おいしい料理を作るには、大雑把に3つくらいの方法がある気がします。


①おいしい材料を探してくる

②おいしい調理法を見つける

③できあがった料理をおいしく演出する


ランニングも、いい練習をしたいと思った時には、この3つの方向から見つめてみるといいのかもしれないと考えています。(相変わらず、考えているだけで、まったく実現できませんが・・・)


ところで、先の世界陸上ベルリン大会を見ていると、どうも日本人選手は、②と③の方法で結果を残している選手が多いような気がします。


つまり、①身体能力で劣る選手が、②独自の練習方法を追求することで同じ土俵に上がり、③試合の組み立て、位置取り、順番などを工夫することで、なんとか上位に食い込んでいく、という試合展開が多かったように思います。


とにかく、同じ材料をそろえられなくても、なんとかお客さんに出せる料理を提供しようとする。

そのために、調理法を試行錯誤してみたり、残り物の材料でもう一品作ってみたり、料理を出す順番を工夫してみたり、、、

そんな努力が、いろんな局面で、日本の成長を支えてきたような気がしています。


実はこれ、リハビリテーションの概念とも似ていたり、似ていなかったり、、、


言うなれば、グルメ雑誌には載らないような小料理屋さんで、鍋を洗ったり包丁を研いだりする仕事、それがリハビリテーションに携わる医者の目指すものだったりもします(そうでなかったりもしますが・・・)。


「おいしい料理は作れないけれど、鍋を洗ったりや包丁を研ぐのがうまい料理長」


そんな板前さんになれるか、、、なりたい、、、なるんだぁ!!!!!!!!!


そんなもんだから、世界陸上で奮闘している日本人選手を思い出しては、たまらなく感動してしまうのかもしれません。


できていないことが多すぎるし、やるべきことはもっと多いけれど、今ぼくが持っている材料で、なんとか料理を作れるように、鍋を洗って包丁を研いでおくようにはしたいと思います。



俳句には季語が入っていなくてはならない、と習った記憶があります。

確かに、「夏草や 兵どもが 夢の跡」や「静けさや 岩に染み入る 蝉の声」などの句は、暮れや春先に味わっても、なんだか不可思議な感じがしてしまいます。

そういう意味では、俳句単体で「いい俳句だ」といえるものは存在しないような気がしてきました。

つまり、夏らしさ、秋らしさ、その季節、その情景にぴたりとハマる感覚・・・もっと言えば、情景や空気感というイレモノと、詠み手というナカミのスキマを、ぴたりと埋めてくれるような感覚・・・そんな味わい方ができるものを、いい俳句というのかなぁと思いました。

イメージとしては、茶碗というイレモノに、銀杏の実や野菜といったナカミを容れた茶碗蒸しにおける、出汁玉子のようなもの?(というか、液体っぽければなんでもいいんですが・・・)

もしも、イレモノとナカミのスキマを、「過不足なく」補填できることをいいスキマだと評価するならば、
イレモノは変わらなくてもナカミが変わってしまえば「いいスキマ」は不足や余分を出してしまうし、

ナカミは変わらなくてもイレモノが変わっただけで、「悪いスキマ」がぴったりとハマるようになることもありえます。

そして、いいフォーム、いい練習メニュー、いいシューズ、いい音楽、いい映画、いい小説、いい教育、いい医療、いいニュース、いい政策、そして何より、いい気持ち、、、

なんとなく、ぴたりとハマる「いいスキマ」かどうかを考えた方が、自分がいいものをいいと思う気持ちを、ちょっと気楽に信じられる気がしてきました。

反時計回りに捻れているもの、時計回りに捻れているもの、右曲がりなもの、左曲がりなもの、それが筋肉だったり骨格だったり、関節だったり、考えすぎだったり、思い込みだったり、あるいは個性だったりと、とにかくぼくのココロとカラダは、いろんな「ちょっとズレてるもの」もので溢れています。

