暗殺の現場としての「駅」~ハルビン・東京・大和西大寺 | 書斎の汽車・電車

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 安倍元首相が近鉄大和西大寺駅前で銃撃され、亡くなられたというニュースは、大変ショッキングなものでした。

 

 テレビが拾った「街の声」には、「駅前でこんなことが起きるなんて」というのもありましたが、考えてみますと、「駅」は実は暗殺という物騒な事件の舞台として、これまでも登場しているのです。

 我が国の首相経験者で、不幸にして暗殺されたのは安倍氏で7人目(もちろん戦後初)ですが、そのうちの4人までが、駅構内または駅前広場で襲われているのです。

 初代首相の伊藤博文(当時枢密院議長)は、満州のハルビン駅で撃たれました。大正期の原敬首相(現職)は東京駅構内で刺殺、昭和に入って濱口雄幸首相(現職)も東京駅のホーム上で銃撃されています。4人目が今回の安倍晋三氏で、前の3名とは異なり、駅構内ではなく駅前広場で演説中に撃たれたのは、皆様もニュース等でご承知のことと思います。なお、五・一五事件の犬養毅首相(現職)は首相官邸で、二・二六事件の高橋是清(当時蔵相)と斎藤実(当時内大臣)は私邸で襲われています。

 

 原と濱口の事件については、以前当ブログでもご紹介していますので、詳しくはそちらもご覧いただければと思いますが、(原首相の件についてはとんでもないミスもしていまして、汗顔の至りです)今回は、伊藤博文の事例について、簡単に振り返っておきましょう。

 明治42(1909)年10月26日、前韓国統監、枢密院議長の伊藤は、列車でハルビン駅に到着します。伊藤がなぜハルビンに向かったのかといえば、当地でロシア蔵相ココチェフと会談するためでした。当時は日露戦争後でしたが、両国間には解決すべき問題も多かったのです。ハルビン駅はロシアが管理していましたが、日本側(満鉄側)からも列車が乗り入れており、会談の場としては好適だったのでしょう。ただ、当時のハルビン市内には要人の会談に適した施設などはなく、伊藤とココチェフはハルビン駅構内で出会うことになります。

 まず、ココチェフが伊藤の乗った日本側の列車を訪れ、車内で20分程会談します。続いて、ロシア側の列車に食事が用意されているということで、伊藤は側近とともにホーム上を歩いていたところ、群衆の中にいた朝鮮人民族運動家の安重根に狙撃され、30分程後に亡くなったのでした。安はその場でロシア官憲により取り押さえられています。

 

 7人の首相経験者の悲劇を振り返ってみますと、クーデター(未遂)で亡くなった3名は、官邸、私邸など、住まいに居るところを襲われているのに対して、個人の暗殺者による4件の事例は、いずれも駅とその周辺が舞台となっています。

 これは、駅や駅前広場が、基本的には誰でも立ち入ることのできる、その意味できわめて近代的、民主的なな空間であるからといえるでしょう。住居を襲うとなると、個人の暗殺者では難しいですが、誰でも立ち入ることが出来、比較的開けている駅とその周辺であれば、いくらかのチャンスはあるのです。4件の事件がいずれも駅構内、駅前広場で発生しているのも、偶然とはいえないのではないかと思います。

 

 最後になりますが、安倍氏のご冥福をお祈りするとともに、駅という公共空間が、これからも誰でも立ち入ることのでき、なおかつ安全な場所であり続けることを祈念し、今回の結びとします。