『カレイドスコープ』


無色透明と十把一からげに決付けて安心し切っているもの…
その中に感性を開花させる色彩の閃きがある…

日本の四季の中には風物詩と呼ばれるような色彩が折々散りばめられている

我々はそれらを愛でて楽しんでいる

可憐な春の草花…

匂い立つ新緑…

沸起こる入道雲…

花よりも鮮かな紅葉…

凜冽とした冬空…



忘れてしまいがちなことは

我々の眼は季節の空気という様々な色のフィルターを通して被写体を観ているということだ

恐らく夏のフィルターで紅葉を観てもしっくり来ないだろう…

何故なら空気は季節そのものを創りあげている張本人なのだから…


色彩はついているものではなく無色透明の中から生まれて来るもの…
そして生み出すもの…


つけられた色彩…

はじめから備わっている色彩は

所詮うたかたのものに過ぎない…


無色透明な心がすべての色を創り出す…

無色透明によって育てられた心によって…




今朝は遠くに望む富士がとても冴えていた…

冷たい空気はすでに冬の万華鏡に変わっていた…。






(色は匂へど…散りぬるを…。)




私の世代や、もう少し上の世代の人には「オフコース」というグループには何かしらの思い入れがあるのではないだろうか。

「オフコース」は背伸びしながら聴き始めたものだった。私が小学生の頃、姉が受験勉強をしながら聴いていたのが「オフコース」であった。それが自然に耳の中に入ってきた。彼らの曲の中でよく使われる『僕』とか、『あなた』という言葉が妙にソフトで優しく、大人に聞こえたものだった。自分もあと10年もすれば『僕』とか、『あなた』とかいう言葉を使って恋愛をするのかなと思うと心はワクワクして、クラスの好きな女の子の顔が浮かんだりして、ともかく一刻も早く大人になりたいと思ったものだ。

やがて中学生になるとクラスメートの男女を問わず多くの人がこのグループを聴いていた。カラオケなどまだ存在しない時代だったので修学旅行のバスではマイクを廻しアカペラで歌を歌ったものだった。「永ちゃん」と「オフコース」を歌う人が一番多かったようである。

中学、高校時代、多くの片想い、失恋をしつつ、聴き続けていたのも彼らの曲であった。当時耳に残った歌詞の言葉は『切ない』という言葉であった。片想い、失恋という恋愛の問題は子供を襲う最初の残酷で容赦の無い「大人の問題」である。こればかりは親だろうが先生だろうが、友達だろうが助けてあげることはできない。すべて『平等』と教える教育を受けつつ、最初にぶち当たる社会の真の姿『不平等』である。最終的には恋愛の対象よりも自分自身と向き合い、怯えつつ、自らにナイフを突き立てるような覚悟で闘わなければならない問題である。そのような問題にコテンパンにたたかれ、ヘトヘトになりつつ「切ない」という感情を知ったものだった。

40歳を越えた今聴いた『オフコース』はすでに過去の物であった。懐古の対象になってしまったようである。そして『切ない』という気持ちも何だか過去に置いてきてしまったような気すらする。「歌」の中の「お話」で、自分は高見の見物をしている・・・そんな気分である。音楽に限らず、最近の私は映画、テレビドラマ、そして近しい人の話・・・それらに感情移入して自分が傷つくことのない安全な場所で間接的に『切なさ』を味わい、それを愉しみ、酔っているようにも思える、まるでゲーテの「ファウスト」や、三島の「禁色」のようである。

