琵琶湖周航の歌 ②/吉田千秋の生涯 | をだまきの晴耕雨読

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ブログを始めて10年が過ぎました。
開始時の標題(自転車巡礼)と、内容が一致しなくなってきました。
生き方も標題もリフレッシュして、再開いたします。

昭和46年(1971)、加藤登紀子さんがリリースして、爆発的にヒットした「琵琶湖周航の歌」

 

作詞の小口太郎は旧制三高OBのため有名でしたが、作曲の詳しいことは不明でした。

 

作詞・作曲とも小口太郎とされていました(解らなかったのです)。

 

 

「琵琶湖周航の歌」の元歌になった「ひつじぐさ」の作者が「吉田ちあき」と判ったのは、昭和55年(1980)のことでした。そして、吉田ちあきが何者かと判ったのは平成4年(1993)になってからでした。

 

吉田千秋は、明治28年(1895)に旧新津市(平成19年新潟市の政令指定都市化で合併)に、吉田東伍・かつみ夫妻の7人兄弟姉妹の次男として生まれた。

 

父は歴史地理学の権威で、あの「大日本地名辞書」の作者、吉田東伍博士だったのです。

 

子どもの名前のつけかたユニークで

 

いつこ・太郎・秋・小蔵・子・あやめ です。

 

すなわち、四季と、末の姉妹は生まれた月の花の名前からつけられているのです。

 

千秋と小口小太郎の環境はよく似ています。

 

どちらも素封家で、千秋の実家は1000坪の敷地(かっては2000坪の敷地)で、100坪の屋敷は、当時の新津市では初めての、「国登録文化財」に指定されています。

 

 

父親が養子という点や、親類縁者が頭脳明晰な点、そして何れも夭逝した点まで似ているのです。

 

兄「春太郎」は、第四高等学校から東京帝国大学国文科に進み、東京音楽学校(元東京芸大)や新潟県図書館の嘱託を勤めた。

 

弟「冬蔵」は、旧制新潟高校から東京帝国大学英文科に進み、新潟大学や日本歯科大学などの教授を歴任した。現在、千秋のことが分かるのは「冬蔵」の抜群の記憶力によるものでした。

 

父親の東伍は、小学校の訓導・読売新聞社の記者・東京専門学校の図書室など、仕事を目まぐるしく変え、それに伴って千秋の少年時代は、東京と新潟を行き来したのでした。

 

明治34年(1901)4月 東京の赤城尋常小学校に入学

           7月 新潟県の小鹿尋常小学校に転校

明治38年(1905)3月 新潟県の新津高等小学校に入学

明治39年(1906)3月 東京の赤城高等小学校に転校

 

転校をくり返しているのは、義父母を淋しがらせなくなかった、東伍の心遣いでした。

 

千秋が東京へ転校すると、その替りに弟の「冬蔵」が新潟の祖父母のお屋敷に向かったのです。

 

千秋13歳のころ

小さいころからさまざまなことに関心をもち、小学6年生のときに「SHONEN」を創刊しています。

 

 

これは手作りの個人雑誌で、5年後の中学になって、「NATURE]に引き継がれるまで、205号も発刊しているのです。実に10日に1度発行していたことになります。

 

その内容は、興味をもつ対象を描いた絵が中心ですが、列車・船などの乗り物、外国の建築、楽器、気象、星座、旗、地図、花などの植物、カブトムシなどの生物、絵の説明だけでなく連載小説や笑い話、博覧会の紹介などが巧みなレタリングで紹介されています。

 

明治40年(1907)4月 東京府立第4中学校(現・都立戸山高等学校)入学

 

600名余りの志願者中、千秋は13番という優秀な成績でしたが、幼いときから患っていた肺結核が進行して、中学に入学するころにはかなり悪化していました。

 

千秋は夭折する前年の大正7年(1918)に、それまでの人生を振り返って「しのぶ草」という回顧録を記しています。

 

そこには、

19808(明治41)

2年級。英語、地理を得意とす。柔道教師M余を見て曰く「君ハとても20まで生きられそうもない。しっかりしろ」と。余大いに口惜しがる。

 

1911(明治44)

4月、5年級となる。昨年中は無欠席で賞状を貰ふ。余の好まざる体操教師曰く「お前のような身体で無欠席とは感心」と冷やかす。

 

