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~ただ淡々と生きる~

 

 

やっとこ分かる、『幸せ』って、こんなもの♡

そして、その後に続くものとは? ✩

 

 

 

∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩

 

 

あれは、小学校だったか・・・?

いや・・・  幼稚園?

 

 

幼かった私は、

お日様の下、布団干しに干された

布団の上に顎をのっけて

「暇だなあ~ 」って

遠くに見える坂道を行き交う

車や自転車や歩く人を見ていた。

 

 

見慣れた目の前の世界は、

何処もかしこも色鮮やかに輝いていて、

暇な私に次々に呼びかけてきた。

 

 

(外に出ておいでよ!)

(探検に行こう!)

(畑の向こうの原っぱには、

摘みきれないお花が咲いているよ!)

 

 

とっても楽しそう・・・♡

 

 

だけどお家で、

お絵かきの道具を並べて、

スケッチブックに好きなものを

クレヨンで次々に描く!のもいいなぁ~♪

買って貰った折り紙もあったけ!

どっちも楽しそう!

 

 

 

なんて、その頃の私は

真剣にワクワク考えていた。

 

 

探検の戦利品である沢山の石ころに

クレヨンで絵を描いてよく遊んだのを

覚えている。

石はクレヨンによって、それぞれらしい

華やかな姿に変わっていった。

 

 

私は完全な安心の中で

たくさんの可能性を味わった。

それが「暇だなあ~・・・」だった。

 

 

何をしようか?

このままボケーッと日向ぼっこ?

何かしてもいいし、

なぁ~んにもしなくてもいい

 

 

部屋の中の全ての物達が、

私が次に何をするのか決定するのを

息を潜めて伺っているようだった。

 

 

お父さんの仕事道具、

画材をいたずらする?

お母さんの長いスカートを

ドレスの様にまとってみようか?

お片付けが下手くそで、

何度怒られても結局なくしてしまう

3色欠けた色鉛筆を渋々出してみようか・・・。

 

 

とにかく全てが素敵な可能性✨だった。

私をワクワクさせる可能性だけが、

その頃の私の世界を満たしていた

 

 

どの選択肢を選んでもいい。

選ばなくってもいい。

私の住む世界には、

無限のお楽しみが私に指さされるのを

待っているかのように感じていた。

 

 

そんなワクワクの

「暇だなあ~・・・」の時間

あれは、紛れもなく『幸せ』

豊かで贅沢な神秘の時間。

 

 

 

そう、あれが『幸せ』なのだけれど、

『幸せ』そのもので「暇だなあ・・・」

って体験している私には、それが分からなかった。

 

 

 

「暇だなあ・・・」が『幸せ』だって分かったのは、

それから何十年もの歳月を必死で生きた人生の後の

いい歳をしたおばさんの私だった。

 

 

 

おばさんの私にはハッキリと分かる。

「暇だなぁ~・・・」は『幸せ♡』

そんでもって豊かで贅沢で可能性に満ちた時間

 

 

 

おばさんの私は、

ある日桜の木の下で寝っ転がっていた。

良い天気。桜は満開。

時間は午前。

今日の予定はなぁ~んにも無し。

ボケーッ・・・・(-_-)・・・

 

 

 

 

 

「暇だなぁ・・・」

・・・・・・。

 

 

不意に心に浮かんだ言葉だった。

 

 

 

自分で心に浮かんだ「暇」の言葉に驚いた。

いったい何十年ぶりだったろう。

「暇」なんて言葉が心に浮かんだのは??

 

 

 

と同時に、

幼き日の「暇だなぁ~」の思い出が

蘇ってきたのだった。

 

 

 

今、『なぁ~んにもする事が無いなぁ~』

って、桜の木の下で寝っ転がっている暇な私は、

紛れもなく『幸せ🍀』なのだ。

 

 

 

完全に自由なのだ。

 

 

 

やるべき事も、使命も、

期待に答えなければならない事も、

何にも無い。

 

 

 

ただただ、ワクワクの可能性がけが、

幼かったあの日々のように空気の中を漂って

私を優しく刺激していた。

小さい頃に感じていたあの感覚そのものだった。

 

 

 

「幸せ」が何であるのか分からなかった

以前の私は違った。

 

 

 

やるべき事、使命、

期待し、求められる私である事が、

「幸せ」の必須条件だと思っていた。

 

