私達の欲求の行き先、本物の満たされ感の場所✨不足感のカラクリとは? | bon-witch

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~ただ淡々と生きる~

 

 

私達の「欲求」の行き先、本物の満たされ感の場所✨

不足感のカラクリとは?

 

 

 

 

皆さまこんにちは。

記事を書いております本日は、

太陽光(エネルギー)が降り注ぐ

あっ晴れ☀な日和りとなっておりますが、

私の内面の状態は複雑です。

何故なら、なかなか片付かない・・・(~_~;)

 

 

 

空き部屋に、開けたら最後、

解読するまで片付かない段ボール箱が

ごろんごろんと放り込まれて、

片付けにウンザリしながらも、

解読に必要な好奇心を保ちながら、

解読内容をこうして記録し

片付けております。

 

 

 

今回は、「生きること」そのものとも言える

私達の中から次々と湧き上がる「欲求」について

記していきたいと思います。

 

 

 

~が、~で、あって欲しい!

と言う思いに、いつかピリオドが打たれ、

完全な満足感を手にする

完成の日が来るのでしょうか?

 

 

 

「欲求」の元である不足感は何処から

来るのでしょうか?

 

 

 

私同様、カラクリを知ることで、

心が決まりスッキリ生きるヒントになったり、

肩の荷を降ろす事が出来る方も

おられるかも知れません。

 

 

それではいつものごとく、

bon-witch流に淡々と記して参ります。

鼻先でフンフン♪と読み進めていただければ

と思っております。

 

 

 

 

 

 

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何故、「欲求」が湧くのか?

 

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「欲求」とは、

今のこのままの状態に不満があるので湧き上がります。

不足しているものがあると感じたので、生じるものです。

このままの「わたし」の状態では不満足なのです。

 

 

 

今の状態よりも、

もっと「より完璧なわたし」の状態が

あると信じているのです。

 

 

 

世の中に溢れる、もっと「より完璧なわたし」の状態に

必要と思われる何処かの誰かの情報を参考にしながら、

次々に「わたしには、~が不足である」と思われるソレを

手に入れるべく、大切なわたしエネルギーを注ぎ込みます。

ある意味、これが人生です。

 

 

 

ところが、不思議。

「より完璧なわたし」に必要なものを手に入れ、

「欲求」が満たされ、満足感を得たのも束の間、

 

そこに現われたのは、「もっとより完璧なわたしを

求めるわたし」であり、これさえ手に入れれば完璧なはずが、

手に入れたその場所でもやはり何かが欠けており、

もっともっと「より完璧なわたし」の状態に必要と思われる

何処かの誰かの情報に振り回される事になっております。

 

 

 

「完璧なわたし」には、いつ頃なれるのでしょうか?

 

 

 

活力溢れる若い時代は、不足感解消の為に

大切なわたしエネルギーを注ぎ込む事も

人生の醍醐味として可能ですが、

年齢を重ねてくるとそうもいきません。

 

 

 

いくら追い求めても手に入れてみても、

完璧になれない現状に、疑問を通り越して

欲求を持つ事自体を諦める自分が次第に現われてきます。

「人生なんてこんなもん・・・」って。

 

 

 

いろんな言い訳で「より完璧なわたし」になる事を

諦めるのです。自分の不甲斐なさを直視しなくて済むよう、

世の中に溢れる何処かの誰かの諦める理由にふさわしい

情報を参考にしながら。

 

 

 

実は、そもそも「より完璧なわたし」に成りたい!と言う

湧き上がる欲求の原因が、何処かの誰かの示す情報を

参考に私達が考える「コレさえあれば・・・」の

コレではないのです。

 

 

 

 

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不足感のカラクリ

 

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何故か私達の中にいつもある

「より完璧なわたし」に成るために

不足しているものがあると感じさせる

根強い不足感

 

 

 

その原因は、「本当のわたし」の認識と、

この地球上で認識している「かりそめのわたし」との間に

ギャップがあると言う事です。

 

 

 

つまり、

「わたし」の存在認識のパーセンテージが、

「かりそめのわたし100%」であり、

「本当のわたし0%」の状態と言う事です。

※もちろん、個人差あり

 

 

 

「わたし」の認識が、

己の中で分かれている??

 

と疑問が湧くと思いますが、

そう不思議な事でもございません。

 

 

 

「かりそめのわたし」とは、

私達のほとんどが日々「これがわたしです。」と

認識している「わたし」です。

この肉体を持った、この名前の、住所は~の、これを持っている、

あれを持っていない、その「わたし」です。

 

 

 

本来、「わたし」と言う意識はもちろん1つです。

ですが、この地球の織りなす人間界には様々な

価値感がはびこっており、その価値感のうち、

己が受け入れがたい己にとっての評価を無視する事で、

実際には感じてしまっているマイナスイメージの己を

意識しないように無視する事で、認識しようとしない

陰のわたし」のような己を内面に創る事により、

本来は1つの「わたし」が、2つに分かれてしまうのです。

意識しているわたし無視しているわたしに。

 

 

 