この時期、特に力を入れていたものに語学がある。「英語」だけでなく、「フランス語」「ラテン語」「ギリシャ語」さらに「エスペラント語」など、さまざまな国の言葉の勉強をこの時代から始めていたという。

 

東京の家にはドイツ製のハーモニカとアコーデオン、それに古ぼけたバイオリンや卓上ピアノなどがあったが、それらの楽器を独学でマスターしている。

 

自筆の楽譜

絵も得意で、写生画や人物画だけでなく、手本を見て描く臨画も得意としていたという。

妹の小夏が高等女学校時代、絵の宿題を手伝って、これが優秀作品となって張り出されたこともある。

 

「鳥類分類学」に「動物分類学」単に写生ではなく、英文やラテン語でが学名が記されている。

 

 

さらに、「天文学」や「神話」にも興味を持っていたことを示す資料が残されている。

 

1912(明治45・大正元)

4月、第4中学校卒業。高等学校へ入学せんかと思ひたれど健康をもひ私立農業学校の入学に應ず。

受験者も多からざりしかど1番なり。級長を命ぜられる。

 

小さいころから患っていた肺結核が次第に進行した千秋は、農大に通う日数も少なくなり、大正3年6月に退学することになる。

 

その短い生涯の中で、常に好奇心をもち、物事にチャレンジした千秋の残したものは少なくない。

 

18歳のころから始めた雑誌への論文投稿はなくなるまで続いた。

 

1.花の由来(ローマ字世界)

 向日葵がいつも太陽に向けて咲いており、水仙が小川のほとりに咲いているのは何故かの理由を

ギリシャ神話から紹介している短編。

 

2.カドムスの話(ローマ字)

 同じギリシャ神話。カドムスが伝えた16のアルファベットからギリシャ文字が生まれ、さらに海を越えてローマに伝わえり、今日使われているローマ字になったという話。

 

3.RとLについて(ローマ字世界)

 2カ月前に掲載された「田中館愛嬌」の「RとL」についての感想を記したもの。

 

4.火星の研究(ローマ字世界)

5.音楽者と外国語(音楽界)

・・・・・・・・・紹介できないほどの記録がある

 

音楽の関係でも「訳詞」「作詞」「作曲」「作詞・作曲」と音楽関係の様々な分野で才能を発揮している。

その数は16にも上り、「琵琶湖周航の歌」の原曲となった「ひつじぐさ」も含まれている。

 

 

これは、イギリスの「WATER-LILIES」を訳詞し、曲をつけたものでした。

 

題名の「ひつじぐさ」とは「睡蓮」のやまと言葉でした。やまと言葉を大切にしていた千秋らしいと思う。

 

大正4年(1915)6月、21歳の千秋は療養のために実家に帰省します。

 

この年は、「ひつじぐさ」の楽譜が、雑誌「音楽界」に掲載された年でもありました。

 

祖父の吉田耕次郎は、村人から尊敬される人格者で、前年まで村長を務めていた。

 

千秋には耕次郎が使っていた、二階にある静かな二間続きの和室が与えられた。

帰省すると、近所の青年たちが家まで訪ねてくるようになった。

 

知識が豊富で、話が面白く、人を惹きつける魅力があったという。

 

帰省した千秋は、広大な敷地の片隅を農園として、農業の研究に没頭する。

 

そのころ発刊した回覧紙「AKEBONO」、兄弟や友人と亡くなるまでつくった。

 

 

それと並行して、近くの教会に通い始める。これは19歳のときに入院した茅ケ崎の高田院長の影響かも知れない。

 

その生涯が、わずか24年という短い期間だったにもかかわらず、数多くの作品や記録を残している。

 

その分野は、「外国語」「地理」「動物」「植物」「天文」「博物」など多岐にわたる。

 

しかし人間としての悩みや悲しみ、不安・喜びなどは、歌集「海泡集」に書き残されている。

 

 

その49首の短歌の最後の2首は

 

彼岸

はても無き 浮世の荒海を おしわけて

                                    かなたの岸に 行かざらめやは

 

天国

浮き雲も 憂への雨も たへて無き 

                                 あま津みそらの 里ぞこひしき

 

であった。

 

大正7年(1919)2月24日  その短い生涯を終える。享年24歳だった。

 

 

ブログに使用の画像は、「琵琶湖周航の歌 小口太郎と吉田千秋の青春/飯田忠義著」から借用しました。