 自分を傷つけることもなく(傷つくことを畏れてではないところがまた口惜しい)、『切なさ』を忘れてしまった自分が悲しくてやりきれないのである。





『旅路の果てに行き暮れて・・・』





暮れそぼる校庭に

長い影の尾を引いてポツンと転がるボール、

それはとても淋し気だけど、

次の日には違う子供が拾って遊び

また違う場所に置去りにされて

影の尾を引くのだろう,



ボールのなが~いなが~い旅,

こんなに近くに

ねぐらである教室や、

仲間が群れている

体育倉庫があるというのに



容易にはそこに帰り着けない、

夕焼けボールの旅はつづくのだ



暮れなずみ

橙色に包まれながら

夜へとひた走る公園



砂場にはおもちゃのシャベルと

バケツが転がっている,

昼間の住人である持ち主は

とうの昔に巣に帰って行ったというのに




取り残されたシャベルとバケツが

淋し気に夜の闇に包まれようとしている。




そして・・・




昼間が住家なのか、

夜が住家なのか、

わからなくなってしまった大人が一人



逃げ遅れた昼間の残骸を眺めている

それは少し滑稽であり、

少し淋し気だ




明日も同じような朝が

あたりまえの顔をして

向こうからやって来る,

そう考えれば

なんのことはないのだけど・・・




住み家をなくした大人が一人

逃げ出すこともできずに

ベンチに座って

自分の影を見つめている




『沈黙の中の能動』





太古地球を支配していたのは

植物だったらしい



芳香を放つ果実で動物を招き寄せ

種子を運ばせて

子孫を各所に残す



恣意的・・・受動的に見えて

実は思惑とおりの能動であったりする




あまりにも広大な宇宙

そして時計の針で切り刻まれることのない

悠久の時の流れの中で



大き過ぎて見えないけれど

必然の巡りが動いている




人間の前足が手になったことも

そして破滅に突き進んでいるということも


大きな巡りの中での

沈黙の能動なのかも知れない







『砂』





曇天の砂浜に足を踏み出す

こんな私の一歩でも

砂は形にして跡を残してくれる




砂は恣意的なようでいて

何十年、何百年、

何千年、何万年、


沈黙を装いつつ

(能動的に)

ささやかな変化を

てぐすねをを引いて待っていたのかもしれない




どんより曇った空と


沈黙を守る砂浜のにらめっこは

私を挟んで続けられている








喫茶店で一杯のコーヒーを飲むのにかかる時間は人それぞれである。私自身も喉の渇きを癒すために少し冷めたらすぐにカアアっと飲み干すこともあるし、本を読みつつ飲んで最後はアイス・コーヒーのごとくに冷たくなってしまうこともある・・・。いずれにしてもコーヒーは時間を豊かなものにしてくれる。これはお茶についてもいえることだと思う。もし食事の時にお茶がなかったらどうだろうか、食卓は非常に味気ないものにになってしまうだろう。

私はやらないがタバコという物も同様だったのではないだろうか。これらの物がいつ頃から庶民の手に入るようになったのかはわからないが、ある意味、庶民に許された「心の贅沢」という物の先駆けであったといえるのかも知れない。

今の時代、どれくらいの人を「庶民」と呼ぶのかわかりかねるが、庶民の「心の贅沢」の選択肢はだいぶ拡がっている。何せ、昔では考えられなかった海外旅行にも多くの「庶民?」が出かけている(ちなみに私はまだ・・・)。はたしてそれがただの「遊び」で終わってしまうのか、「心の贅沢」として何かを残すのかは当人次第でわからないが・・・・・。

「大きな贅沢」というのはなかなかできるものではないが(してみたいのだが・・・)、日々の生活の中での「小さな贅沢」というのも心を癒してくれる。せいぜい良いお茶を飲むとか・・・良いコーヒー豆を使うとか・・・ハム・エッグに卵を3つ落とすとか・・・床屋に月2回行くとか・・・食卓に花を飾るとか・・・そんなレベルのことだが結構「小さな贅沢」はできるものである。

「大きな贅沢」だけを待ち望むのもよいが、やはり人は日々の生活に些細なアクセントがなければ生きていくのも辛い・・・・。

私の「小さな贅沢」は、ウエイトレス(今はそう呼ばないのかな?)に「コーヒーもう一杯!」と言うことである。(^_^)




『開運なんでも鑑定団』などを見ていると時々私たちの世代が遊んだオモチャが出て来る。ミニ・カーだったり、怪獣の人形であったり、ロボット・ヒーローの超合金?であったり。鑑定する人の話を聞くと箱に入っていて開封されていない物の方がより価値があるそうだ。出品した人の中には子供の頃に買ってもらってずっと開封しないでおいた・・・などという人がいてかなり高額な値段で鑑定してもらっていた。