ただ1つのわたし、「本当のわたし」は

素直なわたし、そのものです。

都合の悪いわたしを「陰のわたし」として無視したりしません。

ありのままのその時の己の状態そのものに光を当て、認識し、

存在する事を自然に許可しているわたしです。

 

 

 

「本当のわたし」に足りないものなんてありません。

完璧で完全です。理解できないことも、

受け入れられないこともない、

「これで完全」と言う状態の意識であり、

「全てが己」の状態であり、

「己以外のもの」が存在しません。

全てが己と言う意識下で、己の状態がどんなであれ

受け入れられるだの受け入れられないだの、

そういった概念が湧きません。

ただただ、「今この状態のわたし」なのです。

 

 

 

実は、私達が求めている「より完璧なわたし」の正体は、

この「本当のわたし」を「わたし」とする

意識状態になる事です。

 

 

 

「より完璧なわたし」に成りたいのなら、

求めるものは「本当のわたし」を認識すること

他なりません。

 

 

 

「かりそめのわたし」を「これが私である。」

とする意識の使い方から、

「本当のわたし」を少しずつ意識してゆくことで、

「欲求」は減ります。

「今のわたし」の中に、これまでは意識してこなかった

「本当のわたし」の中に在るものを認識していくからです。

 

 

 

 

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「本当のわたし」と「かりそめのわたし」の理解

 

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この地球に生れる前の「わたし」。

それが「本当のわたし」です。

全てを創り出す源そのものであり、

全ての可能性を含むエネルギーであり、

ワンネス・源・宇宙・神などなど呼び名も様々です。

 

 

 

「かりそめのわたし」は、

地球と言う物質次元をリアルに体験する為に

「本当のわたし」が生み出した視点です。

自我(エゴ)と同じ視点です。

「かりそめのわたし」感を持つ事で、

この体験はわたしに起こっている体験である、

と言う事を感じる事が出来ます。

 

 

 

地球に生れ肉体を持つ事で、

目・口・鼻・耳・触・と言う五感を得ます。

この五感で受け取る感覚は、

「この肉体でこの感覚を受け取っているのが

わたしである」という、

「かりそめのわたし」感を強めるのに役立ちます。

 

そして、それぞれの個性から生れる「感情」。

感情は、皮膚の下で起こるエネルギーを感じるものです。

目の前のリアルな地球体験を通して、それぞれの個性を

通して感じる「感情」は、やはり、

「かりそめのわたし」感を強めるものです。

 

 

 

「かりそめのわたし」で体験するからこそ、

その痛みは「わたし」にリアルに起こっていると認識され、

更にその個性を通して、快不快・強弱・そこから連なる思い体験

などが生れます。

 

 

 

そして、「本当のわたし」は、

この「かりそめのわたし」に起こっている

感覚感情を、ありのままただただ許可し、

含め、受け入れる大きな器、観察眼、意識、視点です。

 

 

 

「本当のわたし」を、

「かりそめのわたし」に起こる感覚感情に

夢中になっている時に認識する事は出来ません。

 

 

「本当のわたし」は、落ち着いて1つ1つ丁寧に

「かりそめのわたし」に起こっている体験を、

感覚感情も含めてただただ起こるままに、丁寧に、

私の中に含んでいる、受け入れている、意識状態の「わたし」であり、

そこに良い・悪いと言った地球特有の価値感はありません。

 

 

 

私達の日常で「本当のわたし」で存在している瞬間を例えるなら、

辛い経験を乗り越え、辛さの真っ只中に居るときには気づかなかった

空の青さや、自然の美しさに感動や感謝が湧く瞬間、

人のやさしさを認識し、感謝が湧き上がっている状態や、

自分の中のあたたかな何かに気づいた瞬間、

許せなかった物事・自分を含めた存在を

許す気持ちになった瞬間、みなぎるパワーを感じている瞬間、

安心感を感じている瞬間、満足感を感じた瞬間などはまさに、

「本当のあなた」でこの地球を体験している状態と言えます。

 

 

 

ただただそこに存在する全てを

「今のわたし」の中にありのまま許容できる意識状態です。

 

 

 

地球と言う時間と空間を使い、

「かりそめのわたし」同士で様々なドラマが

繰り広げられ、人生の良き時も、思う様にならない時も、

思う存分に味わい、悩み、考え、求め、

「かりそめのわたし」に自動的に湧き上がる

喜怒哀楽を経験し続ける事で、人生の光と闇が

何処までも存在している世界がこの地球なのだと

私達は知ります。

 

 

 

「かりそめのわたし」は、己が光で存在する事もあれば、

闇で存在することもある事を体験を通して実感し、

お互いの立場が逆転する事もある不確かなこの世界に、

誰にとっても正しい「善」も無ければ、「悪」も無い事を

リアルな経験を通して知るのです。

 

 

 

そうして自然に導かれる視点、

善と悪、光と闇をしっかりと観察することの出来る

±0の視点が「本当のわたし」です。

 

 

 

物質世界に存在するいくつもの役柄を

「かりそめのわたし」でリアルに体験しつくす事で、

どの状態の「かりそめの相手」の状態も我が事として

想像出来る視点を得るので、そこに「わたし以外のもの(者)」を

「裁く心」が生じないのです。

 

