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注ぎ込まれる言葉

障害者雇用で働いてます

おはよう。
 
これから出勤です。今日で仕事納めになります。
明日から6日間、休みを頂きます。
ここ最近、2kg太りました。休みの間、さらに太ることがないよう節制します。
 
近況ですが、ここ2週間くらいで不思議なことが起こりました。
 
ある日の出勤時に、駅の待合席でくつろいでいた時、2年くらい会ってない友達が僕を見つけてくれて、声をかけてくれました。
会ってないということはないか。たまにバスの中で見かけるので。
彼は今は精神のグループホームで暮らしているそうです。
お互いの健闘を讃えあって別れました。
 
またある日は、仕事中、「あ、ボンさん」と女性に声をかけられました。
彼女は僕がお世話になった就労移行支援所のスタッフさんで、事業所は職場と目と鼻の先にあるのですが、不思議と今まで職場でバッタリと会えたことはありませんでした。
忙しくて1分しか話せませんでしたが、会えた喜びを共有したり、近況報告を手短にして別れました。
 
その数日後、僕はとある女性と食事をしました。
この方は僕が就労した時の店長さんで、今は退職して生命保険会社で働いているのですが、個人的な交流だけは細々と続いていました。
なんでも、お客様に保険の説明をする練習台になって欲しいとのことで、たやすい御用なので相手をしています。
メシを奢ってくれるし、仕事以外にも将来の夢とか色んな話ができるので、非常に中身のある時間でした。
 
そういうわけで、今年が終わろうとしている時に、立て続けに懐かしい人にあったわけです。
3人のうち2人はまったくの偶然の出会いで、なんだか、1年の終わりに皆が僕に会いにきてくれたようで、人の縁というものを実感するばかりです。
不思議なことってあるんですね。
 
僕は先日、誕生日を迎えまして、46歳になったのですが、この歳になって人がひとりでいるのはよくないなあと思うようになりました。
僕は元ひきこもりで、孤独がいかに人をだめにするかよく知ってます。
就労して3年経って、周りと助け合いながら働く中で、人はひとりでは生きていけないと当たり前のように思うようになりました。
ここ数年、老後のことをよく考えるのですが、やっぱり気心が知れた人との繋がりを絶対に大切にしなければならないというのが今の結論です。
 
人生100年時代、ひとりばっちで天寿を全うするのは難しいし、できたとしても心の中は味気ない最期になってしますのではないでしょうか。
できたら、自分がこれと思う人とシェアハウスに住むとか、それができなくてもお互い心配し合って連絡を取り合って時々会うとかしたいなあ。
それが今の僕の夢っちゃ夢ですね。
 
あと3日で令和4年ですか。令和になったのって最近じゃなかったっけ?時が過ぎるのが早い。
 
さて、そろそろ出かけます。
今年最後の仕事なので、できれば周りの仲間と挨拶などして終わりたいです。
 
ブログにおいての年末年始のご挨拶は省略させていただきます。
気が向いたら更新します。
 
読んでくれてありがとう。
それでは行ってきます。
おはようございます。
イブの前日。今日も仕事です。
今日は母の半生について、今書ける範囲で書いてみようと思います。
そんなに長くないのでどうかお付き合いください。
 
母は東京で生まれました。
幼い頃、0歳か1歳くらいの時に、東京大空襲があり、母は家族におぶさって逃げ惑いました。
その時、焼夷弾の炎が幼い母の服に燃え移って、その火を母の姉が一生懸命消火してくれたことで事なきを得ました。
母の一家はもう東京にはいられないので、北海道に開拓農民として移り住みました。そういう国策でもあったようです。
ただ、全く安全ではなく、青森から船が出るのですが、母の前に出航した船が爆撃を受けて沈んだのだそうです。
そういうわけで、母は空襲と爆撃の2度の生死の分かれ目をかいくぐって生き残ったのです。
 
千歳に移り住んだ母の一家は、農地を開拓し、牛や馬を飼い、畑を耕し麦を育てました。
母は8人兄弟の下から二番目で、主な労働は上の兄たちがやり、母はお姫様のように労苦しない子供時代を過ごしました。
モノがない時代ではあったけれど、生活は決して貧しくはなく、農産物は潤沢にありました。
搾りたての牛乳の濃厚な味や、採れたてのとうもろこしのフルーツのような甘さは今でも鮮明に覚えていると言ってました。
そんな豊かな自然に中で母は育ちました。
 
