「貨車はしけ」と外輪船~「関森航路」始末記 | 書斎の汽車・電車

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 今から80年前、関門トンネルの開通で本州と九州の鉄道が結ばれることになりましたが、それ以前は鉄道連絡船が下関と門司の間を結んでいたことは皆様も御承知のことと思います。

 

 関門海峡の鉄道連絡船、旅客は関門航路で運ばれたのに対して、貨物は関森(かんしん)航路という別の航路が本州と九州を結んでいました。今回はこの関森航路について、その誕生から廃止までを概観しておこうと思います。(関門航路については別の機会にご紹介します)

 

 関門航路が設定されたのは、明治34(1901)年5月14日のことで、山陽鉄道による運航でした。この航路での貨物輸送は、山陽鉄道が馬関(下関)まで開通した同年5月27日から始まりましたが、当初は貨車から貨物を一つ一つ下ろして船に積み込み、対岸でまた一つ一つ貨車に積み込むという面倒な手順を踏んでいました。

 こんなことをしているものですから、貨物の紛失、破損といった事故は後を絶たず、荷主への賠償額も馬鹿にならないという事態になっていました。そこで、関門航路の貨物取り扱いを請け負っていた下関の「宮本組」という業者の宮本高次という人物は、山陽鉄道に対して提案をします。それは、貨車をはしけに積みこんで海を渡るというものでした。これなら面倒な積み替えの手間は省けます。

 

 宮本の提案が実を結んだのは、山陽鉄道が国有化された後の明治44(1911)年のことでした。(「新し物好き」の山陽鉄道ですが、ここでは「一番乗り」を逃しています)この年の3月1日から試航が始まり、10月1日を以てこの方法に一本化されました。

 「貨車はしけ」とこれを牽く曳船は宮本組が用意し、鉄道側は竹崎(下関)と九州側の小森江の地上設備を整備しました。下関の「関」と小森江の「森」を取った「関森航路」の誕生です。

 この「貨車はしけ」、木製、長さ87フィート、幅24フィート、深さ9フィートの団平船にレール1本を敷設したもので、7トン積貨車3輛が搭載可能でした。こんな小規模なものですが、我が国の車輛航送はここから始まっています。まずテストの段階で3隻、10月からの本実施開始時には3隻が増備されました。これを牽く曳船は「第1山宮(さんぐう)丸」「第2山宮丸」の2隻で、総トン数34トン、長さ18.8m、速力9.2ノットでした。

 貨車の積み込みは当初人力で行われ、航路の運航ほか作業一式は全て宮本組が請け負っていました。貨車の積み込み設備は、潮の干満に対応するため勾配の異なる3線が用意されました。

 

 当初1日6往復でスタートした関森航路でしたが、次第に便数を増し、宮本組も曳船1隻(第3山宮丸)と貨車はしけ4隻を増備しています。この好調ぶりをみた鉄道院は、大正2(1913)年6月1日、曳船3隻とはしけ10隻の一切を買収し、関森航路を直営化したのでした。宮本組は貨車の積み込み作業等を引き続き請け負いましたが、大正5(1916)年8月1日から、全ての作業が鉄道院直営となりました。この間、大正3(1914)年1月には、鉄道院によりはしけ2隻が増備され、「貨車はしけ」は総勢12隻となっています。また、貨車の積み込みも人力から蒸気機関車によるものに進化しました。人力によっていた頃は、3輛の貨車を二手に分かれた20名余の人夫がワイヤーを牽き、車体を押して積み込んでいたそうです。真夏の炎天下や風雨の強い日などは、さぞ大変だったと思います。

 ところで、鉄道院が宮本組から船舶を買収した際には、179,500円を支払ったそうです。宮本組の曳船、はしけの建造費は計125,000円だったといいますから、宮本も損はしなかったのではないでしょうか。

 

 その貨車はしけですが、接岸するのは結構大変でしたし、地上側の設備もかなり原始的なものでした。そこで自航式の貨車渡船の建造と、貨車積み込み施設への可動橋の建設により、関森航路の近代化が図られることになります。

 大正8(1919)年8月1日、自航式貨車渡船である「第1関門丸」「第2関門丸」(463総トン)がデビューしました。7トン積貨車7輛が搭載可能で、前後どちらからでも貨車の出し入れができる両頭式の外輪船となりました。

 せっかくの新造船ですが、いくつかの欠点もありまして、まず、貨車の大型化(15トン積)の進展に対応していなかったこと、また下関側の竹崎港前の潮流が激しく、操船に難儀したことなどがありました。

 これらの欠点を改めた「第3関門丸」「第4関門丸」(493総トン)が大正10(1921)年から11(1922)年にかけて就航します。この2隻は、15トン積貨車6輛の搭載が可能で、左右の外輪を別々に制御できるようになりました。大正10年12月24日から、関森航路は46往復の運航となり、貨車はしけによる輸送は関門丸型の修繕時のみとなりました。そして、関門丸型4隻が揃い、竹崎、小森江双方の可動橋が2つに増えた大正11(1922)年4月1日から、貨車はしけ輸送は全廃となりました。

 

 その後大正15(1926)年7月29日に「第5関門丸」(502総トン)が登場しますと、小型で欠点も多い第1・2関門丸は予備船に廻ります。しかし、この段階で51往復だった関森航路は、昭和2(1927)年に59往復、昭和5(1930)年3月には65往復となると、一日4隻使用体制となり、第1・2関門丸も第一線に復帰せざるを得なくなりました。翌年には第3~5関門丸は甲板を延長し、15トン積貨車7輛の搭載を可能としましたが、これも焼け石に水、昭和9(1934)年69往復、翌10年79往復、12年87往復という大盛況ぶりでした。そして、昭和13(1938)年11月16日nダイヤ改正では、通常時は4隻使用の87往復、繁忙期には5隻使用96往復となりました。

 こんな状況でも、「第6関門丸」が増備されなかった理由は、当時すでに関門海峡に鉄道トンネルが建設中であったからに他なりません。その関門トンネルは、昭和17(1942)年7月1日、まず貨物輸送のみで開業しました。こうなると関森航路は途端にその存在意義を失います。最後の運航は7月9日でした。1日100往復近くが運行されていたのが、一夜にして廃止というのは、いかにも鉄道連絡船らしい最期といえましょう。

 5隻あった関門丸たちのその後ですが、戦時下とあって引退も許されず、まず昭和17(1942)年9月、第3~5関門丸が宇高航路に転出します。11月に入ると第1関門丸も宇高航路に移りました。第2関門丸だけはしばらく関門海峡に残り、海底電線の修繕作業に従事しましたが、これも昭和18(1943)年5月、僚船に続いて宇高航路で活躍することになります。これら5隻の戦後の状況については、関門航路を取り上げる際に、改めて触れるとしましょう。

 

 それにしても、関森航路は貨物輸送専業ということで、知る人ぞ知る存在ではありますが、「貨車はしけ」という原始的な形ではありますが、鉄道車輛航送を日本で最初に始めた航路であります。そしてそのアイディアは、宮本高次という一民間人によるものであったということは、特筆すべき事柄といえましょう。