日本の「個人より集団」文化がもたらす教育・社経問題の私見 | 台湾人家族が中学受検(受験?)にも挑戦したい!

台湾人家族が中学受検(受験?)にも挑戦したい!

都立中学受検に挑戦したい台湾人家族です。
娘の偏差値 50 前後なので、私立受験するかは検討中。
小5に入った今は私立向けの勉強もしながら都立向けの勉強を中心に取り組んでいます。

ブログ主のパパは欧米留学歴8年の元・旧帝大教員

前回娘の成績を公開したことでブログのアクセス数が爆発的な成長を見せましたが、

今回は初心に戻って自分の人生のいろんな感触を整理して共有したいと思います。

この文章のアクセス数がどれくらい下がるか自分でも興味本位で知りたいですw

 

ちなみにタイトルもテーマも異なりますが、今回の記事は弊ブログの下記文章の続きになります:

 

 

上記記事の最後に、私は日本の学術界の「テクニシャン軽視」の現象について触れました。

私個人の考えになりますが、

これは日本を含む東アジアの文化に染み付いた「個人より集団」の文化に関係ている気がします。

 

ちょっと遠回りしますが、下記にて「個人より集団」と「テクニシャン軽視」現象の関連性について、

私の考えを整理したいと思います。

 

まず、この「個人より集団」の文化について、

東アジアの中でも日本はこの傾向が特に強い国と感じています。

今年ノベル賞を取得したばっかりの真鍋先生もこの理由でアメリカに移籍することを選びました。

 

 

こういった「個人より集団」の文化はもちろん良い側面と悪い側面両方あります。

ここにて予めご了承いただきたいのは、この記事では悪い側面に集中して議論しますので、

もし不快な思いをさせたら、申し訳ありません。

私はこの「個人より集団」の文化をすべて否定するつもりはありません。

 

さて、本題に入りますと、

この「個人より集団」の文化が日本の教育体系でももちろん体現しています。

それは、私の以前の「小学生教育」に関する文章に書いてあった「型にはまる」教育です。

「ほかの人みんな塾通っているので、うちも通わないと!」

「ほかの人みんなできているので、君も頑張ればできる!」

「ほかの人みんな大学に入って就職したので、私も頑張らないと!」

 

その結果、同質性の高い人口集団を大量製造し、

その「王道」路線から外れた人たちが「落ちこぼれ」と認識され、

その「王道」路線で勝ち抜いた人たちを「勝者」と称える。

 

教育体系から卒業して、社会に出たら、

今度は人口集団の同質性が高いことから、

リーダー以外の人たちは集団の一部として、

いつでも代替可能な消耗品と似たような存在にしか認識されません。

 

これが「テクニシャン軽視」の現象の由来であって、

「ブラック企業」が発生する根本的な原因を私は考えています。

 

特に日本の高等教育では根強い「教授になる」という王道ルートがあって、

少し大げさな表現を使うと、「教授になれない人は大体落ちこぼれ」という観念が存在します。

このため、「テクニシャン」として働きたい人もほぼいないし、

いたとしても、研究室のリーダーである教授にとって、その存在価値が感じられなません。

 

上記「個人より集団」の文化がもたらす「集団における個人を軽視する」現象も、

日本の平均給与が30年渡って少しずつ下げている理由の一つと思います。

 

日本のいくつか社会問題を解決するためには、

「個人」の重要性を認識させる教育を実施する必要があると私は考えます。

(このような教育は「集団」の重要性を否定する必要がありません。)

 

幸い(?)、2000年代の「ゆとり教育」以来の教育改革では、

日本の初等教育では子どもたちの「個性」を生かす教育に少しずつ変化しています。

個人的には、「ゆとり教育」はある程度の成功を収めていると信じていますが、

「ゆとり教育」についての賛否が大きく分けていることは承知しているので、

「ゆとり教育」に関する議論はまた今度にしたいと思います。

 

---

上記記事内容と関係しないですが、

本日を持ちましてAmeba Pickの審査が通過しましたので一応記念に記録を残します!

 

試しとして下記にていくつかの娘が愛用するおもちゃのリンクを張っておきますw

上記記事に少しでも共感いただけますとご参考に幸いですw