大学の『サークル』というと何か軽く、うわついたイメージがあるが、私の所属していたサークルは少し違っていた。私の大学は都心に『本校』があったが学部ごとに他の土地に移転してしまった。この「移転」には学校側の思惑もかなりあったようである。うちの大学ではむかしから『学生による自主管理』が守られていた、学園祭とかもそうだが日常のサークル活動などもすべて『自主管理』で行っていた。その中には過激派のカモフラージュ・サークルや、政党の青年部によるカモフラージュ・サークルなども入り込み、必然的に『いかなる権力の介入も許さない』という『アグレブシブ』な風潮になり大学側とはいつも対立関係にあった。大学側としてはこれらの団体が鬱っとおしくて仕方ないので校舎を他に移すと同時に学生を管理し直そうとしてとかく新校舎の学生の活動には圧力をかけてきた。それゆえに活動場所の確保等に関して必然的に大学側と交渉しなければならなかった。私のサークルは音楽サークルであったがやりたい音楽活動以外にも学校側との交渉、学生集会等にも時間をさかなければならなかった、学生部長を表に連れ出してハンド・マイク片手に行う『学生部長吊るし上げ』は恒例行事のようなものだった。
サークル団体が置かれた状況も『軟派』では通らないものであったが、私たちのサークル自体かなり『硬派』であった。まず『黒人音楽』以外をやることは『ご法度』であった。大学に入る前にストーンズ、クラプトンを聴いて『ブルース』『R&B』に関心を持ち、『黒人音楽』にも興味があるけど、でもクラプトンやりたい!という人は多いが、それは許されなかった、ストイックに我慢するわけである、それを許してしまえば、どこの大学にでもある「何でもあり」のありふれた軟弱なサークルになってしまう懸念があった、そうなるとサークル数があってもどこも同じような色のないものになってしまいつまらないと考えていたのである。
今でも印象に残っているのは『飲み会』である。当時は『一気飲み』というのが社会問題になりつつあった時期だが、ビールをジョッキやサーバーで一気飲みをするのが普通だったようである、しかしながら我々は『コップ』であった。ジョッキやサーバーと比べれば量が少なく楽そうに見えるが、つがれて『123』であける、それが延々と続くのである。
私が新入生のときも毎日『スリー・コード・ブルース』をジャムったりして楽しいサークルだなと思っていた矢先に問題の『新歓コンパ』に誘われて新宿の飲み放題、食い放題の店に連れていかれ、飲み会が始まるとともに延々と『123』が始まり・・・・。気がついたら先輩の家で寝ていた、『Lee』のジーンズのポケットには何故か焼肉がたくさんつまっていた。そして体中ビールでベタベタしていた、力つきて転がった後にビールをかけられたようだった。『新歓コンパ』には15人程新入生が顔を揃えたのだが、コンパの後は私ともう一人を残して消えてしまった。うちのサークルが飲み会をやるとまず便所をつまらせて使用不能にしてしまうのですぐに店側から出入り禁止にされてしまった。今思えば恥ずかしい限りである。『飲み会』のときは食べ物を食べることはまずなかった、会話もなしに延々と続く『123』、テーブルにのった料理もいつの間にかビールがかけられていた、床に数人が転がっている状態になって初めて食べるチャンスができた。卒業してしばらくして後輩達と飲んで食べ物を食べたときに『飲み会で食べ物を食べるなんて何か罰があたりそうだ』と言っていた奴がいた。
人に飲ませて自分は飲まないで見ているという奴はいなかったのでさらに質が悪かった、必ず飲ませた量と同じ量を皆飲んでいた、サークル連合の飲み会で他のサークル団体と飲むことがあったが、そんなときは私の後輩たちは『コマンド』となって各テーブルに散り他のサークルの連中を『123』で潰しにかかった、相手と同時に飲むわけだから『自爆』して潰れてしまった奴もいた、可愛いものだった。よく『ビールをオーデコロン代わりに使え』と言われたものだった。そんな連中ではあったが『音楽』に対しては真剣であった、それだけははっきりと言える。
そんなこんなで私も卒業式を迎えた。式には着慣れないスーツで出て、そのままの格好でサークルの『追い出しコンパ』に出た。いつもの通りの飲み会でいつもの通りの狂態であったが、何軒かまわっているうちに皆ちりじりとなりOBである先輩と酔った後輩の女の子の3人になった。私と同じ学年は途中から入ったのもいて一時私を含めて3人いたのだが、その二人は3年になる直前に辞めた、結局私一人が残り逃げることもできずにサークルを引き継いだのであるが音楽だけをやっていればいいというわけではないのでかなりきつい面もあった。そして卒業式のその夜に先輩から「お前一人で本当によくがんばったな、お前には辛くあたったこともあったなあ」と予想外の言葉に思わずジーンとなってしまった。その先輩と私、しみじみと言葉少なに語り合う、そしてその横に潰れた女の後輩・・・。区切りがついたそのときに先輩が言った、『おい!最後のご奉公だ、送ってってやれ』。私はその子を抱えて電車に乗り途中で嘔吐の手伝いをしつつ郊外の彼女の家についた、公団住宅のせまそうな家だった、彼女はしきりに泊まって行って下さいと言っていたがさすがに遠慮して町田に友達がいるから泊めてもらうよと言って立ち去った。終電は本当に町田どまりであった。映画館を探してそこで夜を明かすことにした『7月4日に生まれて』という映画であった。この時間に真剣に映画を観ている人など皆無で寝床を探してここにたどり着いた人ばかりのようであった。酒の臭い、屁の臭い、暑さのために靴を脱いで寝ている人が多いので靴下の臭い・・・夜中の映画館は昼間とはまったく違う様相を呈している。繰り返し流される映画のトム・クルーズを観るでもなく私はただ目だけスクリーンに向けていた、そして心の中で朝が来てこの映画館を出て行くときに俺はここに何かをおいていくのだろうな、そしてそれを取り戻すことは出来ないのだろうなと思った、そう考えると見飽きてしまった映画だが一秒でも長く続いていて欲しいと願った。こうしてスクリーンの中のトム・クルーズとともに『永訣の夜』を過ごし、翌朝の始発に乗る前にこの場末の映画館に『何か』をおいてきた。それは捨てたのでもなく、忘れたのでもなく、確かに『おいてきた』のである。今考えてみてもその『時間』の意味がはっきりと見えていたのはこの時以外になかったように思える。
町田の映画館に何かをおいてきて数年後、サークルの創始者の先輩の結婚式の二次会で久し振りにサークル員の先輩後輩が顔を揃えた。花嫁は某大学の某有名バンドを輩出した音楽サークルに所属していた人だった。やはり音楽サークル時代の友人が顔を揃えていた。場所は小さな小粋なレストランであった。挨拶が終わるとともに『コマンド』達は散っていった・・・・。
そして二時間後・・・四年間鍛えられた我らが『コマンド』達は『自爆』することもなくテーブルに残された料理をつまんでいた。その足元には花嫁の友人である着飾った紳士たちすべてが見事に瀟洒な床に転がっていた・・・。
お洒落な小粋なレストラン始まって以来の椿事であったようだ・・・。
そして最後の椿事であろう・・・確実に・・・。