こみねさん:今読み返すと、私自身はこのお話の結末について、

「“ここ”ではないどこかへ行ったのかもしれないし、(主人公の女の子の)想像の中かもしれない。あるいは“そこ”と“ここ”を何度も行って帰って行って帰るを繰り返しているのかもしれない」

と思ったりするんです。

 

それと、私は小さなころから“はらっぱ”という場所がすごく好きなんです。

川原みたいな所にお花がいっぱい咲いている、よくそんなはらっぱで遊んでいました。

小さい頃って、未来があまりに長いから、不安の方が大きかったりするんですよね。

でもこれから先の時間をいっぱい夢見ることもできた。

なんでも望もうと思えば望める、そういう時間の中に生きていたような気がするんです。

 

それが、なんとなく最近は「あと何十年生きるかなあ」なんて先のことが見えてきたりして「まあこんな感じかな」と想像がついてしまったりすることが、すごく嫌になってしまって。

夢見る場所に、時々ちゃんと還る必要があるんじゃないかなと思って、物語に最後の文章を付け加えました。

 

 

東條:「いこう はらっぱへ。かえろう ゆめをみるばしょへ」ですね。

グッときました。

 

 

こみねゆらさん:(今話したようなことを)何の説明もせずに、担当編集者の方に「この文章を最後に加えたいのですが」と相談してみたんです。「オッケーです!」と即答が返ってきたので嬉しかったです。

そんなふうに、『ミシンのうた』は、丁寧に時間をかけて作りました。





◆「メッセージはこめません」

東條:『ミシンのうた』では、大人になった女の人たちにメッセージをこめられたのでしょうか?

 

 

こみねさん:いいえ、メッセージは込めていません()

“メッセージ”というのが、どうも私にはよくわからなくて

いつも“ひとりごと”というか、「今日を生きるために、もうちょっと元気がほしい。ならばどうしようか?」ということを考えながら絵本を描いているような気がします。

でもそれが誰かに伝わるとか、伝えたいとかいうのはあまり思っていなくて。ムリムリ!と思ってしまう()

「明日私の心がちゃんと生きるために今日絵本を描こう」という感じです、いつも。

 

 

東條:答えを示されるわけではなく、読者の心の中で各々に完結するというのが、絵本のひとつの理想であるように思います。

こみねさんが意識的に発信するメッセージではなく、“受け手”が必要なメッセージをそれぞれのカタチで受信できるところが魅力です。

そうなると、作者に作品の感想をお伝えするというのも、自己開示みたいで緊張しますが

「もしかしたら間違っているかも」「わたし、変かな?」と不安を抱えながら、でもどうしてもお伝えしたいと思ってしまう()

 

 

こみねゆらさん:読者のみなさんにいろいろな風に思っていただけたらと思います。

 

 

 


◆自分にぴったりの本


こみねゆらさん:私の小さい頃は、絵本といっても本当に定番のものしか読んでいなかったような気がするのですが、今の子どもたちはどうなんでしょうね?

手に取ろうと思えばいつでも取れる所に世界中の絵本や児童書があってそんな中で育つことができるっていうのは、考えてみたらすごいことですねえ。

 

 

東條:はい。でも出版数の割に、児童書や絵本は昔も今もメジャーになりきれない文化?という印象も。

多くの人にとって、「小さい子どものためのもの」で止まったままです。

 

 

こみねゆらさん:好きな作品に出会えるきっかけとか、どこに行けば、どこを探ったら自分の欲しいもの(作品)に行き当たることができるのかを、知ることがむずかしいのかもしれませんね。

 

子どもの頃に出会ういろいろな本の中に、「自分にぴったり」と思えるものが少しでもあったら、「じゃあ次は、こういうものを探そう」となるかもしれません。

多すぎるのかもしれませんね。

だから昔よりも「出会いにくい状況」があったりするのかもしれない。

 

 

東條:児童文学や絵本の話で盛り上がれる相手がいないというのはつまらないので、じわじわと、全世代へ向けて盛り上げていきたいと思います。



(③へ続く)