しかしながらどうにも私には新しい『オモチャ』を買ってもらって箱を開封しない子供というのが理解できない。普通子供はオモチャに限らず何か新しい物を買ってもらったら喜んで、すぐに乱暴に包装紙をビリビリ破いて箱から取り出して手に取って遊び始めるはずである。私が子供にオモチャを買い与えて、もしその子がオモチャをすぐに開封しなかったら恐らく可愛くないガキだ!と思うであろう。『オモチャ』で遊ぶ事はかつて子供の特権であった。『オモチャ』もそのためだけに作られていた。そして『オモチャ』にとってみても子供によって触られ、汚され、壊されてしまう事が『オモチャ冥利に尽きる』事だったのではないだろうか。箱に入れたまま開封せず眺めているだけというのはいかにも『大人』のしそうな行動である。


かつて物の価値について子供の世界では大人の世界の価値観とはまったく別に独自の価値観があった。そして『私だけの大切な物』のように個人の価値観が尊重される世界でもあった。子供はその『私だけの大切な物』をよく触り、よく眺めていた、そしてさらにその物の『価値』を自分の中でさらに高めていった。これは一つの『恋愛』といえるのかもしれない。

「金!金!金!」・・・価値判断の基準を金銭的価値に丸投げして依存してしまっている大人の世界であるが、『金』や『世間的価値観』を超越したところで触ったり、眺めたりしながら『愛』を深めることができる・・・そんな対象を持っている人は幸せである。たとえそれが物であっても、人であっても・・・。





大学の『サークル』というと何か軽く、うわついたイメージがあるが、私の所属していたサークルは少し違っていた。私の大学は都心に『本校』があったが学部ごとに他の土地に移転してしまった。この「移転」には学校側の思惑もかなりあったようである。うちの大学ではむかしから『学生による自主管理』が守られていた、学園祭とかもそうだが日常のサークル活動などもすべて『自主管理』で行っていた。その中には過激派のカモフラージュ・サークルや、政党の青年部によるカモフラージュ・サークルなども入り込み、必然的に『いかなる権力の介入も許さない』という『アグレブシブ』な風潮になり大学側とはいつも対立関係にあった。大学側としてはこれらの団体が鬱っとおしくて仕方ないので校舎を他に移すと同時に学生を管理し直そうとしてとかく新校舎の学生の活動には圧力をかけてきた。それゆえに活動場所の確保等に関して必然的に大学側と交渉しなければならなかった。私のサークルは音楽サークルであったがやりたい音楽活動以外にも学校側との交渉、学生集会等にも時間をさかなければならなかった、学生部長を表に連れ出してハンド・マイク片手に行う『学生部長吊るし上げ』は恒例行事のようなものだった。

サークル団体が置かれた状況も『軟派』では通らないものであったが、私たちのサークル自体かなり『硬派』であった。まず『黒人音楽』以外をやることは『ご法度』であった。大学に入る前にストーンズ、クラプトンを聴いて『ブルース』『R&B』に関心を持ち、『黒人音楽』にも興味があるけど、でもクラプトンやりたい!という人は多いが、それは許されなかった、ストイックに我慢するわけである、それを許してしまえば、どこの大学にでもある「何でもあり」のありふれた軟弱なサークルになってしまう懸念があった、そうなるとサークル数があってもどこも同じような色のないものになってしまいつまらないと考えていたのである。

