杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
この世と地獄との間には、闇穴道 という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒 んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木 の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿 という額 の懸 った立派な御殿の前へ出ました。
御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲 いて、階 の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍 に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂 に聞いた、閻魔 大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪 いていました。
「こら、その方は何の為 に、峨眉山の上へ坐っていた?」
閻魔大王の声は雷 のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を利 くな」という鉄冠子の戒 めの言葉です。そこで唯頭 を垂れたまま、唖 のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏 を挙げて、顔中の鬚 を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思う?速 に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責 に遇 わせてくれるぞ」と、威丈高 に罵 りました。
が、杜子春は相変らず唇 一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏 って、忽 ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。
地獄には誰でも知っている通り、剣 の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔 の谷や極寒 地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を抛 りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥 がれるやら、鉄の杵 に撞 かれるやら、油の鍋 に煮られるやら、毒蛇に脳味噌 を吸われるやら、熊鷹 に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦 に遇 わされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言 も口を利きませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、呆 れ返ってしまったのでしょう。もう一度夜 のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階 の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気色 がございません」と、口を揃 えて言上 しました。
閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母 は、畜生道 に落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。
鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の獣 を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩 せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
杜子春はこう嚇 されても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好 いと思っているのだな」
閻魔大王は森羅殿も崩 れる程、凄 じい声で喚 きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭 をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈 なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌 わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶 えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶 き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか」
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階 の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊 く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆 声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰 っても、言いたくないことは黙って御出 で」
それは確 に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨 む気色 さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気 な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転 ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸 を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母 さん」と一声を叫びました。…………
この世と地獄との間には、
御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り
「こら、その方は何の
閻魔大王の声は
「その方はここをどこだと思う?
が、杜子春は相変らず
地獄には誰でも知っている通り、
これにはさすがの鬼どもも、
「この罪人はどうしても、ものを言う
閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の
鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
杜子春はこう
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、
閻魔大王は森羅殿も
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の
「どうだ。まだその方は白状しないか」
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と
それは
芥川龍之介
「杜子春」