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異形の愛


 まだまだブエノスアイレスに戻れない、濡れネズミなわたくしですが、ウィーンより。

もやもやむにゃむにゃ、思ってたこと。異形の愛。
あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛…?
バニーガールの衣裳は持ってません。成人女性として片手落ちです認めますスイマセン。
若くて可愛くってピッチピチしてる人だけしか、輝く未来前提でのみしか、愛について語らせてもらえない我が祖国の人々へ(ってワケではないけども)。


 しりあがり寿の『弥次喜多in Deep』、宮崎駿の『ハウルの動く城』、『千と千尋の神隠し』。どれもわたしはこちら(ウィーン)に来てから観た(読んだ)訳ですが。ということはこの半年内に。それぞれの作品で、あるひとつの観点に、不覚にも深く、感じ入ってしまった。

3つの物語の中盤、主人公の大切な美しい人が、獣やそれ以下の何かに変貌してしまう。
描写の徹底加減はそれぞれに違うけれども、怒りや憎悪で異化した化身はどれも醜悪な形相で牙を剥き、その負のオーラとも呼ぶべきものは理不尽なまでに、かつて美しかった愛しかった存在の気配すら消し去る。中でもしりあがり寿の描く“救いの無さ加減”はこれでもかと描き尽くされて、甚だゲンナリするほどだ。ゲンナリしながらも、もうとことんまでついて行くしかない、と、ページを進めてしまう。
宮崎駿の作品でも、美しい少年(青年)が龍や怪物に化身する。彼らには一抹の「正義」があるものの、勧善懲悪とか義憤といった「正義」とは一線を画す。
あくまでその変貌は“醜く”なるのであり“理性を失って”すらいる。主人公の女の子(野次さんは男だ)たちは、そんな「何かを失ってしまった」「変貌してしまった」愛しい人に、それでも心を寄せる。そこには、私は信じてるの、あなたはホントは“そんな人”じゃないってコト! とか、わたしのラブで怒りを鎮めて! みたいな甘ったるい独りよがりがない。
敢えて言うなら、“そんな人”であろうと構わない。あなたの怒りをどうこう言えない、私には。しかし死なないでほしい、生きていてほしい、という願い。こんな風に生きて! なんて言わない。ただただ、できればこれ以上傷を負わず、生きていてほしい、できるだけ生きていてください、と願う在り方。
もっと言えば、愛する者が万人にとって正しいか否か、美しいか否かは私には問題ではないということ。
これを愛と呼ばずして、何を愛と。何を、愛と。



(なぁんてことに、明らかに過剰反応してしまったのだけど、どうしちゃったんだろうなー、いつの間にこんな大人に、私。)
たぶんそれは、いつからか「正しいこと」に惹かれなくなって、そして「失うこと」を経験してしまったからじゃないだろうか。

その上、愛しい人が何かを「失う」ということを(なす術もなく)目の当たりにし、さらには、愛しい人に「失わせる」という仕業さえ、なしてしまったから。(「愛しい人に何かを失わせるなんて、そんなこと、絶対してはいけないわ!」なぁーんて、のたまうお嬢ちゃんもいっぱい、おるのだろうなあ。ええなぁ、オメデタくって。)


書いて良いのか悪いのか、結構迷うんだけど、まぁ寓話として。
世の中に、刃傷沙汰、というのがありますな。
愛憎まみえて、包丁持ち出し「死んでやる~」とか「殺しちゃる~」とか。こういうのは一般的に言われる、「別れ話のもつれ」ばっかりじゃないんですよね。これ結構。
あるところで、刃傷沙汰がありまして、女が男を刺しちゃった。命に別状はなかったけども、一生歩けない男にしてしまった。数年後、この話が出た席で、この男を知る人が言った。「で、いま、その男の車椅子を押してるのは、刺したその女なんだな。」
当時 もうちょっと若かった私はというと、「…ふぅん…」と文字通り“複雑な心境”になった訳だけども、居合わせた別の男は即座に「嫌だ、俺ならそんな女に押してほしくない! 耐えられないよ」と完全否定してしまった。
この男が、男女の機微とか業について、ただただ青いのか潔癖なのか浅いのかはまぁどうでもイイとして、なんだかこの刃傷沙汰な人々の間に流れるナマあたたかい関係と言うのが、解るお年頃になってきてしまったようです、アタクシも。


