前回からの続きです。

 

 

前回は、見ているものが全く同じ景色であっても、その人の認識によって見え方や捉え方が異なるという話でした。





 

今回はもう少し掘り下げます。

 

JARTAでは、経絡や意識、内外の認識力、重力などを選手のコンディショニングやパフォーマンスアップの対象として扱っています。

もちろん筋骨格系は当然としてです。





 

上記の要素は、基本的には「目に見えないもの」です。

一般的には目に見えないものは、科学的には対象とはしづらいとされています。




 

頭から否定される方もいらっしゃいます。





それは当然です。
そういった実体を対象とする研究モデルがスポーツ科学では一般的なのですから。





 

しかし、例えば経絡であれば、中国を発祥として非常に長い間医学として使用され続けています。

なぜなら、経絡を対象としたアプローチが一定のレベル以上の効果を、一定数以上の人々に認められてきたからです。




 

そして重要なことは、ある一定のゴッドハンドだけが扱えてきたものではなく、勉強して習得すれば扱えるようにされているということです。





 

また、意識や認識に関しては多くのアスリートはその重要性を感覚的に理解しています。

⚪︎⚪︎を意識して投げてみろ」などはスポーツ現場では日常用語ですし、選手自身も「⚪︎⚪︎を意識して投げています」「⚪︎⚪︎を意識していると上手くできます」と表現します。




 

これは選手や指導者が⚪︎⚪︎を意識することの効果」を実感しているからということは明白です。




 

つまり、意識や認識がパフォーマンスを左右する要因として対象化されているということです。





 

目に見えないものは扱えない、という観点だけでは非常にもったいないし、選手のパフォーマンスに関わるには本当に不十分だと思っています。




 

目に見える実体だけを対象としているだけでは、「選手」という前に、人間を捉えきれないのではないでしょうか。

(そもそも「メンタル」も目に見えないですしね…)





 

我々JARTAでは、意識というものを人間のパフォーマンスアップに関する要素の中で非常に重要なものとして位置付けています。

意識が身体の状態や動き、精神性に影響を与え、逆に与えられているということを前提として、人間そしてスポーツ選手を捉える上で重要視しています。

 

 




 

繰り返しますが、意識は目には見えないので、対象化することは非常に難しいものです。

しかし、体系化された中で十分に学習することで、扱うことができるようになります。

意識というものに対する認識ができるから、対象化できるようになるということです。




 

僕がこの点に関して重要視するようになったのは、決して論理的に考えてたどり着いたのがきっかけではなく、「苦しんだから」です。




 

選手の要望は多岐に渡り、そして選手が面している問題の原因は非常に多様です。

それらに整合性を持って対処するためには、実体として目に見えるものだけでは矛盾が生じたのです。




 

僕の場合は、自分の理屈にこだわっている余裕なんてなかったのです。




 

「選手に貢献するためには、手段を選ばない」




 

これは理屈でもカッコイイ決め台詞でもなく、僕にはそれしかなかったのです。

自分の理屈にこだわれる間は、まだ余裕があるんだと思います。

(自分がこだわっているのは、誰のためでしょうか。)





 

僕は選手に今以上に貢献できるのであれば、何度でも自分の理屈をぶち壊して作り直せると、はっきり言えます。





 

もちろん科学的根拠というか、自分がやっていることが数値化できれば客観性も説得力も出るでしょうし、そうしていきたいです。




 

しかし、僕は現場で選手に対峙する立場にあります。

選手には、待っている時間はありません。

明日も練習・試合があって、そこでダメならばライバルに蹴落とされるのです。

 

 


 

僕にとっての数値化とは、選手が試合で残す成績のみだと思っています。




 

 

これもまた、自分の仕事に対する僕の認識ですね。

 

 

 

 


JARTA
中野 崇