 

 

確か、時代的に流行したと思うが、

スケジュール帳が予定で一杯に埋められていることが

「幸せ」だと思っていた時代が私にもあった。

 

 

 

1人でポツンとボケーっとする時間など、

「幸せ」の真反対に位置する

人間の在り方なのだと思っていた。

 

 

 

お休み前の夜には、

仕事帰りに友達と飲み会が当たり前で、

日頃のうっぷんを晴らすべく、

おしゃべりと食事とお酒の為に

時間とお金をかけた。

 

 

 

1人ぼっちで居るなんて

そんな寂しい自分を認められなかったから、

いつも誰かと一緒に過ごす事にしていた。

 

 

 

友達や恋人と出かける事が

楽しい人生と思い込んでいたし、

本当にそれが楽しいのか?なんて

自問自答するような「寂しい人」になるよりは、

「これでいいんだ」、と思っていた。

 

 

 

交友関係を円滑にスタイリッシュにするために必要な、

洋服や交際費の為に働いていた。

 

 

 

その頃の私には、

「暇だなあ・・・」が「幸せ」だなんて

理解出来なかったし、思えなかったと思う。

そんな人は、夢の無い、無気力な寂しい人

だと思い込んでいたのだから。

 

 

 

だから、私は止まれなかった。

一瞬でも隙を与えたら、スケジュール帳いっぱいに

やるべき事が在ると思い込んでいる

がんじがらめの自分に気づいてしまうし、

 

 

親や世間に対して体裁の良い使命みたいな

ものが本当に必要なのか考える羽目になってしまう。

 

 

期待し、期待される存在であるために

どの人間関係においても、

自分の本音を認識するなど必要なかった。

 

 

誰かの目から見た自分の姿が、ある程度

幸せの範囲に入っているように何となく

思えていればそれで良かった。

 

 

そんな幸せの為に、

生まれつきあまり身体が丈夫じゃない私は、

「寂しい人」になるのが嫌で、

人間関係の誘いを断れず、

薬を飲み飲み出掛けていた。

 

 

 

興味の無い仕事だけれど、

交友関係を保つ為に、お金の為に、

世間体の為に一社会人として、

我慢して仕事をし、お給料を得ていた。

 

 

 

体調のせいで、仕事に穴を開けるとなると

職場における自分の立場が気になってしまい、

休むと言えず、また、薬を飲み飲み仕事をし、

普通の人なら長くても10日ほどで良くなるただの風邪に、

自分は何ヶ月も咳が止まらず体力を消耗してしまう・・・、

そんな自分の「身体」を恨めしく思っていた。

 

 

 

それでも、何とかそうして生きていて、

これでいいんだと生きていて、

それであるとき、ピタッと立ち止まった。

 

 

 

薬を飲むのに疲れたし、

何とか友達の誘いを断れないものかと

考えている自分に気づいたからだ。

 

 

 

何の予定も要らなかった。

 

 

 

やるべき事も、使命も、

期待も、何にも要らないから、

ただ家で猫と旦那と気楽に暮らしたかった。

誰にか分からないけれど、

それを許されたかった

 

 

 

家事は元々嫌いじゃないし、

どちらかというと、家の中が荒れたまま出掛けて、

散らかった家に帰るのは性に合わず、

出掛ける前に家事をキチンと終わらせてからじゃないと

出掛けたくなかった。

 

 

 

例え仕事があっても、友達と予定があっても、

時間の合間を見ては家事をこなしていた。

実に忙しく、イライラしながら、

だけどやらずには居られない家事をこなしながら

いつも思っていた。

 

 

 

イライラしなくて済むように、

ゆっくりと家で家事が出来る状況を

心の中でいつも求めている思いが

私の中にあった。

 

 

 

そうして、ある日立ち止まった私は

その全てを自分自身に許す事に決めた

本当に疲れていたから。

 

 

 

「幸せ」に見られる人じゃ無くても、

私が「幸せ」なら、世の中からどんな見え方だって

構わないと思った。

 

 

 

もともと私は、幼い頃から遠出が苦手で、

家の周りを探検し、石っころに絵を描いて満足できるような、

地味なタイプなのだ。

 

 

 

 

 

 

そうして私は「暇」になって、

「幸せ」になった。

 

 

いろんなものから

「自由」になった。

 

 

幼き日に体験していた懐かしい感覚が

再びエネルギーを取り戻したみだいだ。

 

 

 

1つだけ、今と昔とで明らかに違う事がある。

感謝である。幼き日の「幸せ」の裏にも確実に

感謝の種は存在していたが、

その頃の私には到底気づけなかった。

一度、忘れて再び取り戻した「幸せ」には、

幸福感と同じ量の「感謝」が

くっついていることに気づいた。

 

 

 

暇な私は桜の下で思う。

(さぁ!何しよう・・・?このままゴロゴロ?