とにかくぼくはそれがイヤでイヤで、それなりに、そこはかとなく、いろいろなことを試してきたつもりでした。

例えば、ちょっと右に曲がっているものを見たときには、、、


① 引っ張りが足りない左側を鍛えてみる。

② 引っ張りすぎている右側を引き延ばしてみる。

③ 曲がっているもの自体を反対側に曲げてみる。

④ 右側と左側に、同じ負荷の仕事をさせてみる。

⑤ 本来のまんなかの位置を、右側と左側に覚えさせる。


今までのところ、どれもしっくりこなかったのですが、こないだ試してみたのは、ちょっと右に曲がっているものを見たときには、、、


⑥ちょっと右に曲げてみる、、、という方法です。


これが、結構いいんです♪


一見、何の変化もないように思えるのですが、「右に曲がっている」から「右に曲げている」への転換は、「内側が右に曲げている」から「外側が右に曲げている」への転換を意味します。


すると、内側からしてみれば、「自分たちが曲げなくても、外側が右に曲げてくれている」という状況になり、外側が内側を支えていることになります。


さて、、、


上記の、①~⑤と、⑥とでは、まったく考え方が異なります。


つまり、①~⑤までは「右に曲がっているのは内側が悪い」というスタンスである一方、⑥は「内側は、何かの理由で右に曲げざるを得ない状況に追い込まれている」というスタンスです。


つまり、何かよくない結果が表れたときに、①~⑤は、「当事者に悪いところがあったのではないか」と考えているのに対し、⑥は、「当事者には、よくない結果を引き起こさなければいけない理由が何かあったのではないか」と考えているわけです。


誰かを責めるのは、その当事者と同じ状況に立ってみてからでも、遅くはないようです。


ぼくが当事者と同じ状況に立つことができる人間かどうかは別として・・・


いぇす、ゆう、あ~い♪


語ることについて走るときにボブの歩む道 (←ぼくが一番好きな本です。)



塵も積もれば山となるけれど、塵を積んでも山にはならない。

今でもそう思ってるんですが、やっぱり塵を積み上げるのも大事なんですよね。。。

もちろんそれはそうなんですが・・・どちらかといえば・・・ぼくは、、、雨が降るように祈る人間になりたいです。

でも、、、雨を降るためには、風が吹かなきゃいけないんですよね。

せめて、ぼくがお世話になった人たちが積み上げた塵の山には、風が吹くよりも先に、雨が降って欲しいと、祈り続けたいと思います。


こんなのが、今のぼくの塵の積み上げ方だったりもします。

子供のころ、ハナ差やクビ差で勝負か決まる競馬を見ていて、「なんではじめからインコースを走らないんだろう??」と不思議がっていました。


小学生くらいになっても、なぜかアウェイで勝てないサッカー日本代表を見ていて、「なんで場所が違うだけで、こんなに勝てないんだろう??」と不思議がっていました。


中学生くらいになっても、レフト・センター・ライトにトスを分散させるバレーボールを見ていて、「なんで全部エースに打たせないんだろう??」と不思議がっていました。


高校生くらいになっても、なぜか終盤まで集団が形成され続けるマラソンを見ていて、「なんで今まで力の差がなかったのに、一気に差がつくんだろう??」と不思議がっていました。


大学生くらいになっても、エースが集う鶴見中継所の映像を見ていて、「なんで一番速い選手を2区にばっかり集める必要があるんだろう??」と不思議がっていました。


やっぱり、人が話は最後まで聞かないと、その人が何を言いたいのかなんて、これっぽっちもわからないんだなぁと思いました。


そしてほとんどの場合、最後まで話し終える前に、朝になっちゃうんですよね。。。



チュンチュン♪ チュンチュン♪



朝冷えの中布団を抜け出すころになると、なんとなく、いい夢を見させてもらえそうな感じがしてきます。


ホント、EKIDENは日本の宝ですわ!!