いつもヘラヘラしているので「もっと真面目にALSに向き合え」と叱られる私だが、悩むことだってある。
これからどうなっていくんだろう。
どう生きていけばいいんだろう。
医療や福祉の介入で対処できる部分もあるが、それ以外は自分で答えを出していかなくてはならない。
ALSと生きる上で向き合う課題は、このように階層化されていると感じている。
(AIにて作成)
新しい主治医は「形而下」を守備範囲としているように見受ける。
前医(お爺医)の立ち位置は「形而下」と「形而上」の中間地点だ。
優劣はなく、それぞれメリットとデメリットがある。
「形而下」はある程度マニュアル化されているのでブレない。
胃瘻をするなら努力性肺活量が50%を切る前が推奨。
気管切開するなら生活状況に応じた介護体制の導入を――というように。
ただ患者側は「ALSと生きるひとりの人間」ではなく「ひとりのALS症例者」としてしか見てもらえないと感じることがある。
ここに「形而上」が加わるとブレが生じる場合がある。
お爺医がそうだ。
「形而下」の判断(医療的判断)がブレることはなかったが、「形而上」の部分(人間的判断)は月日が経つにつれブレるようになった。
当初は「もしあなたが私の家族だったら」と模範的なACPをしていたはずが、異動前には「あなたは他人だし、私は寿命が限られる状態になったことがない。自分の家族を思い浮かべて考えてみたが、仮定で考えること自体無理」に変わってしまった。
お爺医にとって「治療法がない疾患が行き着く先の死」は敗北であり、「終わり」から逆算的に人生プランを建てていきたい私とはしばしば衝突した。
私は仏教の影響が強い環境で育った。
学校でも地域でも家庭でも自然と仏教的な考え方が存在していた。
そんな私にとっては死は「生の終わり」というより「現世での人生の完成」で、死ぬことは来世への引っ越しであり、つまり現世も来世も繋がっているのである。
そのため現在は僧侶の資格を持つ医師のもとで学び始めている。
整理すると、
①形而下を守備範囲とする新しい主治医は、ALS症状に伴う身体の痛みや生活上の苦しみを無くそうとする人。
②形而下と形而上の中間点を立ち位置とした前医は、ALSと生きる上での痛みや苦しみに対処する人。
③形而上を立ち位置とする医療従事者(僧侶の資格を持つ医師など)は、痛みや苦しみの意味を当事者と一緒に考える人。
なのだと思っている。
……という話をALS界隈の人にすると、「ヤバい方向に行ってないか?」と警戒の視線を向けられたりする。
スピリチュアルケアを受けられる場所を主治医先生に相談するつもりだと話すと、「精神科に廻されて抗精神薬や眠剤なしでは生きられなくなるぞ」と引き止められる。
悲しいことにいつ頃からか、宗教というだけで一律に危険視されるようになった。
もちろん仏教やキリスト教のなかにも、異端的なカルト宗派は存在している。
ただ室町時代から続いている浄土真宗のお寺や、明治時代から地域に根ざしている福音教会まで「ヤバい」呼ばわりするのは、おいおいおい……だ。
一個人としてヤバい住職や神父はいるかもしれないけれど。
私見ではあるけれど、ヤバい宗教というのは「私たちは決して宗教ではないんです」とやたら強調してくるやつや、信じないと災禍が起きると脅したり高額なお布施を迫ってきたりするやつだ。
スピリチュアルケアも興味を示すと警戒される。
スピリチュアルという言葉が怪しげなイメージをもたれがちだからだろう。
医学専門誌にもケアの一つとして真面目に取り上げられているんだけどね。
むしろ宗教やスピリチュアルよりも危なく感じるのは、安直に精神科に紹介する風潮だ。
精神科での治療が不可欠な症状もあるけれど、「ALSでこの先のことを考えると気が滅入る時がある。何をしていても楽しく感じられないことがある」だけで精神疾患と言われちゃ、おいおいおい……だ。
というわけで懊悩の日が続く私は食欲がなく、定食屋に行っても「おかわり自由」のご飯を3杯しか食べられない😆

