さて。


続けてるのか?


やめたのか?


そう思えるような頻度のこのブログ。




それでもアクセスはありまして…




どんな記事が読まれているのかなぁ (๑¯∀¯)?


なんて思い、アクセスされた記事を読み返してみた。




読み返してみたのはコチラ下差し




あぁ…


そういえば


こんなこと息子と話したっけ Σ(๑¯ㅁ¯๑)





これですよ、これ。


ブログを書いているのは、必要なときに必要なことを思い出すため。


そういう想いで、息子とのことを記録し始めたわけです。





この記事『子どもを潰さない』以外にも、不登校に関する記事へのアクセスが続いています。


✩°。ひとり旅@沖縄の記事も読まれています。

       相変わらず、自粛生活が続いてるもんね。

       また、沖縄行きたいな (ღ*ˇ ˇ*)。o♡





このブログって、不登校ブログではないのだけどね。


ただ書きたいこと書いてるだけのへーぼんブログ


不登校について、悩んでいる親御さんが多いのだと思います。


やっぱり、我が子が突然学校に行かなくなるのって、頭の中が真っ白になるよね。


それは、わかる。


私もなったもん。






ってなわけで。


ウチの息子が登校を拒否した頃からの話しを


ざっと、振り返ってみようかなんて気になりました。




では、行っきまーす ( ̄▽ ̄)








( ੭ ・ᴗ・ )੭( ੭ ・ᴗ・ )੭( ੭ ・ᴗ・ )੭




 



中学2年生の2学期。


息子は、学校に行かなくなったのでありますが…







感情がジェットコースターなわたくしは







どぉーーーん

(((;꒪ꈊ꒪;)))







と落ち…



負の感情にまみれ、その負の感情に己のすべてを預けるという日々を(ちょっとだけ)送ったのでした。







そう…


ジェットコースターなんですもの。








どぉーーーん

(((;꒪ꈊ꒪;)))


とオチたら


 





ぐぃーーーん

ヽ( ★ω★)ノ


と上がる








だって、ジェットコースターなんですもの。







オチてるのって一瞬。


しかし、そのオチ方は半端ないのでありました。




世界の終わり… ( ꒪⌓︎꒪) 


かのような絶望を全身からダダ漏れさせる。

↑迷惑なヤツ





そうそう。


この母がオチてたときの様子を、息子が証言している記事がたしかあった…


 


あ、コレ下差し


後半のゲーム実況動画の話ね。





ま、こんな感じでオチましたら…


当然、急上昇するのであります←わたしの常ʅ(๑  ᷄ω ᷅ )ʃ





どん底から、ぐぃーーーんと上昇を始めたのは息子のある言葉から。


自分の想いばかりの私に、息子のある言葉が刺さった。


私の気持ちを優先させる彼。


こういうのが急所に刺さるのである。







正気に戻った。





正気に戻った次の瞬間。





自分の不安は自分で解消するしかあるめいっ!


不登校とは一体なんなんだ?


学校に行かない息子に、私は何ができるんだ?


↑変わり身のはやさ⸜( ¯⌓¯ )⸝




そう思った私は、親の会なるものに行ってみた。




実際に行ってみて


「その気持ちわかるわ~」なんてことを思った。


給食費をどうしてるとか、卒業アルバムはどうするとか、そういった現実的な情報は参考になった。


それありなんだ~って。





だかしかし。


それだけだった。←私にとってはね





自分の感情には、既にケリはついていたし。


共感し、共感され…


そうして自分の気持ちを落ち着かせる必要もなかった。




それよりも。


苦しいのは親より子。


息子にどんなサポートができるかを探りたかった。




なので、実際にそういうお子さんを成人になるまで支えたお母さんたちの話を伺いに京都まで行ったり、そういう子のサポートを長年している方に会いに行ったりした。






そこで学んだことは、






子どもへの信頼





だった。







そして


両者に共通していたのは、






子どもから学ぶ意識






があるということだった。






これには、深く深く同意。


腑に落ちまくって


ある意味興奮した (*゚∀゚*)ムッハー!!








さて。


こうして家に居る息子との生活が始まりました。







た、たた、楽しい…(*¯ω¯*)






昼夜逆転も本人がしたいからそうしてるのであって。


そんなの、う○ち💩したいからトイレに行くのと変わらない。




ゲームだって制限なし。


したい時にして、やりたくない時はやらない。




自分で決めてやっていることに、本人でない私がとやかく言う意味がない。


この時点で、意味ってもんすら私の頭の中にカスほども残っていなかった。






そ ♪ れ ♪ よ ♪ り ♪ も





息子が体験している面白いことを横流ししてもらったり(「  ̄ー ̄) ドレドレ・・・


新たに発見したことをシェアしてもらうことが


たのしいのであります。




そこは、ひとりとひとりの人間同士。


たのしいことの共有です。




そんな他愛のない会話の中に


ポンと交わされる


本質をついた言葉があり


水面に波紋を広げていくかのように


私の中に残るものもたくさんありました。








さて。


息子の、私の気持ちを優先させる言葉があったと書きました。


そこを転機に正気になったとも書きました。




この他に、その言葉が私を変えたもうひとつ大きなことは、





息子を大切にする





でした。


『大切に思っている』ではなく


『大切にする』ということ。




行動です。


実行です。




それは…


今思えば、あそこから始まったな…と思うだけで、実際はそんなふうに意識的に始まったものではありませんでした。




自分の想いや不安は、自分で解決するしかありません。


それを終えたら、向かうは息子なのでした。





学校に行かないことで

自分はどうなるのだろう





家で自由に暮らしながらも、その想いはあるでしょう。




私は、私のリサーチから


学校に行かない選択をしたとしても


いくらでも道はあると確信していたので


そう伝えました。


彼は通信制高校への進学を決めました




気休めではなくね。


気休めなんて、相手には丸わかりです。






この社会で生きていくために。


自分の人生を豊かにするために。



大事なのは、





自分に集中すること




周りや、世間を基準にせず


自分の感覚を


信頼すること







そういうことに徹することができるように、私は何をすればいいかな…?


