もう捨てられた「グローバリズム」
もともと、経済での開放主義から始まった、未来に向けての指針だった。
でも理解されず、経済面でのブロック化が進む今日(本当だよ)、省みる人は居ない。
数年前、笑ってしまったのは青山学院大学の広告だった。
「本学はグローバリズムに鑑み、英文学部において英語オンリー(実は米語)でのコースを開設します、云々、、、」
少し詳しく調べたら、グローバリズム=英会話=ネイティブによる授業、それ以上の何者でもなかった。
青学なら英文学の碩学が揃っている。
英文学部におけるネイティブコースの教授はどんな方か、よくわからなかった。
日本の英文学者v.sネイティブ
青学で英語による授業の教授に招聘するなら、ケンブリッジ、オクスフォード、米ハーバード他、教授クラスでなくともせめて新進の研究者を呼ぶべきだろう。
でなければ、これまでの授業の否定ではないか?
どんな英語(クイーンズイングリッシュか?コックニーか?マンハッタンor南部訛りか?)であれ、言語そのものの習熟はあくまでサブで、思索、研究の助けにはならない。
海外資料の読解や論文発表の助けにはなるにしろそれ以上のものではない。
日本語は結構使い勝手が良い。各分野のノーベル賞も英語使いが受賞してはいない。
明治期、ラフカディオ・ハーンをはじめお雇い外国人が講義し、漱石なども外国人の授業を受けたのち留学してハーンの後を襲ったのは有名な話だ。
明治期、日本で各学校の高等教育を担った西欧の人々は、本国でも有数の人材だった(日本語はできなくとも)。
期間は短くともその功績は大きい。
その頃英、独、仏の言語で行った授業は「日常会話」レベルではない。
外国語の読み書きのみで高度な思考力と研究/思索は行える。
問うべきは外国語能力ではなく、各分野における専門知識と「教養」だ。
深い知識と思索を経た人間ならば、英語など半年ほど留学すれば簡単に身につき、論文もかけるはず。
英語による授業も良いだろう。ただし日本語での授業レベルと同等かそれ以上でなければ意味はない。