3月の記事で「財務」について書かせてもらった
組織では今年も年末の振込に向け、先日まで申込受付に慌ただしかったようだ
昨年より申込数を減らすことのないよう現場は大変だ
少しでも減るようなことがあれば、末端幹部は上からいろいろ言われることになるので、何とか目標数に合わせるために地区の統監をくまなくチェック
例えば既に転居している非財務部員の子どもがいれば、その親にお願いに行ったりする
結局、その子どもの名前で、親が代わりにやることなど珍しいことではない
事実、私も未活動だった若い頃、母親が私の名前で財務を行っていたことを後になって聞いたことがある
「なんでそんなことしたんだよ」と言う私に、あなたに福運をつけるためだと自信満々に言った母のドヤ顔が思い起こされる
先日、聖教新聞紙上で長谷川理事長が「すがすがしい財務となりますよう、お一人お一人への声がけを…」と言ったことが、あるところで大変話題になっている
「すがすがしい財務」とは何なのか?
すがすがしい=清々しい
辞書には「主に爽やかで気持ちが良いという意味や心がさっぱりとするという意味」とある
つまり言い換えれば「財務は悔いなく、さっぱりと気持ちよくやりましょう」という事なのだろうか
それならあまりに心のない発言だ
今の日本の経済状況において、国民がどれだけ収入が増えないことや、この家計を逼迫する物価高に苦しんでいる状況をわかっているのだろうか?
「この大変な状況の中、本当にお世話おかけしますが…」など言葉を添えるくらいのことは出来なかっただろうか?
かつて原田会長も本幹の中で「財務は大善」 「財務は福徳の因」 という発言をしたことが、ある一部で大きな非難を浴びた
つまり金を供養することは何の活動よりも尊いものだと
しかし、もしそれが「福徳の因」と言うのなら、金を持つ者はより「成仏」に近く、金を持たない者はより「成仏」から遠いということになる
ただ、この発言はもともと彼の言葉ではない
読んだことがある人なら知っていると思うが、小説「新・人間革命」第4巻「凱旋」の章には下記の記述がある
学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。
ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。
師匠のお言葉をそっくりお伝えしたということだ
いや、待て
この「人間革命」自体はそもそも、池田氏ではなく、本部の執筆班が書いたものではないか
そう考えると、こういう言葉は、組織本部の総意と見るのが自然なのではないだろうか
会員数の減少と共に、聖教新聞の「実質」購読数同様、財務の金額も右肩下がりなのは想像に容易い
つまり、財務を上記のように意義付け、「最高の大善、大功徳」と言い、より多額の寄付行為を煽っていたと考えても、あながち間違いではないだろう
財務は本来、釈迦の時代から続く、真心のご供養のはずである
創価学会はこれまでも「衆生身心御書」などを引いて言ってきたではないか
『たとえ、功徳善根を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない
たとえ、信心が薄く、少しの物の供養であっても、真実の人に供養すれば功徳は大きい
まして厚い志をもって、真実の法を供養する人びとの功徳は、どれほど大きいか計り知れない』
このご時世に、多額の財務ができる人は本部から手厚く扱われ、生活を切り詰め、本当の真心の財務に挑戦している人は置き去りにされる
それが、姿、形は同じのようでも中身がすげ変わった、今の組織での財務の哀しき現実
真実でないところに無理した財務をしても功徳など何もない
30年以上財務を続けてきた者の結論である
財務のハナシ②