何の為に勉強するのか。

社会に出てから、本当にそれは役に立つのか、と。

 

久しく勉強に携わってきて、自分の中では、その答えはもう出ているつもりではある問いかけ。

 

でも、出てはいるが、はっきりとした形があるとは言えず、とりわけ子供に伝わるように説明するのは容易でない。

 

大人でも、だ。

悪口になってしまうかもだが、特に想像力が不十分な、問いかけの下地ができていないような人には、

たとえ大人でも理解を得るのは難しかろう。

 

実に人それぞれ解釈が異なるであろう、この有名な問いかけ。

 

でも、最近ふと、面白い考え方に出くわしたのだ。

「社会で役に立たないからこそ、勉強をするべき」だと。

 

ひと口に「社会」と言っても、「社会」という言葉は、かなり解釈の範囲の広い部類に属する言葉だろう。

が、ここで言う「社会」は、狭義での「職場」とか「会社」とかを指すものだ。

 

人が社会に出た時に求めるものは、「その時社会が人に求めるものである」ことは、たぶん否定はされなかろう。

そして、社会、つまり職場が、会社が人に求めるのは、会社の役に立つ仕事ができる人や、会社にとって都合の良い人、である。

 

では、そういった、会社が人に求めること、求愛する人が、本当に正しいことで、本当に敬愛すべき人なのかと改めて考えた時、どうだろうか。

何か哲学的な語りの調子を帯びてきたようだが、私は哲学の心得など何もない。

そもそも文章力が稚拙だ。

いくら背伸びをしたって、哲学っぽく、さもそれらしい論理を示すことなど、この私にできようはずはないのだ。

 

が。

話を元に戻して先ほどの問いに戻れば、それを考えたら、まずはその会社が正しい会社である必要がある。

その前提がなけりゃあ、元も子もないわけだが、人一人の正しさを証明するのだってかなり無理があろうにさ、会社の正しさなんてなおさら難解な話。

 

そもそもこの不況が執拗にダラダラ続く世の中で、立場の弱い被雇用者がさ、雇っていただく雇用主の正しさなんて測ったり評価したりする余裕なんてあるはずがなかろうさ。

 

雇っていただければ、これ幸い、恩に着ますとなるばかり。

涙がちょちょ切れるほどに、我ら労働者の立場は低く、弱弱なのである。

まあ、言いなりにならざるを得ない存在というわけだ。

 

だから。

社会が求めないモノは不要なモノ。

社会が必要としないモノは、価値のないモノ。

その他諸々、同様の調子。

 

まあ、社会という言葉を使われると、特に我々、弱くなるわな。

そ奴から嫌われたり、否定されると、もう終わったような錯覚を覚えても無理なからぬところ。

 

でも我々が物事の基礎と見なし勝ちであるその社会って、狭義か広義かってのはいったん無視して、過去には、ある島国に原爆を落としたこともあったし、確か工場排水を川に流して周辺の住民を地獄に落としたこともあったはずだ。確か…水俣病とか言ったっけか。

ユダヤ人を大量虐殺したのも社会さんで、フランス革命なんかでも裏方を覗けば、かなり無茶をしていたらしいし。

 

前途有望な新入社員、妻子持ちで、子供は大学進学を控え、まだまだこれからお金がいっぱい掛かるなあ、なんてバリバリの年頃の中堅社員を幾人も非情に過労死へと追い込み、今なおその性根は叩き直されておらず、トカゲのしっぽ切りで、管理者を交代させただけで、大して反省もなく、平気の平左で今日も社員を捨て駒よろしく使い捨てまくっている、というのも社会なわけで。

 

うん…、我々が無意識レベルで崇め奉っている社会さんって、信仰するにはあまりにも足りてない存在だろうさね。

 

だから。

社会が、職場が求めていないもの、社会に出ても役に立たないとされているものを学ぶことの意味、その答えを急ぐべきではなかろうさ。

古典が役に立たないって、何かそこかしこで囁かれているのか知らないけど、聞いた瞬間、私などはちょっと鼻で笑ってしまった。

まあ‥‥。

結局のところ、弱者の我々って、弱者だから。

最終的に社会の言いなりにならざるを得ないとか、そこを逆らう奴はバカを見るだけだとか、まあ、そこは基本、否定できかねるわけだけど。

 

職場でいくら出世して偉くなったね、なんて言われるような地位に立ってもさ、じゃあそいつ、人としてちゃんとしてるの?って問いかけてもさ、応えられなくて当たり前。

そんなの関係ないからだよね。

この人は会社の役に立っています、立ってきました、きっとこれからの役に立ってくれるでしょう、みなさんも見倣ってね、彼のように会社の指示に従ってね、言う通りにしてね、逆らっちゃだめよ、えらい目に遭うから、おとなしくやっていたらね、ほら、こんなふうにご褒美あるから。

出世という事実には、こんなふうな、会社からのラブメッセージが多分に込められているのだろう。

 

何年勤務したところで、職場で人徳は身に付かない。

いや、それは過言か。

もとい。

職場は人徳を学ぶべき場ではない。

職場は、残念ながら、倫理を修得する機会にあらず、だ。

 

無論、運よく職場でそれを学び、己のモノとしたラッキーボーイ&ガールも中にはいるかもだが、それはタマタマだ。

本来、職場というものは、その為の機能を備えていないと言い切っても良いのではなかろうか。

どうしたって利潤の追求と道徳とは仲良しになれなかろうさ。

 

学校だから学べるものを学んでいたのだ、我々は。

逆の発想にこうして辿り着いたのは、果たして偶然が為したことなのだろうか…。

 

学校を知らず、職場だけで育ったらどうなるか。

一回ガッツリ実験して、十分にデータを集め検証しても良いのでは?

狼に育てられた少年の話じゃないけれど。

 

そりゃ、職場で全てを学べたら、習得できたら無駄がなく楽だろうけどな。

それだったら誰も苦労しないし、そもそも教育者自体、存在する必要がなくなろうさ。

 

こういった、自分なりの答えを、地道に学問を続けることで、人はその人なりの答えを見出し、確立していくのだろうさ。

なんで勉強するの?に対する答えを。