今でも印象に残っているのは『飲み会』である。当時は『一気飲み』というのが社会問題になりつつあった時期だが、ビールをジョッキやサーバーで一気飲みをするのが普通だったようである、しかしながら我々は『コップ』であった。ジョッキやサーバーと比べれば量が少なく楽そうに見えるが、つがれて『123』であける、それが延々と続くのである。
私が新入生のときも毎日『スリー・コード・ブルース』をジャムったりして楽しいサークルだなと思っていた矢先に問題の『新歓コンパ』に誘われて新宿の飲み放題、食い放題の店に連れていかれ、飲み会が始まるとともに延々と『123』が始まり・・・・。気がついたら先輩の家で寝ていた、『Lee』のジーンズのポケットには何故か焼肉がたくさんつまっていた。そして体中ビールでベタベタしていた、力つきて転がった後にビールをかけられたようだった。『新歓コンパ』には15人程新入生が顔を揃えたのだが、コンパの後は私ともう一人を残して消えてしまった。うちのサークルが飲み会をやるとまず便所をつまらせて使用不能にしてしまうのですぐに店側から出入り禁止にされてしまった。今思えば恥ずかしい限りである。『飲み会』のときは食べ物を食べることはまずなかった、会話もなしに延々と続く『123』、テーブルにのった料理もいつの間にかビールがかけられていた、床に数人が転がっている状態になって初めて食べるチャンスができた。卒業してしばらくして後輩達と飲んで食べ物を食べたときに『飲み会で食べ物を食べるなんて何か罰があたりそうだ』と言っていた奴がいた。
人に飲ませて自分は飲まないで見ているという奴はいなかったのでさらに質が悪かった、必ず飲ませた量と同じ量を皆飲んでいた、サークル連合の飲み会で他のサークル団体と飲むことがあったが、そんなときは私の後輩たちは『コマンド』となって各テーブルに散り他のサークルの連中を『123』で潰しにかかった、相手と同時に飲むわけだから『自爆』して潰れてしまった奴もいた、可愛いものだった。よく『ビールをオーデコロン代わりに使え』と言われたものだった。そんな連中ではあったが『音楽』に対しては真剣であった、それだけははっきりと言える。

そんなこんなで私も卒業式を迎えた。式には着慣れないスーツで出て、そのままの格好でサークルの『追い出しコンパ』に出た。いつもの通りの飲み会でいつもの通りの狂態であったが、何軒かまわっているうちに皆ちりじりとなりOBである先輩と酔った後輩の女の子の3人になった。私と同じ学年は途中から入ったのもいて一時私を含めて3人いたのだが、その二人は3年になる直前に辞めた、結局私一人が残り逃げることもできずにサークルを引き継いだのであるが音楽だけをやっていればいいというわけではないのでかなりきつい面もあった。そして卒業式のその夜に先輩から「お前一人で本当によくがんばったな、お前には辛くあたったこともあったなあ」と予想外の言葉に思わずジーンとなってしまった。その先輩と私、しみじみと言葉少なに語り合う、そしてその横に潰れた女の後輩・・・。区切りがついたそのときに先輩が言った、『おい!最後のご奉公だ、送ってってやれ』。私はその子を抱えて電車に乗り途中で嘔吐の手伝いをしつつ郊外の彼女の家についた、公団住宅のせまそうな家だった、彼女はしきりに泊まって行って下さいと言っていたがさすがに遠慮して町田に友達がいるから泊めてもらうよと言って立ち去った。終電は本当に町田どまりであった。映画館を探してそこで夜を明かすことにした『7月4日に生まれて』という映画であった。この時間に真剣に映画を観ている人など皆無で寝床を探してここにたどり着いた人ばかりのようであった。酒の臭い、屁の臭い、暑さのために靴を脱いで寝ている人が多いので靴下の臭い・・・夜中の映画館は昼間とはまったく違う様相を呈している。繰り返し流される映画のトム・クルーズを観るでもなく私はただ目だけスクリーンに向けていた、そして心の中で朝が来てこの映画館を出て行くときに俺はここに何かをおいていくのだろうな、そしてそれを取り戻すことは出来ないのだろうなと思った、そう考えると見飽きてしまった映画だが一秒でも長く続いていて欲しいと願った。こうしてスクリーンの中のトム・クルーズとともに『永訣の夜』を過ごし、翌朝の始発に乗る前にこの場末の映画館に『何か』をおいてきた。それは捨てたのでもなく、忘れたのでもなく、確かに『おいてきた』のである。今考えてみてもその『時間』の意味がはっきりと見えていたのはこの時以外になかったように思える。


町田の映画館に何かをおいてきて数年後、サークルの創始者の先輩の結婚式の二次会で久し振りにサークル員の先輩後輩が顔を揃えた。花嫁は某大学の某有名バンドを輩出した音楽サークルに所属していた人だった。やはり音楽サークル時代の友人が顔を揃えていた。場所は小さな小粋なレストランであった。挨拶が終わるとともに『コマンド』達は散っていった・・・・。


そして二時間後・・・四年間鍛えられた我らが『コマンド』達は『自爆』することもなくテーブルに残された料理をつまんでいた。その足元には花嫁の友人である着飾った紳士たちすべてが見事に瀟洒な床に転がっていた・・・。

