肩の力を抜こうと思う。


いろんなことは、力が入っているからといって結果がついてくるわけではない。

それに、あんまり続けるとどんどん壊れてくる・・・


すべてはバランス。


自分のペースで、自分のひつようなタイミングに用意をすることが大切。

それを扱えてこそ自分の望むべき道が見えてくる。


まわりになんて流されない。

自分の足で、目でみて判断を下したい。

そのためには賢さが求められる。


そういう冷静さの中で自分を高めたい。


今がどうではない、

今、自分がどうなのか。


今楽しいではない、

今、何がたのしいのか。

何を求めたい。


なんとなくではない、確かなものを手に入れたい。


力を抜いて見つけよう。

力を抜けば、余裕もみえてくる。


人間どん底っていうのを経験した人間もいるらしく、

この場合、経験的には上には上が、でも下には下っていうの????


とにかく、今日は3人の社長と直接お話ができるという機会に恵まれ、

一度、今の会社に前に、路頭に迷ったという・・・

ハローワークにも行ったんだって・・・


いくらハローワークにいっても、周りの人が昼間っからビール飲んだりしていたけど、

そういうふうに堕落しようという考えすら起きなかったようで。

もう、いっかはなかったんだって。

でも、その時のどん底の気分を言葉にすると?と聞いてみたけれど、

もう言葉にならないらしい。


でも、人間乗り越えられない試練を与えられないっていうけど、本当かもなとまあ、最近つくづく思うのだけどね。


沈むのも自分

引き上げるもの自分。


運もあるけど、引き寄せるのも自分


結果得をするのも自分


なんでも、自分次第か。


みんなの中の自分が救ってくれんのね。


もっと自分力つけなきゃ。

個人力をつけて、あらゆることを自分で選べるようにならなきゃ

所詮、どうにもならない・・・


なんてことはないのでしょうね。

結局物事には終りがあるもので、一般的には絶対にみなくてはならないとされているのかも。

でも、結末を求めない姿勢も実は終りの1つかもしれない。


そこに新たな価値を生み出すこと。

これが正解のときもある。


いつだって私は自分の「正解」を探し、見つけ出したいと思う。


そして気がついた。

正解は自分の論法の末に導き出されたもの。

つまり、人に理解をさせようとはしてはいけない。


正解は1つではないということを忘れてはいけない。


人の数だけ、正解は導かれるものだから、

いろんな最後があっていいと思う。

それはその人のその時の決断の末だから。


だから、みんな結果があわなかったり、気持にズレが生じたりするのだと思う。

でも、もはやそれを一本化しようと、自分に取り込もうとしたら

不可能が存在し始めることになる。


私は不可能をみたくなかったのかもしれない。

だから隠したがる。

隠した状態を無意識の状態に持っていく。

掘り起こしたりしないように。

早く埋葬してしまう。


もう真実がどこかへ行ってしまうように。


だって、常に真実が正解ではない。

真実と正解とは複雑な経路で結びついているのだ。



もうどうだっていいのかも。


私ってそういう状態を作り上げることに、正解を見出したのだし、

美しい正解だとみなしているのだから。


それでいいのだ



正解を導きだしたのだから。