もちろん、刃物は危なっかしいから持ち出さないに限りますが、自覚してるんです、我々日頃、さいわい生血を流してないだけで、誰しも見えない刃でお互い突っ刺し割っ切り、引きちぎり合って、生きてるとしか、言えません、男女なんて。誰だって、そうなんですよ、きっと。 

愛の水中花でも、唄いましょう。



   ※24日メンテの都合でちょっとだけ訂正加筆しますた。

外に出て、上を向いて歩こう。

ついついネットにかまけてると出掛けそびれるし、元来活動的でない母子は一日家に居てもまぁ過ごせたりもするので、先週風邪でたっぷり幼稚園を休ませても、それはそれでのんびり楽しんでたりして。
しかし今週はぜひともしっかり幼稚園へ行ってもらいたいものだから、きのう今日とひっしのぱっちで朝動く。
いやぁ寒いのです。きのうはほんの少しマシで、秋の終わりという感はあったのですが、今日は凄かった。道ばたの枯れ葉が、凍っていたのです! 霜を吹いて。それはそれは美しい光景ではあったが、氷に包まれた落ち葉たちを見てもう、背筋まで凍る思いだった。このあたりはすでにここ数日溶け残りの雪がずっとある状態で、いつも歩く遊歩道脇のスローブなどは、すでに踏み固められた雪で氷を張ったような状態になっている。きのうなど、冬のウィーン初心者たる我々母子、さっそくすってんコロリンしてしまった。ツルッと滑って次々に、母子はミチの真ん中で天を仰いで寝ッ転がってしまった。先に転んだ香音は頭を打ってベソをかいていたが、右手に持っていた食べかけのクロワッサンを死守していたのでふたり、爆笑した。


そんな寒さと葛藤しつつ、本日はドイツ語の個人レッスンでルディアのおうちへ。うちに来てもらったりカフェで勉強したりが続いていたから、お宅訪問は久しぶりである。最寄り駅は違うらしいけど、ピルグラムガッセ界隈が好きなのでそこからバスで行く。
ピルグラムガッセは街の中心やショッピングストリートからちょっと外れているものの、いろんなお店がひしめいていていつも活気がある。比較的安そうで下品なデザインの洋服屋が多く、そして歩いてる人もウィーンのヨソより黒人が多かったり。そんな賑やかさに加えて、装飾が凝った古い建物が多いので、わたしにはちょっとだけロンドンを彷彿させてくれる。街をほんの5分だけバスで抜けて、そこからはだんだん静かになる街を眺めつつ歩くと、寒さを忘れ…たりはしないけど気分はイイ。

 ひとりになると、いや近ごろではチビと一緒でも、ほんやりとすることが多いし、ぼんやりとすると、頭の中で空気の比重が重く変わってゆくように、どうも調子が出ない。
  ーまわりで、死にまつわる話が多すぎる。
深刻な病気や、長引く闘病の話も、絶えなくなってきた。自分が歳をとってきたってことだね、なんて苦笑しても、頭から離れないから厄介だ。ほんの少し前なら、こんな風に頭から離れない、ってことはなかった気がする。これが老いと言うものか? 違うか。
しかしどうやら、同じような時間に、同じような道を移動するだけだと、頭の中もマンネリ化するのだということに今日は気づいた。ピルグラムガッセを歩きはじめたら、ここしばらく、まるで黒い蝙蝠傘をずっとさしたまま歩いてたみたいな気分から、ちょっとずつ、ちょっとずつ、変わっていくのがわかった。


