映画「シェルブールの雨傘」のエンディング・シーンについて | パレ・ガルニエの怪爺のブログ

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The Umbrellas of Cherbourg Ending Scene (Les Parapluies de Cherbourg) - Bing video

 

2019年1月に亡くなったミシェル・ルグランが音楽を担当した1964年のフランス映画「シェルブールの雨傘」のエンディング・シーン

メイン・テーマの楽曲が半音ずつ上がる転調を繰り返し、切ない別れのシーンを盛り上げて行きます。

▲最近、カトリーヌ・ドヌーヴ演じるジュヌヴィエーヴがガソリン代を支払っていないことに気が付きました。

▲また、雪が積もって寒いのに、ジュヌヴィエーヴが車の運転席側、助手席側のドアの窓を開けっ放しにして、娘(フランソワーズ)を車内に残して、ガソリンスタンドの事務所に行くことも不自然です。ただ、車のドアの窓を閉めてしまうと、後で、ガソリンスタンドの中から、ニーノ・カステルヌォーヴォ演じるギイが、娘を見ることが難しいので(ドアの窓ガラスが閉まっていると、明暗の関係で、車の助手席側の窓ガラスに反射する明るいガソリンスタンドの事務所が見えるだけで、車内の娘さんは見えないはず)、物語の進行上、開けて置かざるを得ません。また、運転席側の窓も閉まっているとジュヌヴィエーヴが車を運転して走り去るときの彼女が見えなくなります。映画の観客としては、運転席側の窓が閉まって、車内が見えないまま、車が走り去って行くのを見せられるより、カトリーヌ・ドヌーヴを少しでも長く見たいはずなので、運転席側の窓も開けておく必要があったのだと思います。

▲そのほか、ギイが自分の子供であるフランソワーズがすぐ目と鼻の先の車の中にいるのに、会いに行かないことが不自然な行動に思えて、ネット検索で、いろいろな方のレヴィューを拝読しました。私見(or独断と偏見?)を述べたいと思います。

 

1.ジュヌヴィエーヴ

 ジュヌヴィエーヴは、アンジュ―の義母に預けていた娘をパリに連れて帰る際に、別な金持ちの宝石商の男性カサールとの結婚後初め  て、シェルブールまで回り道したとのことですが、多くのレヴィューで指摘されているように、フランスの地図でアンジュとパリ、シェルブールの位置関係を見ると、大き過ぎる回り道です。

 ジュヌヴィエーヴは、運転席側にやってきたギイに気づくと、さりげなく助手席に娘を残して車を降り、ガソリンスタンドの事務所に入ります。ジュヌヴィエーヴの行動に、大きな驚きや気持ちの動転は感じられません。

 ジュヌヴィエーヴがガソリンスタンドに着いたとき、バックミラーで自分の顔を確かめているのも、ギイに会えたときのことを考えていたのかも知れません(そういう癖の人もいるので、断定まではできませんが・・・)。

 また、ガソリンスタンドには給油に来たはずなのに、ガソリンの種類をレギュラーにするか、スーパーにするか係員に聞かれても、ジュヌヴィエーヴは、どちらでもいいような答えです。

 これらのことは、ジュヌヴィエーヴが、ギイにわざわざ会いに来たことを示すために、映画製作者側が、描き出していることだと思います。

 アルジェリア独立戦争のため、徴兵されて出征したギイの子供を妊娠して、戦地のギイとはあまり連絡が取れない不安の下で、裕福な宝石商のカサールと結婚したものの、カサールとの子供は儲けていないこと、義母の下に預けた娘を連れ戻しに行くのに、カサールは同行していないことなどは、結婚後に、ジュヌヴィエーヴとカサールとの間では、メルセデス・ベンツのリムジン、ジュヌヴィエーヴの着ている高級そうなオーヴァーコート、家事をするには不適当としか思えないジュヌヴィエーヴのヘア・スタイル等が示す裕福な安定した結婚生活が保障されているものの、熱い恋愛等は生まれてはいないことを暗示していると思います。

 ジュヌヴィエーヴは、ギイとの恋愛から卒業しておらず、忘れられない男性であり続けていたのでしょうが、彼の出征中に宝石商カサールと結婚した自分を許してもらえないだろうと考えて、ずっと会おうとすることさえできなかったものの、実母を亡くし、自分の人生について思いめぐらせる中で、ギイと会いたいという抑えきれない気持ちを確認し、仮に、罵倒されてもよいから、会おうという勇気を奮い起こし、シェルブールに戻ってきた…という解釈でよいのでは。

