知ることと、さとること」「両生類の教育」ともに禅仏教の引用が目立つ。
特に鈴木大拙博士などの著作は、読み進めて行く内に原文に当たっていかなければばらないだろう。
その前に手元にある『禅の思想』を開いたらビビッてふらふらになりそうになった。

ともかく、「『多次元に生きる』を読む」なんだから、ハックスリーの文章、禅仏教の理解を中心にしていけばいいと思いなおした・・・

両生類の教育(p.25~27)

「人間は誰でも両生類です」
最初から何だこれは?と躓く。訳者の簡単な前書きによると「人間は言語と非言語の世界に住む両生類です」とあるので、両生類とは「言語と非言語」の世界に生きる我々人間の喩えだとわかる。
 読み進めて行く内に、我々人間が、「精神界」と「物質界」の葛藤や、「個人」と「社会」との葛藤など様々な次元における葛藤や矛盾に晒されている、苛まされていることが強調されている。
 ハックスリーの言葉で言えば「わたしたち人間の両生類的傾向は数種類の相容れない世界を複合させて生きていますから、それが慢性的な困惑、はてしない間違いと堕落、犯罪と愚行のみなもとになっています。わたしたちの両生類的存在のひとつひとつの分野にはそれぞれ独特の問題があり、それらすべてを議論したら大変な本になります」
 そこでこれからはひとつの分野をとりあげて、話すこと、つまりは言葉の問題を論じることになります。
「不滅の精神がことばを捨てきれないでいるという問題です」

 自分の中にある、あるいは他者、社会、環境に対する「葛藤」や「矛盾」した思いを自分はどう解消しているのだろうか?いや、「どう向き合っているか?」かな。
 突き詰めれば、「葛藤」や「矛盾」とは、二項対立の形に還元されるのだろうが。この世界ではもっと複雑に、それこそ複合的に多次元に絡み合っているようにも僕にとってはみえる。僕の性格として、ついついイメージで物事を考えてしまうのだが、もし、すべてのことが一元化された世界というのがあるとしたら、それも窮屈な世界なのだと思う。

 いろんな絡み合った物事を、「解きほぐしたり」、「シンプル」にしていく道程も考えられ、実践されていくのもある方法だろう。鵜飼いの縄さばきを見学した時に「あまりにも絡まっている縄は『ほっておいて』、簡単にさばける縄から引いたり動かしたりしているうちに、前のあまりにも絡まっていた縄も動きやすくなっていたりする」技というか技術を思い出した。

もう一つ思い出した方法は、うちの師匠に聞いた話。中国の荘子に「混沌」という話がある。
次回はその「混沌」の話からしようと思う。

今日は御終い。