 

 

言い換えるなら、

「わたし」と「わたし以外」との間にある境界線を消して行く事、

これが「本当のわたし」にどんどん近づいてゆく事となります。

 

 

 

私達は、この±0の視点から地球に降り立ち、

「かりそめのわたし」と言う視点を使い、

光と闇、両極のリアル体験を通して

再び±0の視点「本当のわたし」に帰ってゆく存在です。

 

 

 

そして、常に全ての存在の源となっているエネルギーは、

「かりそめのわたし」→「本当のわたし」の方向へと

勢いよく流れています。

 

 

 

どんなに流れに逆らう経験をしたとしても、

更にその外側で大きく優雅に、更にその奥深くで静かに確実に、

「かりそめのわたし」は大いなる流れに運ばれているのです。

 

 

 

 

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「欲求」は「かりそめのわたし」感を強めるもの、

地球体験の醍醐味!「本当のあなた」を拡大させる。

 

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ここまでお話したように、

「かりそめのわたし」の求めているものは、実のところ

「本当のわたし」を認識してゆくことで得られるものなのですが、

このリアルな物質次元を相手にしている私達にはそうは思えません。

 

 

 

この世界には、「より完璧なわたし」に必要と思われる

物や状態が存在しており、それを手に入れる事を繰り返して

「完全に満たされたわたし」を手に入れようとします。

 

 

 

「より完璧なわたし」に必要と手に入れた物や状況は、

「かりそめのわたし」のアイデンティティーとなります。

 

~を持っている私

~と言う立場の私

~と思われている私

~の私」・・・・

 

これらは、ただの「わたし」に、わたし以外のいろんな物や状況を

くっつけて強いわたし感を持つ事で、

己と他を区別する状態です。

 

 

 

先に述べたとおり、

「わたし」と「わたし以外」との間にある境界線を消して行く事が

「本当のわたし」にどんどん近づいてゆく事、本物の満たされ感の場所、

となりますので、「かりそめのわたし」感を強めてゆくことは

エネルギーの流れが逆の流れになります。

 

 

 

ですが、「かりそめのわたし」から次々に湧き上がる「欲求」は、

「欲求」が湧き上がると同時に、「本当のわたし」が「欲求」の湧き上がっている

ありのままの「かりそめのわたし」を許容しますので、「本当のわたし」

の中に新たな「欲求実現の可能性」としてのエネルギーを創り出します。

 

 

 

つまり、

 

「かりそめのわたし」が欲求を出す事は、

無いものの無い、完全体である「本当のわたし」のエネルギーを

拡大させるのです。「本当のわたし」に不可能な事も、無いものも、

何より、受け入れられない「わたし」などありませんから

 

 

 

 

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「かりそめのわたし」と「本当のわたし」のバランス

 

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「かりそめのわたし」100%の意識で、

この世界に挑むことは、

手に入れても、手に入れても、何故か得られない

本物の満たされ感と言う、

矛盾と空虚感を感じる生き方となります。

 

 

 

ならば、「本当のわたし」100%で生きれば・・?

と考えてしまうところですが、

これは、bon-witchの個人的な考えですが、

無理だと思います。

 

 

 

肉体を持つと言う形態で

この世界に存在している以上、私達はどうしても

わたしわたし以外を存在させてしまいます。

だからこそリアルに体験できる物質世界です。

 

 

 

わたしとして、

わたしの五感をとおして、

わたしと言う個性をとおして、

他とわたしの違いを認識する事で、

わたしらしく生きる事を願い、

わたしらしい物質世界を創り出し、

わたしを知り、わたしを感じ、

わたし独特の体験を楽しめるシステムです。

 

 

 

これこそが、

「本当のわたし」が地球に「かりそめのわたし」を創り出した

理由だと、今ここに記しております私は、

放り込まれた段ボールを片付けながら考えております(~_~;)。

物事を宇宙という「本当のわたし」に創り出すためには

やはり「欲求」が必要となりますから。

 

 

 

とまぁ。。この原理を知って、

過多に欲求解消に疲れ果てるでもなく、

「本当のわたし」を大きく認識した意識で

うまく「かりそめのわたし」で楽しむ生き方・・・。

これが楽なように思います。

 

 

 

最後に。

「本当のわたし」を認識・意識する生き方に

私自身挑戦し、「かりそめのわたし」100%の時代の私とは

確かに様々な面で変化があるように思います。

どんな変化かと、表現は難しいのですが1つだけ。

 

 

 

これまで湧き続けていた欲求が湧きづらくなりました。

「本当のわたし」は常に満足しているので、

たまに欲求が湧くと「叶えてあげたい!」と言うモードになり、

その時ばかりは出不精の私も行動力が湧き、願いを叶えた暁には

何とも言えない満足感を「物質」と言う形で体験・味わっております。

「わたしの満足感エネルギーが、こうして物質化したんだなぁ。。。」

みたいな、おかしな感覚です(^_^;)。

 

 

 

今回のお片付けはこの辺で。

 

最後までお読み下さり、ありがとうございました✤

bon-witch ~ただ淡々と生きる~

 

☆彡

 

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