 

2.カサール

 カサールは、ジュヌヴィエーヴの美しさに惑わされ、また、出征した男性の子供を妊娠していることに同情して、結婚を申し込みます。

 Pity is akin to loveという言葉を夏目漱石は「可哀想だた惚れたってことよ」と訳させていますが(「三四郎」?)、そうなることはままあることであるにしても、Pity is love ではないので、本当のloveに発展しないこともあり得ます。

 カサールは、ジュヌヴィエーヴと年の差婚で結婚して、彼女の心の中からギイを消すことは出来ないこと、ジュヌヴィエーヴが母親の庇護の下で生きてきて、きちんとした就職の経験もなく、特に教育も受けておらず(妊娠当時、17歳の高校生)、人生経験としてはギイとの熱愛を経ただけの、どちらかといえば幼い、中味のない「女の子」に過ぎず、歌もそれ程、うまいわけではなく、代金を受け取って人に聞かせるためには本職歌手のダニエル・リカーリに吹き替えてもらわなければならないことなどを理解しました。

 ただ、紳士の彼は、自分の選択に責任を持ち、他の男性を心に住まわせ続けているジュヌヴィエーヴに、裕福で安定した結婚生活をずっと送らせることを決心しています。

 彼は、典型的な恋愛下手のタイプで、女性と恋愛をするのに、カード・ゲーム(トランプ)の比喩で言えば、全部、持ち札を曝してしまってゲームを進めようとするので、彼の提供する裕福で安定した生活、相手への紳士的な配慮、宝石等を買ってくれる富裕層の顧客と交際するための洗練などは、すべて、相手の女性からは、taken for grantedとなってしまい、恋愛に発展することはとても難しいのだと思います。

 ジュヌヴィエーヴの前に追いかけた女性とも、持ち札を全部曝して進めようとして、失敗したのでしょうね。

 

3.ギイ

 ギイの気持ちについてですが、ジュヌヴィエーヴは、ギイに、車の中にいる娘がギイの子供であることを隠すことなく、あなたに似ているなどと言い、娘に会わないかと尋ねますが、ギイは、娘の名前を尋ね、「フランソワーズ」という名前だと知らされます。これには伏線があって、ジュヌヴィエーヴとギイは、恋人同士だったころ、女の子が生まれたらフランソワーズ、男の子が生まれたらフランソワにしようと話あっていたのです。ギイは、ジュヌヴィエーヴが約束を守ってくれたことが分かったはずですが、その直後に、実の娘に会うことを断り、ジュヌヴィエーヴに、もう行った方がいいなどというのですね。

 ギイが娘の名前を聞いたのは、他の男性と結婚したジュヌヴィエーヴが、子供の名前についての自分との約束を守ったのかどうか知りたかったから。

 そして約束を守ってくれたことを知ったことで、ギイは、ジュヌヴィエーヴが、自分への想いを捨てられないままに結婚したことを確認します。それは、ジュヌヴィエーヴの裏切りとも思える行動に対する許しに繋がるものだと思います。

 ギイは、日本の普通の観客と違って、アンジュー、パリ、シェルブールの位置関係はわかっているので、ジュヌヴィエーヴが自分にわざわざ会いに来たことを分かっており、ジュヌヴィエーヴが、宝石商と結婚したのに、娘にはギイと約束していた「フランソワーズ」という名前を付け、また、宝石商との裕福な安定した結婚生活に満足しているわけではないことは分かっていながら、それを拒絶し、妻マドレーヌと息子との生活を選びます。

 自分の娘なのに、会おうともしないのは、ギイが、ジュヌヴィエーヴとの恋愛を完全に整理済みの過去のもの、現在の自分とは関わりのないものと考えていることを示しているのだと思います。

(あるいは、そのようにしたいという強い意志で、心が揺れ出すことを抑えようとしている。)

 ギイは戦地での経験やマドレーヌとの恋愛、ガソリン・スタンドの経営等を通じて、大人になっており、自分との昔の恋愛をまだ引き摺っているジュヌヴィエーヴに、一目で引き戻されるほどの魅力は感じません。

 むしろ、ギイとしては、マドレーヌと子供が買物から帰ってきたときに、ジュヌヴィエーヴに出くわすことを心配しているようです。クリスマス近辺の家族が祝う晩に押し掛けてきたジュヌヴィエーヴを、ギイは無神経だと感じたのかも知れません。