お洒落な小粋なレストラン始まって以来の椿事であったようだ・・・。
そして最後の椿事であろう・・・確実に・・・。






「小野小町九相図」という絵巻がある。小野小町を描いた絵であるという確証はないらしいが、それとおぼしき美しい女性の骸(むくろ)が桜の木の下に錦の内掛けを掛けられて放置されている。やがてそれは腐乱し、醜くふくらみ、うじが湧き、鳥についばまれ、やがて骨だけになってしまうという実にグロテスクな絵巻である。仏教にはこのような絵がいくつか観られるらしい。これは「色欲」を戒める意味で描かれたものともいわれている。いくら美女でも同じ人間であり、禅僧にいわせれば糞を皮で被った「糞袋」に過ぎないというのである。私は古代インド仏教絵画には非常にエロティックなものが多いように感じたが、同じ仏教でもどこで違ってきたのかが興味深くもある。「色欲」は戒めても無くなるというものではないだろうが・・・。

私はこの「九相図」を観るときには「色欲」云々よりも人間の哀しさのようなものを感じてしまう。いくら地球上の他の生物よりも高等で教養もあり、ヒューマニズムを持ち、着飾り生きていても行き着くところは「骨」なのである。他の生物と何ら変わるところがない。そして本当の「哀しみ」は、そのことを人間自身がいくら忘れよう、考えまいとしてもわかってしまっていることにあると思う。私は親しい人が死んだときにその姿を永久に見ることができなくなるのは辛いが、変わり果てる姿を観るのはもっと辛いので早く焼いて欲しいと思ってしまう。自分自身についても自分の亡骸が通夜、葬式の間中、人前に晒されるのは嫌である。そう考えてみると通夜、葬式などの弔いの行事は死者のことを考えてではなく残された者達のためにあるのかもしれない。

散る桜
残る桜も
散る桜

逝く人間も、残る人間も、いずれも哀しい存在であることには変わりが無い・・・。


そういえば中原中也の詩に『骨』というのがあった。



『骨』  中原中也


ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖(さき)。


それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。


生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑しい。


ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?


故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて
見てゐるのは、――僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。






ジャズがポピュラー音楽界におけるメインストリームの座をロックに明渡したのはいつ頃のことだろうか。かつてジャズは、ボサノバ、アフロ・キューバン、アフリカン、ミュージカル、映画音楽、クラッシク、さらにはロックに至るまで様々な音楽を取り入れて来た。そしてこれらの中の(マイノリティー的?)音楽までも「ポピュラー・ミュージック」の中に取り込んでしまった。今は代りにロックがその役目を果たしているように思える。70年代になりクロス・オーバー、フュージョン、ニュー・ソウルと・・・ジャズ、ロック、ソウルが交差し、ファンク等を媒介に交じり合い、その境界(別に境界線をつけることもないのだが・・・)はわからなくなってしまった。これだけ音楽の境界がなくなってくると聴く者の選択肢は拡がるわけである。しかしながら選択肢が拡がった分、逆にピュアなものが求められる波が定期的に起こる傾向もある。

いくら音楽が多様化してもジャズ、ブルース、R&B、カントリー・・などの「ルーツ・ミュージック」、そしてクラッシク・ミュージクはポピュラー・ミュージックの「骨」のような物である。どんなに贅肉、筋肉が付こうが消えることはないだろう。贅肉、筋肉はやがて朽ち果てるが、「骨」はいつまでも残っていくものである。私もその「骨」にしがみつき、むさぼり、しゃぶっている一人である。



純粋な意味での『R&B』の歴史の流れに関して、私はキング・カーティス、アイズレー・ブラザーズ、ジェイムス・ブラウンを時代時代追って聴けば大体把握することが出来ると考えている。


さらには動画のアイク&ティナ・ターナー・レビューである。彼らは時代のヒット曲を節操なくカバーしている(そういえばティナ、キング・カーティスともにレッド・ツェッペリンの曲までカバーしていた)。そして実に猥雑!卑猥!下世話!・・・まさに申し分ない。このレビューはかつてのメディシンショーの流れを汲み、サウンドは違えども時代の音に対する向き合い方なども含めて、かつての黒人大衆音楽の雰囲気、臭い、モンキー・ビジネスさを一番色濃く現代に残していたと私は感じている。