認定NPO法人色彩生涯教育協会(CLE協会)
インストラクター
パーソナルカラーアナリスト 原知美です
東京文京区(南北線・東大前)の自宅で
カラーサロンSilvia in the meadow を主宰、
オンラインレッスンも好評頂いています
こちらに自己紹介を書かせて頂きますね。
【自己紹介】
1978年北海道生まれ
2人の男の子(スーパーヤンチャ盛り)
のママです
5歳まで小樽市銭函
18歳まで石狩市で過ごしました。
ジンギスカンとイクラが大好き。
生粋の道産子です。
趣味は
音楽鑑賞(ハードロック、へヴィメタ)
楽器演奏(サックス)
メイクやファッションの情報収集、
街歩き、 城巡り、歴史探訪、博物館巡り
20代・30代の頃は
全国各地の城巡りをしていました。
城の構造を研究?したり
戦国武将について学んだり。
私は何故か
「石垣」を見る事が好きなんです!
特に、おすすめは熊本城です☆
【経歴】
一見
私はキラキラして見られがちでしょうか?
いえいえ
カラーに出会う前の私は
黒歴史が多く・・・(笑)
長い黒歴史ですが読んで頂ければ幸いです
■大学時代 ⇒モヤモヤマックス期
中学高校から英語が大好きだった私は
第二の外国語を身に付けたく
東京の大学のスペイン語学科を受験。
18歳で1人で上京
入学後はあまり勉強に付いていけず
「自分には極められるものが何もない」
と悲観し
夢が見つからないまま
遊びほうけていました。
とにかく お酒に強い事だけが特技で
お酒に関しては
「霊長類最強」と 呼ばれていました、苦笑
勉強に付いていけない
何も身に付けられない
得意な事が一つも無い
夢もない
おまけに1年留年
折角
大学に行かせて貰ったのに
お金を出して貰っているのに
いつも自分を責めていました
しかし、
興味のあるものを探してみると
「ファッション」「教育」というキーワードに
たどり着く事が多かったように思います。
アルバイトで塾講師や家庭教師を多く経験。
自分が伝えたい事を生徒さんが理解して
笑顔になってくれた瞬間が好きでした。
生徒さんを楽しませる授業を
いつも心がけていました。
テストや受験で目標を達成した時の喜びは
忘れられないものになりました。
そして、それが高じて
英語教育関係の会社に内定をもらったものの
経営不振や過度の残業で
その会社が社会的注目となってしまい
就職をする前に
辞退をさせて頂く事になりました・・・
1年留年した上に、
就職も卒業間際まで決まりませんでした
ファッションに興味はあり
手に職を付けたいけれど
大学の専攻と関係ないので
自分で自分にブレーキを掛けてしまい
「べき・ねば」と「やりたい」の狭間で
大きく揺れ動いていました。
語学堪能で大企業や官公庁に
就職していく仲間と 自分を比べて
自己肯定感はゼロでした。
■23歳~25歳
⇒営業の基礎時代
時は折しも、IT時代へ。(懐かしい言葉)
卒業ギリギリで
システム会社の新規開拓営業として
新卒採用して頂けました。
提案・プレゼンなど営業としての
基礎を徹底的に学び
充実した会社員生活でした。
(営業なので酒に強いのも
まあまあ役に立ちました、笑)
しかし頑張り過ぎるが故
「男性には負けたくない。
私が若い女性だからナメられるんだ、
早くオバサンになって信頼を得たい」
とまで思っていました。
もちろん毎日スーツ。
男性と同等に見えるもの、
女性らしさを感じさせないものを
選ぶようにしていました。
今考えれば似合っておらず
顔をきつく見せるものばかりでした。
そればかりか
威圧感や血の気のないクールさも
自分の魅力であると勘違いしていました。
「クールビューティ」なんていう言葉が
流行り始め自分もそれっぽくしていました。
本当に不自由なく色々と教えて頂け
先輩後輩とのコミュニケーションも楽しく
当時はまだ数十人のベンチャー企業でしたが
経営陣も人格者ばかりで安心した生活でした
でも、
このまま毎年 経験に伴って
ノルマが上がっていく
⇒それをこなす というルーティンで
終わっていくのだろうか……
「やっぱりファッションに携わりたい!」
「好きな物を売りたい!」
という思いが膨らみました。
元々ハンドバッグがとても好きでした。
ブランドのバッグは買えないけれど
ボーナスが入る度
革のバッグを買っていました。
電車の中でひたすらに
女性のバッグを観察していました(笑)
バッグからさりげなくその人の人となりや
性格も想像していました。
それに
「もっとあんな感じのバッグだったら
このコーディネイトに合うのになあ」と
妄想で提案をしていました(笑)
そして
ハンドバッグの世界に飛び込む事を決意し
ハンドバッグメーカーに転職をしました。
■25歳~33歳
⇒ファッションに自信があった時代
ハンドバッグメーカーでは
日本全国の百貨店様・専門店様へ
ルート営業をしていました。
日本全国津々浦々巡り、
商圏をリサーチすることに
遣り甲斐と使命感を持っていました。
(城が好きになったのも、営業中に
見守ってくれるように建っている城を見ていたから)
また別の会社(商社)に転職をし
そこでもハンドバッグの仕事を担当。
ヨーロッパやアメリカ
果てはブラジルまで出張し
海外展示会回りをし
日本市場に無かったものをゼロから商談し
輸入販売し、自ら営業もしていました。
スペイン語は使わなかったものの(笑)
英語で海外展示会を周り
好きなハンドバッグに囲まれる日々は
自分の学んだ事と好きな事を融合できたと思え
やっと親孝行できている気分でした。
このころは身に付ける物に
自信があったように思います。
結構奇抜な服を着ていました。
カラーコーディネーター試験2級にも合格。
それを活かしたハンドバッグの配色や
自社展示会のディスプレイは
百貨店バイヤー様から好評価を得ました。
上司や仲間に恵まれ
少人数で、必死に事業を大きくしようと
毎日深夜まで残業しタクシーで帰る日々。
毎月何度も国内出張や海外出張。
だけど、必死になればなる程
なかなか売上は上がっていきません
この頃
身体的に限界ぎりぎりの中で
不妊治療も開始
仕事を一生懸命やっているから
妊娠できないのか?
