Opera「コジ・ファン・トウッテ」2024年6月1日 新国立劇場 | パレ・ガルニエの怪爺のブログ

パレ・ガルニエの怪爺のブログ

ブログの説明を入力します。

2024年6月1日(土) 午後2時~午後5時30分頃

オペラ「コジ・ファン・トウッテ」

新国立劇場オペラパレス(初台)

 

オリジナル・リブレット(台本):ロレンツォ・ダ・ポンテ

作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

演出:ダミアーノ・ミキエレット

美術・衣装:パオロ・ファンティン

 

指揮:飯森範親

演奏:東京フィルハーモニー交響楽団

 

フィオルディリージ:セレーナ・ガンベローニ

ドラべッラ:ダニエラ・ピーニ

デスピーナ:久嶋 香奈枝

フェルランド:ホエル・プリエト

グルエルモ:大西宇宙

ドン・アルフォンソ:フィリッポ・モラーチェ

 

フィオルディリージ、フェルランド、ドン・アルフォンソと要所は外国人の客演歌手で押さえた上、デスピーナ、グルエルモは日本人歌手でしたが、客演の外国人歌手と遜色なく、好演だったと思います。

フェルランド役とグルエルモ役の男性2重唱や、フィオルディリージとドラベッラ役の二重唱、デスピーナ役を加えた3重唱など、重唱の面白さを存分に味合わせてもらえた熱演に感謝したいと思います。

 

入り口で配られるスタッフ、キャストを記載した紙の裏面に「あらすじ」が記載されているのですが、それは、オリジナル・リブレットに基づくもので、オペラの舞台を「18世紀末のナポリ」と記載してあります。でも、今回の公演の演出では、その舞台を現代の山か高原のキャンプ地としており、ドン・アルフォンソは「哲学者」ではなく、そのキャンプ地のコテージの経営者です。

なぜ、今回の演出に基づく「あらすじ」を記載しないのか、理由が分かりません。

 

2人の姉妹の恋人2人が、豊かな人生経験から、貞節などはあり得ないと主張するドン・アルフォンソに唆されて、互いの恋人である姉妹を誘惑できるかどうか賭けをして、異邦人の旅行者に化けて熱く求愛し、結局、2人とも求愛に成功するが、最後には、それぞれよりを戻して大団円というオペラ・ブッファ的な物語の不道徳なストーリーのオペラであり、偽りの熱情でも熱情をもって口説かれると女性は陥落するというところを捉えると、女性蔑視的ともいえそうですが、それがモーツァルトの音楽で演じられると、表面的なおふざけの奥に、人間の愚かさ・矮小さ、永遠の愛等、存在し得ないという人生の深遠を垣間見せられてぞっとさせられる気がします。

 

恋人を裏切った不貞を咎められたフィオルディリージの歌の中に、「私は死罪にも値する罪を犯しました」というような歌詞があるのですが、それが死罪に値するとしたら、賭けのために、自分の友人の恋人を誘惑して、肉体関係まで進んだ男性達の不貞も、同様に、それぞれ死罪に値するというべきでしょうし、むしろ、意図的・計画的に、不貞行為に及んでいるので、より罪は重く、単なる死罪ではなく、市中引き回しの上での打ち首に処し、打ち首を獄門に晒すべきともいえそうです。

【「貞節」という道徳の根拠が、相手の信頼を裏切らないという男女を問わない普遍的なものであるとしたら、男性達が、賭け事という所詮は遊びのために、自分の恋人に対する貞節を放棄していること自体、非難されるべきです。

そうではなくて、女性だけが守るべきもので、男性は他の女性と肉体関係を結んでもよいのだとしたら、封建制や家父長制等の腐臭がふんぷんで、明らかに、うさんくさく、怪しげで「道徳」の名に値しないと思います。

そもそも、恋人がいる一方で、全身全霊をかけて愛さずにはいられない相手に出会ってしまったときを仮定すると、元の恋人に対する貞節は守られるべきなのでしょうか。元の恋人を傷つけたくないから、その相手との恋愛や人生を諦めるという選択は、元の恋人に知られると、自分のために、よりよい愛、よりよい人生を棄てさせてしまったことを知って、一層、その元の恋人を後悔させ、傷つけるおそれさえあります。また、自分のために、恋人が、よりよい愛、よりよい人生を諦めて棄ててくれたことを歓迎するような相手であれば、貞節を尽くす価値はあるのでしょうか。

他の相手にも常に心が開かれているが、結果として、1人の恋人をずっと選んだという「結果としての貞節」以外の「貞節」には、あまり価値がなさそうだと思います。】

現実的な問題として想像すると、4人が、それぞれの元の鞘に収まったとしても、その恋人以外の男性との肉体関係の後、女性はそれぞれその肉体関係の相手と結婚してもよいとまで考えたことになっているので、恋人以外の人との肉体関係の記憶は4人から消えてなくなることはなく、4人は、普通に交際を続けて行くことは難しいだろうという気がします。

表面的には和解をしても、それを咀嚼して完全に消化してしまうことはできず、苦い思い出として、できるだけ記憶の片隅に押し込めるようにして抱えたまま生きて行く?

オリジナル・リブレットでは、4人が和解して大団円ということになっていますが、今回の演出では、4人がそれぞれ舞台袖に走り去るので、二組の恋人達の和解は、多分、和解したのでしょうが、余り和解したことが強調されていないように思えました。

このオペラのようなことは、実際には起こらないでしょうが、似たようなことは、人間はいくらでも起こすでしょうし、それ故に、このオペラが根強い人気を持っているものと思います。

 

このオペラに対する女性蔑視という非難・批判については、このオペラでは、たまたま友人である男性2人が、それぞれの恋人の女性2人を誘惑する物語にしてあるだけで、要は、「貞節」という道徳に意味があるのか、相手が1人で一生変わらない「永遠の愛」があるのか、人は、愛する人の過ちをどこまで許容することができるかなどについて問いかける物語であり、友人である女性2人が、それぞれの恋人の男性2人を信頼できるか試すために誘惑する物語でもよいと考えることができそうです。

(フェルランドの独唱をソプラノに、フィオルディリージの独唱をテノールに歌わせてみたら、面白いかも・・・)

 

モーツァルトの音楽は、オペラ「フィガロの結婚」で、ケルビーノ役のメゾ・ソプラノが歌うVoi che sapeteのように、美しく、明るい旋律の後に、ぞっとするような陰や深遠が潜んでいるような気がします。