前記事の解説?っぽい記事になります( ´ ▽ ` )ノ
今日のこの記事。
スピ系…と解釈されちゃうかな…
私は宇宙的なことをたまーに書くのだけど、私としては一般的なスピリチュアルな話とは一線を引いています。
宇宙のことは、超現実です。
エソラごとではありません。
普段、意識はできないかもしれないけど、私たちは宇宙のひとつであって一部です。
宇宙が存在しなければ、私たちは存在しない。
この地球ですら存在しえない。
当たり前。
でも、忘れているよね。
忘れて。
いられるよね。
それくらい、私たちはこの狭い世界の中で近視眼的視野でもって、己の欲求を満たしたり、善悪にとらわれたり、ジャッジしたり、自己顕示欲を誇示したり、自己を責めたりと忙しい。
まるで、宇宙の存在なんて初めからなかったみたいに…
本当によいの?
これで…
こんなことを思うのは、
こんなことを言うのは、
今までの私の体験がありまして…
過去記事にも書いたと思うけど、探すのが大変なので、また書いちゃう。
たぶん、今回はもっと詳しく書けると思う。
ある日、どこからか、私に感謝の意識を送ってくれているのを感じました。
「なに?」
「だれ?」
と、思いますよね。
それは伝えてくれました。
「宇宙から」と。
言葉で聞こえてくるのではなくて、私の中に起こる疑問について、次の瞬間に【わかる】という感覚です。
そして。
それは、
【あなたの人生を生きてくれてありがとう】
という感謝の意識でした。
言語のやり取りではありません。
ですので、訳すとそのような意味になるということです。
その後の宇宙の意識と私の意識のやり取りは、私の中に静かにダウンロードが行われたみたいな感覚です。
ですので、情報量が桁違いなのです。
私は今でも、あのときにダウンロードされた意識と繋がって、必要な情報を引き出しています。
ときどき、視野が狭くなり過ぎるとその意識を忘れそうになるけど、必ず誰かが思い出させてくれて戻ることになります。
これも宇宙の仕組みなのだと思います。
結局、なにを大事にしているか。
それは、その人をつくる土台ではないだろうか。
私は、宇宙を信頼しています。
以下の内容は、一般的に受け入れ難い内容とわかって書きます。
あれ?
もう十分に受け入れ難いか
ま、いいです。
書きます。
【あなたの人生を生きてくれてありがとう】
これについて…
『己とは何か?』宇宙がこの意識を持ったことで、ビッグバーンが起きたのか。
ビッグバーンが起きたから、宇宙の『己とは何か?』という探究が始まったのか。
そこは私の中にも定かではないのだけど、たぶん前者なのだと思います。
宇宙のあらゆる存在たちは、まず鉱物の存在から学びを始めるそうです。
鉱物から、自ら変化の過程を経る生物に魂が進化するには、ある意味、劇的意識の変革が必要なようで…
ある時。
そんなことをある人と話していて、その人がハッと直観的に受け取った内容は…
鉱物が【己とは何か】という自我の意識に目覚めたときに、次の学びへの進化へ移行するのではないかということでした。
それはまるでビッグバーンのような大変革。
私はその内容をまるで最初から知っていたかのような感覚で、それが真実だと確信しました。
さて、【己とは何か】を探究している宇宙。
宇宙は多種多様な存在にわかれ、そのわかれた一部はその存在だからこそ体験できる生を全うする。
だから、誰一人として同じ人物、同じ人生、存在はない。
宇宙は、私に。
【あなたの人生を生きてくれてありがとう】
と、感謝を送っていました。
私という人生の中で体験したあらゆるすべては、ひとつの尊い体験として宇宙に蓄積されているそうです。
それは、宇宙の【己とは何か】の探究であるから。
もちろん私だけではなく、すべての存在のひとつ残らずがその宇宙の意志のもと己の生を全うしているそうです。
それが、善の行いであっても、悪の行いであろうとも…
ただし、この善悪は人間の作り出した意識であって、宇宙には善も悪もないそうです。
ブログタイトルにある
【あるがままに生きる】
【宇宙に善悪はないんだって】
これは、宇宙の意識からダウンロードされた情報のひとつです。
善悪にとらわれずにいたら、あるがままに生きられる。
そういうことみたいです。
とはいえ、善悪があることが違うなんてこと、宇宙は言いません。
あってもなくてもいい。
そんなことではない。
善悪をつくり、そこで学ぶことも【己とは何か】の探究らしいです。
宇宙のスケールを感じていただけるでしょうか。
それと同時に、人間(もちろん私も含む)の思考の小ささに、ホケ〜っとなりました。
宇宙には、真に善悪はないのですね。
ただ、自分で選択はできるそうです。
どのような人生を生きるか。
【己とは何か】をどのように探究し、学び、実現するか。
一見、悲惨に思える人生でも、その体験は魂の成長には不可欠だったり、その悲惨な人生を送っても、まだ足りなければ転生してもう一度体験したりもするようで。
魂の視点では、悲しい、辛い、寂しいなどの感情は避けたい類いのものではなく、味わいたいもの、それは一体何なのかを知りたい類いのものらしいです。
そして、もう十分だとなれば、また違う体験への旅に出る。
しかしながら、この現在の地球社会では、もう十分だ!と思えずに、同じところに留まる人間がほとんどなのだそう。
その背景にあるのは、思い込み。
思い込みについては、前記事に書きました。
今回、書きたいのは、その思い込みは意図して操作されたものかも知れないよ、ということです。
これについては、受け取った情報だけでなく、私が実感として確信した出来事が、息子が学校に行かなくなったことでした。
あぁ、なるほどね…って。
ながくなったので、これについてはまた今度…