くらいに思っていたと思います。




でもね。


気質的に、そういうことを自然にしている息子なのですよ ヾ( ̄  ̄*)


正確に言ったら、そういうところを邪魔しないってことでした。






…そんなこんな日常を送っていたわけですが。


息子から学んだことのひとつに、今の私を形成する大きなものがあります。




それは、前述した『息子を大切にする』がきっかけでした。


私は、息子を大切にするように、自分を大切にしているかな?と思ったことがありました。




自分を責めたり、ダメ出ししたり。


不安や恐れに翻弄されてもみたり。




もしも息子がそういう状況にあったら…





俯瞰してみえることを


感情に駆られず伝えたい





と思うはず。




それを自分にしているか?


いや、してないぞ σ( -ˇ.ˇ-。)


じゃあ、しよ♡








『自分を大切にする』とは。



甘やかすことではないし


期待させることでもないし


何かに依存させることでもない






その真実を


見つけようとすること



 



それには、やっぱり






自分に集中すること






そういうことだと思うのです。










ところで。


私は、不登校という行為は登校しないという選択でしかなく、それほど問題ではないという結論に達したわけでありますが。





その結論に達する前に…



息子が通う中学校では不登校の生徒が多く。


それもあって、不登校のお子さんや親御さんに何かしら協力できることを…と学校に持ちかけたことがありました。


結果は、不登校が起きていることをクローズアップされたくない学校側に遠回しに断られた訳ですが。笑




その後、地域で活動している方からいろいろとお話しを伺ったり、不登校や教育に関する講演を聴きに行ったり、自らいろいろ調べたりしたら、なんだかそういった活動をする必要性を感じなくなっていきました。







それは


不登校は問題ではないと


心底、思えたからだと思います。







学校に行かない。



それはただ、






生き方の違いなだけ






生き方なんて、みんな違っていいのだから。


学校に行こうが行かまいが、本当は自分で好きに選んでいい。


なかには、完全に行く必要がない子もいるだろうし。


たま~に、行ってみたりするのがいい子とか。


学校に面白い何かを見つけて毎日行くってのもあっていい。




そういう子どもの選択に、堅苦しい決まりとか、ルールとかで管理しない場であったらいいなと思うくらいで。


学校という場所にも、それを思うくらいになりました。





こうして。


不登校は問題だという意識がないことで、学校に不登校について働きかけるという気持ちがなくなったのであります ( ̄^ ̄ゞ




社会に訴える。


そんな気持ちもなくなりました。





それに。


学校が変わらなくても、学校に通わない選択をした子に社会への道を提供しようとする企業や組織、人々が世の中にはいます。


そこが必要だと、その道をつくってくれる人もいるというわけです。


世の中にはいろんな人がおるよね。


変わる必要がないと思う人を説得するよりも、その道を行く企業、組織、人とのご縁を結ぶ方が摩擦なく、ゆったり居られます。


私は、楽チンを選ぶ (๑ ิټ ิ)ヘヘッ




学校側の、学校の都合を守りたいという姿勢も、私が学校に思うことも、どっちがどうとか関係ない。


両者、思ったように生きているだけ。


ただ、そう見えてきた。




社会もそう。


管理社会であっても、ピラミッド構造社会であっても。


私はそういう場で生きることを望まないってだけで、どちらがどうではなく、みんな自ら選択すればいいってだけのこと。





なので、






不登校は問題ではありまへん








あえて問題というならば、


現象だけにとらわれて周りに振り回されること。


誰かの意見や答えにすがって、自分で自分の答えを持たないこと。


それが子どもの不登校によって起きているのならば、その状況が問題なだけで、不登校が問題なわけじゃない。




いたずらに誰かに頼っても、そのときの一時的な瞬間だけ、そのことを忘れられたり、意識が逸れたりするだけ。


ずっと誰かに癒されているわけには行かない。


いつかは、自分の足で立たなくてはならない。




これって、自分を大切にするということなのだと思うのです。




そのように生きるのは、


最初は踏ん張らないとならないかも知れない。


でもそれをしないと、ずっーと大事なところは変わらない。






子どもって。


自らも大変な思いをしながら、そうやって親に問うているのだと思うのです。




それはもう。


受けとるしかないのだと、そう思います。




ときに命懸けで伝えられるメッセージ。


子どもの本質は、命より大事なことを教えてくれようとします。




何のために生まれ、何のために生きているのか。


それを想わずに居られません。







なんのための命なのか







そこに向き合わせてくれる。




我が子への、溢れんばかりの愛おしさが満ちてきます。







私にとって。


息子の登校拒否は、私へのサポートでした♡