歩いてすぐそこ、本屋さんにでも行こうか?

向かいのスタバでラテを買って来て、大いに検討しよう!)

 

 

 

 

∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩

 

この記事の最後に。

今、見えているその後のエネルギーの流れ。

 

∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩∞∞✩

 

 

 

もしかしたら、記事の最後のこの部分は余計かもしれない。

私達地球に暮らす人間にとって、

たいして面白い視点ではないし、重要でもない。

 

 

 

一個人の現在の気づきであり、

その記録でしかないので、

重要ではない事だけ先にお伝えしたい。

 

 

 

要するに、今の私の「幸せ」は、

ワンネスから分離する過程で計画された

私の個性を通してのワンネス・エネルギーの表現の1つだ。

 

 

 

私の視点は、ワンネス・エネルギーのひとかけら。

みんなそれぞれ、ワンネス・エネルギーのひとかけら。

 

 

 

ワンネス・エネルギーにドラマ性はそもそも無いのだが、

地球と言う物質世界・二極性を通して、ワンネスのひとかけらである

私達それぞれのエネルギーが展開されると、すべては虹色に彩られ、

プリズムの様にそれぞれのドラマが生れる🌈✨

 

 

 

エネルギーは絶えずうごめいている

人間と言う、分離したひとかけらのエネルギー視点からは

決して全てを理解出来ない「エネルギーの法則」に則って。

そのうごめきは「変化」である。

 

 

 

肉体を通してのたくさんの人生経験をし、

私達には無限の「望み」が生れ、「可能性」が生れ、

それが新たなエネルギーとなって

ワンネス(宇宙)エネルギーを膨張させている。

 

 

 

新たなエネルギーは、エネルギーが生れたと同時に

法則に則ってすでに計画されたものであるかのように

無限の宇宙の中に存在しだす。

 

 

 

地球に投影されたワンネス・エネルギーのひとかけら、

私達の体験から導き出されるそれぞれの感想、個性の反応は、

自由で無限なのである。

 

 

 

この地球で、「わたし」として生きる以上、

その体験は続き、新しい望みが生れ、可能性がうまれる。

エネルギーのうごめきを止める事は誰にも出来ない。

それが法則なのだから。

 

 

 

例え何もしなくても、「何もしない」と言うワンネスのひとかけら

である我々それぞれの個性を通しての地球体験がなされるのだ。

 

 

 

エネルギーは常にうごめき、変化する。

 

 

 

「幸せ」の形も、体験から生れる新たな望みにより、

絶えず変化するものだし、それが当たり前である。

 

 

 

全てが同じ条件の一日は、決して存在しないのだから。

 

 

 

だから・・・例えば。

 

「幸せ」だと感じている「今」と言う暇な瞬間は、

当たり前の事なんかじゃない。

 

 

奇跡だ虹

 

 

「変化」が当たり前のエネルギーの世界の中の

ほんの一コマの奇跡である。

 

 

数秒後の未来に、今の奇跡が続いている保障など

誰にも分からないし保障も出来ない。

 

 

 

だから「今」、

幸福感を感じている「わたし」が居るのなら

思う存分楽しめばいい。

奇跡と理解して、奇跡を体験すればいい。

奇跡虹は「今」起きている

今認識し、感じ、味わうものである

 

 

 

この奇跡虹「幸せ」を体験する為に、

世間体を気にして、自分の本心に気づかない振りをして過ごした

おばさんになるまでの時間体験が私には必要だった。

 

 

 

そして、この先に起こるであろう私の奇跡虹を味わう為に、

「今ここ」の私の体験が必要とされるのだと、

ボンヤリと思っている。

 

 

 

今回のお話はおしまい♡

 

 

 

最後までお読み頂きありがとうございました✤

 

 

 

bon-witch ~ただ淡々と生きる~

 

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