コンサル・カウンセリング・コーチング
最近このあたりの勉強をしていて
ピラティスの素晴らしさを改めて感じる。
ピラティスの奥深さとは?
今日はそれをあえて言葉にしてみたい。
コンサル・カウンセリング・コーチングは
問題を言語化して考える。
問題を言葉にできた時点で
客観視できて
解決法がある程度見えてくるので
「言葉で表現できることは
言葉で解決できる」
とさえ思う。
式が立てられれば、あとは解けばいいのだ。
しかし、世の中にはそれができない問題も
たくさんある。
世界には
言葉にできないことだって存在するし
言葉にすることで
さらに傷つくようなことだって
あるかもしれない。
だから
「言葉を介さず自分に寄り添えて
道を見出せる」
それこそが
ボディワークの強みではないだろうか。
世界を捉えているフィルターである
自分のカラダに直接働きかけることで
言葉にできない感覚の存在を
自分で認めることができたり
言葉にしなくても自分で自分を
理解することができたり。
カラダを感じながら動かすことよって
自分の存在を感覚で確かめられ
自己肯定感がおのずと上がるのだ。
そもそも世界と言葉はイコールではない。
子どもの頃に見ていた世界は
名前がなくて輪郭がなく
ぼんやりしていたし
話し相手の大半は
人間でなかったような気がする。
大人になるにつれて
名前のないものや
他人に通じないものは
自然に見なくなるのだろう。
世界と言葉の乖離は気になっていたが
いつの間にか人と共有するのは
あきらめてしまった。
あるいは、それを越えられるのが
私にとっての音楽だったのかもしれない。
私の好きな高松次郎の作品に
という作品があるが
これらの作品のように
もし言葉が
それを意味する対象とイコールだったら
どんなに悩まなくてすむだろうかと
いつも思っていた。
いま思えば、私の生きづらさは
そのあたりにあったのだろう。
だけど、ピラティスが教えてくれたのだ。
ものごとの感じ方に正解はないが
結局すべては自分の責任で
「自分で自分をどう扱うかが問題なのだ」
ということを。
世界はいつもニュートラルで
混沌とした日常から
なにを拾い上げるかは自分次第。
「自分が自分を
その瞬間にどう扱っているか」の連続が
「世界の見え方そのもの」なのだと。
それがわかったいま
言葉と世界の乖離は
豊かさを生むあそびにさえ見える。
ボディーワークは
言葉にできない領域にダイレクトに届く。
言語化できる(=共有できる)ものでないから
経験した人にしかわからないけれど
感覚が変わって体験が変わるから
言語でラベルを貼り変えるよりも
もっと根本的に「経験」
つまり「人生そのもの」を変えられる。
ボディワークの魅力は
到底言葉では伝えきれないが
やっぱりこの素晴らしさを多くのひとに
伝えたいな、と思う。


