bon-witch

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~ただ淡々と生きる~

 

 

『一人で居る』事の大切さ

 

~「怒り」の下の本当の姿。

あなたは「一人で居る」事ができますか?~

 

 

 

※ 当ブログは、あくまでも

bon-witch個人の見解です。

中からと外から、取り入れた情報が

本当なのかどうか?

自分の人生と、これまで出会った方の

人生と占星術で検証し、理解した事を

少しずつ記しています。

 

 

 

 

 

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人間関係の変化の波

~偽りの仮面が自然に外れ出す~

 

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驚く事に、

カードリーディングをしていると

みんなに共通して現われているのが

人間関係の変化である。

 

 

占いのテーマによくありがちな

「この先あなたに訪れる素敵な出会い✨」なども、

導き出されるカードからの返答は、

「出会い」の前に現在の「人間関係の清算」を!

とばかりに厳しめである。

この間のカードリーディングも、

私の思惑に反して示されたリーディング結果に

伝えづらさを感じずには居られなかった。

 

 

地(土)の時代から風の時代へ、

と言うフレーズは、もうここ数年

当たり前のごとく使われるようになったが、

この時代色の変化の波が、自分の日常に

具体的にどんな変化を及ぼしているのか?を

知っている人は少ない。

 

 

風のエネルギーの大御所、水瓶座♒の個性が

色濃く現実世界に現われてくる「今」は、

そのキーワード「I know(我知る)」の時代である。

 

 

何を「我は知る」のか?

本当の事・姿・自分自身である。

我は、ありのままの本当の事(状況)を知るのでる。

我は、関わる全ての者たちのありのままの姿を知るのである。

我は、ありのままの自分自身を知るのである。

 

 

土(地)の時代で過剰に肥大化した

もの(者・物)達の姿、

様々な事情により、

過小に存在する事を余儀なくされたものも、

逆に過大視されてきたものも、

この世界の全てが、

等身大のありのままの姿として現われ、

みんなが知る時代と言う事である。

 

 

土(地)の時代の人間関係は、

積み重ねた歴史から導き出された、

社会で我が身が少しでも優位に、

安定して存在出来る為の価値感で

成り立っていた。

 

 

数字による評価を基準に、

それぞれの立場から

導き出される上下関係によって

私達は態度を変えた。

 

 

その為には、

「本心」とは別の社会向けの顔を

私達は創り出し、

その仮面をかぶり続ける事で

上手く社会を渡り歩き、

その恩恵も受けてきたのである。

 

 

初めは、「本心」と仮面とのギャップに

苦しんでいた私達が、

本当の自分の姿を偽る事のあまりの苦しさ故に、

その苦しさから逃れるために編み出した秘策が、

仮面を本当の自分の姿と思い込む、

と言うやり方であった。

 

 

そうして、

確実に存在している「私の本心」は

表面からは決して存在を確認出来ないほどに

心の奥・奥・奥に沈め、

その上に「怒り」と言う名の

重たい重たい蓋をしたのである。

 

 

「I know(我知る)」の時代は、

「怒り」の蓋が時代の流れとともに自然に外れ、

ありのままの、等身大の真実が

個人的にも社会的にも現われてくる時代

と言う事なのである。

 

 

 

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本心を閉じ込める重たい蓋、

「怒り」

 

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蓋となっている「怒り」が外れる事で、

人間関係においては

我慢の限界・・・の様な出来事が

そこかしこで起こってくるし、

世界的には国同士の争いにまで

発展してしまう。

 

 

時代の自然な流れの変化に、

尚も仮面を付け、抵抗しようとすれば、

流れに逆らうだけのエネルギーを要するので、

心は更に疲労困憊してしまう。

 

 

蓋が外れた下からは、

これまで深く深くに沈め続けてきた

「ありのままのこと」や

私達の「本心」が出てくる事も、

自然の流れである。

 

 

「自分らしく生きていきたい!」と言う

雰囲気が社会に流れ込んでいるのも

自然なエネルギーの流れである。

 

 

四季によって、私達が捉える体感と反応が

自然に変わってくるように、

この時代の流れはある意味で、

毎日のお通じみたいな自然現象とも

例えられるように思う。

これまでの時代が、

いつの間にか自然に変化して来たのと

何ら変わらない。

 

 

「怒り」の蓋の外れ方は人それぞれである。

蓋の下には、幾層にも重ねられた「私の本心」を

誤魔化す言い訳があり、その最も深くに眠っているのが

今の本当の自分の姿である。

 

 

個性とは、

ありのままの自分の姿である。

見た目もそうであるが、

物事に対する反応の仕方、

つまり、感じ方や表現の仕方も

ありのままのそれらは個性であり

同じ人間は本来誰1人として

存在しない。

 

 

みんな誰しもよくよく知ってみれば、

同じ事態であっても、注目している場所も、

感じ方も、意見も違うのである。

 

