどうされていますか?

自分の胸の内だけにしまっておれますか?

もし、胸の中にしまっていたら、

もうそれは

一生持ったまま、

苦しいまま、

になってしまいます。

 

ですから、

後悔をしたら、

人に聞いてもらうのが一番の様です。

 

私はお通夜の晩に先輩僧侶に、

父との最後の会話の場面を伝えたんです。

ありのままに・・・。

 

そうしたら、その先輩僧侶はこう言ったのです。

「そりゃ、叱ったんじゃないじゃろ。

それは、約束の時間に帰ってこないあんたたちが

心配で心配で仕方がなかったんじゃろ。

 

いつ、車の事故があるかわからん。

いつ、誰かが急に倒れるかわからん。

いつ、誰がどうなるかなんて、わからんじゃないか。

 

誰かの人生の最後に、

いつも立ち会ってきた僧侶だから、

そして何より親だから、

心配で心配で仕方がなかったんじゃろう」

 

そうか。

そうか。

 

父は自分の身体が、

人生で一番きつい時でさえ、

もう年の頃なら50歳前後の、

いい歳をした私たちなのに、

最後の最後まで

子どもの事を思ってくれていたんですね。

 

そう思うと、

父は今も私たち兄弟3人の心の中に

今もはっきりと

生き続けてくれるのでありました。

 

(画像お借りしています)

 

 

  👴    👴    👴    👴    👴    👴    👴

 

山口県に福田康正(ふくだこうしょう)という先輩僧侶がいます。

よくお寺では「お寺の掲示板」と言って、

お寺の掲示板に「仏教に関する言葉」や、

「有名人の言葉」を書いて貼りだすということをしていきます。

 

ところが福田先生は自分で言葉を考えて、

自分のお寺の掲示板に貼っていくのです。

そして、その言葉を「枕言葉」にして、

その言葉に添った法話をしていくのです。

 

その中でこういう言葉があるんです。

 

(画像お借りしています)

 

親の涙の

注がれていない

子供は

一人もいない

 

仏の涙の

注がれていない

人は

一人もいない

 

産んでくれた方、

育ててくれた方だけじゃない。

どんな時でも

涙を注いでくれた方の事を

「親さま」と言います。

 

生まれて

何も知らない

何もできない

この私は

今まで何度

親に救われてきた事でしょう。

私が親を困らせた時も

私が親を喜ばせた時も

親は私に涙を注いで育てて、

守ってくれていたんですね。

 

それを仏様に置き換えてみましょうか。

 

生まれて

何も知らない

何もできない

この私は

今まで何度

仏さまに救われてきた事でしょう。

私が仏さまを困らせた時も

私が仏さま親を喜ばせた時も

仏さまは私に涙を注いで育てて、

守ってくれていたんですね。

 

合掌を知らない

頭を下げることを知らない

 

そんな私を

涙で導く方たちに

感謝しても

感謝しきれないと思うのです。

 

 

 お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い   お願い

 

 

ここからは、bonbu-kokiが書いていきます。

 

自分はいったい

どれくらい親に

涙を注がせて

きたのだろうか・・。

 

このようなことを

お考えになったり

想像したことはないですか

 

今の自分があるのは

きっと

親の涙が注がれてきたから。

 

そう思えたら

もっと親には

優しくなれるのかも

しれませんね。

 

私たちは

自分のために注いでくれた

たくさんの親の涙を

実は

ほとんど知りません。

 

遅くなってもいいから

そういうことに気付き、

仏さまの涙にも気づき、

これからの人生を歩んでいけたら、

きっと生き方も違ってくるかもしれませんね。

 

(画像お借りしています)

 

(画像お借りしています)

 

今日もようこそのお参りでしたお願い

 

今日も

出遇えて

よかったニコニコ

 

 

今日の事です。

 

仕事が休日でお寺の法話もなく、

一日どうしようかなと思っていたら、

たまたま1時で仕事を終えた友人と

写真展に行った後、

お茶をすることになりました。

 

待ち合わせの時間、

友人からLINEが来て、

「電車の駅を降り損ねたから遅れる」とのことだったので、

待ち合わせ場所に近かった歌舞伎座のお土産コーナーを、

いつもはスルーするのに、じっくり見ることができました。

 

最初の目的で行った、キャノンギャラリーでの写真展。

「ただ、見るだけだよなぁ」と思っていたら、

自販機に反射する飛行機の写真とか、

予想外に構図が面白くて、

その場にいた写真家さんと10分ほど丁寧に

撮影の裏話が聞けました。

 

じゃあ、そろそろお茶でもしようと、

友人のお気に入りの喫茶店に行ったら、

今日は臨時休業日とのこと。

それならと入った不二家レストランは、

普段は平日でも待つのに、

待たずに入れて、

しかも眺めのいい席でした。

 

ケーキを頂き、コーヒーを飲みながら、

私は「行ったボランティア先で、感じの悪い方がいた」という話をしたら、

友人は「職場で感じの悪い方がいて、気分がよくなかった」と言います。

じゃ、

今月の神社の言葉

「人こそ人の鏡」(書経)を

お互いに肝に銘じようと話しました。

 

もう帰ろうかと思ったら、

友人が「せんねん灸」のデモショップがあるから行きたいと言い、

帰りが遅くなるなぁと思いながら付いていったら、

長年気になっている「耳鳴り」に利くお灸があることを知りました。

 

思うようにはならないこともあったのですが、

家に帰ってきて、

あぁ、今日もいい一日だったなと

しみじみ思いました。

 

 

<日々是好日>

 

 

<日々是好日>

 

一日一日がよき日になる

 

朝 目の前で電車の扉が閉まり

次の電車がくるまで読書ができた。

昼 いつものランチが品切れで

気になっていた新しいメニューに挑戦した。

午後、お客様から叱られて

まだ伸びしろがある自分がわかった。

夜 デートがなくなって

たまたま見たテレビが面白かった。

深夜、布団に入って

あぁ、今日もいろいろあっていい日だったな、

と思えた。

 

私たちの人生に起こる

出来事に意味はない。

 

ひとつひとつの出来事に

ツイていた ツイていなかったとか

幸せ、不幸せとか

意味をつけなくてもいい。

ただそうした毎日をありのままに

生きていれば

一日一日がよき日になる。

 

      (禅語エッセイ 発行:リベラル社)

 

 

お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い  お願い

 

 

私の家には仏教関係の図書が、

それこそ、

大手の本屋さん並みにあるんじゃないかと言うほどあるのですが、

その中でもお気に入りの一冊が「禅語エッセイ」で、

その中でもお気に入りの一節が「日々是好日」です。

 

私たちの人生に起こる

出来事に意味はない。

 

意味づけをしているのは

自分の都合や感情ですが、

やっぱり、

結局は、

それって、

人生で出会う「ご縁」でしかないのです。

 

今日も、

大変なこと

予想もしなかったこと

苦しかったこと

悲しかったこと

ムカついたこと

虚しかったこと

いっぱいあったかもしれませんね。

 

今日も・・・、

だけではありませんよね。

今週も・・・

今月も・・・

今年も・・・

 

そして

この今生は

何かしらのご縁を

私たちは頂いて生きていきます。

 

そのことを受け止めながらも

「味わいの転換」をしていってみる。

 

もしかしたら、

人生は

思ったほど

悪くないかもしれませんよね。

 

明日も

よき一日を

お過ごし下さい😊