筑波山に登ったら…


なんてことを思ったのです。



体験って、何もそう大層なことじゃない。

日常のささやかなことの方が断然多い。

悟るとかいうと大袈裟で、ずーーーっと私から遠いものになるのだけど…



「あ、これステキ」とか。


「あ、これ苦手」とか。


「あ、これやりたい」とか。


「あ、このままでいっか」とか。



ある意味、悟りじゃない?



『自分と繋がる』



それって悟り。

だと、私は思うんです。





ぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーぶーDASH!





筑波山に登山に行った翌日。

数日前に途中から見始めたドラマを最初から見直す。


家にひきこもる人の心情が、私の胸にもズシンときた。

私には、中学生のときに登校拒否をした息子がいるのだけど、このドラマを観て、彼の気持ちに思いを巡らすよりも私の気持ちが表に出てきてしまった。

親としての気持ちではなくて、子ども側の気持ち。

それは、私の中を駆け回った。


以下、ネタバレ含む。





ードラマにてー



息子に罵声を浴びせる父。


国立大学の入試試験に落ちたとき。

就職氷河期に非正規で就職を決めたとき。

仕事を辞めて、母の介護をしてたとき。

そして、自室に引きこもったとき。



「甘えるな」

「自己責任だ」

「情けない」

「逃げてんじゃない」

「恥ずかしくないのか」

「家族の恥晒しだ」


そして、「生きている価値なし」と言い放つ。






この、存在を否定する親の声掛け…

フラッシュバックした。


いきなり部屋に入ってきて、布団をはがされる。

力と恐怖で、それは従うまで続く。

抗うことの方が疲れる。

母の意のままでいる方を選んだ。



よく放たれた言葉は、

「あなたは思い遣りがない」

「妹はこうなのに、なんであんたはそうなの!?」

「あんたはしあわせになれない」

あれ?年明けにも言われたな…笑



高校受験で受かった学校も、あんな学校…って。

過呼吸も、嘘だと言われた。



何をしても、何を言っても正解はない。

すべて不正解だから。

そして、私のせいにすることで保たれる体裁というものもあったと思う。

すべて子どものせい(自己責任)にしておけば、自分を振り返る必要はない。

だって、すべて子どものためにしていることだから。

自分を間違っても振り返る必要はない。




ードラマにてー


息子が、陸橋から下を走る電車を見下ろすシーン。

今までの思いが溢れ出す。


それに応える父。


大事に思っていたんだよ。

だから、お前に頑張ってほしかったんだよ。

ただ、それだけなんだよ。

いい父親ではなかったかもしれん。

でも、オレはオレなりに家族を大事に。

掛け替えのない息子だと思ってたんだよ。

頼む、頼むから生きててくれ。

もう、それだけでいいから。

頼む、お家に帰ろう。

生きててくれ、生きててくれ。

それだけでいいから。





「生きててくれ」

「それだけでいい」

本心だと思う。



大事なんだろう。

本当だと思う。




でも。

そんなつもりはなかった?

じゃあ、どんなつもり?

自分の思いだけを不躾にぶつけてくる。

私があなたの子どもだから?

私はあなたのモノではない。

と、私は思っていた。






何がしあわせなのかは、例え親子でも違う。

そこの押し付けが、不幸な親子関係の始まりではないだろうか。



社会へと続く人間関係の入口で。

その親子関係で植え付けられる存在否定。

そりゃ、社会に出るのが恐怖になる。

当たり前ではないか。



自分の都合に従わせようとするだけの心無い言葉。

それがわかるから、耳を塞ぐ。



私は耳を塞ぐのも許されなかった。



私の場合。

学校を休めなった。

家にいるより学校の方がマシだったというのもある。

仕事を辞めても、家でのんびりなんてできなかった。

それこそ、ドラマのシーンのように布団をはがされて罵倒される。

仕事を探すふりして、外で時間を潰した方がラク。

だから不登校にはならなかったし、引きこもりにはならなかったってだけだと思う。




そして、外で自己否定の闇でもがいてた。

なんでこんなに苦しいのだろう?

なにがこんなに苦しいのだろう?



社会に出てみれば…

嫌になって、ハネつけることでラクになったり。

何かを攻撃することで気を晴らしたり。

そんなのその場限りでなんにも残らない。

すべて、途切れ途切れ。

答えが見つからない答えを探して、そのうち心は麻痺した。

麻痺させた方がラク。





それでも、ずーっと探していたんだと思う。


私はなに?

なんなの?



なんだろうね。




今はただ…



現実逃避もあり。

普通でなくてもいい。

否定されても、同調して自分を責めない。

いや、責めてもいい。←ペコパ

ぐちゃぐちゃになるのもいい。

それがなくちゃ次に行けないのなら、ぐちゃぐちゃしちゃえばいい。



そんな風になれたのは、今の家族のお陰。

どんな私でいても、放っておいてくれる。笑

否定されたり、意見されたり、コントロールされたりがない。

ただ、自分で居させてくれる。

自分で居られると余計なことが頭を支配しないから、自分の感覚に耳を澄ますことができるようになった。

『自分と繋がる』ことが、素直にできるようになったと思う。




ドラマの中で『ひきこもり親の会』の方が出演していた。

ひきこもっていた人たちの言葉。



「おはよう」とか、ちょっとした声掛けが楽だって。



ただ「そこにいたの〜」って声を掛けられるのっていい。

そう、ただここに居る。

それだけってダメなのかな。

ここに居るってだけのことを否定されるのは、とても悲しいことではないだろうか。





心を麻痺させるって話に戻る。

たぶん、心を麻痺させて、競争社会に生きる人は多いと思う。

そんな生き方、麻痺してなきゃやってらんない。



主人公の姪が言う。

「パワハラにセクハラだらけの社会、そんな中で普通に暮らしている私たちが異常なのかもしれない」



こういうこと。

麻痺してる人間には、気づけない。

学校に行かない子や、ひきこもる人がいて。

そこに向き合うことで、気づけるものなのかもしれない。

彼らは、メッセンジャー。




「誰も社会を疑わない」




主人公の言葉。

何かがおかしいと、麻痺しない心が訴えている。

もう、いい加減。

その声に耳を傾けてもいいんじゃないかな。 





そろそろこの地球も限界ではないのかな。






と…

いう流れで。



私はこの日。

映画🎥

『ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ』

を観るために、このあと出掛けたのでした。






つづく