
新潮文庫の『脱出』です。
この本には、タイトルの短編『脱出のほか』5編の短編小説が集録されています。
終戦直後の樺太に在留していてた日本人漁師たちが、当時のソ連の侵攻を怖れ北海道へ逃れていった事実や、米軍の空襲から国宝級の仏像を疎開させた寺院、サイパン島に在留していた民間日本人が上陸してきたアメリカ軍からの逃亡の日々などが、小説として記されています。
少年の視点を通して描くことで、戦争の社会的正当性によらず、侵略され、逃げまどう一般民間人、戦争に恐怖するいち人間としての感性がそこにあります。
家、家族、居住していた環境のすべてが失われ、死の恐怖に怯え、未来を失われた当時の人々の生活。集録されている小説はどれも短編ですが、未来を失われた当時の日本の姿よりリアルに読み取れます。
本当の戦争の悲惨さは、死んだ兵士の悲しみはもちろんですが、この小説のなかにある、普通に生きる人々の苦しみや悲しみ、モノも心も、明日を生きる希望や可能性を自身で想像できないことの悲惨さのなかにもあるのだと感じられました。
焼け野原の東京を実際に眼下した、当時少年だった吉村昭の想いがこれらの小説を描かせたのでしょう。
爆弾を満載したゼロ戦の操縦桿を握って敵艦に命を投げ捨てすてた少年飛行兵も、生き延びて日本の変わりいく日本の姿を目にした吉村昭も、何を想って土の中で眠っているのだろうか。
変わりゆく世、伝えなければならないことはたくさんあると、そう思えた記録小説でした。