ウィーンのお店はたいてい朝が早いので、おばあさんがさっそく買い物してたり郵便屋さんとすれ違ったりして、人々が挨拶を交わすのが耳に入る。(おお、ほんとに挨拶程度なら言葉がわかるようになったもんだ。しばし感慨。)
それにしても人々は既に厚着だ。あの、日本(の一部)では「ロシア帽」と呼ばれる、毛皮のこんもりした帽子もすでに大活躍だ。“原始人みたいな”毛衣のブーツを早速履いてるギャルも多い。吐く息ももちろん白く、人々の顔の前で生き物のように、モヤモヤとうごめいている。郵便配達員がおはようと声をかけてくる。こちらのポストメンはたいてい大柄で、肉体労働風だ。持ち運ぶ郵便の量もだんぜん多い。しかも大きな郵便物キャリーケースを引きずって電車移動をしてるのも見かけるので、相当な範囲を網羅しているらしい。日本の郵便屋さんのイメージや、ほかの国の映画に出てくるポスティーノなんかに比べると格段マッチョメンが多いんだけど、彼等は目が合うとよく挨拶してくる。
朝からしっかりめかしこんだお婆さんは、雑貨屋から何やらえらく丁寧に挨拶しながら出てくる。Alles Gutes はいろんな時に使う挨拶で、お誕生日に言うこともあれば別れ際などにも言い添えたりする。直訳脳には「すべて善きように」って感じだけど、ALLがGOOD!って感じで、このバッサリ感が好きだ。(あと、朝や昼の早い時間に買い物したりすると店員さんから「ごきげんよう」的に“美しい午後を”と言われる。もちろん人と別れる時にもとても頻繁に言う。夕方ならば「美しい夜を」金曜なら「美しい週末を」。バイリンガルのある子どもは、「きれいな一日を!」と言っていた。気持ちいい。)

こうして外を歩くと、思いのほか見知らぬ人と挨拶を交わすことが多く、ちょっとしたことで会釈を交わすことも多い。キョロキョロして生きてる私のような人間は、そういった小さいコミュニケーションでコマメに救われてる気がする。見知らぬ東洋人にも礼儀正しく挨拶する大人が少なくない街では、感じの良い店員さんもそこそこの割合でいるので、運が良い日は「ありがとう」と半日の間に何度も言うことになり、精神衛生上これは良い。(*もちろん、ダンケシェンを封印せざるを得ない“感謝不在”な日もあることは、忘れられないけれども。)

しかし本日は、授業をはじめても頭の中が真っ白! で、ルディアは「あらぁ、今日はどうしたの?!」と笑っていた。笑ってくれるので、助かった。

お昼頃になるとさすがに気温が少し上がって、寒い中歩くのは気持ちがいい、とやっと思えてくる。

気持ちがいいと、目線は自然に上にあがって、呼吸も深くなるし視界も心なしか開いてゆくような。

あいかわらず、蝙蝠傘みたいな黒い影はわたしのすぐ隣を歩いているけれど、それは仕方がないことかもしれない。

無視したり、気づかないで歩いている方が、もっと危険なんだろう。

どうせなら、この、蝙蝠傘みたいな黒い影を連れて、出掛けよう。旅に出よう。

やっぱりそとに出なくちゃね。

やっぱり街に出なくちゃね。

上を向いて歩こう。


 ※ 12月1日ちょっと改訂。

ブエノスへの道はちょっと遠い。


 ウィーンを夜出て、フランクフルトで乗り換えてサンパウロ経由でブエノスアイレスへ着くのは翌日の朝。

小さい同行者ちゃんはひと月半ぶりに会えるパパを引き合いに出して励ますと、長いフライトに耐え、寝る努力をしてくれた。寝る努力が、実は非常に難しいということを、不眠症に悩んだことのない人は知らない。寝心地の悪さで何度も目が覚めそうになりながら、「寝ないと着かないよ」と言う方便を信じて、小さい人は一生懸命寝ていた。