 

違う事が当たり前のところを、

様々なルールを集団事に創り出し、

罰則を設けるので、

私達は本心とは裏腹に、

仮面をつけた自分で

対応せざるおえないのである。

この仮面が、ルールと言う枠の中でみな、

同じ顔をしているのである。

 

 

仮面で対応する度に「本心」が

心の奥に沈められ、「本心」など

初めから存在しなかったかのように、

絶対に出てくる事など不可能だろうと

感じさせる程の、それはそれは重たい重たい

「怒り」の蓋をしたのである。

 

 

極めつけは、

「怒り」を感じる事を良しとしない

社会的風潮が、蓋を外す事の不可能さに

拍車をかけた。

「怒り」の蓋の下には、

本心をどれだけ自分自身で

否定したかに比例する本心・エネルギー量

蓋が外されるのを今か今かと

息を潜めて待ち構えている。

 

 

以前何かのタイミングで興味を持ち読んだ、

「ブッダが教える心の仕組み(誠文堂新光社)」と言う、

イラストで書いてあってもなかなか理解が難しかった

本の中には、「怒り」の種類あ4つあり、

 

・瞋(しん)拒絶する働き

・嫉(しつ)うらやむ気持ち

・慳(けん)もの惜しみする気持ち(共有するのは嫌だ)

・後悔(悪作)(こうかい・おさ)過去の自分への怒り

 

いづれも、持っていれば

自分も他人も破壊する猛毒と書いてあった。

 

 

だけと、自然の力って凄いのである。

自然な時代の流れによるエネルギーの変化は、

今、私達のこの重たい「怒り」の蓋を

次々に払いのけている。

 

 

払いのけられる度に、

瞋・嫉・慳・後悔(悪作)と

共に私達の「本心」が出てくるのである。

本心が顔を出す舞台は、

家族間で、パートナーシップで、

友人間で、会社の人間関係で、

社会コミュニティーでである。

そしてこの動きは個人から世界レベルに広がる。

 

 

自然なエネルギーの変化に伴う

ありのままのこと、「本心」が出てくるときに

先にこの蓋が現実世界に表現されてしまうのである。

 

 

この仕組みのようなものをある程度

「I know(我知る)」事により、

自分の内面で起こる激しい「怒り」を

ある程度は表現の仕方と言う形で

コントロールする事になるかもしれない。

 

 

「怒り」の蓋の重さが重ければ重いほど、

その下に眠る圧縮された「本心」のエネルギー量が

大きいと言う事である。

出てくる「本心」を

仮面と付けた偽りの自分で否定する事は

自然に逆らう事である。

地球に暮らす私達は、

地球の自然を日々体験する中で、

自然に逆らう事の違和感と

人間の無力さをもう充分に理解している。

 

 

 

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「1人で居る・居られる事」の大切さ

 

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家族を持ったり、パートナーと共に人生を歩む事に

反対したいと言うような話では全くない。

 

 

自分の本心が自然に表に現われてきてしまう今、

この時代において、どうしたって

これまでの人間関係を終わらせる事になっている

方も多いのではないだろうか?

 

 

私自身も、頻繁に交流していた人達と交流頻度が

自然に間隔があくようになり、

逆にあまり重要視してこなかった人間関係が活性化し、

その大切さに気づき、改めて感謝するような流れがある。

 

 

こう言った人間関係の変化は、

人生の転機において度々訪れるものであり、

年齢をある程度重ねれば誰だって経験をしている。

 

 

人間関係の変化が特に珍しい事ではないのだが、

1つ、私の中でこういった時期を過ごすにあたり、

意識的に昔の自分の在り方と大きく違う点がある。

 

 

そして、この違う点が人生の転換期に、

これまでには全くなかった自信を持てる自分に

少しずつなっている事に繋がっている。

 

 

昔の在り方と大きく違う点とは、

「1人で居る、居られる」と言う在り方である。

この在り方が、移り変わる状況の変化を軽快に捉え、

心のバランスを取る為にとても重要なのだと、

数々の失敗を通して理解したので、ここに記す。

 

 

「1人で居る」事が出来るようになった自分が

今・ここに居る。

誰に教わった訳でも無かったけれど、

何だか、感じた。これまでの私が、

1人の恐れに負けて、人生の次のページを

めくろうとしてこなかった事に

何だか分からなけど気づいたのだ。

 

 

間違って欲しく無いのが、

「1人」の意味である。

肉体的に1人で居る、と言う意味では無い。

1人暮らしをしている、と言う意味では無い。

家族と居ようが、パートナーと居ようが、

仲間と居ようが関係ない。

書いていて、説明が難しいのだな・・・

と実感しているが、

「心が1人でも平気である」

と言う事だと思う。

 

 

家族と一緒に住んでいる、結婚しているなど、

誰と共に暮らしていようと、友達が何人いようと、

心の中に孤独を感じる瞬間は、誰にだってあると思う。

かえって、肉体的(物質的)に

誰かと共に居るにも関わらず、孤独を感じる状態の方が

実際に1人で暮らしている状態よりも

孤独感は強いのでは無いだろうか?