いつだったか、母が中学か高校の頃に、美智子様のご成婚パレードを母の母に連れられて、知り合いの家のテレビで観たと言ってました。
この時、母は生まれて初めてテレビを見ました。このことがきっかけで日本中にテレビが一気に普及し始めました。
 
母は高校を出て、少しの間何もせずにプラプラしていました。じきに親族の紹介で地元の製餡工場に勤め始めました。
 
母は言ってました。
「当時の女性っていうのは、売れるの。必ず農家に働き手として嫁に行くの。私も中学を出て高校に行かないでいたら売れてたと思う」
 
・・・では、母はいつ「売れた」のでしょうか。売れる前に母は行動に出ました。
母は何を思ったか、20歳くらいの時に北海道を飛び出して東京へ上京してしまいました。
就職のためではありません。信仰のためでした。
 
教会に行き、キリスト教の門を叩き、シスター見習いになったのです。
キリスト教に身を捧げ、住み込みで勉強し働いたのでした。
カトリックの教会で、聖書の勉強をし、昼間はミッション系の幼稚園のバスの添乗員などをしました。
色々習い事もしたようで、料理や裁縫、変わった所では、外で一般の人に混じって「話し方教室」というものにも通いました。
話し方教室には、当時独身時代の父も通っていて、ここで母は父と初めて出会い、気が合ったのか最初は友達のようになりました。
 
父は中学を出て高校には行かずに働いて運送業をしていました。
父は岩手の人で、東京まで出稼ぎにきていて、岩手の実家に仕送りをしていて、そのお金で、父の弟さんは高校を出て警察官になることができました。
父は変わり者で、中卒で運送業という、飲む打つ買うが当たり前の人が多い業種の中にいながら、当時まだハイソな趣味であったテニスを始め、これまたどこで買ってきたのか白い上下を着てどこかのテニスクラブでプレーしていたそうです。
そんな父を見た職場の同僚は、変わり者の父に当時のミッチーブームゆえの「皇太子」というあだ名をつけてからかったものでした。
 
話しを元に戻そう。
そもそも中卒の労働者である父とシスター見習いである母に接点など生まれようがないのですが、変わり者で好奇心旺盛な父ゆえ、話し方教室の門を叩き、そこで初めて父は母と出会うことができました。
ある時などは、父は友達から借りた車に乗って母の住む教会にまで遊びに来て、そういう教会という閉ざされた場所に男が遊びに来ることがあまりないことなので、この時ばかりは母も「この人は相当変わっている」と思ったそうです。
遊びに来るとはいっても、教会の建物内でお茶を飲みながらおしゃべりするだけなのですが・・・。
 
じきに父と母は親密さを増していき、付き合ってるみたいな感じになったんですけど、そもそも修道女が恋をするなどけしからんと僕は思いつつ、それがらければ僕は生まれてないわけで・・・複雑な気分です。
 
そして、ある時ある場所で父は母にプロポーズをしました。
母は「こんな私でよかったら」と言って父のプロポーズを受け入れ、めでたく結婚とあいなりました。
結婚するわけですから、当然母はシスターになる為の修行はやめて、教会から出て行きましたが、キリスト教の信仰は今でも続いていて、たまに日曜日のミサには通っています。
 
そもそも母はなぜキリスト教に身を捧げようと思ったのか。それははっきりとは言いません。
たぶん、このまま北海道にいて「売れて」、嫁に行って農家の手伝いをしてというわかりきった人生を送るよりも自分で自分の人生を切り拓きたかったのかもしれません。
ただ、修道院での生活の中で、このまま一生キリスト教に身を捧げる人生で良いのか迷いもあったようで、父が自分を教会から連れ去ってくれたことは良かったと最近言ってました。母は良い時に父と出会ったのです。
 
父と母の間には二人の男の子が生まれ、二番目が僕です。
その子らを連れて、埼玉、岩手、岡山、神奈川と住む場所を変えていくのですが、それは僕の半生の話になってきますので、今回は割愛します。
 
いかがだったでしょうか。
本当はもっと詳細に長い文章にしたかったのですが、能力がなくてこれが限界でした。
また面白いエピソードなどがわかったら書いてみようと思います。
 