多くの人々が寝静まって、暫時不眠症の者どもがこそこそと起きている深夜仕様の機内が最近好きだ。
寝なさい、そして眠れない人は大人しくしていなさい、と言う、ある種強制的な和平案でもあるのだけれど、各国の大のオトナが睡魔にしがみつくように眠る様子はなんだか平和で微笑ましい。
ジェット機にあるはずのない隙間風みたいな冷気を感じながら、すっかり耳が慣れてしまった多層的フライトノイズを聴きながら、ボルヘスなんか読んでみても一向に進まない。


夏、イタリアへ行った。ローマへは飛行機で、ローマからは列車で南イタリアへ。

ヨーロッパの中で“国際移動”すると、特に列車移動すると、コギレイな旅行者よりも出稼ぎの人、働きに行くという風情の人の方が多く目につく。ビジネスマンだって多いし、「観光旅行」という雰囲気の人は案外少ない。関空とはえらい違いだ。(あーしかし、去年の7月末のミラノ・マルペンサ空港は、ヴァカンツァに繰り出すイタリア人でごった返していたが)

東南方面からの、そんな働きに来た、働きに行くという風情の人々。ウィーンで道行く多くの人々が白く青くブロンドであるのに慣れた目は、褐色の髪や瞳を見ると妙に落ち着く。ウィーンでもわんさかと中華大韓大和などアジアの同胞を見かけるけども、それは似過ぎていてかえって「あ、こりゃ日本人。こっちは中国。本土っぽいなぁ」とか、詳細に気が行っちゃう。まだまだウィーンでは少ないラテン系、もしくは東・南方面の人々に囲まれはじめると、なぜか何とも言えない安心感が湧いて起こるから不思議だ。

イタリアから帰って間もなく、さかのぼって7月末に一年分の滞在ヴィザが下りていたことを知るのだが、それまでのわたしはというと、何をやってもステイタス、身分の問題にぶつかったりして、ヴィザ申請が却下されたらどうなるのだろうと、その心配ばかりしていた。今さらながら滞在身分というものが、生活の基礎たる部分の大半を支配することを痛感したし、街にもおそらくワンサカ居るであろう不法滞在者のほうに、自然にシンパシーが湧いた。
8月からドイツ語学校で見かけなくなったリリベスはどうしたのだろう。今の生活では3時間しか眠れないと言いながらも、劣悪な職場にしがみついていたアリは、仕事を続けられているだろうか。


 ウィーンは西欧社会の東端なので、東欧から来る人の玄関口と言われるだけあるのだけど、流れ込む人々も様々で、なかには「物乞い」も多くやってくる。身体障害者の物乞いだ。左翼都市ウィーンでどうしてこんなに障害者が物乞いしてるんだ? と思ったら、彼等は組織的に東側の隣国からバスで出稼ぎに来るのだと言う。もちろん東欧のマフィア(正確にはギャングかな)のオーガナイズである。旧共産圏では、保健福祉事業は無いも同然で、そしてもちろん、彼等はオーストリアの福祉/健康保険対象外である。
ここでも、私たちの立場は彼と重なる。
(車椅子でも本人の努力で社会参加できるだろう? そんなことを言ってはいけない。生まれた環境から、どんなに頑張っても這い上がっても脱出できない境遇というのが、世界にはある。残念ながら、そっちの方が、でかいのだ。絶望的であることが、基本の世界というのがある。そしてさらに、絶望的であるということが、そもそも人生の真実でもあったりする)

そしてウィーンは、アル中もジャンキーもホームレスも物乞いも多い。
東側からの移民が多いから、とも言えるのかもしれない。いずれにせよ、治安が良くてのどかな首都村である割に、多い。カソリック国家でもあるこの街では、午後になると炊き出しをする教会を日常的に見かける。豊かな人々は時おりその教会に出向き祈祷し、献金をしてその一部が炊き出しをサーヴィスする。アンヴィバレンツ、というのかな、バランス感覚はこういうところでも均衡を保っている。目を背け、そそくさと通り過ぎることで。