妊娠できないのは自分のせいなのか?
原因も分からずゴールもない
長い長いトンネルの中にいるようでした。
時に消えたくなりました。
困り果ててオーラ診断をしている
なんだか今より老けている
そして
人と自分を比べる癖は
学生時代から全く変わっていませんでした
あの人は
語学が出来ていいな~
出世できていいな~
赤ちゃんが居ていいな~
いつも人が羨ましかったのを思い出します。
結局、ハンドバッグ事業は
採算が取れにくい構造から脱せられず
2008年~2009年のリーマンショック
2011年東日本大震災も重なり
5年程で事業撤退を命じられてしまいます
私は 燃え尽き症候群のようになりました
そして
結婚して5年経っても
子宝には恵まれませんでした
■33歳~37歳
⇒裏方、出産・育児に没頭した時代
幸い、同じ商社内の別部署に異動が決まり、
某世界的ブランド様の家具に携わりました。
輸入、物流、販売予測、売上管理・・・
裏方として営業さんのバックアップに
徹しました。
裏方としてふさわしいように
冷静沈着なイメージを出すような服装
(黒・紺。 色を使っても青まで)
なるべく目立たない事を心がけました
ハンドバッグの事や
華やかな服装だった自分を
忘れようとしました
色彩を封印しました
そして 結婚して6年経っても7年経っても
尚、子宝には恵まれず
「どうしてできないのか?」と
心無い上司に聞かれたりもしました。
飲み会で「こいつ子供できないらしいよ」と
暴かれ笑われた事もありました。
それでもまだ心のどこかで
「手に職」に憧れ
相変わらず自分の軸や強みが
何なのか分からない中で
目の前の仕事は一生懸命やっていました。
有難い事に不妊治療のクリニックには
継続的に通う事ができ
6年越しの通院で 第一子を妊娠
36歳で、長男を出産。
折しも 「保育園落ちた、日本死ね」が
流行語になった保育園戦国時代
1歳からの入園は期待できず
0歳から入園しなければと追い込まれ
元々、「べき・ねば」思考が強い私は
「絶対にすぐに職場復帰しなければ」と
産後体調が万全ではない中で
殆どの時間を「保活」に費やしました
産後6ヵ月で職場復帰
1年間のワーママ生活を体験しました
しかし
よく熱を出す乳飲み子の育児と
仕事の両立は想像以上に厳しく
時短勤務をさせて頂いたものの
早退したり休んだり常に恐縮していました。
もちろん、 色彩は封印したまま。
髪は伸び放題でボサボサ
地味な色を着る事に
既に何の違和感もなくなっていました
もちろん似合っていない色。
落武者のような、まとめ髪。
くすみ系の色で顔色もどんどんくすんでいきました。
メイクも常に白浮きしていました。
これでも保育園のイベントでオシャレしたつもりの日
■37歳~40歳
⇒上海駐在3年 人生のターニングポイント
記憶もままならない 1年を過ごした後
主人が中国・上海への駐在を命じられ
私と長男(当時1歳)は帯同する事に。
私は、職を手放し専業主婦となりました。
自分の事は二の次で
長男の育児・教育に夢中になりました。
39歳で次男出産
しかし………
ここがターニングポイントに。
出産直後から極端に睡眠時間が短い次男。
30分寝ては起き
30分寝ては起きる
私も極度の睡眠不足
何をやっても泣き続ける次男。
何もかもが上手くいかない次男の育児。
「自分の努力だけではどうにもならない」と
異国の地で 育児ノイローゼになりかけました。
長男も幼稚園に入る年齢になったのに
食物アレルギーを持っている関係で
なかなか良い幼稚園が決まらない
私はキャリアを捨てて上海まで来て
何も残っていないし
私はもう、何者でもない
幼稚園に入園できない長男と
一向に寝ない次男を
朝から夜まで抱えている
「何者でもない」私
一気に思いが溢れて
上海のマンションで
泣き叫んだ事もありました
自分を解放したい
何が好きだったのか、思い出したい…
長男が幼稚園に入った暁には
一刻も早く開放的な気持ちになりたい
と思っていました
その後
日系幼稚園への入園が無事決まり
クラスのグループチャットにも
登録して頂き
ある日流れてきた
クラスのママ友さんのタイムライン
「カラーの1日体験しませんか?」
え?
こんな素敵なスクールがあったの?
こんな素敵なお仕事があるの?
衝撃が走りました
ママ友さんは上海のカラースクールの
インストラクターさんだったのです
育児ノイローゼだった私は
同じ上海市内のカラースクールの存在も
全く知りませんでした
ハンドバッグの世界で色に触れ
服装に自信があったあの頃から7年。
色彩を封印してから7年が経っていました
7年の間で子供達二人に恵まれたけど
自分の容姿への自信は薄れ
色と言えば、青しか着ていない
睡眠不足だからか
顔にはクマや影が常に鎮座する状態
また、
【サロンへの想い・理念】