「アナタハ カミヲ シンジマスカ~?」
この言葉は、昔、テレビの影響だったと思うが、子供の間でもけっこう流行ったように記憶している
「シンジルモノハ スクワレル」
同様にこれもよく耳にしたが、今思えば悪い言葉ではないなと思ったりする
日本人は占いであれ、寺であれ、神社であれ、とにかくスピリチュアルなものが好きだ
そのくせ、意外と信仰心はそうでもない
まぁそれが特に戦後の日本人の特長でもあり、何かを信じ、祈り、それが叶えば感謝するし、たとえ叶わなかったとしても、神や仏を恨むこともない
その行動自体は何らおかしいことではない
対象は何であれ、祈ることは心の安らぎにもなり、時には一時的でも、苦しみから解放してくれることもある
ともあれ「信じる者は救われる」わけだ
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一方で、その祈り(信仰)の中に「勝ち負け」を求めるのが創価の教えである
私は常に「仏法は勝負である」という言葉の中で育ってきた
まぎれもなく師匠と思ってきた人のその言葉が、今でもなかなか耳から離れることはない
「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」という日蓮大聖人の御書がある
これは四条金吾の時代、主君による弾圧という苦難を、世間の表面的な次元から「賞罰」として捉えるのではなく、仏法の眼、信心の眼で仏と魔との「勝負」として捉え、「断じて負けてはならない」という日蓮大聖人のメッセージである
簡単に言えば、世間のいかなる困難や、自分の弱さに打ち勝つような強靭な心を持って立ち向かっていきなさいということである
ぱっと読めば別におかしいことではないが、問題は仏法の眼、信心の眼というところにある
当然のことながら、この時代は布教が命懸けの激しい時代であり、他宗排他主義の日蓮仏法視点での話である
目的はあくまで日蓮仏法の広宣流布だ
つまり、広宣流布の途上においては、必ず第六天の魔王という生命破壊の魔性が現れ、人生は常にその「魔」との戦いであるとされている
創価学会員はこの仏法を実践しているのだからそれはそれでいいのだろう
ただ、人生のすべてを同じように勝ち負けという枠に取り込んでしまう考えは、たとえ生活の中に生きる信仰だとしても現代においては、それはいささか危険に思える
何もかも自分に降りかかった困難を「魔」と捉えてしまう
時には信仰を阻むものであれば、自分の妻や子供でも「魔」のひとつになる
(そのものが魔ではなく魔が入り込むと捉える)
だから、それに負けてはならないという妙な反骨心や敵対心が生まれてしまう
ましてや自分たちのことを非難するような相手には、とことん攻撃し排除しようとする
仏法者(自分)を責める者は「仏敵」と捉える習性が身についてしまうからだ
そこには本来の仏法の精神とは大きなズレを感じてしまう
世間一般の人はもちろん広宣流布などしない
自分の人生を阻むものを「魔」とは捉えない
折伏をすること、新聞啓蒙をすることが自分の幸福につながるなどとは考えない
選挙活動などが自分の宿命を転換させるものとは思わない
仕事以外で数、数、数には追われることはない
困難に立ち向かう心は大事なものだが「人生そのものが戦いだ」と、常に勝ち負けばかりに拘っていては、何と窮屈な人生だろう
そんな考えの中にいたら
「信じるものも救われない」
シンジルモノハ スクワレル