人に言うとどうも苦笑されるのだけれど、こちらへ来てからずっと、ヴィザ切れだとか宿なしになること、行き倒れになること、ひとの屑になるようなことを本気で人生の延長上に起こり得ることとして感じはじめており、そういった人どもを見るにつき御同輩、頑張ってくれよと思うのであった。それが若い子だったりすると、よぎる思いもまた違うけど(これまた多いのよ、バックパッカーの風情で駅の階段で、片手を差し出している。確かに痩せこけているけれど、残念ながら悲壮感が足りない。人生の現実味に欠けている。故に、腹立たしい)、到底その半生も想像におよべないような、深い皺と枯れを讃えるその御尊顔そのまなこでチラ見されたりしようものなら、実は向うから私に向かって「ようッ、ご同輩。まだしがみついているのかい」とでも言われているような気がするのだ。ーはい、そうです。しがみついてます、必死でしがみついてます、あーだこーだ言いながら、ガキのためとかぬかしながら、どうにかこうにか、まだまだしがみつくような、そんな日々です・・・。


漂泊者、とか、異邦人とかエトランゼとか、そりゃもうそう言やナルシスきわまりないですが、要はジプシーですよ孤児ですよ。腕に一芸あられるだけに、ロマ人なんか私らの遥かに上を行ってますよ、カースト的に。


繰り返すけど、人に言うと苦笑される。特に日本人に。
きっとわたしだってずっとずっとそうだったけど、日本にいたら、行き倒れとか宿なしになること、ルンペンに成ることっていうのは、非常に非現実的なのだ。それは確実に現実であるのに、窓の下に広がる風景であるのに、我々は日々目を背け、見なかったことにして通り過ぎ、ヴァーチャルな断絶を構築することで自分の「日常」を死守している。そうでもしないと、壊れそうなフラジャイルな日々のイトナミを、必死に温めているとも、言えるのだけども。


賢そうな人は、自己嫌悪のトリコになった人に「どれだけ逃げてても、自分自身から逃げることは、できないのよ」と言ったりする。
私も言った覚えがある。特に自分に。
でも、ほんとに切羽詰まって、自分から逃げるか辞めるかしないとあとは壊れるしかない、という追いつめられ方をしたネズミ人間は、どうするんだろう。


テレビドラマで、忘れられないシリーズの中で、岩城滉一と風吹ジュンが登場したエピソードがある。
「あたしの50万円を持って消えちゃったお兄ちゃんを探して」。
ブラジル帰りの妹は、お兄ちゃんと過ごしたあの日々が忘れられず、もう一度、その金を持ってブラジルにゆきたいと言う。ちんけなサンバとテキトーなスタジオセットで撮影された“ブラジル”は、何かをあきらめた人が逃れてく街としては格好のイメージで、メキシコ、スペインと並んで幼少のわたくしの脳裏を刺激した。


 その頃、「ベラクルス」というメキシコ料理屋さんが京都の北白川にあって、かなり凝った内装で、ガキンチョの私らには充分な異国情緒だった。本格的なメキシコ料理を供する、メキシコ帰りの店主自らがギターで弾き語ったりしていた。何度目かの夜、手のあいた店主が自分の履歴を話してくれた。詳細は忘れたけど、好きが高じて旅をして、何年か暮らして帰ってきたとかの類いだったと思う。わたしはドキドキして聞いていた。
遠い遠い異国に魅せられて、その幻想に魅了されて、生活までをも捧げてしまった大のオトナを横目で見ながら、こういう人の生き方って何なんやろう、と思ったのを今も鮮烈に憶えている。
 ーある国に魅了されて、生活総てをその文化で染め上げる人生。
当時のわたしはそれが無性に恐かった。何かをうっちゃって、何かを投げ捨てて、何かをあきらめてるように見えた、それは、何だったんだろう・・・。
前後して我が父が旅してきたスペインのイメージも、その頃の私にキョーレツな印象を残した。なんかのはずみで凄くお父さんに居て欲しかった時、彼は欧州に行っていて、スペインで迷子になったりロドス島でロバに乗ったりしていたらしい(笑)。お土産のヌメ革のポシェットが凄く嬉しかった。お父さんは無事帰ってきて普通にずっと「そこに居る人」ではあるけども(笑)、遠い彼の地に惹かれるということは、子ども心にとてつもなく危険で、薄気味悪く、それでいて拭いきれない魔力なのだと思い込みはじめた。
スペインと南米がごっちゃになった頭の中で、人生をさらわれてしまいそうな感覚、行ったら帰って来れなさそうな魅惑、迷宮の中で生きるという選択…。