 

 

自然に間隔の開いてきた誰かとの交流の頻度。

人間関係を寂しさなどの理由で無理に追いかけなくなる。

目の前の自然な人間関係の移り変わりを、車窓から

風景を見ているように流していける自分になる、

と言う事である。

 

 

この事が、自分の本心を知る際に出てくる

「怒り」の処理に大いに良い影響を与えている。

つまり、無理に変わろうとする人間関係に

執着しないで済んでいる今、「怒り」のエネルギーを

誰かに残念な形で放出する事無く、静かに

自分の本心にまでたどり着く事が出来るのである。

 

 

昔の私は、家族だから、、友達だから、、

と勝手な義務感のような形の人間ドラマを

繰り広げていたので、感情の浮き沈みが大きく

「怒り」のコントロール所か、その存在にすら

気づかず、自分の本心になど到底辿りつけない

目線で世の中を見ていた。

嫌な気分にならないようにビクビクして、

自分の感情を認めず無視し続けて

生きていたと思う。

 

 

だから、

自分の本心で自然に生きだした近年、

人間関係が変わるのは当たり前の事に思う。

相手からすれば、どうも、これまでと調子が違う?

って感じるんじゃないかな?私自身も相手に

そう感じる事もよくある。

 

 

相手が居れば、私達はどうしたって

自分の物差しで相手の言葉や行動を

自動的に判断し、感情的に対処したくなって

しまうのであるから。

それが、人生の人間ドラマである。

 

 

目に見える物は、実に力強く私達の意識を惹きつける。

それが、人であれ・物であれ、である。

自分に関係している人や物であれば尚更である。

その人の存在、その人の言った一言、

持っている物(者)は、私達の感情を揺さぶる。

 

 

あなたの気を惹きつけるその人は、

良くも悪くも、あなたの心の奥に眠る

「あなたの本心」に気づかせる為

あなたの人生に登場してくる。


 

家族も、友人も、会社の同僚も、

様々なコミュニティにおける人間関係は、

その人と関わる事で、自分の「本心」に

向き合うために配置され、お互いの役柄を

見事演じ合い、感情を刺激し合う。

 

 

感情が沸き立つところに、

自分の本心が眠っている!

と言う事である。

 

 

 

私達は、人間関係を体験する事により、

湧き上がる感情と言う体感を使って、

自分の本心に向き合うシステムに

どうも人生はなっているのである。

 

 

つまり、

相手に対して何かを感じているのなら、

それが心地良くても悪くても、

その人との人間ドラマの中に自分の中の本心を

投影しているのである。

 

 

ところが、

私達は自分にとって気分の良い相手との

関係性ならまだしも、そうでは無い相手に対しては、

相手との関係性から本来気づくべき「自分の本心」に

気づかず、ただただ相手との不快な関係性だけを

問題視してしまい、せっかくの猛毒「怒り」の蓋を

排除するチャンスを「怒り」の蓋にだけ意識を

集中させてしまう事で、蓋の下の肝心な「本心」を

拾うこと無く相手との関係性や体験を終わらせてしまう。

 

 

具合の悪い事に、相手との関係性の最後には、

更に更に重くした「怒り」の蓋で、

せっかく出てこようとしている自分の本心に

ドスン!と再び蓋をしてしまうことさえあるだ。

 

 

「本心」を心の奥に沈める為に使っている

蓋「怒り」は、先に述べた通り猛毒である。

一刻も早く体外に排出してしまいたいもの。

 

 

この世界に肉体を持ち、

生きる作業を懸命にしている私達は、

自分の肉体を守らなくてはならない。

健全な状態に保つ必要がある。

猛毒が自分の中にあるならば、

自然治癒能力とでも言おうか、

自らを守るエネルギーが湧き上がり、

猛毒は排出されようとするのである。

 

 

猛毒が生れるただ1つの目的・役割は、

「怒り」の蓋の下に、大切な大切な純粋な自分の

感情体験や思いである「本心」が眠っていることを

示すことだけだと私は考えている。

 

 

今のこの時代の自然なエネルギー変化が

猛毒の排出作業に加勢する。

と言う事は、蓋が取れればその下から

私達の「本心」が自動的に出てくるのである。

 

 

 

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「1人で居る、居られる」ための理解。

「孤独感」の正体とは?

