酸素化不良の息子が退院出来る条件は、酸素濃度が安定している状態が1日の9割以上続いて、それが3日続くことでした。
今日の数値はどうだろうか、祈りながら面会の時間を待っていました。

自分の子供も入院したけど今は本当に大きくなったよ、と不安になる私に声をかけてくれたり、気にかけて寄り添ってくれるスタッフの方々の優しさが、少しだけ前向きになれる瞬間でした。

先に私は産院を退院し、沐浴と授乳が出来る時間にあわせて片道40分の道を通う日々。
面会の度にがんばれ、早くお家に帰ろう、と息子に声をかけます。
本人は何も悪いところは無さそうなのに。
そんな思いがめぐります。

数値が下がる度に鳴るモニターの音。
授乳中にも良く鳴り、体勢を変えながらどうにかしようと四苦八苦していました。
その音を聞くたびに不安で胸が詰まります。
他の子のモニターが鳴った時も、息子ではないか画面をのぞいて確認をする癖が出来ました。

何か情報が欲しくて同じように入院した人はいないか?どのくらいで退院しているのか?ずっと調べていました。
毎晩、息子はいつ帰ってくるの?と泣きながら縋る私に、夫は相当辛かっただろうと思います。

入院生活も10日を過ぎた頃、息子には酸素を取り込むチューブが付けられていました。
これまでは体勢を変えることで酸素を取り込めていたのに、悪化していたのです。

酸素は付けてないからまだ大丈夫だろう、と安心していた私達。
面会する度に一喜一憂して、あと3日どうにか3日と我慢していたところの思わぬ後退に、ショックで辛くて全てが嫌になってしまった日でした。
夫婦で泣いて、それでも息子に会っている時は幸せで、面会の少しの時間でも3人でいられる幸せを感じた日でもありました。






入院は続くことになりましたが、息子のチューブが取れたので進展もありました。
沐浴が出来るようになり、その後に授乳も出来ることを知りました。

当時は私の車が無く、総合病院へは義母の仕事の後に送迎してもらっていて、時間が合わないことが多く面会のみだったからです。
授乳出来る時間に行けたのは夫の休みの日のみ。

はじめての授乳は息子も上手く飲むことが出来ず、忙しいGCUでは手を借りることも遠慮してしまい苦戦していました。
右と左で飲みやすさも違うようで、拒否するよう泣き喚く息子。
産まれてからずっと哺乳瓶を使っているのだから仕方ないのですが、やるせなさが募ります。

増えた量は2g。
搾乳器で50mlは出ていたので、笑ってしまいました。内心ショックは受けていて、その後にあげたミルクをごくごく飲む息子に、もやもやした気持ちのまま病院を後にしたのでした。

その後も8g、10gと少ない量しか飲まない息子。
GCUにいられる時間も長くて2時間程度、1日1回しか授乳もしてないので、お互い上手くなるのに時間がかかるのは当たり前ですがその時は理解していても必要以上に重く受け止めていたと思います。





GCUには母乳の持込みが可能で、まだ初乳も出ていなかった私は産院に戻ってマッサージを始めることになりました。
妊娠8か月で結婚式、そして帝王切開予定になり事前にマッサージするのを控えていて、その日は持ち込めるほど母乳も出ず。

日曜日にやっと20ml手絞りで出た母乳は、月曜日には息子も戻るからととりあえず冷蔵庫で保管をすることになりました。

待ちに待った月曜日の朝、総合病院からの電話は、今日の退院は出来ない、との回答でした。
理由は低血糖ではなく、呼吸が安定しなかったということ。後からもらった母子手帳には酸素化不良と書かれていました。
夜になると酸素濃度が下がり、呼吸が安定して出来ていないようでした。

電話を切った後は1人病室で泣きじゃくり、何故息子は私の隣にいないのか?子供を取り上げられたような気持ちがして、全てが憎らしく感じていた気がします。

退院という希望があったこれまでとは違い、そこから辛くなったのは病室から聞こえる他の赤ちゃんの泣き声です。
本当なら自分も息子と一緒に過ごしたはずなのに。そんな感情ばかり湧いていました。

産院では授乳が出来ないので、母乳を持ち込めるように、3時間おきの搾乳がはじまりました。
借りた手動の搾乳器。
はじめは少なかった母乳の量が増えていくことで、少しずつ自分が母になった実感のようなものを覚えることが出来ました。

冷蔵庫に入っていた20mlの母乳は、看護師さんが冷凍してくれて息子に届けることに。
その時の、退院確定出来ないなら期待させないでくれたら良かったのにね、とつぶやく看護師さんの言葉が今でも心に残っています。
退院の希望を持たせてくれた先生の優しさでしたが、実現しなかった今、その分の絶望も感じた出来事でした。