『母を訪ねて三千里』の寂寥感におののく子どもだったから? 鍵っ子だったから? 小さい頃から若干の放浪癖があったから? アイドルが松田優作だったから? それとも多感な十代に『奥の細道』に痺れたりヴェンダースやジャームッシュのロードムーヴィにやられちゃったから?
わたしはいつから、遠い地を思って、目眩がしたりそわそわしたりする劣等生になってしまったんだろう。旅をしてる時の自分が、自分の器としていちばんしっくりくる、落ち着きのない大人に。


旅情というには後ろめたく、逃避というには悲壮感に欠けるんだけども、モヤモヤと、どうやらおのれは浮き草らしいと言うトホホな自覚をぶら下げて、飛行機はわたしを運んだ。サンパウロ経由ブエノスアイレス。

空港でお出迎えの我が保護者と感動の再会を果たし(笑)、タクシーで市街へ。軽めのコートが必須になっていたウィーンから、初夏のブエノスアイレスに来た。空は晴れ渡っている。

訃報

モーガンもつかの間の訪問を楽しんでってくれたし、NYから来た弟も、楽しんでロンドンへ旅立った。

そろそろあのブエノスアイレスの哀愁を、書いてみようと思っていたんだけど・・・。



神さまはいない、と思うのと、神さまは残酷だ、と思うのと、実は後者の方がやりきれない。

人は耐えきれない不運に見舞われた時、誰かのせいにしたくなるしそれができるなら楽だ。

(実際には、インスタントに誰かのせいにしてしまったあと、己の人生の現実として、改めてそれを受け入れるのは生半可ではないのだけれど)

不慮に不慮が重なったとき、誰かのせいにできたり、果てには居ることを前提にして神のせいにできるのなら、その苦悩はすでに、エクジットを設けている。




神が、やっぱりいなかったのだと、今日わかりました。

お前なんか、ただの幻想だったのだ。

消え失せやがれ。

チャイナがゆく、その場所に、お前が居るのなら、あたしは許さへんで。

人々の思慕とよすがの結晶として、ほんとにお前が居ると言うなら、お前の名はそれではない。ただの悪魔だ。

(かと言って悪魔崇拝には走らんから。こんなことしでかしたお前を、崇拝するわけないわ。)




わたしはスーパーマンでもないけれど、

白昼のハイウェイを想起するたび、

マントを翻して助けに飛んでってあげられなかったことが、もう、ごめん、

許してと、ほんま、ごめんな。

痛い思いや恐い思いを、

させて逝かせたことに、ほんまごめんと。




もう一回言う。

世界中の神と呼ばれる幻想ども。

お前らは糞だ。カスだ。

わたしは人間の、かなりカスのチームに入ってるけども、あの子に手を出したお前は、あたしが踏んづけた犬の糞ほども価値はない。



というわけで、今後一切教会にも行かへんしドネーションもせん。

ここにあるあほらしい分厚いバイブルも、こんど犬の糞踏んづけたら拭き取るために使ったる。

お前らのせいでどんだけ戦争が起こったことか。阿呆らしいわ。

文句あったら、かかってこい。



===
旧ブログ、「はてな」にて晒した駄文。
あとから読むと痛いし寒い。
けど、哀悼の意に変わりなし。ということで、
こちらに保存。

   

