私の走りの日記(32)
『走りを勉強する、そして求める「走り」』
早朝、競技場での自主練。
日中は、中々時間も場所も確保出来ない為からの行動だった。
最初は、試しにやってみた位だったから、
正直、この朝練を続けていこうという固い決意はなかった。
しかし今日も、今日もと競技場に行くうちに、
そこで体操をやっているご年配の方々と挨拶をするようになった。
挨拶が会話になり、顔見知りが増えていった。
こんな感じで毎日ではないが、朝の競技場での練習は日課になった。
走り始めた当初は、リレー出場くらいを目標にしていたのだが、
40代も半ば過ぎると、今更スプリントをやろうという人が何と少ないことか。
たった四人のメンバーが集まらなかった。
そしてメインが朝練になっていくと、次第に仲間と練習する回数が減っていき、
試合出場を念頭に置かず、マイペースでの個人練習に変わっていった。
この朝練を始めてから丸五年が経つ。
冬の寒空の中も、夏の湿度の高い暑い朝も、
そしてこのコロナ渦でもよく続いたなと思っている。
この五年間で、スプリントについて色々と考え、学んだ。
最初は、映像が主で、見よう見真似だったが、これでは当然肉体がついていかず、
頭の中でイメージしていたものが体で表現出来なく、苦悩することが数年続いた。
きちんと勉強していなかったから、
この走りがなぜ速いのだろうと細かいところを理論的に見ていなかった。
すり足走法も、単に脚の軌道が小さく、エネルギーのロスを少なくした、
省エネ的な走りなのだろうと表面しかみていなく、
その根っこにある大局を観ていなかった。
ジャスティン・ガトリンの様に腕を後ろに大きく振ると、
より大きな推進力が出るのかもしれないと試したり、
逆にウサイン・ボルトのように脇を締め、腕を引きつけて振る事により、
スムーズな回転が得られるのではないかと試してみたりと色々やってみた。
結局は、表面的に真似しているだけでは、
肉体的な違いからも、うまくいかない事も次第に認めるようになった。
走り始めてから常に苦労したのは、
頭の中で思っている通りに体が動いてくれない事だった。
いくらスピードを落としても、100m、150m中に膝がガクッと折れるし、
そして腕振りと脚の動きのバランスが狂い始め、スムーズに走れなかった。
それに筋力が落ちているせいなのか、
途中から前に進んでいる感じがなく、そこで何とか前に進もうと、
余計な力を入れるから、体は力んでしまう。
流しもまともに走れないという状態がしばらく続いた。
そんな状態で走っているうちに分かった事があった。
年齢と共に失われていく肉体機能「スピード、パワー、バランス、柔軟」のうち、
取り戻すのが難しいのは、
①スピード ②バランス ③パワー ④柔軟
だということが分かった。
要は、歳をとっても神経より筋肉の方が鍛えやすいということだ。
逆に言えば、筋肉機能より神経機能を復活させるのは困難だということ。
その点を考えて、敏捷な動きでスピードを求めようとする考えを捨てる事にした。
更に勉強していくと、今度は‘接地’と‘反発’という言葉を多く目にするようになった。
30年以上前の現役の時には、これらの言葉を聞いたことも、考えた事もなかった。
100m、200mで速く走る為には、当然つま先接地だという感覚でいた。
つま先(実際は母指球まであたっていたが)で蹴り、
そこで足首がバネの役割を果たして、スプリント特有の走りが出来るものだと思っていた。
つま先で接地するからこそ、腰が入り、高い位置にキープし、ストライドを稼ぐいうイメージだった。
しかし更に調べると、「フラット接地」という言葉を目にした。
これがすり足走法の元祖(?)である伊東浩司さんや末續選手、
そして更に調べると今活躍している桐生選手などこの接地だということを知った。
また逆に遡ると、つま先接地の代表と思っていたカール・ルイスも、
実は「フラット接地」なのではないかとおもえるような、コーチであったトム・テレツ氏の話も目にした。
この‘接地’と‘反発’については、直に専門家に話を聞いたことがないので、
いまだにこれだという確証は得られないが、
あれこれ試しては違うと修正しながら繰り返し研究している。
45歳で再び始め、現在は50歳と50代の仲間入りをしてしまった。
この五年間で、次第に走る目的も変化し、明確になってきた。
まず第一に、高校時代に大分置いてかれてしまったライバル達に、
少しでも追いつき、追い越せるよう、一人心の中で競う事で、
独り練習を続けるモチベーションにしていた。
ライバル達からすれば、勝手に勝負している感じで、おかしな話に聞こえることだろう。
でも辛い時は、彼らの事を思い出しては、もう一本頑張ったりした。
また走る事において求めるものも少しずつ変化していった。
まず100mを全力で走り切る事が自分の肉体的には難しいと感じ、
タイムを上げる為のトレーニングというよりも、
衰えた肉体でも走れるような無駄のない、無理のない、そして怪我のない、
自分にとっての自然的な走りを求めるようになった。
ここを追求すれば、誰にでも適応する、
人間のごく自然的な走りの基本が見つかるのではないかと思っている。
そしてもう一つ走り続ける明確な目標があるが、これはここでは明かさないでおく。