私の走りの日記(18)
『1984年の陸上、そして反省』
1984年は、ロスアンゼルス・オリンピックが開催された年だった。
このオリンピックで最も目立ったのは、
ご存じの通り、4冠を達成したカール・ルイスだった。
4冠という偉業により、陸上競技に興味のない世界中の人々にも、
世界一速い男として、その名が知れ渡った。
ただ私個人としては、ロス五輪のルイスより、
前年の世界大会で初めて観たルイスの方が、インパクトが強かった。
世界は、カール・ルイス。
日本の100m界では、前に記述したが、
不破弘樹(農大二高)さんが、日本のエースとして台頭してきた年だった。
高校生の不破さんが、日本のトップクラスの一般男子相手に、
後半スルスルっと抜けて勝利するレースは、とても魅了されるものだった。
日本の不破、世界のルイス、共にスパイクは、ナイキを穿いていた。
同じスパイクが欲しいと思い、スポーツ店に見に行ったことがあったが、
どこを探しても見つからなかった思い出がある。
当時は、個人に支給されていた非売品だとは知らなかった。
オリンピック前に、不破さんの特集が一時間番組で放映されたことがあった。
その番組の最後に、不破さんの言葉が紹介された。
「負けるなんて思った事は一度もない -不破弘樹-」
かっこいいなと思い、すぐさまその闘魂に影響された。
それが7月の通信大会に良くも悪くもつながった。
私は、すぐに影響されるタイプで、そこに飛びつきやすい性質がある。
よって、繰り返しの練習で身に付けたものを、
隣の魅力的な青い芝生をみた瞬間、そっちに飛びつき、
これまでのものがどこかに飛んでいってしまうということは、よくある事だった。
だからどうもパフォーマンスが安定しなかった。
これは、この年に限らず、ずっとそうであったが。
自分の頭の中の走るイメージが、その時のブームによってちょこちょこ変わっていたのだ。
もちろん、走りを理論的に勉強したことはなかったし、
速く走れた時も、その走りを理論的に検証したこともなかったので、
自身の走りは、非常に浅はかなものだった。
陸上競技の選手生活を離れて、この年の事を反省してみると、
あの朝の自主練で気づいた、膝下を投げ出すようにして脚を前に出す走りにこだわったら、
どこまでいけただろうと思うことがある。
とにかく脚を前に投げ出すように走る。着地は、完全なつま先接地。全身に力を込め、
上半身は、そっくり返るように反っている。
今の正当な理論では、全ての点において、間違った走りである。
ただ、当時は、この走りで、飛躍的にタイムが伸びた実績があった。
また通信大会の準決勝までは、この走りで、全身に力がみなぎっているのも感じた。
全身に力がみなぎると、精神的にも力が充満する。
ちょこちょこ浮気しないで、
ターニングポイントとなったあの時に、
もっと固執してみればどうなっていたかなと思う時がある。
そのように思い出すのは、
あの自主練から準決勝までが、自分の中で、一番強かった時だったと思うからである。
この年の目標、‘全国大会出場、東京都の決勝の常連メンバーになる’は、
完璧ではないが、なんとなく達成された感はあった。
冬季は、来期に向けて気合を入れて練習に取り組んでいた感じではなかった。
時折、練習をさぼったり、
また板橋区の合同練習会で、他の選手達にいいところを見せようと、
がむしゃらに飛ばした結果、尻割れを起こし、一人脱落したり、
脚がつって倒れ込んでしまったりということもあった。
また冬季練習の一環として出させられた3キロのマラソンでは、
出発の号砲時にスタート地点にいなく、しばらくして後からマイペースで走った記憶もある。
そしてもう一つ、
板橋区の新河岸陸上競技場で一人練習をしていたら、
北園高校の陸上部の人達が練習していた。
冬季ながら、スパイクはいて100m走るというので、
私もお願いし、一緒に走らせてもらった。
いくら高校生でも、こっちもベストタイムが11秒5なんだと高を括って走ったら、
一人の方に惨敗し、記録は12秒1だった。
すっかり自力がついたと思いこんでいたのだが、
こんなんで、彼ら(東京都決勝常連組)と互角に競いあえるのかなと不安に思った事もあった。
そんな風に過ごしているうちに冬が終わり、最終学年を迎えた。