望郷の街、ブエノスアイレス

 そろそろと、旅の概観を眺めてみたいものだけども、デジカメに収まった写真を見ても、脳裏でまだまだ生々しいあの風景やあの光景を撮り漏らしていることにガッカリするばかり。そのかわり、手持ち無沙汰な時どきに気易く撮ってみた場面、そのまま忘れてしまっていたその瞬間が、思いもよらずきれいに切りとられていたりしてちょっと驚く。

ここに並べてみる写真は、ラ・ボカというブエノスアイレスの小さな港町で、イタリア系移民が最初に降り立った地として知られる。ほんの小さな一角は、いつからか知らないけどトタンや浪板、木板で継ぎはぎのように建てられた小さな建物が象徴的で、ガイドブックやお土産物の絵、ミニチュアなんかでもお馴染みのようだ。それらはどれも、メキシコのかわいい建築みたいにカラフル。その小さな一角も、今では雑貨屋とカフェが溢れている。つまり観光客目当ての店で。たどたどしい英語で客を引くカフェは、冷凍食品を駆使してすべての郷土料理を供し、わかりやすい選曲の生演奏でタンゴが聴ける。メインストリートに面して、一番立派な店構えのカフェは見るからに観光地的だけど、昼下がりのこの時間、我々初心者にはこれでイイのだと思って陽の下の席に。私たちが表にすわると、店の入り口でバンドネオンを演奏しているバンマスらしき爺様が店の奥に何やら声をかける。爺様の相棒はアコギのチンピラオヤジ、アンプを置いて爺様と入り口をはさんで座って演奏している。ふたりは唐突に次ぎの曲を演奏しはじめる。息を合わせる様子もなく、目配せすらしない。サササッと急ぎ足で店の奥から現れた二人は若いダンサーで、衣裳もメイクもばっちりのタンゴダンサーだ。昼間っからご苦労さんなんだけども、若い二人はきっと、こうしてバイトしながらダンサーとしての修行をしてるんだろうな、と思わせる真摯さが少しだけ感じられた。曲の合間、客に写真のサービスをする時だけ、ふたりとも「観光地のバイトの顔」になっていたけれど、数曲ごとにバンマスの爺様の指導を受ける時のふたりの顔は、なんだかとても懸命だった。

おそらく大家族が総動員されている給仕たちはなぜか皆私服でラフなんだけども(さながら盛夏の「海の家」みたいだった)、演奏者二人どちらもが、奏でながら時々給仕と会話する余裕。それでも、音の分厚さにチープな軽さがないから、聴いていて飽きない。初心者は。

 通りをはさんだ斜め向かいの店でも、同じように店先で演奏者とダンサーがいる。そちらはギターが二人で、ダンサーは複数交代している様子だった。そっちでは誘われた客がこちらの店より気軽にタンゴに初挑戦していたし、演奏の合間にギタリストがやたら営業トークしていた。つまり、音楽もダンスも、つまんなかったんだと思う。


 ほどなくして、香音が「こどもがきた、おともだちがきたよ」と言う。見ると、10歳くらいのぽっちゃりした男の子が、うちの店のチンピラギタリストの横に立っている。あ、いや、チンピラギタリストはうちの父ちゃんのことじゃなくって店のバンドのね。