 それに、ジュヌヴィエーヴの運転するメルセデス・ベンツのリムジン(ギイの車は、多分、国産の大衆車)、豪華なオーヴァー・コート(ギイの収入では買い与えることは難しそう。)、労働には向いていないヘア・スタイルや華奢なハイヒールの靴等から、もう自分とは違う世界の人だと受け取らざるを得なかったのだと思います(お金持ちで羨ましいという気持ではなく、生きている世界がもう違っているということです)。

 ジュヌヴィエーヴの日本語の字幕では「幸福なの?」と訳されていることが多いセリフは、原語では「元気にしている?」程度の言葉使いなのですが、彼女の真意からすると、ギイが結婚生活に満足しているのかを知りたいという意味で、日本語字幕のとおりの質問だと思います。(「幸福なの?」というあからさまな質問ができなくて、「元気にしている?」と尋ねるジュヌヴィエーヴのためらいなどの心の動きが「幸福なの?」という翻訳では台無しですが、限られた字数の字幕での表現上、やむを得ませんね。)それに対して、ギイは「とてもうまく行っている」「とても元気にしている」という意味の答えをします。

 カトリーヌ・ドヌーヴが美し過ぎるし、恋愛至上主義的な観点からすると、ギイとジュヌヴィエーヴの昔の恋愛が息絶えてしまっているとは考えたくないところですが、ギイにとっては、ジュヌヴィエーヴとの恋愛は、美しい思い出であるにしても、完全に過去のもので、ジュヌヴィエーヴとやり直すことなど全く考えられないという気持ちなのだと解釈されます。

 今では宝石商の男性との結婚を選んだジュヌヴィエーヴの気持ちは理解できるので、恨みとか非難する気持ちはギイにはありません。

 それに、ジュヌヴィエーヴのあのヘアスタイル、あのオーヴァー・コートでガソリンスタンドの手伝いはしてもらえないことは明白なので、やり直すって、あり得ないですよね…。

 

4.ということで、この映画のエンディングは、若い時代の熱く、美しい恋愛は、永久に続くものではない;戦争や周囲のいろいろな出来事に翻弄されれば、その熱く、美しい恋愛を貫くことができないことは、いくらでもある…、若い時代の熱く、美しい恋愛から完全に卒業していないジュヌヴィエーヴでさえも、やっとギイと巡り合ったのに、パリでの宝石商との裕福な安定した生活に戻ってゆくことしかできない(もしかすると、パリに戻った後、「昼顔」のようなことを始めるかも・・・?)、結局、そういう恋愛を糧にして、あるいは不消化なまま引きずりながらも、大人になって行くしかないんだよね、ということを示しているのだと思います。

▲ただ、カトリーヌ・ドヌーヴ演じるジュヌヴィエーヴのような美女が、小さな港町のシェルブールを出て、パリで暮らすようになって、3~4年間、御主人のカサールを含めて他の男性と新しい恋もせずに、まだ彼女が高校生だった頃のギイとの恋を引き摺り続けて卒業できずにいて、シェルブールに会いに来る・・・という物語は、不合理・不自然では? 女性から見て、あり得ることなのでしょうか?

 1964年制作の映画で、制作側も圧倒的に男性中心の時代だったと思いますので、男性目線の願望で物語が作られているような気がします。

 ギイが「とても元気/うまくいっている/とても幸福」と答えたのに対して、ジュヌヴィエーヴにも「良かった。私もとても幸せに暮らしている。」と言わせ、パリに帰ったジュヌヴィエーヴが洒落た高級アパルトマンで、カサールに駆け寄ってハグする・・・というようなシーンを付け加えれば、ギイと同じように、ジュヌヴィエーヴも運命に翻弄されながらも昔の恋を卒業し、新しい幸せを掴んでいる・・・という映画になったと思います。

 ただ、そうすると、エンディング・シーンのミシェル・ルグランの折角の音楽が的外れになってしまいそう。やはり、現実的ではないとしても、ジュヌヴィエーヴは昔の恋を引き摺っているという物語にしないとあの音楽が生きないという気がします。

 これは、私の邪推ですが、脚本家か他の映画製作者側の誰かが、自分自身のカトリーヌ・ドヌーヴ・クラスの美女との間で実らなかった実体験の恋愛を抱え込んでいて、それを昇華したいという気持ちが潜在的にあって、このようなエンディングにしたのでは。