裸の聖者
インド、リシケーシ滞在中に、現在リシケーシで一番の聖者と言われているスヴァーミー(出家者)を訪れました。
その聖者は私達の中で‘裸の聖者’と呼んでいます。
このスヴァーミーはすでに100歳を超えていると言われていますが、実際はまだ90歳を超えているくらいだという説もあります。どちらにしても結構なご高齢です。
スヴァーミーの周りにはいつもお世話をする人や訪問者がいます。
しかしこのスヴァーミーは人がいてもいなくても関係なく常に裸です、パンツも穿いていません。
意識が卓越された方なので、目に見えるものや物事に優劣なく全て同じ見えるのでしょうか?
インドの古い哲学、ヴェーダにも‘この世の見えるものはどれもがリアルではない’という話があります。
例えば、
海に水がありそこに波が立ちます。その波は高く盛上ったり、沈んだりと変化します。波は結局、水であり、波と見るのは、各個人の意識から産まれるものだという考えです。よって人々があらゆる物事に対し喜怒哀楽の感情が産まれても、結局はその物事自体が常に変化していくので、その感情は永遠には維持されないということです。よって目に見えるもの、外に意識を向けていては、決して終わることのない幸福感を得ることは出来ないということです。
ここからヨーガは、意識を内に向け、アーサナをし、プラーナヤーマをし、瞑想をすることにつながるのです。
‘観察をしなさい、そして気付きなさい’ということです。
これはとても難しいことのように思えます。しかしこれがリアルなことなのでしょう。
私みたいな凡人では正直、確信を持って言えませんが、裸の聖者はこの域に達しておられるようです。
この聖者のそばにいてただ坐っているだけでとても気持ちいいのです。
私のような知らないものが急に訪ねて、聖者の前に黙って坐り続けていてもビクともしません。
誰が前に居ようが、何があろうが、常に心は平静のままで動揺はしないのでしょう。
調度お昼の食事時に伺ってしまったのですが、聖者が食事を終えると、世話人に私達にも食事を差し上げないさいという指示を出していただき、ご馳走になってしまいました。
私達が聖者の横で食事をしている最中、聖者は私達の方にお尻を傾けて‘ブー’とおならをされました。
こういった行為も失礼な行為、恥ずかしい行為という意識がないようです。
失礼という気持ち、恥ずかしいという気持ち、これも自分の意識から産まれるものです。
ある行動には気が付かなく、ある行動には気が付くという状態では、失礼な態度は許されません。
全ての行動に対し平等な意識(?)であるので、このような行為も許されるのです。
聖者の目をジーと見つめても、聖者はこちらに視点を合わせていただいているのか、どこを見ておられるのかも分かりません。
何事にも動じない‘裸の聖者’。
インドにはこのような方がぽつん、ぽつんとおられるようです。