 このギタリストは、ぺったりと油でなでつけた髪と薄い口ひげがそこはかとなくふらちで、ギョロ目とくわえ煙草が素敵に下品。まるで音楽漫才の若き師匠みたいだ。そんな様子で、時どきまるで退屈しのぎのように小難しい「おかずフレーズ」を演奏に挿入するのだ。見ている我が家のギタリストもニヤニヤしてる。なんだか楽しい。そばに立ちすくんでいる軽肥満の少年は、音を途切れさせることなく煙草に火を点けたりくゆらせたりするうちの(店の)ギタリストに、ほとんど魅了されて見入っているみたいなんだけど、うちの(店の)ギタリストはちらりとも目をくれない。あとで散歩してわかったのはどうやらこの少年、二軒ほど隣の家の子らしい(正確にはトタン塀の隙間からガレージが見えただけで、その向うに長屋があるみたいだった)。少年は、ギター芸に魅せられていたのかもしれない。でももしかしたらただただ、男の煙草の吸い方に夢中になっていたのかもしれないし、はたまた男の手からこぼれ落ちる吸いかけの煙草を狙っているだけなのかもしれない。

料理は予想通り最低だったので、満足して店を出る。これでもし、いきなり目玉の飛び出るほどちゃんとした絶品の料理が出てきたら、かえってココロが疲れちゃう。これでいいのだ。

貧しいイタリア移民が最初に降り立ち、粗末な家を建てて独特の町並みを形成したというラ・ボカの街で、直接的に

イタリアの香りを感じることは結局とくになかった。カラフルでおもちゃみたいな町並みは、イタリア的というよりはメキシコ風、南米風だったし、街全体がヨーロッパの様相を誇るブエノスアイレスでは、イタリア系の人々はスペイン系に次いでとても多く、今ではこの町に特に固まって住んでるということもない。そしてこのラ・ボカは100mも歩けばいきなり不穏な、いきなり貧しげな団地街となり、生活雑貨はブエノスの中心から数段安くなり粗末になる。道を行く人々も、まったくの白人が激減してラテン系やアジア系、その中間みたいな人々が増える。すれ違う顔たちはそういう意味ではとても親しみが湧き、思わずホッとするんだけども、それはほんのこちらの片思いで、向うの警戒心や殺気は急増してるからやっぱり恐い。ブエノスのセントラルからちょっと離れたこのあたりは、観光地化したほんの一角を取り囲むようにそんな地域がある訳で、ガイドブックの類いでも夜はぶらつくなと警告している。

ただ、完全に観光地化したその一区画に、いくつも共同アトリエのようなものが見受けられたり、お土産物の露店にもアーティスト直売のハンドクラフトが並んでいたりして、少しだけ、普通の観光地とは趣きが違う。南米唯一、ヨーロッパみたいな町並みを誇るブエノスアイレス、アルゼンチンではあるが、ヨーロッパのそれと違い音楽家・芸術家への公的なサポートは全く無いと言う。国家にも社会にも、そんな余裕はないということなんだろう。

ただしかし、もしかしたら、だからこそ、アーティストのタマゴ達は、観光客が集まり手早く金になり、そして安く暮らせるここに集まって、土産物で日銭を稼ぎながら暮らしてるのかもしれない。誰も保護してくれないところで、それでもものを作って暮らしたい者は、いつも貧しい人々の中から生まれ、そこからはじめるのだ。貧しさは環境だ。アイテムではないのだ。

 ある夜、ブエノスアイレスで、音楽家の友人から聴いた話。

 昔、貧しい街の、貧しい家の息子は、音楽も音符のひとつも知らずに育ち、幼い頃から場末のカフェをうろついていた。大人達は働きづめでいつも疲れ、子どもの一人歩きをとがめる余裕もなかった。息子はいつしかバンドネオン奏者に魅了され、連夜連日、通いつめた。奏者は子どもに情けもかけず、何も教えることはなかったが、ある日バンドに欠員が出た。少年は名乗り出た。「ぼくならできる」。彼は一音たがわずバンドのレパートリーをこなしたと言う。少年は、その後タンゴを劇的に進化させた男、ピアソラだ。

イェ~ッ飲もうぜって感じのこんな話も、こんな街ではもしかしたら、茶飯ゴトなんじゃないか。

生き様にそれぐらい迫力のある男や女か、ごろごろいるんじゃないか。

望郷の吹きだまりブエノスアイレスは、そんな不穏な街だった。

続く~ッ!!!