私は、ただの利己主義で。



息子が笑ってるのを見たいだけ。

息子が笑ってると、私も笑っちゃう。

そういうのが大好物なだけ。



笑ってないと不安だから笑っていてほしいってのはない。

ただ、息子が笑っていると私も自然に笑ってる。



息子が苦悩し、そんな顔を見ることになってたら。

そりゃあ。

胸はクーーーッてなるけど、彼の大事な人生のポイントであることを思い出す。

その苦悩は、彼が彼であることの醍醐味であるから。



私にできることは、私を生きることしかない。

たとえ親子であっても、それぞれがこの人生で選んだ課題がある。

その課題をどう受け入れて自分の一部にしていくかが、唯一私が息子にできること。

私は私を生きるだけで息子の何かになっているのなら、「え?それだけでいいの?」って気にもなる。






それだけでいいんです。笑





親にできることってそんなもん。

だと、私は思うのです。




苦悩は、続かないのよね。

続かないから大丈夫ってことではなくて、続かないからその時に拾っておく。

拾わずにやり過ごすと形を変えて返ってくるってのはある。

苦悩の連鎖は、自分で掴んでいるものなのかも知れない。

(コロナもそうかもね)





苦悩に出会ったとき、子どもが命を放棄してしまうのは、親として胸が掻きむしられるくらいに辛く苦しいこと。

そして、何よりも子どもはどんな思いで死を選ぶのだろう。

私には想像しかできないけど、自分が子どもであった頃の気持ちにかえればわかる気がする。



自分の生きる人生は、暗く苦しいもの。

なぜなら、こんな自分だから。

世の中は、強くて、明るくて、できる人たちがつくっている世界。

私ではない人たちの世界。

そんな中で生きてくなんて無理…



なかなか病んでいる。

でも、私はそう思ってた。

よく、生きてきたな。

と、思う。




親は、「とにかく生きてくれていれば」と思うと思うのです。

でも、【ただ生きている】のはとても辛いのです。

なぜなら生きている間、上の紫色のことがグルグルグルグル頭の中を巡っているんです。

不安と恐怖。

そんな毎日なのです。



私は、「人はなぜ生まれて、なぜ生きているのか」と思っていました。

ずーっと、思っていました。



今、思うのは。

生まれた意味も、生きている意味も『己とは何か』を知るためであること。


そうであれば、日々の歓びや哀しみは、私の大切な体験。

なにも大層なことでなくていいんです。

言ってみれば、ご飯が美味しいなとか、自然が好きだなとか、こういうのが落ち着くなとか。

自分の感覚に意識を向ける。

そういうことをしていくと、思い込みや拘りを手放すようなことに繋がっています。



な〜んだ、そうだったんだぁ😅



って、具合になっていきます。

あくまでも、私個人の体験ですが。





さて。

登校拒否を始めた頃の息子ですが、やはり外には出ず家にこもっていました。

朝、みんなが学校に行き活動する頃は寝ていた方が何も考えなくてよいし、夜はみんなが寝静まって安心できる。

その気持ちわかります。

心の安定をはかる時間は必要。

でも、段々とこのままで居られないとは考え始めるわけで…

そのとき、自己肯定感の壁にぶつかる。

上の紫色の気持ちがグルグルし始める。





そんな頃、私は…


学校に行かなくても、全然大人になれるよ。

社会人になることだって、なんの支障もないんだから。

それより、今なにが好き?

なにが面白い?

なに食べたい?


って、感じでした。







学校では、学校の決めた水準がクリアできれば認められて、できなければ外野行き。

外野ならまだいっか。

観客席行きかな。

監督の視野にも入らない。



学校での基準をクリアしていて当たり前、基準よりも抜きんでれば注目される。

その子、一人ひとりの特性が学校の要求する項目に入っていなければ取り立てられることはない。



ナニナニできたら認めてあげる。

ナニナニできないなら認めてあげない。

条件付きの存在価値。





私も、一応。

親の端くれなのでね。

"親として"条件付きの愛ってのを感じさせていたのかも知れないって思ったことがありました。


それは、息子が学校に行かなくなって気づいたこと。


そんなつもりはなかったのだけど、子どもにとっちゃあ『つもりはない』で済まされない。

自分の存在意味を自分で肯定できないなんて、ときに呼吸も儘ならないほどに苦しいはず。

その苦しみは、私には痛いくらいわかる。



学校でも、家でも、自分の存在価値を見いだせすにいたら、一体どこでそれを埋めることができるのだろう。

そう思いました。





まずは、私!


私が息子の幻想を打ち砕ーく!




あなたには無限の可能性があるのよ。

そう言っても、息子は真顔はてなマークだろう。

わかるわ。





しかし、私は徹底して真実を伝え続ける。

それは続ける。

私だけじゃ、真顔はてなマークならば、私以外の大人に認めてもらえば、君の真実を知ることができるだろう。

そう思いました。



徐々に息子が好きでやりたいことから外出し始め、講演やドキュメンタリー映画など(過去記事に書いているので詳細省きます)へ行きました。

すべて、彼の疑問を払拭する内容だったと思います。



そして、私の友人と会ったりして。


私の友だちに会えば、

「えーっ!○○イケメンになったねーチュー

とか

「背伸びたねー!シュッとして羨ましいーびっくり

とか

「顔ちっちゃっ爆笑

とか言われるわけで。


久しぶりに会えば、おばチャンたちは勝手に思ったことを機関銃のように喋りだす。笑

彼の真実なら、内容はなんでもいいのです。

そして、好きなもの食べて、ゲームをしながらおばチャンたちの話を聴いている。

ときどき振られる質問に答えて笑う。

おばチャンたちも笑う。



そんななんでもない時間が、私たちに降り積もる。

降り積もって、次を見る力になりました。



今があるのは、息子がくれたギフトのお陰で。

苦悩の渦中に、息子がポーンとヒントをくれたり、勇気をくれたりしてくれた。

あ、ウチのPも。←やっと思い出したか。

家族って、そういうものですね。