最後まで読んでくれてありがとうございました。
では、仕事です。
 
行ってきます。
行ってらっしゃい。
おはようございます。
 
いつものように日課の踏み台昇降を20分やりました。
 
水木金土が仕事なので、今日からまた僕にとっての1週間の仕事が始まります。
以前に何度かブログで書いてきた通り、水曜日の仕事始めの前は不安でたまらない、つらい時を過ごしてました。
 
ですが、ここ一ヶ月でしょうか。不安はほぼなくなりました。
会社の健康保険組合で、24時間心理カウンセラーと話せる電話番号があります。
一時期はここに何度も何度も電話して話を聞いてもらってましたが、今は全く電話しなくなりました。必要がなくなったのです。
 
どうして不安が薄れたのでしょうか。自分なりに考えると、オフの時でも「今はオフだけど数日でまた働くんだぞ」と自分に言い聞かせるようになったからかもしれません。
僕の場合、完全にオフモードになってしまうと、いざ仕事が始まる時に時差ボケみないになって、それを取り戻そうとして不安になるのではないかと考えてます。
オフの時でも、心の中で仕事のテンションをほんのわずかでも保っていることで、ある意味では腹をくくってるのだと思います。
水曜日の出社に備えて心の準備をしておくということです。
 
もちろん、オフの日でも仕事のことで頭がいっぱいということではなくて、心の片隅で仕事が始まることに対して心の準備をしておくだけなので、オフを満喫はしてます。そういう器用な休み方ができるようになってきました。
 
僕は日月火がオフなのですが、今回のオフはチョコレートの世界にどっぷり浸かってました。。
元々チョコレートが好きで、業務スーパーで安いチョコレートを買いだめしたり、外国産の珍しいチョコレートがあれば買ったりしてました。最近のお気に入りは、カントリーマアムのチョコまみれです。
 
食べるだけでは飽き足らず、チョコレートがテーマの映画を観たり書籍を読んだりもしました。
 
皆さん、久遠チョコレートって知ってますか?
障害者の人たちがここで働いて美味しいチョコレートを作ってます。
かなり繁盛していて、給与もかなりもらえてるみたいです。

 

久遠チョコレートを取材した動画です。

 

久遠チョコレートの記事です。

 

その他にも調べると、チョコレート検定っていう民間資格もあるんですね。

僕は勉強が嫌いだから受けないけど、チョコ好きの人にとっては人気資格のようです。

 

 

地元のスーパーで売ってるチョコでは飽き足らず、そろそろちゃんとしたショコラティエが作ったチョコを食べたいです。

こういうお店って、僕の住んでる周りにはなくて、横浜方面か、あとはやっぱり都内は強いですね~。お店が充実していてうらやましいです。

とりあえず通販で買うのが無難かな~。

 

さて、オフも満喫したし、今日からの仕事も頑張れるかな。

ぐずついた天気が続くようだけど、心は晴れ晴れとしています。

それでは、ぼちぼちお弁当を包んで出社の準備を。

 

では終わります。

ありがとうございました。

 

行ってきます。

行ってらっしゃい!

 

腹減ったな。

とりあえず、手持ちの素材で料理するか。

 

うーん、玉ねぎ、しめじ、ウインナーがあるな。

上等上等。

玉ねぎの皮を剥いて、ウインナーは削ぎ切りにしようか。

まず、切ったたまねぎとウインナーを炒めよう。

今回はバターで炒めた。

火が通ったら、玉ねぎとウインナーを容器に移して、同じフライパンでしめじを同じようにバター炒めにしよう。

しめじに火が通ったら、玉ねぎとウインナーを合わせて軽く炒めよう。

粗挽き黒胡椒とケチャップを入れよう。

容器に移そう。湯気が出てる。熱々だよ。

粉チーズは絶対入れよう。これで完成ね。

 

ようするにナポリタンスパゲティのパスタ抜きです。

糖質オフレシピですな。酒のつまみにもいいよ。

今回は、玉ねぎ一個、ウインナー3本、ぶなしめじ一個で作りました。

好みで量を変えたり具を変えたりしてみてもいいと思うよ。

 

今回は自信作。

炒め合わせるだけで簡単。誰でもできると思うよ。

ぜひ真似してみてくれ。

 

では、終わる。

また気が向いたらレシピ更新します。