~自分には何かが欠けている感覚のメカニズム~

 

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つまり、こう言う事である。

私達の中には、「自分には何かが欠けている」と言う感覚が

いつでもつきまとう。この感覚の理由である。

 

 

この「何かが欠けている・・・」と言う

感覚を満たす為に私達は、

地位や名誉、人からの注目、お金、パートナー

などを求めてしまうのである。

そして、これらを持っている者と

自分とを天秤にかけて、優越感を感じたり、

劣等感を感じたりして自分の評価を

自分自身で決めている。

 

 

ところが、

実はこの「自分には何かが欠けている」の「何か」は、

そう言った物質や自分への他人の高評価が足りない事が

原因なのでは無い。私達の勘違いである。

 

 

「何か」の正体は、そもそも生れた瞬間に始まっている。

私達は、ワンネスと私達が名前を付けた、

ただ1つのエネルギー体の一部である。

 

 

ワンネスについて、呼び名は何でも良いと思っている。

便宜上使わせていただいた。宇宙・神・ソース・

源・サムシンググレートなどなど沢山の呼び名がある。

 

 

ワンネスって何?

頑張って、説明してみる。

 

 

私、bon-witchは、SNS配信用に使っている名前であるが、

本名がある。生れた時には両親がいて、性別は女性。

家の住所は~で、~学校卒業で、~と言う職歴の、

~と言う友達がいて、貯金は~円持っている、

ペットの名前は~で・・・などなど、この様に

あなたにも「あなた」を形容する表現方法があると思う。

 

この、あなた・と、わたし、と言い表す一切の飾り、

更には感覚を含む体を取ったときに残るただの存在、

あなた・でも、わたし・でも無い

ただそこに在る存在こそが、ワンネスと呼ばれるものであり、

ただそこに在る事を認識できるだただ1つの意識体である。

そして、この姿が私達の最終的な正体であると

私は理解している。

 

 

名前の例を、式で表わすと、

 

{bon-witchと言う名前の、わたし}-{bon-witchと言う名前}=わたし(これ・this)

 

{~と言う名前の、あなた}-{~と言う名前}=あなた(これ・this)

 

わたし(これ・this)=あなた(これ・this)

 

これ・this=これ・this

 

 

※言葉での表現には限りがあるので、限りの無い

ワンネスの説明には、言葉では限界があると思う。

 

 

私達1人1人は、ワンネスの一部分に意識を力強く

集中させる事により生れる個性そのものである。

ワンネスの中のどの部分を重点的に意識するのかにより、

色とりどりの個性が生れる。

 

 

集中力により、分散された意識同士は、

その個性の違いから、まるで自分と自分以外が

存在しているような感覚になる。

 

 

意識を集中させればさせるほど、

そこにエネルギーが集まり出す。

いつしかエネルギーは、

姿を持つまでに凝縮され、

強い意識力(エネルギー体)になる。

 

 

そうして凝縮したエネルギー同士が

1つの星に存在している世界・・・

それが地球🌍と言う星であり、

ワンネスの1つの形態であり、

ワンネス体験方法なのだと思う。

今の私は、そんな風に理解している。

(もしかしたら、もっと深い気づきが

起こるかもしれないけれど、今はそう。)

 

 

だから、なのだ。

だから、「自分には何かか欠けている感覚」

が私達にはつきまとう。

 

 

本来の姿であるワンネスを何処かで感じつつ、

その一部分を「自分」だと認識してしまっている。

勘違いによる誤った感覚である。

 

 

頭で、「これが私である。」と言う

自分存在の認識と、

感覚的に知っている本当の姿

「ワンネスのわたし」との

ギャップである。

 

 

そりゃあ、何かが足りないのだ。

本来は、あなたも私も、あの人もこの人も、

「自分」の一部分なのであり、それを自分とは

違う別人と認識してしまう時点で足りないのである。

 

 

この世に生れて間もなく、

名前を貰い、名前で呼ばれ、

その名前とは違う、お母さんと言う存在を

自分の外の世界に認識し出せば、

もう自分以外の人が存在している世界に

私達は、さまよい生きる事になる。

この時点で自分の中の何かが欠けだし、

足りないのである。

 

 

この事が、私・bon-witchの中で認識された時から、

「1人で居る」事が出来るようになってきた。

誰と居ても、居なくても。

 

 

普段は忘れていても、

何処かで認識しているワンネスのわたし。

 

 

自分の「本心」に注意深く気づいていく。

1人、「怒り」を認め、本心を探る。

出てきた本心でこの世界を

不器用に頑張って歩く。

 

 

そうすると、不思議。

若い頃、少しの時間も不安で不安で1人で居られず、

いつも何処かの誰かの人生に寄生して生きてきた私が、

本心を持ち、本心で選択し、本心を認めて生きる私に

少しずつ少しずつ変わって来た。

と同時に、全く無かった「自信」の

ようなものすら感じ始めた。

 

 

 

今回のお話はここまで!

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました✤

 

bon-witch ~ただ淡々と生きる~

 

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