吉田松陰の韓国観と竹島政策は嫌韓の原点 | なおひろのブログ

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世は挙げて「維新」だそうで、日本人の何かあれば「維新」、という
国民性が繰り返し、現われる。

 では、維新の思想とは何か?となると幕末までの復古神道の皇室
崇拝、排外主義、国教としての神道の国家神道化とそれに触発され
た尊皇攘夷思想と言える。

吉田松陰は松下村塾の主宰者として維新の原動力となった人物と
して半ば神格化されてはいるが、・・・・さてその思想となると良くも悪く
も明治維新から現在までの右翼本流の思想の問題点を全て孕んでい
る。・・・・・・新党「維新」も安倍氏の思想も保守を自認する思想は基本
的に吉田松陰の思想と一致する。

 端的に言って古代の話などはさておいて、嫌韓、征韓について最も
後世に重大な影響を与えたのが吉田松陰である。

 吉田松陰は長州藩の兵学師範の家に生まれた。その生家の近くに
は秀吉の文禄・慶長の役で連れてこられた韓国の陶工職人たちが住ん
でいた。ここから松陰が幼い頃から何を思ったのか、・・・・後年のその
思想から考えれば当然ながら韓国・朝鮮に対しての思想形成は、豊臣
秀吉の行為を神道からは「選民」の日本人の「劣等民族」朝鮮への海外
雄飛として捉えていたことは確かである。


 ◆ 吉田松陰の基本的な考えは

 「米、露、英などの白人列強諸国による日本への不平等条約を『朝鮮、
中国』などへの進出でその損失を補う」という点にあった。

 松陰は下田に来航した米国の黒船に乗って米国への密航を計り、投獄
された。

 松陰が獄中で書いた「幽閉録」によれば

 「今、急に武備を修め、則ちよろしく蝦夷(北海道)を開墾し、諸侯を封
建し、すきに乗じてカムチャッカ(原文は漢字表記)、オホーツク(同じ)
を奪い、琉球に諭し、・・・・朝鮮を責めて質を入れ、貢(みつぎ)を奉る
こと、古(古)の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、
呂宋(フィリッピン)の諸島を攻め、漸に進取の勢いを示すべし」

 これは明治維新から太平洋戦争終末にいたるまでの日本の行動が
そのまま描かれている、のは戦慄である。

 また「獄是帖」では

 「魯・墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り、信
を夷てきに失うべからず。ただし章呈(法規)を厳にして、真偽を厚うし、
其の間を以って国力を養い、『取り易き朝鮮、満州、支那を切り随え、
交易にて魯・墨に失うところは又土地に満鮮にて補うべし』」

 要するに強力な白人西欧米国には反抗せず、注意深く従順に対応
し、その間に国力を養って、軍事力もなく力もない中国、朝鮮、アジア
諸国から白人の列強に奪われた分を取り戻せ、・・・というのである。

 結局、松陰の根底には「古事記」、「日本書紀」の記述によっての
神功皇后、秀吉に続く朝鮮打倒、支配の貫徹のための実際の行動
を取るべき、だということである。

 「獄是帖」にはさらに

 「朝鮮と満州は相連なりて神州の西北にあり。又海を隔てて近き
ものなり。しこうして朝鮮の如きは古時、我に臣属すせしも、今や
則ち、やや奢る。」

 「師をおこして三韓の無礼を討ちしこと、国威の海外に震う。何ぞ
これ壮なる哉」

 
 「幽室文庫」では

 「すきに乗じて蝦夷を墾き、朝鮮を取り、満州をくじき、支那を圧し、
印度に臨み、以って進取の勢を張り、・・・・・神功皇后の未だ遂げ
ざりし所を遂げ、豊国(秀吉)の未だ果たしざりし所を果たすに如かず」

 安政五年に桂小五郎に送った書簡で

 「吾が藩(長州)より朝鮮、満州を臨むに若くはなし。朝鮮、満州に
臨まんとならば,『竹島は第一の溜(たまり)なり。遠く思い、近くを
謀るに、是今日の一奇策と覚え候』」

 松下村塾出身者が明治政府の中心をなし、その政策が大東亜戦争
終結まで続いたのだから、

 明治以降(終戦まで)の日本の対外行動、その思想がこの吉田松陰
の恐るべき思想に既に全て胚胎していることは自明である。

 朝鮮、中国、満州、フィリッピン、台湾、南方アジア諸国への攻勢は
吉田松陰に完全に思想、戦略的に出来上がっている。

 神道古典もさることながら現在にいたる保守思想、右翼思想は全て
幕末から明治維新の多くの政治家、志士のものをそのまま受け継いで
いることは明らかである。

 まことに戦慄すべきとは、このことである。